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≪遅く届いた手紙≫


 
 手紙が届いた。
 古い友人からの手紙。中学時代に住んでいた地方の友人。引っ越しの際、別れの挨拶も出来なかったことを覚えている。
 手紙の内容はひどく簡潔なものだった。
『渡したいものがあります。今度の日曜日、あの場所に来て下さい。』
 筆跡は当時のまま、あまり変わっていないようで懐かしく思える。あの場所といえば、あの町のどこかであることは間違いない。しかし、特定しろと言われても難しい。思い出深い場所などいくつもあるのだ。
 今更という気持ちもあったが、嬉しい気持ちの方が大きい。後期のテスト期間が終わってから日はかなり経っている。春休みに旅行がてらに遠出するのもいいだろう。
 さっそく軽く荷造りをして、手紙の届いた次の日には、かつて住んでいたあの町へ向かう列車に乗り込んだ。
 ガタンゴトンと線路をのんびりと走る列車の中。窓から外を眺めていると、あの地方へ引っ越した時のことを思い出す。
 右隣には母、左隣には父。新しい地方への期待は殆ど無かった。ただ、流れていく景色を綺麗だと感じるくらいの心は持ち合わせていた。
 あれから、もうすぐ七年も経つ。町を出てからは四年か。
 目的地に着くまでしばらく掛かる。その間を眠って過ごすことに決め、俺は息をつき目を瞑った。瞼の裏には、春の色に染まったあの町が映る。思い出深いあの町の光景が浮かぶ。
 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
 心地よいリズムに誘われ、意識が少年の日へと戻っていく。夢の中へと落ちていく。それをどこかで眺める現在の自分がいて、俺は懐古の念に押し潰されそうな気持ちになった。
 
 
 中学入学早々、俺は孤立した。もともとこの町の住民ではない。知り合いなどいるはずもない。持ち合わせた口の悪さが人を遠ざけた。
 土地にも学校にも慣れたが、大抵いつも独りぼっち。そう、独りだった。担任の教師は、積極的に俺に話し掛けクラスメイトとの橋になろうとしていたが、それも上手くはいかなかったようだった。
 ある日のこと。下校してから忘れ物に気付き、クラスの教室へ戻ってみると何か様子がおかしい。部活をやっている者以外は帰宅している時間。当然、一般の教室に残っている者などいるはずなかった。
 だが中からは声が聞こえた。話し声だった。
 不思議には思ったが、構わず教室の扉を開けた。三人。いや、四人。奧の窓際に追いつめられていた者が一人、それを囲むように三人。どうやら皆女子のようだった。
 全員、不意の侵入者に驚きの目を向けた。追いつめられていた者に関しては最初は期待したような目を向けたが、すぐ落胆の目つきになった。
「何してんだ、お前ら」
「あんたには関係ないでしょ」
 三人の内の一人がすぐ返した。三人とも、驚きで見開いた目を細くし、敵意を持って睨みを利かせてきている。
 へっ、と軽く笑ってみせる。
「そうだな、俺には全く関係ねえわ」
 歩いて自分の席へ向かう。そこに忘れ物がある。が、偶然ではあるがそれは彼女らへ近付く方向であった。
「関係ないなら近付かないでくれる?」
 ヒステリック気味にそんな言葉を向けられる。
「うっせえな。俺は忘れ物を取りに来たんだ。席にくらい行かせろ」
 言うと黙った。視線はこちらに向け続けている。構わず机の中から一冊のノートを探し当てた。三人に視線を向け、ノートを軽く掲げてやる。
 その際、目に入った。壁際に追いつめられた、もう一人の女子が。
 先程は遠くてよく見えなかった。だが今はよく見える。涙ぐんでいた。怯えていた。震えているようにも見える。
「……おい、お前ら」
「なによ」
「実はそこのそいつにも用事がある」
「はぁ? なに言ってんの? あんたがこいつに用事?」
「あっちゃ悪いか」
「言っとくけどね、私たちもこいつには用があんのよ。後にしてくれない?」
 言葉を無視してずかずかと四人に近付いていく。三人は眉をひそめ、敵意をさらに鋭くしている。そんな三人を無視して、怯えている女子に声を掛ける。
「おい、お前。ちょっとこっち来い」
「ちょっと! なんなのよ、あんたは」
「うるせえな! 黙ってろブス共!」
 怒鳴ると、三人は怯んで押し黙る。もう一人もビクッと体を震わせた。追い打ちとばかりに鋭く睨み付けてやる。
「どけよ」
 言うと同時に腕で肩を押しやり、三人の包囲の一カ所に穴を開ける。バランスを崩した一人が転びそうになってもう一人の女子にしがみつく。気に留めず、奧にいた女子の手を取った。
「ちょっと来い」
 その目は涙で潤んでいたが、構わず引き寄せそのまま連れて行く。
「信じらんない!」
「あんたがそいつに何の用があるって言うのよ」
 取り囲んでいた女子が口々に言うのを無視して教室を出る。扉を閉め、手を取った女子をそのまま半ば無理矢理に下駄箱まで連れてきた。怯えている様子は変わらなかったが、抵抗は弱かった。
「ちょっと訊いていいか?」
 涙目のまま俯いてこちらから視線を逸らす。黙ったまま何の応答もない。拒否の態度と見たが、脳内で無理矢理肯定の態度に変換して受け取り、俺は質問を続けた。
「あいつらに何をされてた? これが初めてか?」
「……」
 答えない。ため息をついて舌打ちをする。上履きをしまい、外履きに履き替える。女子は動かない。まだ俯いている。先程からこちらの顔をまともに見ようとはしなかった。
「おい、黙ってたら分かんねえぞ」
「……」
 やはり返答はない。
「怪しい者じゃない。クラスメイトだ」
「……」
 それでも答えてこないので、ふう、とため息をつく。まあいい。
「答えたくねえならいいや。んじゃな」
 軽くそう言って背を向ける。えっ、と小さく声が聞こえた。初めて聞く、女子の声だった。
「用があるんじゃ……なかったの?」
「そんなもんねえよ」
 振り返ってみると初めて目が合った。髪は肩にかかるより長く、綺麗に艶がある。顔のパーツはそれぞれ形が良くバランスもいい。身体は全体的に細い。
 簡単に形容するならば、可愛い、である。先程教室にいた三人に比べれば雲泥の差があるだろう。
 やや大きめと見れる瞳は潤んだまま、驚きの色を宿している。こちらの返事がよほど意外だったらしい。
「嘘……ついたの?」
「そうなる。泥棒の始まりってことになるな」
「なんで?」
「さあな。でもよく言うだろ。嘘つきは泥棒の始まりって」
「そうじゃなくて……。あの、助けて……くれたの?」
 その問には答えず、下駄箱から少し離れてまた振り返る。下校しようという意思表示。それに気付いて、女子も慌てて靴を履き替えた。寄ってきて、先程と同じくらいの距離を置いて向かい合う。
「お前、家はどっちだ?」
「え? えっと、あっち」
 小さな動きで指差した方向は俺の家の方向と同一だった。
「同じ方角だな。途中まで一緒に行くか」
「え、あっ……うん」
 歩き始めると横に並んだ。女子は伏し目がちに歩いている。
「あ、そういや無理矢理連れて来ちまったが、荷物とか平気か?」
「大丈夫……。一回家に帰った後だったから……」
「そうか。で、あいつらは何なんだ?」
「……」
「まあいい。でも初めてじゃないよな?」
「……うん」
「相談できる奴はいないのかよ」
「……」
「友達くらいいるんだろ。いつも教室で一緒にいる奴らとか。どうなんだ?」
「心配させたくない……から」
「馬鹿野郎だな、お前は」
 すると大きく俯いて口を閉じた。
「友達ってのは、頼って頼られてだろ。お前は友達が困ってたら助けたいって思うだろ? なのに自分が困っていても友達には相談もしない。そんなのは友情じゃない。一方的だからな」
「……そう、かな」
「そう思う」
「……」
「まあ気持ちは分かる。実際、相談するためにも勇気が必要だ」
 女子はT字路で立ち止まった。真っ直ぐ歩いていこうとしていたが、女子が立ち止まったのに気付いて、こちらも足を止める。
「ん、どうした?」
「私の家、こっちだから」
 ああ、と納得。左は民家。俺は真っ直ぐ、彼女は右。別れ道だ。
「んじゃ、ここでアバヨだな。ま、誰か一人くらいは信頼できる奴がいるだろ。なるべく早くそいつの力を借りることだな」
「……ねえ村崎君」
「ん? 俺の名前知ってたのか?」
「そりゃクラスの人の名前くらい把握してるよ」
「俺はまだ半分も覚えてないぞ」
 付き合いがないから当たり前かもしれない。
「あ、じゃあ私の名前も知らない……とか?」
「悪い。名乗ってくれるとありがたい」
 はあ、とため息をついて、その女子は始めて笑顔を見せた。
「私、浦木葉子」
「浦木葉子……だな。俺は村崎瞬。っと、もう知ってたか」
「うん。よろしくね」
 そして俺は背を向けた。右手を上げて軽く振る。
「んじゃ、またな」
「あっ、村崎君……」
 ん? と身体を捻って顔だけを向ける。
「えっと、その……あのね」
 言いづらそうに、視線を下げて、顔を赤らめる。なかなか言いたいことを口に出来ない様子である。ふっ、と小さく笑みを洩らし、また背を向けた。
「まあ、なんだ。助けが欲しかったらいつでも頼ってきてもいいぞ。俺はもう事情は把握してるからな」
 じゃ、と再び右手を上げて去ろうとする。
「そ、そうじゃなくて!」
 今度は構わず歩みを進めると大きな声が届いた。
「ありがとう、って言いたかったの!」
 なんともなしに見上げた空は、青々としていて沢山の雲が気持ちよさそうに泳いでいた。太陽もその光景を見て笑っているように思えた――
 
 
 夢から覚めた時には、目的の駅は間近に迫っていた。欠伸を噛み殺し、軽く頭を振る。まだ少し眠気が残っているが、目を開けてさえいればそれも消える。
 荷物の中から手紙を取り出し、もう一度読んでみる。すぐ読み終えて、封筒にしまった。封筒にはこちらの住所が表に、送り主の名が裏に書かれている。
 浦木葉子。
 あの町で出来た俺の最初の友達。そして――
 その時、ちょうど放送が流れ思考を中断させられる。どうやら降りるべき駅にもう到着するらしい。封筒を元の場所にしまい、俺は鞄に手をかけて立ち上がった。
 小さな駅から出てみると懐かしい町並みが姿を見せた。特に歓迎の言葉をかけてくるものは無いが、その変わらぬ姿自体が歓迎の意を表しているように思える。
 手紙にあった「あの場所」とはどの場所のことか。
 ふう、と息をつく。
 指定された日曜日は三日後。余裕は充分。まずは宿を探すとする。その後でのんびりと思い出深いこの場所を歩き回るのも良い。記憶が掘り返され、「あの場所」が特定できるようになるかもしれない。
 駅前にはビジネスホテルが幾つかあったが、ここから俺が住んでいた場所までは距離がある。どうせなら住んでいた場所に近いところで宿を取りたい。
 記憶を頼りに歩を進めていくと、通学路にしていた道に出た。新しく家が建っていたり、あったはずの店が潰れていたりしたが雰囲気そのものはまるで変わっていない。下校時間と重なったのか、道行く学生たちも多く見つけられた。
 この周辺にはビジネスホテルがあったはず。そちらへ足を向けると記憶通りの場所にそれはあった。さっそくチェックインして部屋に荷物を下ろす。
 ベッドに大の字に寝転がり、大きく伸びをする。しばらくそうして、旅の疲れを癒す。実際は大して疲れてもいないが、ベッドに横になっていると気持ち良くなってくるのはよくあることだ。
「お前、ちゃんとテスト勉強してるのか?」
「してねー。マジやべー」
「じゃあ今度一緒に勉強しようぜ」
 窓の外から中学生と思われる若い声が届いた。大学生はもう春休みに入ってはいるが、彼らはまだ三学期なのだ。実力テストか、期末テストか。とにかくテストがある時期なのだろう。
 勉強……。勉強ねぇ。
 いい成績取りたかったら一人で勉強するのが一番効率いいよ。
 心の中で小さく、外を歩く若い声へ返した。当然、返答などあるはずもなく会話は遠くへ流れていく。
 そうして思い出す。
(いい成績取りたかったら一人で勉強するのが一番効率いいぞ。勉強は一人でしろよ)
(なんでだよ。俺、苦手な教科多いんだ。助けると思って一緒に勉強してくれよ)
 そう。それは、中学時代によく友人に向けて放った言葉だった。
 
 
 あの放課後――俺が浦木葉子を三人から助けた次の日から、彼女は積極的に俺に話し掛けるようになった。それに伴い、葉子と仲の良いクラスメイトに紹介もされた。
 口の悪さは相変わらず。孤立した原因である毒舌によって葉子ほど積極的に仲良くなろうとする者などいなかった。それはそれで俺は構わなかった。が、葉子は不満そうに言うのだ。
「なんでもっと愛想良くしてくれないの?」
「村崎君は本当にどうしてそうやって歯に衣を着せてくれないの。同じこと言うにしても、言い方って……あるでしょ?」
 俺は「面倒臭い」とか「言いたいことさえ伝わればいいだろ」と返した。葉子はますます不満げな顔をした。
 だが、とりあえずは葉子と仲の良い人物は判明した。俺にとってはそれで充分な収穫と言える。
 俺は葉子のいないところで、葉子の友人らに話し掛けることが何度もあった。警戒されたが、そんなことに構わず俺は告げる。
「浦木はイジメを受けてるぞ」
「何をされてるかは知らねえが、たぶん、カツアゲだろうな。単純だがそれが基礎だ。金欲しさに嫌がらせもこれからデカくなる。止めさせるなら早い方がいい」
「浦木はお前らを心配させたくないんだと。だから言わないんだよ。いい奴じゃねえか。俺に言わせりゃ馬鹿野郎だがな」
「だったらよ、お前たちも黙って助けてやれよ。いい奴になれ。このままじゃお前らは、もっと馬鹿だ」
「俺一人じゃ連中をぶっ飛ばすくらいの方法しかねえ。けどな、人数があれば別の、もっと綺麗な方法で収められる。そっちの方が面倒もなくていいじゃねえか」
 なんとか説き伏せて、葉子の友人らを動かした。放課後の葉子の動向を見守ったり、葉子を呼び出した三人の監視したり。偶然を見せかけた計画的な妨害もした。三人に対し注意や警告も行った。
 付け入る隙は見せない。俺がそうさせた。
 結果、あの三人は葉子に近付くことは無くなった。終わってから考えれば、葉子の容姿に嫉妬して起こした行動だったのかもしれない。見た目にこだわる人間は見た目に関してしか意義を見いだせなくなるのかもしれない。
 かくして、葉子は不安のない学校生活を取り戻した。俺も葉子の友人らも、彼女の心配をする必要もなくなった。
 これでみんな学期末のテストへ専念することが出来る。期末テストの範囲がぼちぼち発表され始めた、そんな頃だった。
 期末テストの範囲を最初に発表したのは社会。その日からさっそく、俺はテスト勉強を開始する。日頃から予習復習しているため、テスト勉強の必要性はほとんどなかったが、再度復習すると思えばどうということもない。
 勉強は一人でする。学校の図書室は人気がなくて最適。
 そんな風に考えた俺はHR終了後、図書室へ向かおうとすぐ席を立った。そんな俺を呼び止める者がいた。
「村崎君、一緒に帰ろうよ」
 葉子である。既に廊下に出ていた俺は足を止め、やや大きめにため息を吐きつつ振り返った。慌てた様子で駆けてきて、途中でバランスを崩した。おっとっと、と片足でバランスを保ち転倒を避ける。一部始終を見ていた俺に、照れ隠しの笑みを向けて再び言った。
「ね、一緒に帰ろうよ」
「帰るなら一人で帰れよ」
 図書室へ向けて歩き出す。葉子はついてくる。左に並んだ。
「どうしてそんなつれないこと言うの?」
「一緒じゃなきゃならない理由はないだろ。だいたい、俺はまだ帰らねえんだ」
 すると、きょとんと目を丸くした。
「なんで? あ、分かった。先生に呼ばれたんでしょ」
「善いことでも悪いことでも、呼ばれるようなことはしてない」
「じゃ、部活とか?」
「やってられるか」
「じゃあ、テスト勉強?」
「……そうだよ。悪いか?」
「うぅん。感心感心」
 下駄箱を通り過ぎ、北校舎へ入る。こちらには職員室や保健室、図書室など、特殊な部屋が集まっている。
「そう言えば村崎って結構勉強できるんだよな」
 突如、声が右側から鼓膜を叩いた。葉子は左にいる。誰だと思って見てみると、葉子の友人の一人がいた。あの三人を葉子に近付けさせないようにしようと行動した際には、中心近くにいた男子生徒である。
 髪は短くスポーツ刈り。ワイシャツの半袖から覗く腕からは、それなりの腕力があることが窺える。美少年というわけではないが、不細工というわけでもない。女にもよるだろうが、こういうのが好きな奴もいるんだろう、と思う。
 たしか、どこにでも居そうな、よくある名だった気がする。
「いきなり出てくんなよ、田中」
「……鈴木だ。鈴木雅人だ」
 葉子に驚きの様子がないところを見ると、雅人の接近に気付いていなかったのは俺だけらしい。俺の右側から近寄り、俺自身は葉子の方を見ていたのだから当然とも言える。
「で、鈴木が何の用だ?」
「図書室行くんだろ? 俺も行くぜ」
「あぁ?」
「浦木も一緒に行こうぜ、こいつに教われば勉強も楽だ」
「うん、そうだね」
 葉子は迷いもなく頷いた。
「おい、ちょっと待てお前ら」
 会話の流れを叩き斬り、ゆっくりと二人交互に視線を向ける。こちらの言葉を待ってか、葉子も雅人も口を噤んだ。
「お前ら、いい成績取りたくないのか?」
「そりゃ取りたいに決まってるだろ」
 雅人がすぐさま答える。葉子もそれに頷く。
「いい成績取りたかったら一人で勉強するのが一番効率いいぞ。勉強は一人でしろよ」
「なんでだよ。俺、苦手な教科多いんだ。助けると思って一緒に勉強してくれよ」
「私も数学とかあんまり得意じゃないし……」
 口々に文句を連ねる。呆れてため息が出る。
「得意じゃないとか苦手とか、分かってるなら話は早いだろ。そこを重点的に勉強だ。一人で充分やれる」
「それが上手くいかないから教えてくれって言ってるんじゃないか」
「誰かに教わるよりは、理解が深まるぞ」
「村崎君、そんなこと言わないで一緒に楽しく勉強しようよ」
 二人ともしつこい。というか、数人で勉強することが効率悪いってこと分かれよ。
「ほら、科学者とか、何人も一緒になって研究するじゃない」
「次元が違う」
「どう違うの?」
 はあ、とため息。説明するのが面倒臭い。二人に背を向けて図書室へ向かう。二人はそのまま楽しげについてきた。
 適当な席へ座ると、葉子が隣に、雅人が正面に座った。
 社会の教科書を広げ、とりあえずは読むことから始める。葉子は数学の教科書とノートを広げ、雅人は理科の問題集を広げた。
 たびたび質問の手が上がり、それらを丁寧に教えてやる。ところどころで暴言を吐いた気もするが、気にしないでおく。
 閉校時間になって、俺たちは学校を後にした。鈴木雅人は帰る方向が違うらしく、俺や葉子とは別の校門から出ていった。
 ミィン、ミンミンミンミン……。
 セミの合唱が聞こえる。未だにぎらつく太陽と、じめりとした空気が嫌ですぐ家に帰ってクーラーの効いた部屋に籠もりたい気分になる。しかし葉子を置いていくことははばかれ、彼女の歩調に合わせた結果、ゆっくりと進むことになる。
 仕方ないのでセミの歌に耳を傾けてみた。不思議なことに、少しだけ暑さが引いた気がする。お陰で周りに目を向ける余裕が出来た。
 ところどころに見える木々には青々しい葉が日光を反射し、風に揺らめいている。どこかの民家に付けられた風鈴が、ちりりんと音を立て、さらに暑さを少しだけだが和らげる。
 夏の美点と言ったところか。様々な夏らしさを目の当たりにし、夏好きの人間の気持ちも少し分かった気がする。あくまで気分の問題で、気温そのものは変わってないはずなのだから不思議である。
「なんでこんな簡単な問題も分からないんだ! って、ちょっと非道いよね。言い過ぎだよね」
「……俺、そんなこと言ったか?」
「言った」
「そうか」
 確かに言った気もする。あんまりにも簡単な問題を聞いてくるのだから、つい口が滑った。
「でもちゃんと教えてやったぞ」
「うん、お陰で解けるようになったけど。さすがに鈴木君も驚いてたね」
「ああ……。そういや、なんであいつ急に馴れ馴れしくなりやがったんだ。前はあんな感じじゃなかったぞ。どっちかっつうと睨まれてた気がするが」
「睨まれてたのは村崎君の口が悪い所為だと思うけど……」
 苦笑したが、すぐ葉子は表情を明るい笑みに転換した。
「きっとね、村崎君が悪い人じゃないって分かったんだよ」
「そうなのか?」
「村崎君って、歯に衣着せないし愛想も無いけど、私のこと助けてくれたし、本当はいい人なんだよね。きっと鈴木君はそれに気付いたんだよ」
 嬉しそうに声を弾ませて葉子は言った。いい人、という部分は間違いだろうと思う。だが正しく理解されてきたという点は、表情には出さず、口にもしないが、正直嬉しかった。
「……そんなもんかね」
 それだけを言葉にして出すと、ふふふっ、と葉子はまた笑った。内面を見透かされているような気がして視線を逸らす。ややしてT字路に辿り着いた。
 俺は真っ直ぐ、葉子は右。別れる前に二人揃って立ち止まった。
「ありがとね、村崎君」
「ああ。こうなっちまったんじゃ仕方ない。分からないところがあったら、なるべく自分で考えてから俺に聞きに来い。教えてやるよ」
「そのこともだけど、今のありがとうは、別のこと」
「なんのことだ?」
 長く目を瞑ってから、葉子は視線をこちらに向けて切り出した。開いた瞳が綺麗で、見惚れてしまいそうだった。
 葉子はもう一度クスッ、と笑った。
「自分の胸に聞いて下さい」
「なんだそりゃ」
「じゃあねー」
 バイバイとばかりに手を振り、葉子は自分の帰り道を駆けていった。こちらも軽く手を振って応じた。
「……なんだそりゃ」
 再び口にして思うのはやはり、なんだそりゃ、だった――
 
 
 夢が終わり、視界が暗転する。今思えば、あの時葉子は既に、俺が友人らに働きかけてあの三人との間に決定的な壁を作ったことを知っていたのかもしれない。自身で気付いたか、そうでないなら雅人か薫が教えたのだろう。
 まどろみの中、徐々に意識が覚醒していく。ある感覚が覚醒を早めていることはとうに知れた。これ以上なく自然な目覚めが待っている。
 予想通り、俺は自然と目を覚ました。人の身体がエネルギーを消費し、空腹を感じるのは自然現象である。すなわち、空腹を感じて目を覚ますのも、自然と目を覚ますと言って差し支えない。
 何が言いたいのかと言えば至極簡単なことである。
「腹減ったな……」
 窓からはまだ明るい空が覗ける。かなり長く眠っていた気がするが、どうやらそれは気のせいであるらしい。
 ホテルを出て、歩きながら記憶を探り周辺の食事処を検索する。近くにラーメン屋がある。中学時代、雅人や他の男子と共によく行った店がある。
 さっそく赴く。小さな個人営業の店で、テーブル席が二つとカウンター席が六つほどしかない。入り口を開けた瞬間、かつての癖が復活しそのまま口を出ていった。
「おっちゃん、チャーシュー麺一つ」
 あいよ、と元気よく聞き覚えのある声が返ってくる。カウンターの席に座り、備え付けのコップに近くのヤカンで茶を注ぐ。
 隣には先客が座っていた。なんとなく視界に収めてみると目が合う。歳は俺と同じくらいか。前髪は眉にかかるほどに長く、他の部分も相応の長さで安定した髪型を保っている。美青年というわけではないが、不細工というわけでもない。彼女くらいは居そうな気がする。
 どこかで見たような雰囲気を持った男である。そう言えば似ている。中学時代にクラスメイトだった男に。雅人に。
 そう思った矢先、ピンと回線が繋がった。どこにでもいそうな、よくある名字を持った男。そう、この男は雅人である。そして相手も俺が誰であるか見当がついたらしい。
 二人同時に声が上がった。
「佐藤! 佐藤雅人じゃないか!」
「ムラサキ? 村崎曹長か?」
 声を上げてから互いに沈黙。そのまま約五秒。
「……鈴木だ。鈴木雅人だ」
「誰が曹長だ、この野郎」
 どうやら間違いないらしい。俺たちは再会を喜び、共にラーメンを食し、思い出話に花が咲いた。それぞれの近況。大学の話。この町の話。
 やがて話題も移り、かつてのクラスメイトたちの話になる。
「みんなはどうしてるんだ? お前、知ってるんだろ?」
「ああ、大方は高卒まではこっちに残ってたが、就職に進学となるとな。俺以外はだいたい地方に飛んだよ」
「へえ、そうか。じゃ、お前は何してんだ?」
「俺も大学生やってるよ。そんなに遠くねえからな、下宿費より通学費の方が安いんだ」
「家族と一緒か。なるほどな」
「そういうお前は一人暮らしか。気楽で良いだろうな」
「いや、俺も実家通いだよ。割と近いとこに学校があるからな。で、もう春休みだろ? 誰も帰ってきてねえのか?」
「ああ、まだ誰も帰ってきてないな。ま、そのうち帰ってくるだろ」
「ああ、そうだな。まあその頃には俺は帰ってるかな」
「ふうん。……それでよ、お前、何しに戻ってきたんだ?」
「ああ。ちょっと野暮用があってな」
「野暮用?」
「ま、大した用じゃないさ」
「へえ。ま、ろくに見るもんも無い町だがゆっくりしていけや」
「ろくに見るもんが無いくらい俺だって知ってるよ。それより雅人、ちょっと聞いていいか?」
 気になっていた。雅人との会話の中に一度も出てこなかった名前がある。ああ、と返答があった。
 コップをあおって中身を空にし、再び茶を注ぐ。
「葉子――浦木葉子は、いまどうしてるんだ?」
 途端、彫刻のように雅人は静止した。時間が止まったのかとさえ思った。ややして視線を落とし、雅人は一気にお茶を飲み干した。たん、とコップを置く音が、小さいながら強く響いた。
「それも……そうだな。村崎は、知らなかったか……」
「なんのことだ?」
 表情を曇らせて、雅人は言う。
「まさか俺が伝えることになるとは思ってなかったよ」
「なんなんだよ、葉子がどうしたって言うんだよ」
「浦木は……もう、亡くなったよ。四年近くなるか。お前が引っ越した日と重なってたはずだ」
 瞬間、信じてしまいそうになる。
 だがしかし、雅人が嘘を言っていることはすぐに知れた。見事な演技力である。親友とも言えそうなくらい仲の良かった人物に、こんな悪質な冗談を仕掛けてくるとは誰も思わない。虚を突くのも上手いということだ。
 だから俺は本当に信じてしまいそうになって、慌ててそれを否定するよう心に命じたのだ。必死に命じてようやく否定しきった。
 遅れて、俺は口にする。
「おいおい。悪い冗談はよせ。葉子が死んでるわけないだろ」
「馬鹿野郎……。友達が死んだなんて、冗談で言えるわけないだろ。信じられないのは、分かるけどよ」
「おい、おいおいおい。そんな事言っても騙してるってのは分かるぞ。そうだ、お前にも見せてやるよ。俺は、俺はな――」
 葉子から届いた手紙を見せようと思い立つが、それは荷物と一緒にホテルに置いてきてしまっている。見せようがない。そして、逆に雅人が証拠を提示すると言い出した。
「ついてこい」
 勘定を済ませ、ラーメン屋を出る。言われた通り雅人の後をついていくと墓地に着いた。その一角。そう、他の墓石たちに紛れて形の存在感は薄れているというのに、そこに刻まれた名前だけは圧倒的な存在感を主張していた。
 浦木家之墓。正面にそう刻まれ、側面にはそこに眠る浦木家の面々が名を連ねている。知っている名前があるはずないと思っていたのに、そこには確かに、葉子とも刻まれていた。そして、刻み込まれた年月日は確かに四年前だった。
 長い沈黙。なぜ葉子の名がそこにあるのか分からなくて、なにも出来ずただ茫然と墓石を眺めていた。
「……同姓同名の、別の人だって可能性は――」
 やっと口にした言葉は、自分でも馬鹿げていると思えた。
「無いよ。俺も薫もみんな、お前以外は葬式には行ったんだ」
「なんで俺を、呼ばなかったんだ」
「呼べなかったんだ。お前、連絡先を葉子にしか教えてなかったんだろ。俺たちが訊いたら、面倒くさいから葉子から聞いてくれって言って教えてくれなかっただろ……。携帯だって、お前は持ってなかった」
「そう……だった。けど、葉子のメモくらい、遺ってたはずだろ」
「……交通事故でな。鞄がタイヤの下敷きになったらしいんだ。中にアドレス帳があったらしくて、けど、読めるような状態じゃなかったって、聞いた」
「……そうか」
 もうこれ以上、喋ることは出来ない。両の拳を痛いほど握り締め、涙が零れないよう強く瞼を閉じ続けた。呼吸が、何度か詰まった。
 陽は落ち、暗く寂しい夜を連れてきた。月の明かりと、線香の微かな輝きと。細く切れそうな煙がゆらりゆらりと揺らめいて、高く遠く昇っていく。
 それ以上の言葉はなく、俺たちは墓地を後にした。
 ホテル周辺にまで来て、雅人は呟くように言った。
「お前、好きだったんだよな? 浦木のこと……」
「……あぁ」
 やっと俺は口を利いた。
「こっち来たのは、やっぱり浦木に会うためだったのか?」
「……そうだな。会いに来たんだ」
「そうか。すまないな」
「お前が謝ることなんかないだろ」
 やがてホテルに到着。機会があったらまた会うことを約束し、俺たちは別れた。
 部屋に戻って、ベッドの上で大きく息をつく。
 浦木葉子は死んでいた。
 いま胸の中で渦巻いている感情が、古い友人を亡くしてしまったことによるものではないことは分かっている。数年前に好きだったからというわけでもない。
 重たく冷たい水の中に、沈められてしまうような感覚すらある。
 あの気持ちが今にまで続いていることを、その感情が示していた。
 夜遅くになってようやくベッドから立ち上がる。鞄の中から手紙を取った。どこか古びてしまったような印象がある。精神的に疲れしまったからそう見えるのだろう。
 宛先と送り主の筆跡は、記憶に残る葉子のもの。
 封筒から便箋の中身を取り出し、その内容に目を走らせる。
「あれ?」
 すぐ気付いた。手紙の内容は、二つ折りにされた便箋の中央付近に一行だけだったと思っていたが、上部にも文章が記されていた。
 読み落として、いた……?
 確かに、今までは中央付近の一行が目立っていて、そこ以外にはろくに目を向けてはいなかった。読み落としていたという可能性は充分に考えられるような気はする。
 だが……だが、本当にそんなことがあるのだろうか。
 誰かが書き加えたわけもないから、始めから記されていたと考えるのが妥当だと思うが、どうしても引っ掛かる。
 新たに見つかった文章はこうだ。
『こんにちは。
 瞬くんに手紙を送るのは初めてですね。』
 たった二行。手紙の書き出しだと思われる。けれど変だ。まるで間が抜かされている。上部の二行と、中央付近の一行。続けて読むと強烈な違和感がある。
 一度書いて、消してしまったのか? それにしては便箋は綺麗すぎる。
 しかし、そんなものは些細な疑問に過ぎない。ずっと大きい疑問がある。雅人と話した時から膨らみ始めた疑問がある。
 浦木葉子は、すでにこの世に亡い。
 ならば。一体誰が、何のために。
 この手紙を送ってきたのだろう……?
 
 
 それは中学二年の冬。クリスマスと重なった二学期の終業式。サンタクロースは俺の家族に最悪のクリスマスプレゼントを届けた。
 その事実を叩き付けられ、それから逃げたくなって、なにより、よく分からないが、恐らく哀しみとやらに耐えられなくなって家から抜け出した。
 駆けた。メリークリスマスと沸く町を駆け抜けた。
 立ち止まると、夜空の黒さと吐く息の白さに、家族を一人亡くした事実を突き付けられるようで、また駆けた。
 駆けて、駆けて、駆け抜けて。辿り着いたのは、名も忘れた川に架かる橋の下。腰掛けた石の冷たさ、灯りの届かぬ暗さ、遠くに聞こえるクリスマスソングの空しさ。
 サンタが町にやってくる。そんなフレーズだったか。
 実際にやって来たのは死神だった。もしくはサンタが死神なのだ。
 肩で息をしながら、冷気が浸食していく手先を擦り合わせて寒さに震えた。上着を着てくるような余裕も無かったのだと、その時に始めて気付いた。
 そのままどれだけの時間をそうしていたのか。
 冷えた汗が際限なく体温を奪い、震えは止まらず。いつしか手先足先の感覚が薄れていき、頭痛もしてきた。
 このままジッとしていたら死ぬかも知れない。そんな風に思いつつも家に戻る気にはなれず、身動きはしなかった。
「瞬くん!」
 不意に、よく知った声が飛び込んできた。幻聴のようにすら聞こえたその声は、確かな現実からの声だった。俺を下の名前で呼ぶのは、家族以外では一人しかいない。
「葉子、か? 何……してんだよ」
 白くてよく似合うコートを着込んでいた。表情には安堵が灯る。
「瞬くんのお母さんから電話があったの。君が家から出て行って帰ってこないから知らないかって。たぶん、鈴木くんとか薫のとこにも連絡行ってると思う」
「俺を捜して、くれてたのか……?」
「風邪ひいたら大変だよ。ほら、早く帰ろう」
 質問に答えず、葉子は俺の手を取り立たせようとした。それには応じず、座り込んだまま動こうとはしなかった。
「瞬くん……?」
「帰りたくないんだ。帰ったら……。帰ったら――」
 帰ったら、あの現実を突き付けられてしまう。それが嫌だった。たまらなく、どうしようもなく、嫌だった。
「でもお母さんもお父さんも心配してるよ。帰らないと。このままじゃホントに風邪ひいちゃうし、ね? 寒いしさ、ほら」
 気遣ってくれる葉子の言葉が胸に染み入り、割れた心の傷口に針で刺すような痛みをもたらした。もう、心配してくれるあの人はいない。息が詰まり、呼吸もままならなくなる。視界がぼやける。鼻が詰まる。喉が震える。
「う……、くっ……。ぁあ……」
 勝手に声が絞り出される。
 泣いてはなるものか。
 ここで泣くということは、現実を認めてしまうということ。そして葉子に、この俺が泣くところは見せたくないという意地もあった。
 必死で目を閉じ、歯を食いしばり、事実を忘れようとした。だというのに、嗚咽は漏れ、涙は流れ、現実は目の前にやってきた。事実が意識に浸透し溶け込んでいく。
「ぐ……、くぁ、あぁ……」
 また泣き声を上げてしまった。大きく俯き、震えながらもどうにか泣き止もうと必死で感情を制御しようとする。だが、まるで効力を為さない。
「そっか……。瞬くん……」
 葉子の声が聞こえたと思う。
 パサ、という音。続いて温かく柔らかい何かが顔に押し当てられ、何か温かい膜のようなものに全身が包まれた。
 優しい微香が鼻をくすぐる。力強い鼓動が鼓膜を叩く。
 気付いた。声を殺し泣きつつも、俺は気付くことが出来た。
「ようこ……」
 コートと自分の身体で包み込むように、葉子が俺を抱いていた。胸に顔を押し当てられ、その柔らかさと温かさと香りを無理矢理にぶつけられていた。
 情けないことこの上ない。
 通常時の思考が告げる。それに共感しつつも、泣き止むことも振り払うことも不可能だった。声を殺し、延々と泣き続けることしか俺には出来なかった。
「葉子……、もういい。離してくれ」
 その言葉と共に葉子を引き離すまで、かなりの時間が掛かった。俺の声に葉子は従い離れてくれた。泣き腫らして赤くなったであろう目元は見せたくなかったが、どうしようもない。俺はやっと葉子と正面から向き合った。
「ごめん。迷惑を掛けちまったな」
「ん? それって瞬くんが悪いことしたみたいに聞こえるけど?」
「実際、悪いことしたと思ってる」
「じゃあ瞬くんは馬鹿野郎だ」
 不機嫌そうに頬をふくらませて見せる。
「なんでだよ」
「友達って、頼って頼られてなんでしょ? 私は助けが必要かなぁって思ってしたことなのに、瞬くんがそう言うのって何だか違うよね。一方的にされちゃってるよね」
「……そうだな。撤回する。ありがとよ」
「うん、それでよし」
 ころりと表情を笑顔に変える。
「じゃあ帰ろっか。寒いし」
「ああ……帰ろう」
 凍えそうなくらい寒い夜。上着も無い。大きくなっていく頭痛に、風邪をひいたことを確信した。歩いていくといつもの別れ道。T字路にまで来た。
 ここで別れるのかと思ったら、葉子は俺と一緒の道を来てくれた。その気遣いが今はなにより嬉しい。
 月がよく見える。どこかでクリスマスソングが聞こえる。そんな空気に溶け込ませるよう静かに口にした。
「……親父が、死んだんだ」
 葉子の反応を見ずに俺は続ける。
「喧嘩したりもしたんだぜ。パンチが強くてさ、俺はいつも負けちまうんだ。この前なんかはカウンターで食らって、俺、数時間のびてたらしい。
 いつも、相手のこと考えてるクセに口に出るのはキツい言葉ばっかで。不器用なんだよな。自分が考えてることも、素直に伝えられない……。けど、優しいからこそ、厳しく言ってくれたんだよな。
 でもよ、お陰で俺まで口の悪い奴になっちまった。しかも全然未熟でよ。これからもっと手本にしようと思ってたのに……。どうしてくれるんだよな、まったく」
 葉子は黙って聞いていてくれた。こちらが口を閉じると、ややして、静かに口を開いた。
「ごめん。私……なんて言ったらいいか、分かんなくて……」
「いいよ。俺だって、こういう時に何て言えばいいのか分からない」
 でも、葉子は言葉以外の方法で慰めてくれた。
 やがて、家に着く。葉子とは玄関先で別れた。笑みを無理矢理作って見せてくれて、それが何よりも嬉しく感じた。
 その後、葉子は俺が風邪で寝込んだ三日間見舞いに来てくれて、その次の日の葬式にも真っ先に来てくれた。そんな葉子に、俺は必要以上に元気に振るまい、気を遣わせないよう努めたのだ――
 
 
 あの日、葉子が来てくれた橋の下はあまり代わり映えしていないようだった。日曜日は二日後。俺は、思い出に残る場所を歩き回って「あの場所」探しを敢行していた。
 浦木葉子はもうこの世に亡い。ならば誰があの手紙を出したのか。良く分からないが「あの場所」で誰かが待っているのだろうとは予測できる。
 わざわざ葉子の名を使ったのだから「あの場所」というのが、俺と葉子の思い出に残る場所であると考えていいだろう。
「ここじゃ、ないよな……」
 名も忘れた川に架かる橋の下。親父が死んだ時に逃げ込み、凍えていた場所である。あの時、葉子が来てくれなかったら、凍え死んでいたことは無くとも、立ち直るまでにもっと時間が掛かっただろうと思う。
 複数の意味で救われ、ただの友達と思っていた葉子の存在が俺の中で大きくなり始めたきっかけ。そんな出来事の舞台である。
 大切な場所であることは間違いないが、それはあくまでも俺にとっての話。俺と葉子二人が、あの場所と呼称できる場所とは思えない。
 その場を後にし、そこからさらに二、三カ所巡った。
 山菜を採りに行った際に見つけた森の中の拓けた場所。大樹があってその根元で涼しんだ夏の日。二年の夏休みに見つけて毎日通った。三年の夏には大樹は切り倒されていた。葉子が声も出さず泣いたことを覚えている。
 下校の道。あのT字路。葉子と別れる前に、いつも他愛の無い話をして時間を潰してしまった覚えがある。ある時は、葉子の家で勉強会を開くからと雅人や薫も一緒についてきて、俺は一人で家に帰ろうとしたのを引き止められた。当然、三対一のバトルは圧倒的な戦力差によって押し切られた。捕虜として捕らえられた俺は学術教官に任命され、その任務を全うするよう課せられたのだ。
 そんな風に日々勉強会が開かれる中。ある放課後、雅人と薫が用事で来れないと言っていた日。葉子が勉強の気晴らしにと俺の手を引いて連れて行ってくれた場所がある。
 そこは噴水のある広い公園だった。知らない道を幾つも通って辿り着いた先だった。二人で噴水を眺めた後、近くのアイス屋で一服した。アイスは俺の奢りだった。アイスを食べながら葉子は「生まれた時から住んでる土地だもん、他にも瞬くんが知らない良い場所知ってるよ」と楽しげに語っていた。
 そうやって思い出の場所を巡る度、笑みがこぼれてくる。楽しかった。輝かしい日々だった。いつも葉子と共にあったという事実が当時の俺を象徴している。
 小さく息をつき、目を瞑った。
 その葉子が、死んだんだな……。
 噴水の公園のベンチに座り、地に視線を落とす。
 巡った場所の中で、最も「あの場所」に相応しいのはこの公園だと思った。けれど「あの場所」とだけ言って通じるほど印象深いかと訊かれればそうでもない。
 もっと他に、俺が忘れてしまっている場所がある。きっと思い出せば、なぜ忘れてしまっていたのかと不思議に思うくらい印象深い場所があるに違いない。
 今日も荷物はホテルに置いてきているが、手紙だけは持ってきた。どこかで鈴木と会ったなら、この手紙を送ってくるような人物に心当たりがないか聞いてみようかと思っている。呼び出そうと思わなかったのは、この町で葉子以外の知り合いに会うことをどこかで拒否しているからかもしれない。
 風が吹いて髪が揺れる。三月に入ったばかりの風はまだ冷たく、しかし春の匂いも感じさせるものだった。もうすぐ春。いや、暦の上では既に春と言えるか。
 様々な所で出会いと別れの季節と称されるだけあって、俺がこの町に来たのも、出ていったのも、共に春という季節だった。
 ふと、上着の内ポケットに入れたあの手紙が気になる。これで何度目か。再び封筒から便箋を取り出し、広げた。
 目を通す前に気付く。封筒のしわがやたら増えている。内ポケットに入れていたからといっても、ここまでしわになるものなのか。しわだけでなく、どこか、汚れた感じも見受けられる。
 続いて便箋に目を落とす。封筒と同様、いや、それ以上におかしい箇所があった。しわと、汚れ。それに加えられる異常。
 手紙に記された文章が増えていた。
 昨日は、読み落としていた可能性を考慮し大して気にはしなかったが今度は違う。読み落としなどあるはずがない。便箋に記された文章は、明らかに増えている。
 新たに記されていた内容に目を通す。
『瞬くんは、引っ越し先はそんなに遠くないから呼べばいつでも会いに来てくれると言ってくれましたね。けれど、呼ばれなかったら行かないなんて、意地悪なことも言いました。』
 この手紙は、おかしい。
 時が経つほどに文が増えていく手紙など、おかしいとしか言えない。一体、何なのか。葉子のものとしか思えない筆跡で、文章で。
 どうしてこの手紙は俺に届いて、どうして増えていくのか。
 俺の頭が狂ってしまったのか。本当は夢を見ているのか。奇妙なことこの上ない。存在していること自体が疑わしい。
 だが……だが俺は目を瞑ることも、この手紙の存在を否定することも出来ない。何故かと人に問われても納得いく答えは返せないだろう。言ってみれば気分の問題。気のせいだと言って片付けられる程度の理由しかない。
 しかしその程度の理由でも、今の俺には錨のように重く、その場へ引き止める充分な要因となっていだ。
「どうか、してるな……俺は」
 感覚でしかない。気のせいでしかない。頭では分かっている。
 けれどこの手紙からは、不思議と浦木葉子本人が持っていたような、雰囲気とも言える何かが感じられる。
 幻想だと分かっていても、否定できない。したくない。
 俺はまだ、葉子の死を受け入れることが出来ていないのかもしれない。
 はあ、とため息。
 不可解な現象については置いておき、俺は再び文面に目を通した。
 俺は、呼び出されればいつでも戻ってくると葉子に告げた。それは確かである。手紙に書いてあるからじゃない。その文面から連想され、記憶が掘り起こされたのだ。
 もう思い出せる。場面を。場所を。状況を。全てを。
 思った通りではなかった。思い出してみれば、なぜ忘れてしまっていたのかの理由も把握できる。それは……彼女から一度も呼び出されることが無くて、あの時に自分のしたことを忘れようとしたからだ。諦めようと、したからだ。
 俺はゆっくりとした足取りでホテルへ戻った。
 そして二日後。日曜日。
 記憶が示す「あの場所」へ俺は向かった。
 
 
 父が亡くなり、母はこの町を去りたいと言った。
 気持ちは分からなくもない。父の死――悲しい出来事を思い出させるモノは沢山あっても、それを覆うべき楽しい思い出の欠片は別の場所に置いてきてしまっているのだ。
 この町にやってきて二年足らず。母にとって、父と残した楽しい思い出は少なくはなかったが、悲しみを振り払えるほど多くもなかった。築くべきだった将来の日々は脆くも崩れ去っていたのだ。
 俺はそれでも構わないと答えた。この地を去ることに反対するほどの理由を持ってはいなかった。しかし、母もやはり母だった。
 高校受験のことを考えていてくれていた。あと一学期を過ぎれば三年生になる。そんな時期に引っ越しをしてしまっては、新しい土地での生活に慣れるために時間を使ってしまい、受験勉強に充てる時間が少なくなってしまうのではないかと懸念してくれた。
 そんなことはないと俺は思ったのだが、もう少しだけこの町に残っていたい気持ちもあって、母の心に感謝した。
 そうして話は決まった。俺の志望校は、引っ越す土地の学校となり、引っ越しは中学卒業とほぼ同時に行われる。引っ越し先の地方には、母の実家があるのだという。
 俺は滞りなく二年の三学期を過ごした。
 三年に進級し、高校受験に気を引き締め始める者が増え始めても俺のやることは大して変わりはしない。葉子たち友人らと共にあり、日々を楽しく送っていた。
 修学旅行も終わり、夏休みが訪れた。
 よく行った森にある大樹が切り倒されていたのを見て、葉子が声も出さずに泣いた。木登りした子供が落ちたという。だから切ったのだという。理屈は通っていたが、好きな場所を奪われたことには違いない。
 やり場のない怒りと、それが転換されて生まれる悲しさが、しばらく俺と葉子を覆っていた。
 そして夏休みは過ぎ去り、二学期へと時は流れていく。
 ぼちぼち志望校が決まってきた面々。葉子が俺の志望校を訊いてきて、そして始めて、俺は卒業と共に引っ越すことを告げた。
 同じ高校に通うことを望んでいた葉子は、ひどくショックを受けたような顔をした。しかしすぐ「そうなんだ。寂しくなるなぁ」と明るい笑みを灯して見せてくれた。無理矢理に作る笑顔でも、葉子の笑顔は明るいものなのだ。
 雅人や薫にも伝えた。葉子ほど強いショックを受けた様子ではなかったが、二人とも葉子と似たような反応を示した。
 だからかもしれない。
 四人一緒に勉強会を開こうなんて言い出して、みんな揃って俺を葉子の家に連れて行った。それは確かに一石二鳥だった。俺が教えることで三人の成績は伸び、俺には楽しい記憶が残った。
 気晴らしにと葉子は、行ったことのない公園へ案内してくれた。この町には俺の知らない場所がまだまだ沢山ある。楽しげに語る葉子が、ときおり見せた寂しげな顔は忘れない。
 やがて受験シーズン。そこそこに苦労していた友人たちを横目に苦もなく乗り切り、そして卒業式までもう少しの時期。
 卒業まで一週間というところ。
 何かの係になっているらしく、葉子は卒業式関係の話で教師に呼ばれていた。一人で帰ろうと思って下駄箱へ向かう途中、目の前に薫が現れる。
「村崎君、ちょっと来なさい」
「ん? 何か用か?」
「用事がなかったら呼ばないわよ」
「そりゃそうか」
 新井薫。浦木葉子の幼馴染みで、葉子とは対照的に気は強い。よく二人でいるところも目にする。短くまとめた髪はいつも活発に揺れ、ハキハキとした口調には好感が持てる。
 下駄箱から南校舎へ戻り、ほとんど空になった教室へ戻ってきた。窓の外には南校舎があり、見下ろせば下駄箱から出ていく生徒たちを一望できる。校庭は校門周辺しか見ることはできない。
 窓際の机に腰掛ける。薫は立ったまま、こちらをジッと見ている。
「で、用事はなんだ?」
「ええ、訊きたいことがあるの」
 薫は腕を組み、左腕だけを立てて軽く握った拳を口元に持っていった。眼差しは真剣なままである。
「ああ。言ってみろよ」
「葉子のこと好きなんでしょ?」
 淀みなく放たれた問いに、一瞬怯んでしまった。
「ストレートだな」
「カーブやシュートでどうにかなる?」
「ならねえなぁ」
 互いに笑いあう。
「で、返答は?」
「ああ……。イエスだ」
 そう、と薫は頷き、にこり、と笑って見せた。が、すぐ不機嫌な顔になって俺の脳天にチョップを放った。不意を突かれ避けることもできなかった。
「いってえなぁ」
「まったく!」
 腕を組み直し、やはり不機嫌な顔を向けてくる。
「……なんだよ」
「じゃああんた、葉子があんたのことどう思ってるかは知ってる?」
「いや……それは、よく分からない」
「そう。それじゃ別の質問。あんた、好きだってこと葉子に伝えてから引っ越すつもり?」
「いや、それは……考えてなかった」
「告白しないの?」
 黙ったまま眉をひそめ、歯を食いしばり目を閉じた。背を向けると、薫は変わらぬストレートさで言った。
「自信、ないんだ?」
「俺さぁ……。嫌な奴だろ? 愛想はねえし、口も悪い。格好良いわけでもねえ。嫌ってる奴も多いだろ? ちょいと勉強ができるくらいしか取り柄のない奴なんだよ」
「馬鹿ね……」
 呟いたのが聞こえた。振り向くと、呆れたような様子で、しかし笑っている薫の姿があった。視線を落とし軽く首を振る。
「あんたは、良い奴だよ」
「バカ言うな」
「そうかしら? 愛想がないのは、まあ、仕方ないとして。口が悪いって言うけど、そうでもないと思うよ。言い方はキツいけど、言うことは的を得てるわ」
「的は射るものだそうだ」
「うるさいわね。とにかくあんたは、いっつも悪い事なんて言ってないの。本当は優しいクセに悪ぶってるって感じね」
「そんなつもりは、無いんだがな」
「格好のことは、気にするほどのことでもないわよ。全体的にスマートだし、顔もそんなに悪くないっていうか良い方だし」
「……何が言いたいんだよ」
「あんたはいい奴ってこと。言っとくけどね、今言ったこと全部、葉子が言ってたことなんだからね」
「……」
 過去に一度だけ葉子が俺に直接、いい人だ、と言ったことはあるが、葉子が薫の前でもそう言っているということは、意外であった。
「……葉子が、本当にそう言ってたのか?」
 やや遅れて聞き返すと、薫は肩を竦めて口の端をつり上げた。
「少しは自信ついた?」
「お前、何でそんなこと……」
「さあて。なんででしょうね?」
 くるりと背を向けて、薫は自分の席へ。そこに置かれていた鞄から何かを取り出す。戻ってきて、その何かを俺の眼前に突き出してきた。
「なんだこれ」
「プレゼントよ」
 小さな、丸っこい人型の物体。てるてる坊主を連想させるデザインだが、プラスチック製のようで、両足もあり服も着ている。服の色は赤だ。座り込んだポーズで、表情は微笑み。大きさは折りたたみ式の携帯電話より一回り大きいくらいか。
「なんなんだ、これは?」
「知らない? マルっち人形。ちょっとした恋愛のおまじないみたいなものなんだけど」
「知らない」
「そう、じゃ、教えてあげる。ちょっと古いんだけどね。このマルっち人形を男の子の方から女の子にプレゼントする。で、女の子がお返しに色違いのマルっち人形をプレゼントしたら、将来二人は一緒になって幸せになる。あれ、両想いになる……だったかな?」
「うわ、ベタベタだぁ」
「ベタベタねえ」
 というか、この話を知っている者同士の間でお返しがあったなら、それは既に両想いなのではないだろうか。そしてお返しが無いのなら、男は振られたということになるのではなかろうか。
「……おまじないっていうか、なんていうかだな」
「そうね。だから大抵は、付き合ってる二人がお互いの気持ちを確認するために使うみたい。流行った時はみんな知ってたしね」
「で、なんでこれを俺にくれるんだ?」
「これ、知ってる人に渡すってことは告白と同じなんだよね」
「そうなるな」
「自信のない村崎君でも、口で言うよりは楽になるんじゃない?」
「……」
 ちっ、と舌打ち。言われた通りかもしれない、と思ってしまう。
「さてさて、そろそろ帰りましょうか」
「ああ、そうだな」
 お互い鞄を肩に掛け、教室を出る。貰った人形は右手に持った。
「まあ、とにかく、ありがとよ」
「そうね。じゃ、感謝の心を込めて私にケーキを奢りなさい」
「……あ?」
 歩きながら顔だけを薫に向けて聞き返してみる。
「あ〜?」
 薫も同じようにして妙な声で返してくる。
「……」
「ふふふっ」
 心底楽しそうに薫は笑った。
「笑うな」
「まあまあ。奢れって言うのは冗談。ま、付き合いなさいな」
「あわよくば本当に奢ってもらえるかもしれないという、計算高い考えが見えたが、俺の気のせいか?」
「分かってるなら奢ってよ」
 苦笑気味に舌打ち。まあ、このマルっち人形のこともあるので、奢ってやってもいいとも思う。
「分かった分かった。今回だけだぞ」
「へえ、意外」
「奢ってやれる機会も、これで最後になるかもしれないからな」
「ん。ありがと」
 穏やかに笑みを作って薫は頷いた。珍しい表情だなと思いつつもそれ以上は気にせず、近くの喫茶店へ足を運んだのだった。
 そして卒業式はやってきた。
 滞りなく終わった式の後、仲の良い者同士で写真を撮り合ったり、食事に行ったりと楽しく思い出を作った。そんな時間も過ぎ去り、友人は一人、また一人と帰宅していく。
 残った俺と葉子、薫、雅人の四人も既にお開きモードであった。
「村崎、明日は見送りに行くぞ」
 そう言って雅人は帰った。
「それじゃ、私も帰るね」
 薫は俺の肩を叩き、目配せをして帰っていった。
 そうして葉子と二人きり。のんびりと道を行く。もう飽きるほどに見慣れた道も、これで最後かと思うと変わって見える。葉子とこの道を歩くのも今日が最後、か……。
 ほとんど空っぽの鞄の中には、薫から貰ったマルっち人形が入っている。まだ渡せてはいない。俺もこういうところで子供なのだろう。
「瞬くん、出発は……明日だったよね」
「ああ。明日、引っ越すことになってる」
 いつもの道。T字路。別れ道。そこに近付いた時、俺も葉子も同じタイミングで足を止めた。陽はやや傾いてきていて、空の主役が月に交代するまで、そう時間は掛からないだろうと思う。
「……なあ、葉子」
「なに?」
「前に、言ってたよな。俺の知らない場所を沢山知ってるって」
「うん。生まれた時から住んでる町だからね」
「連れて行ってくれよ。最高の場所に。お前が一番だと思う所へさ」
 大きく、うん、と頷いて葉子は笑った。そんな葉子の姿を毎日見てきた。けれどこれからはそうはいかなくなる。
 そして葉子は手招きした。T字路を葉子の家の方向へ曲がり、進んでいく。葉子の家へ行く時を除き、こちらの方向へは殆ど来たことがない。どんな道があるのか、どんな町並みがあるのか。
 どの景色も珍しく思える。
 途中、ちょっと遠いよ、と葉子が確認するように言ってきた。構わないと返す。そのまま並んで歩いていくと、大きな坂に出た。山の一部か。その斜面をなぞるように作られたアスファルトの道を登っていく。いつか、山菜を採りに行った山と同一のようだったが、ここに来るまでの道のりは違っていた。山菜を取りに行ったのは山の麓にある森である。
 そうか、こういう道もあったのか……。
 目を瞑って感覚を澄ましてみる。
 時たま過ぎ去る自動車の音、その中に聞こえる木々のざわめき。春の訪れを感じさせる風の匂い。確かにそこにある空気。そして目を開けて見上げてみれば、山の肌は力強く壁のようにそこにあった。
「ねえ瞬くん」
 陽が傾き、茜色に染まってきた頃。ふと葉子は口にした。
「瞬くんの引っ越し先、そんなに遠いわけじゃないよね?」
「そうだな。電車に乗れば、鈍行でも一時間ってところだ」
「会いに、来てくれるよね?」
「そうだな。来てもいい」
「良かったぁ」
 本当に嬉しそうな表情をする葉子。照れ臭かったので、軽く笑って、冗談を言うように意地悪な言葉を口にする。
「でも用事がない時は来ないだろうなぁ」
「え? じゃああんまり来てくれないの?」
「あんまりじゃなくて、全く来ない可能性もある」
 すると一変。泣きそうな顔をして俯いてしまう。予想外の事態に慌てて付け加える。
「でも誰かに呼ばれれば来る」
「え?」
「誰かに呼ばれればいつでも来てやる。そんなに遠くないからな」
「呼ばなかったら?」
「来ないだろうな」
「じゃあ呼べばいいの?」
「ああ、手紙でも電話でも、一言来いといわれれば来てやるよ。いつだって、な」
 伏せていた目を上げ、表情に微笑みが戻った。
「うん、分かった。会いたくなったら、呼んじゃうからね」
「ああ、いいぜ」
 そしてまた歩みに集中すれば、坂の傾斜が緩やかになってきたことが分かる。そこからすぐ、葉子が足を止めて言った。
「着いたよ」
 こんな道端なのか? と問おうとしたが、すぐ葉子は背を向け、斜面側のガードレールを乗り越えた。飛び降りたのかと一瞬背が凍ったが、どうやら向こう側には足場があるらしく、葉子は少し低いところに立っていた。
「こっち」
 と葉子は段差を下っていく。ガードレールの下へ視線を向けてみると、階段のように岩が転がっていて、その先にちょっとしたスペースがあった。土っぽくもあり、端っこには白い花も咲いている。斜面から突き出るようにして存在するそのスペースに、葉子は先に足をつけ手招きしてきた。
 促されるままにガードレールを乗り越え、岩の階段を下った。
「ここがいいところか?」
「うん、そうだよ」
 道路側に背を向け、その場に座り込む。倣って隣に座る。
「確かに……いい眺めだな」
 一番のお気に入りというのも頷ける。町が一望できる。落ちてきた太陽が町全体を茜色に染め上げている。遠く向こうには俺たちの学校も見えた。
 太陽が去りゆく今という短い期間でしか見れない景色だろう。いつか必ず昇ると分かっていても、去り際は寂しい。だからこそこの夕日、夕焼けは綺麗なものと認識できるのかもしれない。
 葉子が肩を寄せ、触れ合う。見ると顔がほのかに紅かった。夕日のためか、それ以外の理由か。それは判断できない。
 そのまま二人。言葉もなく、動きもない。ただじっと、お互いの存在を体温で確かめながら陽が去りゆく様を眺めていた。
 やがて夜の闇がやってきた。月の明かりは山に遮られ届かない。街灯の灯りがわずかに届き、俺たちを闇から守ってくれた。
「瞬くん」
「ん?」
「えっと……向こうに行っても、元気でね」
「ああ、それについては問題ないだろうな」
「言葉はちゃんと選んで言うんだよ? いいこと言っても、分かってもらえないと大変なんだから」
「分からないような奴と付き合うつもりはないぞ」
「瞬くんの言い方じゃ、分かってくれる人も分かってくれないかも。鈴木君も薫も、仲良くなるまで時間掛かったでしょ?」
 沈黙、そして思案。確かにそうだと思う。
「ね? それに私、瞬くんが変な風に言われるの嫌だし」
「言わせておけばいいと思うけど」
「もうちょっと愛想良くすれば変わると思うなぁ」
「変わってどうにかなるのか?」
「友達沢山できるよ」
「……そうか」
 再び思案して、それもまた悪くないと思い至る。
「そうだな。お前の言う通りにするよ」
「うん」
「……」
 それ以後、また沈黙に戻ってしまう。会話の流れに沿って切り出せれば良かったのだが、言えないまま会話は切れてしまった。このままでは一番の目的を切り出せないまま夜が更けてしまう。
 言うしかあるまい。一言声を出せばそのままいけるはず。そう分かってはいるが、その最初の一言が難しい。
 やってきた静寂が自らの美しさを主張していて、それを認め、感じていたいがために壊せない。暑さも寒さもない空気がのし掛かり、その体温が優しい故に身動き一つできない。
 そして何より、俺の喉に蓋をしているのは、俺の行為がその場で拒絶されてしまうのではないかという不安であった。
 それでも、このまま黙ったままでは、せっかく薫がくれたマルっち人形の意味がない。薫が励ましてくれた意味がない。
 すぅ、と息を吸い、どうにか喉から絞り出す。
「な、なあ……」
「ん? なあに?」
 震えてはいるがやっと声が出せた、あとは、無心に流れに任せて口を動かすだけでいい。すぐに震えも止まる。
「渡したいものがあるんだ。受け取ってくれ」
「うん」
 鞄からマルっち人形を取り出し、手渡した。あっ、と洩らし葉子はそれを手の上に置いて感慨深そうに眺めた。
 マルっち人形を渡すという行為がどういうことか、分からない葉子ではないだろう。そして渡した俺自身は、羞恥心から体温が上昇するのを感じている。鼓動も、平常時よりずっと速い。
「瞬くん……」
「ん?」
 緊張しながら呼びかけに答える。
「ありがとう」
「あ、ああ」
 その告白に対して何か返答があるものかと思ったが、葉子はそれだけしか言わなかった。
「それじゃ、そろそろ帰ろっか? もう日も暮れちゃったし」
「ああ、そうだな。そうするか」
 先に立ち上がった葉子に倣い、どこか引っ掛かるものを感じつつも腰を上げた。岩の階段を登り、ガードレールを乗り越えて車道へ戻る。
「明日、私も見送りに行くからね」
「分かった」
 明日には何か言ってくれるのかもしれない。色違いのマルっち人形を渡してくれるのかも知れない。
 希望的観測である。
「手紙、すぐに出すと思うから」
「ああ。いいよ」
 そうして星空の下、俺と葉子は帰路についた。輝き始めたばかりの星々は、こちらの様子を窺っているかのようにハッキリとした光は見せない。月もまた、山に隠れて姿を見せようとしない。
 夜になって、誰もがそこにいると分かっているからといって姿を見せないのは何事か。臆病者め……。
 葉子に気付かれぬよう舌打ちをする。
 臆病者って、そりゃ俺のことだろうが――
 
 
 一歩ずつ一歩ずつ。
「あの場所」へ続く坂を、一歩ずつを確かに踏みしめ登っていく。
 真上から注ぐ日光が温かい。芽吹いてきた緑が風が揺れ、ときおり輝きを見せる。ちらほら白い雲の流れる空は蒼く、どこか涙の色を連想させる。
 俺がこの町を去る日。葉子は来なかった。
 すぐ手紙を出すといっていたのに、いつまで経っても来なかった。
 俺は振られたのだと思った。
 もしかしたら、出立の日にマルっち人形のお返しをもらえるかと思っていた。そうじゃなくても、すぐ呼び出されてその時に渡してもらえるのかもしれないと思っていた。
 それらはあくまで願望で、そして叶うことはなかった。
 馬鹿なことをしたと思った。マルっち人形なんか渡さなければ良かった。そうすればまだ友達として気兼ねなく会えたはずなのに。
 この町を去ってからしばらくして、俺は「あの場所」であった事を忘れようと努めた。振られた記憶などいつまでも持っていたくはなかった。
 やがて「あの場所」を忘れることはできたが、この町の思い出のほとんどはそのまま残った。
(俺さぁ……。嫌な奴だろ? 愛想はねえし、口も悪い。格好良いわけでもねえ。嫌ってる奴も多いだろ? ちょいと勉強ができるくらいしか取り柄のない奴なんだよ)
 ふと、いつか薫に言った言葉が脳裏をよぎった。そしてまた別の言葉が蘇ってくる。
(得意じゃないとか苦手とか、分かってるなら話は早いだろ。そこを重点的に勉強だ。一人で充分やれる)
 そう。その通りである。
 自分の中の何がダメで、どこを直すべきなのか分かっているなら話は早い。そこを重点的に矯正していけばいい。
 高校時代は、そうやって過ごした。
 自分でそう考え至ったつもりだったけれど、本当はそうじゃなかったんだなと、今は分かっている。あの日に葉子に言われた通りに、自分を直そうとしただけに過ぎない。「あの場所」は忘れても、葉子と交わした言葉を忘れることは出来なかった。
 目的地へ近付く度、一歩一歩を踏みしめる度、その時の光景が浮かんでは消えていく。
(言葉はちゃんと選んで言うんだよ? 良いこと言っても、分かってもらえないと大変なんだから)
 ホント、そうだよな。伝わらない言葉には意味がない――
(もうちょっと愛想良くすれば変わると思うなぁ)
 まったくだよ。少し愛想良くしてみたら、変わるもんだ。結構、人が寄ってきてくれるもんだ。どうでもいい奴まで寄ってくるのは面倒だけどな――
(友達沢山できるよ)
 ああ……。お陰で退屈しない毎日だよ。ちょっと疲れるけど、いつも、いつも楽しいんだ――
 ふう、とため息を吐く。
 右手にはあの手紙がある。まるで強く握り締めたかのようにクシャクシャになってしまっていて、記された文章もやはり増えている。
 いよいよ「あの場所」に近づき、ガードレール越しに視線を落とした。岩の階段、突き出たスペース、遠くに広がる町並み。
 変わらないその場所に、俺は葉子を見た。
 遠く、俺たちが過ごした町を見下ろして。風にその髪をなびかせて。葉子はいた。こちらに気付いた様子で振り返り、いつも俺に向けてくれた明るい笑みを浮かべ手を振った。
「葉子……」
 そして、瞬きする間に幻のように消えていった。
 ガードレールを乗り越え、岩の階段を下り思い出の場所に足を付けた。静かに腰を下ろし、あの手紙を広げる。文章が増える奇妙なものだったが、それももう打ち止めであるらしい。それがいつ書かれたものか。誰が書いたのか。なんとなく、分かった気がする。
 俺が渡した赤い服のマルっち人形。それの色違いと言われる、青い服のマルっち人形。それが、足を付けたその近くにちょこんと鎮座していた。
 拾い上げて小さく笑う。
 手紙には……、すべてが記された手紙にはこう書かれていた。
『こんにちは。
 瞬くんに手紙を送るのは初めてですね。
 いつも、毎日みたいに会って話をしたのに、手紙を送らなければお互いを知ることが出来なくなるのは寂しいです。
 瞬くんは、引っ越し先はそんなに遠くないから呼べばいつでも会いに来てくれると言ってくれましたね。けれど、呼ばれなかったら行かないなんて、意地悪なことも言いました。
 でも、いつでも会いに来てくれるっていうのは、とっても嬉しいです。
 さっそく呼び出しちゃうことになります。ワガママですけど、聞いて下さい。
 渡したいものがあります。今度の日曜日、あの場所に来て下さい。そして、改めて伝えたいこともあるので絶対来て下さい。
 本当は手紙で伝えようかと思ったけど、それじゃ、せっかくあの人形をくれた意味がないから。
 やっぱり直接会って、お話ししたいから。
 時間は瞬くんの都合もあると思うので、好きな時間に決めて下さい。一応、お返事くれると助かります。
 それでは。日曜日、楽しみに待ってます。
 
浦木葉子』
 地にあぐらを掻いたまま、青い服のマルっち人形を両手で抱え、そのてるてる坊主みたいな顔を見遣った。この人形を送り、そのお返しがもらえるという意味は、よく心得ている。
 渡したいものというのは、これの事だったのだ。
 振られたわけではなかった。忘れる必要なんてなかった。
 ただ、遅くなってしまっただけだったのだ。
「葉子……。俺さ、ずっと好きだったんだぜ」
 俺は初めてその事を口にした。
「見送りに来てくれなくて……、でも、すぐ手紙で呼び出しがくると思ってたんだ。けどそれも無くて……振られたんだなって思ったよ。会いたくないんだなって、思ってた」
 マルっち人形に語りかけるように言葉を紡いでいく。人形は答えない。言葉は風に流され、町の空気に溶けていく。
「高校生やってるとき、何度か付き合ってくれって言われたんだ。結構、まんざらでもなかったよ。でもな、でも……俺はそういうの、全部断ったんだ。忘れようとしても、気持ちを切ることは出来てなかったんだと思う」
 空気が流れ、前髪がなびく。気持ち良くって目を瞑る。
「大学入って、最近、ようやく吹っ切れそうになったんだ。けど、そんな時に手紙が届いて……。正直、今更とも思ったけど、嬉しかったんだ。やっぱり、まだ好きだって気持ちが、残ってたんだな」
 そしてこの町に来た。思い出や友との再会があり、葉子の死を知った。葉子の気持ちを知ることが出来た。
「来て良かったよ。ホント……。来て良かった」
 そのまま大きく空を仰ぎ、光合成をしてみる。温かい。深呼吸をしてみれば土の匂いが届き、耳を澄ませば木々のざわめき、鳥の鳴き声が聞こえる。
 一瞬、誰かに声を掛けられた気がする。けれど、どんな言葉だったか、誰の声だったのか。どちらも分からない。あるいは幻聴だったのかもしれない。
 目を開けてみる。夢から覚醒した時のような爽やかさがある。今までの出来事がすべて夢であったかのようにすら感じられるほど清々しい。
「葉子……。俺は、約束守ったぞ。呼ばれれば来るんだよ、俺は」
 手紙を握り締め呟く。
 彼女の想いが、死してもなお、俺に手紙を届けた。四年という遅れが出たが、確かに届けた。マルっち人形までも用意して……。
 ……そんな話は妄想である。
 けれど、それがいい。一番綺麗な話になる。だからそれが真実でいい。俺はそう信じる。信じ続ける。
 心に刻み込んで、立ち上がってみるとふと白い輝きに気付く。
 花だ。白い花。
 あの日もここで咲いていたか。
 小さく白い四つの花びら。それらに囲まれた黄色いおしべ、めしべ。一つの茎がいくつも枝分かれして多数の白い花を咲かせている。小さく儚いながらも、印象を強く刷り込ませる力強さがある。
 その輝きに惹かれ一輪だけ摘んだ。
 この場所で育った綺麗な花をもっと近くで見てみたかった。
 そして岩の階段を登る。ガードレールを乗り越え、最後のつもりで振り返った。遠くに広がる町並みと、思い出の場所。思い出の光景に目を瞑り、精一杯の笑みを浮かべた。
「ホント。ありがとな、葉子……」
 
 ホテルに戻り、帰り支度を始めていたところ、雅人から連絡があった。薫がこの町に帰ってきたという。せっかくだから会って行けと言うので、荷造りを終えたところで指定の場所へ向かった。
 分かり易く、集合場所は俺たちの中学校の正門前とした。ちょっとした同窓会である。
 薫は、ショートカットは相変わらず。ハキハキした口調も相変わらず。けれどどことなく大人になったような雰囲気で、一見した時は誰だか分からなかった。
「友達の顔も覚えてないの?」
「そんな美人に成長しているとは思ってなかったからな。意表を突かれた。意外性があって面白いな」
「うわ。村崎君、変わったねえ。うるせえな、って返されると思ったのに」
「俺も今年でハタチになるからな」
 三人でファミレスに行き、少し早い夕食にした。身振り手振りが大袈裟な薫と、話し上手聞き上手な雅人と。ゆっくりのようであっと言う間に時は流れ、夕方となった。
「村崎君、もう帰っちゃうんだ?」
 ファミレスを出て、駅前通りへの道の途中。薫が名残惜しそうに口にした。そんな顔を見るのは彼女が見送りに来たとき以来だ。当たり前だが。
「悪いな。始めから今日帰るつもりだったんだ」
「また来るんだろ、村崎?」
 首を横に振って雅人に答える。
「分からないな。機会があったらってところか」
「そういうなよ。たまには来いって。歓迎するぜ」
「……そうだな。呼び出しがあれば、来てやるよ」
 口の端を緩ませて言ってやった。なんとなくポケットに手を突っ込むと、中に何かある。それを取りだして見た。
 白。
 さきほど摘んだ、白い花。
「ん? 村崎君、花に興味なんてあったの?」
 薫が首を傾げて聞いてくる。
「いや、この花……。なんて花だったかなって」
「それ? 桜草よ」
「桜草?」
 立ち止まって三人揃って白い花に目を向ける。
「確か、花言葉は……えーっと」
「新井、お前、花言葉なんて知ってたのか?」
 雅人が意外そうに口にする。
「たまたまよ。ずっと前にだけど、葉子が教えてくれたの。覚えてたはずなんだけど……」
 腕を組み、左腕だけを立てて軽く握った拳を顎に持っていった。
「そう。思い出した」
 しばらくして左の人差し指を立てた。
「白い桜草の花言葉はね――」
 それを聞いた俺は、顔をほころばせる。なぜ白い桜草に惹かれたのか、分かった気がしたからだ。笑う俺を見て、不思議そうに薫と雅人は首を傾げた。
 やがて駅に着き、改札口で俺は二人と向かい合った。
「んじゃあばよ、って言いたいところだが、最後に一つ用事がある」
 真面目に雅人は口にした。
「なんだ?」
「ああ……まあ聞け」
 ゆっくりと確かに雅人は言葉を紡いでいく。
 雅人は昨日、浦木葉子の母と会っていたらしい。
 四年前、俺がこの町を去る日。葉子は来なかった。
 事故だったという。その前日の様子を、葉子の母は雅人に語った。そして雅人はそれを俺に伝えてくれた。
「夜遅くまで、うんうん唸りながら手紙を書いていたらしいんだ。それで次の日に寝坊して……。お前が出発する時間に間に合わないって言って慌てて出ていったんだってさ。多分それが、事故に遭った原因なんじゃないか……って」
 葉子の母から預かってきたと、雅人はある物を俺に手渡してきた。それは手紙だった。強く握ったのか、クシャクシャになってしまった封筒。その中にある一枚の便箋。
 そしてもう一つ、雅人はポケットから取り出した。
「その手紙に書いてある渡したいものって、多分、これのことだよ」
 渡されたのは、青い服を着たマルっち人形だった。
 雅人から渡された二つ。手紙とマルっち人形。
 手紙のその古びた様子は、俺の元に届いたあの手紙と同一だった。マルっち人形も、その古さも汚れ方も、すべて「あの場所」で回収したはずのマルっち人形と同じだった。
「ちょっと待て」
 不自然に思って鞄の中を覗いたが、俺が持ち帰ったはずの人形も、確かに入れておいたはずの手紙も、鞄の中には無かった。無かったどころか、存在していた形跡すら消えている。
 人形の汚れを拭いたハンカチが、未使用時のように綺麗になってしまっている。
 どこかで、なくしてしまった? 落としてしまった? ハンカチも、汚れがついたように見えたのは気のせいだったのか?
 いや、それとも……?
 なんとなく理解して、雅人から受け取った二つを鞄の中に入れた。
「でも、俺が貰っちまってもいいのか。大切な、形見のはずだ」
「俺もそう思ったんだが。浦木のお袋さんが、手紙や贈り物は、ちゃんと、贈りたかった人に送ってあげるのが一番の供養になるんだって言ってたからな」
「そうか。なら、いいんだな……」
 そして、俺は二人に別れの挨拶をして改札口を抜けた。
 列車の中、てるてる坊主によく似ていて相変わらずニコニコ笑顔のマルっち人形を鞄の上に置き、確かに存在する手紙を広げた。
 俺の元に届いたあの手紙と同一。しわの数、形まで同一。かと思ったのだが、一つだけ違う点がある。
 この手紙には、追伸があった。
『追伸。
 あの場所には白い桜草が咲いていましたね。
 あの花の花言葉を知っていますか?』
 彼女がこの手紙を送るつもりだった四年前の俺が、それを知っているわけがない。そして調べようともしなかっただろう。きっと葉子は、俺に青い服のマルっち人形を渡した後で、白い桜草の花言葉を教えてくれるつもりだったのだ。
 ロマンティックとも言える演出だ。葉子らしいと言えば葉子らしい。実現されていればきっと、お互いに照れて、真っ赤に染めた顔を向かい合わせていたことだろう。
 手紙を封筒にしまい、さらに封筒を鞄にしまった。マルっち人形も鞄の中へ押し込む。それでも笑顔を崩さない人形に少し愛着が湧いたがすぐ忘れる。
 それらの代わりにポケットから一輪の白い桜草を取り出した。
「今は……よく知ってるよ」
 その熱いときめきも。その張り裂けそうな切なさも。
 茎を二つの指で持って、くるくると竹とんぼみたいに回してみる。白い花びらの残像が一瞬だけ白く透明な円を浮かばせ、消える。もう一度回してみたが、円を描く前に指から零れてしまった。
(――ねえ瞬くん。この花、白い桜草。花言葉、知ってる?)
(――いや、知ってるわけないだろ)
(――じゃあ教えてあげる。白い桜草の花言葉はね……)
 それは、俺が葉子から受け取り、俺が葉子に渡したもの。
 想像したような日が過去にあったなら、そこからさらに様々な思い出が作られていただろう。けれど、それは無い。互いに願っていた未来は脆くも崩れ去り、現在という形になった。そして、もうその形からしか未来は生まれない。
 桜草を拾い上げ、小さく、断ち切るように口にする。
「さようならだ、葉子。白い桜草の日々を、俺は忘れない……」
 列車の窓を開けて白い桜草を放った。くるくると宙を気持ちよさそうに舞いながら高く昇っていき、夕暮れの空へ吸い込まれるように消えていく。
(――『初恋』っていうんだよ……)
 今、ひとつの恋が終わった。
 
 
 





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