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≪マイ・ファミリーズ・ヒストリー≫



「えーっと、その、お金貸して欲しいなぁ……って」
「なんで? また?」
 水原詩織さんは呆れた様子で、パソコンで作業していた手を止めて僕のほうに目を向ける。その双眸から放たれる視線が若干痛々しくて、僕は視線を逸らした。
「まさか、また騙されたんじゃないでしょうね?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、うちに住む人間が、ひとり増えるから。身の回りの物を揃えてあげたくて……」
「誰よ。まさか彼女?」
 視線の威力が三割増しになるのを感じながら、あははは、と愛想笑いしてから詩織さんの目をちらりと見る。やっぱり睨んでいて、尻込みしつつも僕は答えた。
「その……妹、らしいんだけど」
「はぁ?」
「えっと、僕の父さんは、だいぶ前に母さんと離婚してたって話は前にしたよね?」
「それは聞いたけど、でも兄弟はいなかったはずでしょ」
「うん。でも父さんが再婚した相手には連れ子がいたらしいんだ。で、その再婚相手は亡くなって、最近父さんも死んじゃって……それで、その子……他に頼れる親戚もいなくて、流れ流れてうちに来ちゃったらしいんだ」
「……それ、血の一滴も繋がってない、完全無欠の赤の他人ってことじゃない」
「でも、父親は同じ人だったんだよ」
「だいたい、本当にそうだったって証拠あるの?」
「一応、父さんの名前は知ってたけど」
「不十分。他に証拠は?」
「……見当たらない、けど」
「とっとと追い出しちゃいなさいよ、そんな子」
 吐き捨てるように言うと、詩織さんは作業に戻ろうとする。
「そんな! ひどいよ、詩織さん」
「ひどいのは信幸くんの頭でしょ! どうして、そんな疑いどころしかないような子を家に入れるかな。騙されてるって考えないの? 仮にその子の話が本当でも、信幸くんには縁もゆかりもない子じゃないの」
「それは……そうだけど、いい子なんだ。だから信じてあげたくって……」
「信幸くん、覚えてる? この前も同じようなこと言って、詐欺に引っかかったよねぇ?」
「うぐっ……」
 詩織さんは目を細めて、冷ややかな笑みを見せる。
「なんだっけ、幸せのお札が十枚で十五万円? 立て替えてあげたの、私だったよね」
「せ、先月、きっちり返済させてもらいました……」
「また同じことしたいの?」
 急に心配するような顔つきになって、詩織さんは苦笑いする。長くて綺麗な黒髪の毛先を指先でいじりながら、物憂げな様子で口にした。
「頼ってくれるのは嬉しいけど、頼らなくてもいい方法もあると私は思う」
 僕は頭を下げるしかできなかった。
「ごめん。そうだよね、こんなこと迷惑だよね……。やっぱり、自分でなんとかするよ」
「えっ!?」
「あんまり好きじゃないけど、一気に稼げる仕事もあるし……なんとかやってみるね」
 言って研究室から出ようとすると、詩織さんが慌てて引き止めた。
「そ、そうじゃないでしょ! ここは、メチャクチャ怪しい自称妹を追い出せばそれで済む話でしょ。だいたい信幸くんがやってるっていう仕事だってメチャクチャ怪しいし!」
 僕は小さく首を横に振った。
「確かに怪しいよね。さすがに僕だって、あの子のすべてを信じることはまだできないけど、だからって、見捨てられないでしょ?」
「でしょ? ――じゃないでしょ! 私たち学生なんだよ? 信幸くんだって、お母さん亡くなってから生活が苦しくなったって言ってたじゃない。わざわざ、そんな苦労をさらに背負い込む必要なんてないでしょ!」
「あるよ」
「えっ?」
「必要あるよ。あの子は僕の妹で、僕は頼られちゃったんだから」
 すると、みるみるうちに詩織さんの顔が真っ赤になっていき、ヤバイと思ったときには爆発していた。
「――バカァ! なんでいつもそうなのよ! 心配して言ってあげてるのに、聞いてくれないで! 結局いつも騙されて苦労してるくせに!」
 子供みたいに両手を振り回して怒鳴り散らす。他の研究室から教授や研究生が顔を覗かせて、なんだいつものことか、と顔を引っ込めていく。
「お、落ち着いて。詩織さん、ここ公共の場だし。僕が悪かったから」
 なだめようと肩に手を伸ばそうとするが、叩き落とされて、さらに大声を鼓膜にぶつけられる。
「落ち着いたって、私の言うこと聞いてくれないじゃない! なんで心配してるのに分かってくれないのよぉ、バカァ! あんたなんか顔も見たくない! どっか行ってよ! 大ッ嫌い!」
「……ッ」
 顔も見たくない。大ッ嫌い……。
 詩織さんは、涙目になっていた。本気の色だった。
「……その、ごめん」
 それだけをやっと呟くと、僕は背を向けて研究室から立ち去った。最後にもう一度、バカ、と聞こえて僕は嘆息して視線を床に落とす。
 また嫌われちゃった。顔も見たくない、かぁ……。
 エアコンの効いた研究棟から出ると、重苦しい気温と湿気に迎えられる。空には澄み切った青。白雲はまばら。緑の匂いが充満する空気と、張り切りすぎの蝉しぐれ。
 僕は大好きだけれど、嫌われてるとしか思えないほどに強く照りつける日光が、容赦なく肌を焼き、汗を生ませていく。それでも避けて行けないのが寂しく思う。嫌われるのを避けていたら、家に帰れない。
 嫌われてでも妹の元へ……か。
 せめて、できるかぎり日陰を歩いていこうと決めて帰路につく。
 そんな二〇一九年の夏――。
 もしも涼やかな風が吹いて、憂鬱な気持ちを吹き飛ばしてくれたなら少しはマシだったのだろうけど、期待に反して、流れ過ぎていった風は生ぬるく、ため息を巻き込んで夏の空に溶けていった。


 帰宅して、気分を晴らしてくれたのはこのやりとりだ。
「ただいまー」
「お、おかえりなさぁーい!」
 僕よりずっと小柄で細い女の子が、緊張した面持ちで「おかえり」と言ってくれた。「ただいま」と「おかえり」。母さんが他界してから二年ぶりのこのやりとりは、僕の胸にジ〜ンと響き、嬉しくて涙が出そうになるほどだった。
「……あの、信幸、さん?」
 感激して停止していた僕を不思議そうに見上げてくる。溢れくる感情が表情に出てきて、自覚できるほどの満面の笑みで彼女を見返した。
「あははっ。なんだか、凄く嬉しくかったから。でも雪乃ちゃん、僕を呼ぶなら、信幸さんじゃなくて、お兄ちゃんとか、お兄さんとかでしょ」
 目をぱちくりさせてから、雪乃ちゃんは遠慮がちに目を伏せる。
「あの、でも……」
「僕は君の兄なんだから。それが自然なんだよ?」
「でも……私、いきなり押しかけちゃって。それに、血は繋がっていないから……」
「それは事実だけど、どうでもいいじゃない。君は来た。僕は受け入れた。なら、もう雪乃ちゃんはこの僕の、神楽信幸の妹――神楽雪乃でいいんだよ」
 言い切ってから、僕はわざと困ったような顔をしてみる。
「でももし君が、こんなところに居たくないって言うんなら……話は別だけどさ……」
 するとにわかに慌てて、首をぶんぶん横に振りながら否定する。
「そ、そんなことないです。私、ここにいたいです! 他に行くところもないし、信幸さんは……優しいですし。私には、勿体ないくらい……」
「ほら。また信幸さんって言った。僕らは兄妹なんだから、そういう他人行儀なのは、やめようよ」
「でも……」
「ね?」
 軽く膝を折り、目線を合わせて微笑んであげると、雪乃ちゃんは目を伏せたまま耳まで真っ赤になった。恥ずかしそうに、小さく口を動かす。
「あ、あの……じゃあ、さ、最初から……」
「最初から?」
「ただいま、のところから、やり直しましょう」
「うん。じゃあ――」
 僕は一呼吸空けてから、もう一度言った。
「――ただいま、雪乃ちゃん」
「お、おかえりなさい。お、お……お兄、ちゃん……」
 最後のほうはほとんど聞こえなかったが、確かに言ってくれた。僕は大きな声で応える。
「はい、よくできましたっ」
 手を差し伸べて、雪乃ちゃんの頭を撫でてあげる。あっ、とかすかに声を上げたあと、雪乃ちゃんは嬉しそうに、恥ずかしそうに目をつむった。
「お兄ちゃんの手、大きくて、あったかい……」
 その安らかな表情はまるで天使のようで、ずっとそうしていたい気持ちに駆られたが、僕自身が照れくささに耐えきれなくなって彼女の頭から手を離した。
「雪乃ちゃん、僕がいない間、ちゃんとごはん食べてた?」
「はいっ。ちゃんと言われたとおり、レンジでチンしていただきました。あ、そだ、お兄ちゃん、私、お茶淹れますっ」
 トテトテと廊下を駆けて台所に消えていく雪乃ちゃんに、意図せず微笑みがこぼれ落ちる。先刻の詩織さんとのやりとりを思い出すと少しだけ胸が軋むけれど、彼女も雪乃ちゃんに会えば分かってくれると思う。
 こんなにいい子を、誰が疑えるもんか。見捨てられるもんか。
「…………」
 でも、詩織さんに嫌われちゃったのは辛いなぁ。顔も見たくないほどだもんなぁ……。
 お茶を淹れてくれた雪乃ちゃんは、急に暗くなった僕を見て、お茶の淹れ方を間違えたのかとしきりに気にしていた。

 やがて夜も更けて、就寝しようという頃。
 二階の僕の部屋で雪乃ちゃんのためにベッドを整備していると、背後から声をかけられた。
「あ、あの、お兄ちゃん」
「うん? どうしたの?」
「いままではその、自分のことばっかりで気づかなかったんですけど……。このベッドは、お兄ちゃんのですよね。お兄ちゃんは、どこで眠ってるんですか?」
「僕は別の部屋だよ。母さんが使ってた布団があるから、それを引っ張り出して使ってるんだ」
「そ、それなら私のほうがお布団で寝たほうがいいんじゃないですか? お兄ちゃんのものを、何度も使わせてもらうわけには……」
 くすり、と僕は笑って雪乃ちゃんを一瞥する。僕が貸したブカブカのパジャマ姿で、上目遣いにこちらを見つめている。
「雪乃ちゃん、それは遠慮しすぎだよ。新しくベッドを買うまでの間なんだし、こっちのほうが寝心地はいいと思うよ? それとも僕のものだと、その……臭かったりするのかな?」
「い、いえ! そういうわけじゃなくて! ただ、やっぱりお兄ちゃんのものはお兄ちゃんが使うべきじゃないかとっ」
「んー、雪乃ちゃんがそう言うなら、そうしてもいいんだけど。断る理由はないし」
「そうですよね、じゃあそうしましょうっ。あ、あと、お布団のお部屋は、お布団をもう一組敷けたりしますかっ?」
「? 敷けるけど……布団は二組もないよ」
 嬉しそうにしていた雪乃だったが、それを聞くと急に落胆してしまう。小さく、どうしよう……と呟くのを僕は聞き逃さなかった。
「なにか問題でもあった?」
「あ、いえ。その……」
「ん?」
 僕はできるだけ優しく笑みを浮かべて首を傾げた。雪乃ちゃんが赤面して目をつむる。
「そ、その……さっき、テレビで心霊特集してて……。ひ、ひとりだと……こ、こ、怖くて……」
 思わず僕は、吹き出してしまった。確かに、夏のテレビ番組に心霊特集は欠かせない。妖怪やら奇妙な生き物やらも一緒に特集していたらしく、雪乃ちゃんは僕がお風呂に入っている間、ずっと見ていたようだ。
 吹き出した僕に気づいて、雪乃ちゃんは少しだけ眉をつりあげて口をとがらせた。その怒り方も迫力が足りず、むしろ可愛い。
「わ、笑わなくたって、いいじゃないですか」
「ごめんごめん。でも雪乃ちゃん、君、いくつだっけ?」
 ううぅ、と雪乃ちゃんはうつむいた。
「それは言わないでください〜」
 つまり、隣で一緒に寝て欲しいけれどベッドではそれはできない。なので布団を二組敷いて一緒に……と考えていたようだ。
「ふふっ、じゃあ寝るまで一緒にいてあげるから。ベッドでもいいでしょ?」
「は、はい。お願いします……」
 雪乃ちゃんをベッドに寝かせて、灯りを消す。何度も呼びかけてくる彼女を安心させるために手を握ってあげると、数分のうちに寝息を立て始めていた。安らかな寝顔を惜しみつつ、雪乃ちゃんから離れる。
「甘えんぼさんめ……」
 物音を立てずに部屋を出て、さて、と呟く。
「甘えんぼで可愛い妹のために、お仕事に行こうかな……」
 僕はすぐに準備を済まして、昼間のうちに電話で約束していた待ち合わせ場所に向かった。


 深夜零時を過ぎた町の空気は静かで、それでいてどこか奇妙な気配が漂っている。冷笑を浮かべるような三日月と、睨みつけてくる幾万の星の目が、帰れ帰れと訴えている。
 でも今日ばかりは従えない。握ってあげた手の温もりを逃さぬように強く握りしめる。それだけで迷いは消える。月は微笑みに、星は見守る瞳に変わる。涼しい夜風に後押しされて、僕はひと気のない公園に足を踏み入れ、ベンチに座っている人に近づいていった。
 こちらに気づくと、その男の人は立ち上がってニヤリと笑んだ。
「さすが信幸。時間どおりだな」
「黒沢先輩こそ、いつもどおり早いですね」
「まあな。しかし驚いたぜ。お前から仕事を欲しがるなんてな。今まではほとんど嫌々だったくせによ」
「……身辺で色々ありまして」
「その辺はあとで聞かせろよ。まずは仕事だ。事務所行こうぜ」
 ふう、と僕はため息をついた。
「どうしていつも、事務所で待ち合わせにしないんですか?」
「待ってる間に星を眺めるのは俺の趣味なんだよ。ガキの頃は、天文学者になりたくってな。星座の講釈、あとで聞かせてやろうか」
「意外ですね……、先輩が天文学とは」
「バーカ、嘘だよ。柄じゃねえよ、そんなもん」
「また騙したんですね……。僕を騙してそんなに面白いですか?」
「最近はつまらねえな。お前は何でも信じるから張り合いがない」
 いつもどおりの会話をしながら、僕たちは公園の向かいにある事務所へ入っていった。中には机が四つ。それぞれにパソコンが置かれていて、他には何もない。電話は一本だけであり、コピー機もなければファックスもない。本当なら事務所と呼ぶには、ややお粗末な一室である。
 この事務所の所有は、ヴィクター社という生物学を得意とする大企業である。実を言えば、先ほど雪乃ちゃんが見ていたテレビ番組の内容と無関係ではない。
 僕の父さんは、このヴィクター社で働いていた。母さんによれば、相当優秀な研究者であったらしい。別れてからも母さんは父さんのことをなにかと調べていたから僕も知っていた。数ヶ月前に死去するまで、父さんはヴィクター社の研究員だった。
 その父さんが、社内での地位を確固なものとした研究がある。
 二〇〇〇年代前半に初めて成功し、その後、十数年間かけて進化させていった技術。その成果が、ときどきテレビでも話題になる都市伝説の主役――奇妙な生物たちだ。数十年前に話題になった人面犬などの類と考えていい。いまだ伏せられていることだが、ヴィクター社は、人造人間を創ったという架空の人物――ヴィクター・フランケンシュタインの領域にまで達しているらしいのだ。
 ため息をひとつ。
 こんな研究に没頭してるから、父さんは女房子供に逃げられるんだろうなぁ……。というか、母さんが嫌ってた会社からお金もらってるって知ったら、草葉の陰で泣くだろうなぁ……。
 そう思うからこそ、いままでは黒沢先輩に誘われても、滅多に仕事を引き受けたりしなかったわけである。もっとも家族のことがなくても、生物兵器を作っているという噂がある企業になど協力したくはない。
 黒沢先輩との軽い打ち合わせのあと、僕は机に着いてパソコンを起動させる。いつものアプリケーションを起動させて、ヘッドセットを装着した。
 一方、黒沢先輩は事務所のロッカーから、仕事道具を取り出した。黒光りする重い鉄の塊。見慣れてしまったのはいつだろう。彼が愛用している拳銃、コルトガバメントを。
「しっかりオペレート頼むぜ」
 拳銃に減音器を取り付けて、先輩が事務所から出る。ここからがお仕事の本番開始となる。通信を開き、そちらで会話を続ける。
「できれば銃なんて使わないでくださいね。相手は猫なんでしょう」
「二足歩行してサブマシンガンを持った猫ってのは、まだ猫って言っていいもんなのかねぇ……」
「どうでもいいですけど、猫の体重で銃なんか撃ったら吹っ飛びますよね?」
「吹っ飛ぶくせに手放さないから、相当危ないらしい」
「近所迷惑にならないように気をつけてください」
「俺のことは心配しないのかよ」
「する必要がないですよ」
「そりゃ嫌味か?」
「いえ、信じてるだけですけど」
「……ったく、真面目に言われるとケツがかゆくなるぜ」
 もちろん僕たちの仕事は、非公式なものだ。
 詩織さんはなぜか、ヴィクター社というだけで毛嫌いして、内容も知らずに怪しい仕事だと言っているが、内容を知ってもきっと同じことを言うだろう。
 なんらかの不手際で研究所から逃げ出した実験動物たちが、人の目に止まり、都市伝説となり、報道されることもある。万が一、何者かに捕獲されたりすれば技術が流出するばかりか、ヴィクター社のスキャンダルにもなりかねない。
 それを防ぐために、逃げ出した実験動物たちをいち早く発見し、処分するのがこの仕事である。僕たちコンビの担当は、他のチームがこの周辺にまで追い込んだターゲットを、確実に仕留めることだ。情報と通信でもってサポートするのが僕の役で、実際に行動するのが黒沢先輩の役。
 どうして僕がこんなことをしているかといえば、黒沢先輩によって推薦され、その報酬が良かったから引き受けてしまったからだ。騙されたと言ってもいい。ある程度実績のあるスタッフによる推薦によってのみ、新たなスタッフが補充されるわけだが、一度参加してしまえば、もう辞められない。逃げられないと言ってもいい。
 けれど、そのお陰で雪乃ちゃんと生活するためのお金を稼げるのだから、人生万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。
 数十分も黒沢先輩のサポートを続けていれば、やがて「仕留めた。任務完了ってところか」と疲れた声が聞こえてくる。
「お疲れ様です、先輩。さすがですね、銃声が一発も聞こえませんでしたよ」
「猫が相手だからなぁ。お前の、ねこじゃらしを使うってアイディアで本当に行けるとは思わなかったよ」

 それから小一時間後。研究所の外で待っていると、黒沢先輩は満足そうな顔で戻ってきた。
「へへっ、殺さずに捕獲したからな。報酬にゃあ色が付いてたぜ」
「先輩、顔がにやけすぎですよ」
「ばっかやろ、にやけずにいられるかよ。金は幸せの元で、俺はいまその幸せを噛み締めてんだ。やっぱお前と組んで正解だったぜ」
「……いつもなら巻き込まれたことに文句のひとつも言うところですけど、今日からは感謝しなくちゃなりませんね」
 黒沢先輩は「おお、そうだった」と思い出したように言って、無理矢理に肩を組んでくる。嫌になるほど顔を近づけて、へっへっへ、と笑いかけてきた。
「急に金が入り用になったんだって? となると、やっぱコレか?」
 と、左手の小指を立てる。
「違いますよ。女の子が絡んではいますけど」
「ほほぅ、そりゃ難儀だな。なら今日はじっくり聞かせてもらおうじゃねえか」
「いえ、その……。心配だから早く帰りたいんですけど」
 先輩はさらに楽しそうに笑った。
「そりゃ同棲中ってことか! はははっ、お前も苦労するなぁ」
「先輩、本当に聞く気あるんですか?」
「あるある。話せ話せ」
 雪乃ちゃんと一緒に暮らすことになった経緯を軽く話してみると、楽しそうな顔から一変。先輩は本気で呆れた顔をした。
「お前……騙されてるんじゃないのか」
「あの、すみません。これと似たやりとりはもう昼間にやったので、勘弁して貰えませんか」
 ボリボリと頭を掻いて、「ったく」と先輩は空を仰いだ。
「ま、なにを言ってもお前は聞くつもりなんかねえんだろうけどよ」
「ええ。僕、雪乃ちゃんのこと信じてますから」
「やれやれだ。お前らしいっちゃらしいが、いろんな奴に何度も裏切られてきてるだろうに、よくもまあ信じられるもんだ」
「僕のこと、バカだって言いたいんでしょうね」
「ああ、お前はバカだ。けど、仕事はしたんだから報酬はやらなきゃらならねえし、使い道に俺は干渉しねえ。ほら、お前の取り分だ」
 言うと、先輩は茶封筒から万札を幾枚か取り出して僕に手渡した。その枚数を数えて、僕は思わず「あれ?」と声に出してしまう。
 僕らの仕事は、かかる時間は少ないことも多いが最も危険でもある。その上、報酬には口止め料も含まれるはずだから、かなりの大金となる。それを、いつもは先輩に八割で残りは僕という配分にしていたが、それにしては僕の取り分は多すぎたのだ。
「先輩、これ、かなり多いですよ」
「多くはねえよ。ちゃんと計算した」
 僕に背を向けて、先輩は大きく背伸びをした。それから、やれやれ、と疲れたような声を出す。僕にはそれが、先輩の照れ隠しに見えた。
「やっぱり、いいところありますね。先輩」
 ぐぁ、と呻くと、心底嫌そうな顔で振り返る。
「勘違いしてんじゃねえよ。今日の報酬に色が付いたのはお前のアイディアのお陰なんだ。その分をお前がもらうのは妥当なんだよ」
「先輩がそう言うならそうなんでしょうけど……。でも僕は、先輩の優しさのほうを信じたいですね」
 けっ、と先輩は唾を吐き捨てた。
「そんなもん信じるんじゃねえよ。世の中で信じられるのは金だけだぜ。金は裏切らねえ。しかも平等だ。神を信じても救われねえが、金を信じりゃなんとかなる。今の世の中、カミよりカネなんだよ」
 僕は微笑んで頷く。
「耳にタコですよ」
「ったく、調子狂うぜ。今日は奢ってやらねえ。ひとりで呑んで帰るわ」
 先輩はそれだけ残して背中を向けて、とっとと歩いていってしまう。その背中に向けて、僕は頭を下げる。
「ありがとうございます、先輩!」
「うるせえ! 礼を言われることはしてねえ!」
 律儀に叫び返してくれる先輩は、やっぱりいい人だと思うのだ。


 帰宅したのは、午前二時半を回った頃だった。母さんが遺してくれたこの家は木造二階建てで、ふたりで住むにしては少々広い。もう慣れているけれど、幼い頃は暗い廊下をひとりで歩くことができなかった。雪乃ちゃんは、この家の広さをどう感じるだろう。怯えてトイレに行けなかったりしないだろうか。ふと目が覚めて僕が側にいなかったら、やっぱり寂しいだろうか。
 すぐに様子を見に行ってやろうと、廊下の明かりもつけずに階段を昇ろうとした。それがまずかった。なにかに躓いて転びそうになってしまう。危うく階段の手すりを掴んで転倒を防いだが、躓いたなにかをぶちまけてしまった音は、深夜には大きすぎるものだった。
 起こしちゃったらごめん、と階上に向けて謝ってから、廊下の明かりをつけて、なにに躓いたのかを確認する。
 それはリュックサックだった。雪乃ちゃんが背負ってきた、彼女の持ち物すべてが入ったリュックサックだった。封が開いていたため、中身が廊下に散乱してしまっている。雪乃ちゃんが一度起きて、なにかしてたのかも知れない。
 散乱してしまった荷物を片づけようと手を伸ばしたとき、僕はそれに気づいてしまった。
 雪乃ちゃんが持つには、あまりにも異質過ぎる。他の荷物はまともなのに、どうしてこんなものがあるのか分からない。タオルに包まれていたそれは、散乱した衝撃で姿をさらしていた。
 銀色の鉄の塊。拳銃――コルトパイソンの2.5インチモデル。
 おもちゃなのだと信じたかった。だから、まず手に取って重さを確かめた。機構を確認した。弾薬を取り出して、形を、匂いを確かめて……。それが期待を裏切り、人も殺せる本物の拳銃だと確信するまで、そう時間はかからなかった。
「なんで……どうして、雪乃ちゃんがこんな――ッ」
 呟いたとき階上で物音がして、咄嗟に拳銃をタオルで包んでリュックの中に押し込む。物知らぬ顔で、散乱した荷物を片づける。
「おにい、ちゃん……どこぉ……?」
 足音と共に雪乃ちゃんの熱っぽい声が届いた。ゆっくりとだが、確実に近づいてくる。僕は動揺を隠そうと、できるだけ感情を抑えて顔を上げる。
「ごめん、起こしちゃったかな……」
 暗い階上から一歩ずつ降りてくる。廊下の灯りに照らされて、彼女の姿が足下から徐々に浮かび上がる。細くて白い素足、頼りのない腰元、繊細な指先、発達途中の乳房、弱々しい肩、虚ろで焦点の合っていない瞳――
 それが一瞬、べつの誰かに見えて息を呑む。
「雪乃、ちゃん? ……雪乃ちゃん!? どうしたの、そんな格好で」
 一糸まとわぬ姿で現れた雪乃ちゃんは、僕の声が聞こえているのかいないのか、力なく歩み寄って、倒れるように僕の胸に抱きついてきた。
「……おにい、ちゃん。あついよ……くるしいよぉ……」
「大、丈夫!? 熱でもあるの!?」
 額と額を触れ合わせて熱を計る。少し熱がある。崩れるように首の力が抜けて、彼女の口元が僕の首に触れた。熱い吐息が首筋にまとわりつく。
 とにかく、まずは寝かせてあげないと……!
 行動を起こそうと、雪乃ちゃんを抱き上げようとする。が、雪乃ちゃんのささやきに、僕は動きを一瞬止めてしまった。
「うごか、ないで……」
 その隙に雪乃ちゃんは両腕を僕の首に絡ませた。彼女の口が開くのが分かった。荒い吐息がどんどん接近する。僕の首筋に八重歯が当たった。かと思った瞬間、すぐに離れる。
「……うっ……ううぅ……」
 雪乃ちゃんの声が震えた。やがてそれは嗚咽となり、僕の胸で泣き出してしまっていた。それはまるで、悪い夢から覚めた幼子のようだった。
「雪乃、ちゃん……?」
「えぐっ……うぅ、うぅぅ……っ」
 なにがなんだか分からなかった。
 けれど僕の役目は分かっていた。彼女を抱きしめ、泣き止むまで側にいる。それが兄の務めで、僕が背負う責任なのだと思う。本当ならば、きっと泣かせることさえ許されない。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、おにいちゃん……」
 何度も謝る雪乃ちゃんの声は、家の中で響き、闇に溶けていく。
 彼女の存在がどんどん希薄になっていくようで、僕は抱きしめた温もりを逃がさぬように腕に力を込めたのだ。
 十数分後。
 やっと落ち着いた雪乃ちゃんをベッドに横にさせる。よほど喉が渇いていたのか水を何杯も所望して飲んでいた。まだどこか満足しきっていない表情だったが、健気に笑って見せて、それからバツが悪そうに目を伏せる。
 先ほどのように虚ろな瞳でないことは救いだった。
「ごめんなさい。私、変なことしてましたよね……?」
「もしかして、覚えてないの?」
 雪乃ちゃんは躊躇いがちに小さく頷いた。
「気が付いたら、お兄ちゃんに抱きとめられてて……。でも、私、自分がなにをしようとしてたかは、分かる気がします……」
「……雪乃ちゃんは、疲れてたんだよ。それで熱が出て、浮かされてたんだと思う」
「……ごめんなさい。我慢、できなくて……。お兄ちゃんじゃなかったら……私……」
 続きを話そうとする雪乃ちゃんの眼前に、人差し指を一本立てる。それを口元に持って行き、話さなくていいよ、と示してあげる。
「いまは眠るのが先決」
「でも……」
「いいんだよ。話なんて、あとでいくらでもできるんだから。それに、女の子には秘密のひとつやふたつはあってもいいんだ」
「……どうして、ですか?」
「そっちのほうが、魅力的だから」
 雪乃ちゃんは恥ずかしそうに頬を染めると、タオルケットを持ち上げて口元までを隠してしまう。
「そ、そっちじゃなくて、どうしてお兄ちゃんは……そんなに優しいんですか?」
 くすり、と僕は笑った。
「それは……雪乃ちゃんが魅力的だから、かな」
 さらに顔を赤くすると、雪乃ちゃんは寝返りを打って僕のほうに背中を向けて丸くなった。
「へ、変なこと言わないで……ください」
「ふふっ。おやすみ、雪乃ちゃん。寝るまで一緒にいようか?」
「……いえ、もう大丈夫です。おやすみ、なさい」
 灯りを消してから僕は、もう一度「おやすみ」と呟いて階下へ降りた。考えるのは、拳銃のこと、様子がおかしかったこと。
「…………」
 僕は振り払うように頭を振って、そのどちらもを、追求するのはしばらく考えてからにしようと決めた。


 次の朝、朝食を作っていると、遠慮しがちな声が背中に届いた。
「お、おはようございます、お兄ちゃん」
「おはよう。気分はどう?」
 コンロの火を止めてから振り返ると、雪乃ちゃんはうつむいていた。心なしか、頬が赤い気がする。
「あ、あの、元気です」
「そう? まだ熱があるんじゃないのかな」
 額に手を伸ばそうとするけれど、雪乃ちゃんは両の平手を思いっきり前に出して、全力でもってそれを拒否する。
「だ、大丈夫ですっ。大丈夫ですからっ」
「そう、なのかな?」
「そ、それよりも、お兄ちゃん! き、聞きたいことが!」
 意を決したような気迫で、雪乃ちゃんはずい、と接近する。思わず一歩退いて、首を傾げる。
「な、なに?」
「け、今朝起きたら、わわ私、は、裸だったんです! まさかとは、思いますけど……けど、なにもしてないですよね!?」
 気押されて、さらに二歩ほど後ずさる。
「い、いや僕もビックリしたんだけど。いきなり全裸で抱きつかれたわけだし……。熱いとか言ってたし、たぶん、自分で脱いじゃってたんじゃないかな。ていうか、気づいてなかったの?」
「そ、そんな……っ」
 ゆでダコみたいに赤くなると、雪乃ちゃんは両手で顔を覆った。
「あ、あの、じゃあ……みみみ見たんですか?」
 僕は目を逸らす。
「……ごめん」
「あうぁうぅ、じゃあじゃあ……昨日、寝る前、私のこと魅力的だって言ったのは……!」
「へ?」
 雪乃ちゃんは自分の胸元に手を置いて、そこを覗き込む。
「お兄ちゃんは、その、小さい胸が、好きなんですね? だったら私――」
「違うって! んなわけないでしょ、大事な妹をそんな嫌らしい目で見るわけないじゃないか。落ち着いてよ、雪乃ちゃん」
 言われて錯乱していることをやっと自覚したのか、ハッとして勢いがしぼんでいく。
「あ、あぅ……」
 苦笑しつつ僕は背を向けて、朝食の準備を再開する。
「席に着いてて。すぐ朝ご飯できるから」
「はい。朝からごめんなさい……」
「いや、気にしなくていいから。というか気にしないほういいよ」
 ふう、と息をついて思い出してみる。昨夜見た、雪乃ちゃんの裸体……。いや、まあ、魅力的だとは思うけど、僕、べつにロリコンってわけじゃないし……うん、鮮明に思い出せるのは男の性なだけだ。

 朝食のあとは、野暮用を済ましに大学へ行くことになっている。それが終われば、雪乃ちゃんと買い物に出かけて必要なものを買い揃える予定なのだが、少し気が重い。
「詩織さん、今日、来るのかな……?」
 通学路を歩いて思い出すのは、昨日の詩織さんとのやりとり。
 顔も見たくないとまで言われた相手に堂々と姿を見せられるほど、僕の精神は強くない。でも、同じ研究室にいるわけだから、今日会わなくても、いつかは鉢合わせする。
 会いたくないわけではない。むしろ会ってたくさん話がしたいし、もしも一緒に買い物とか食事とかできたら幸せだと思うのだ。詩織さんは綺麗だし、なんだかんだ言っても優しいし、こんな僕にも気にかけてくれていた。
 でもそんな彼女にハッキリと嫌いと言われてしまったわけで、会いたいけれど会うのが怖かったりするのだ。
 ため息がとめどなく零れていく。
 小一時間後に到着した研究室には、詩織さんはいなかった。
 思わず安堵の息が洩れる。でも少し残念……。
 さっそく野暮用を済ませたかったが、パソコンは全部仲間が使っていた。このままでは作業できずに時間が過ぎて、詩織さんと鉢合わせてしまうのでは、と焦っていると、親切な女友達が声をかけてくれる。
「ん、神楽……? ああ、パソコンね。ちょっと待ってて、ファイル保存したら席替わるよ」
「ああ、ありがとう」
 さっそく席を替わってもらって気づくが、この席はいつも詩織さんが座っている席だった。
「……詩織さん」
 思わず洩れた呟きが聞かれてしまったらしく、席を替わってくれた友達がクスクスと笑いながらパソコンの画面を指さす。
「グーグルの検索履歴を見てみなよ」
「え? なにか出てくるの?」
 言われたとおりにしてみると、検索履歴には『仲直りの方法』とか『上手な謝り方』といった語句が残されていた。
「それ、水原が検索してたんだよ」
「……そう。言いたいことは分かるつもりだけど、詩織さんが仲直りしたい相手が僕だとは限らないよ」
「いや、他に誰がいるっていうの……」
「分からないけど、でも僕、顔も見たくないって言われちゃったんだよ?」
 その友達は肩をすくめて、呆れたように笑った。
「ははっ。こりゃあ、水原も苦労するはずだわ」
「?」
「まあいいから、とっとと作業始めて、とっとと私に替わってよ。こっちはまだ課題提出できてないんだから」
「あっ、うん。ごめん」
 僕たち三年生は、卒業研究こそ始まってはいないが、すでに研究室に配属となっていて、先輩の研究の手伝いや、教授から出される課題をこなさなければならない。今日、僕が来たのは昨日提出した課題のミス修正のためだ。
 そういうわけだから大した作業量でもなく、チェックと修正、見直しを合計しても数十分で終わる。再提出が済んで、詩織さんに会わないうちにと逃げるように研究室を出た僕だったが、これは幸なのか不幸なのか。
「……! 信幸くん」
「詩織、さん」
 廊下で詩織さんとばったり鉢合わせしてしまった。
 無視して行くこともできず、かといって気安く声もかけられない。心臓の辺りが締め付けられて苦しく、胸元に手を添える。視線を床へ落として目が合うのを避ける。そこには、滲んだように淡い色の影が形作られていた。
 空気がかすかに揺れて、詩織さんが首を振ったのが分かる。
「まったく――」
 僕とはまったくの正反対で、彼女の声は明るかった。
「――なんて顔するのよ、そんなに私と会いたくなかった?」
「……顔を見たくないとまで言われたら、堂々とは会えないよ」
 小さくため息をつくのが聞こえた。
「昨日のこと、まだ気にしてる?」
「……うん」
 好きな女の子に、大嫌い、顔も見たくないとまで言われて、気にしない男がいるとは僕には思えない。
 僕の返答を受けて、詩織さんは優しげな声を返してくる。
「ごめん、昨日は言い過ぎた。つい、心にも無いこと言っちゃって」
 僕が顔を上げると、詩織さんはもう一度ごめんと言って合掌した。
「信幸くんってば、いいことでも悪いことでも、なんでも信じちゃうんだもん。良いところだと思うけど、もうちょっと本音を察して欲しいな」
「……詩織さんの、本音?」
「うん……」
 想像して辿り着く結論は、あまりにも僕の願望が強く出たものだった。こんなものが詩織さんの本音のわけがないと、頭の中で否定する。
「ごめん、分からない」
 すると、詩織さんは腕を組んで頬を膨らませた。
「まったくもう、言わなくちゃ分かんないんだもんなぁ……」
「ごめん」
「いいよ。信幸くんのそういうところ、ホントは分かってるんだから」
 詩織さんは若干顔を伏せると、上目遣いに僕の瞳をジッと見つめてくる。
「私は、キミと、仲違いなんかしたくないの。いっつも誰かに騙されてるような、そういう信幸くんは見たくないの。……分かる?」
 僕は照れてしまって目を逸らした。
「あ、ありがとう……」
 詩織さんはにっこりと笑って、両手を後ろに回して胸を張る。
「うんっ。これで仲直り完了だかんね!」
 それは心底嬉しいことだったが、もとを辿れば雪乃ちゃんのことが原因であるわけだから、仲直りだけして済む話でもない。気は重たいが、切り出さないわけにはいかなかった。
「詩織さんの気持ちは、すごく嬉しいけど……。でも僕は、妹のこと見捨てることはできないから、また嫌な気分にさせてしまうかもしれないよ」
「それはそうだけど、信幸くんがテコでも考えを変えないんじゃ、しょうがないじゃない。私が妥協するしかないでしょ。物は盗られても、さすがに命を取られたりはしないでしょうし、ね」
「そうやって初めっから疑ってかかるのは止めて欲しいけど……そうだ――っ」
 思い出して、僕は詩織さんの手を掴みあげる。ふたりの影が重なり合って濃い色へと変わる。いきなりのことで、詩織さんは硬直してしまった。
「え、えっ、なに?」
「昨日、思ったんだ。詩織さんも、会ってみれば分かるんじゃないかって。本当にいい子なんだからさ」
 目を丸くして瞬きを数回。
「え? も、もしかして、今から?」
「うん。一緒に買い物に行くって予定なんだ。詩織さんも一緒にどうかな?」
「私は……べつにいいけど。信幸くん、お金あるの?」
 自信を持って頷く。
「昨日、アルバイトしてきたから」
 詩織さんは嫌そうに眉をひそませる。
「はあ……。やっぱり、また怪しい仕事に手を出したんだ?」
「内容も知らないのに、怪しいとか言わないで欲しいんだけどな」
 聞かれても答えられないから、怪しさがさらに増すのだけれど。
「私としては、ヴィクター社ってだけで十分怪しく思えるのよ」
「そういえば詩織さんって、どうしていつもヴィクター社の悪口言ってるの?」
 一瞬だけその表情に影が差した……かのように見えた。ころりと表情を明るいものに戻す。
「べつに、いいじゃない。それよりこれからの予定は?」
「まずは家に戻って妹と合流かな。それから駅前のデパートに行こうかと思ってるけど、どう?」
「ん、問題なし。じゃあ行こっか」
 頷いて歩き出そうとするが、ふと気づいて足を止める。
「あ、ごめん。急に誘っちゃったけど、詩織さんも研究室に用事があったんじゃないの?」
「もう済んだからいいの。研究室って言うか、個人に用事があっただけだし」
「そっか。さすが詩織さんは行動が早いね。誰に用事だったの?」
「…………」
 なぜか詩織さんは脱力して、それからポカリと僕の頭を叩いた。


 買い物が一通り済んでから、僕たちは喫茶店で一服していた。窓際の席で、のんびりと会話を楽しんでいた。そう、楽しめていた。詩織さんが雪乃ちゃんを邪険にするのではないかと、少しだけ不安に思ったけれど、それは杞憂だったらしい。
 僕の隣で美味しそうにトマトジュースを飲み干すと、雪乃ちゃんは、向かいに座った詩織さんの言葉に瞳を輝かせた。
「じゃあ、詩織さんとお兄ちゃんって、高校時代からの知り合いだったんですね?」
 小さく首を横に振って、詩織さんは微笑んだ。音もなくティーカップを置いて、右手で頬杖をつく。
「ふふっ、それがねえ。私たち、大学に入ってから初めて知り合ったの。高校時代から信幸くんの噂くらいは聞いてたんだけど、実際に会ってみたら噂以上だったわけ」
 詩織さんは僕のほうをちらりと見て、くすくすと笑った。僕は首を傾げる。
「どんな噂だったのか、凄く気になるんだけど」
「どんな嘘でも信じて、何度騙されても懲りないバカがいるって噂」
「むぅ……。どうせ僕は噂以上のバカですよーだ」
「悪く言ってるんじゃないの。良い意味で噂以上だったんだから」
「良い意味でって?」
「人が良くて、優しくて、嘘もつかない、とっても素敵なおバカさんだったってこと」
「褒められてるのか、バカにされてるのか分からない――っていうか、たぶんバカにしてるんだろうけど……」
「さあて、どっちでしょー」
 僕は苦笑して、アイスカフェオレを口に含み、味わいながら飲み込んだ。僕たちのやりとりを聞いていた雪乃ちゃんは、半ば確信した様子で尋ねてくる。
「お兄ちゃんって、やっぱり、詩織さんのこと好きなんですよね?」
「えっ――」
「ぶふぅっ――」
 思わず口に含んだカフェオレを吹き出してしまう。幸いにも被害はコップの中だけだった。ナプキンで口を拭く。見れば詩織さんもびっくりして目を丸くしていた。
「な、なんで、そう思うの?」
 僕が聞き返すと、きょとんとして、さも当たり前のことのように返してきた。
「だって、私と話すときとちょっと雰囲気が違いますし……それに昨日、嫌われちゃったって凄く落ち込んでましたよね」
「え、えーっと。あ、あはは。そういう風に見えちゃったのかな?」
 顔の奥が熱くなり、鼓動が早くなるのを感じながら、さり気なく窓の外に目を向ける。照れ隠しに頬をポリポリ。
「仲直りしたって話してくれたときなんか、凄く嬉しそうでしたよ」
「え、えへへっ。そうなんだ? 信幸くんがねぇ……へーえ」
 嬉しそうな声が意外で、ちらりと見てみると、詩織さんは両手で頬杖をついて満面の笑みを浮かべていた。
「……詩織さん、これは……ほら、雪乃ちゃんの印象なだけだから、あんまり真に受けなくても……」
「あれれ? 信幸くんは、私に雪乃ちゃんのことを信じて欲しかったんじゃなかったっけ?」
「それは、そうだけど」
「私は雪乃ちゃんのこと信じたいなぁ。どうなのかな信幸くん、雪乃ちゃんは本当のこと言ってるのかな?」
「……あー、え〜っと」
 と、言葉に詰まったところ。ナイスタイミングで窓がコンコン、と叩かれた。見れば、黒沢先輩が外に立っていて、ちょっと出てこいと指で合図している。ここにいるには意外な人だったが、助け船を出してもらったことに変わりはない。
「え? 信幸くん、この人、誰?」
「バイトの先輩。呼んでるみたいだからちょっと行ってくるねっ」
「あっ、お兄ちゃんっ」
「すぐ戻るから」
 上手く口実にしてその場から逃げ出す。
 外に出ると、黒沢先輩は喫茶店の壁に寄りかかって腕組みしながら待っていた。こちらに気づくと、ニヤリと口の端を持ち上げる。
「両手に花だな、信幸。どっちが自称妹さんだ?」
「見れば分かるでしょう。それに自称じゃありません。それよりどうしたんです、こんなところで。わざわざ僕を捜してたってわけじゃないですよね?」
「歩いてたらたまたま見かけてな。女の子をふたりも連れて、すっげえ楽しそうにしてたから、ちょっと邪魔したくなった」
「……性格悪いですよ、先輩」
「ふふっ、そう気を悪くするなって。冗談だよ、半分はな」
「じゃあ、どの辺りが本当なんです?」
「もちろん、ちょっと邪魔したくなった、ってとこだ」
「…………」
 半眼と沈黙でもって非難してみる。先輩は意に介した様子もなく、口を開けて笑った。
「いや、こいつも冗談だよ。歩いてたらたまたまお前を見かけた。で、折角だから伝達しておこうと思ってな。あとで電話で呼び出すつもりだったが、手間が省けたってわけさ」
「仕事の話ですか」
「ああ。人型のことは覚えてるか?」
「ええ、写真も公開してくれてない奇妙なターゲットでしたから、印象に残ってます。報酬の高さにも」
「そうか。じゃ、まあ、とりあえずはこいつを見ろ」
 と、先輩はメモを一枚、僕に手渡してくる。さっそく目を通すと、それは人型に関して、新しく公開された情報らしかった。
 ヴィクター社の実験動物のうち成功例は貴重で、逃げ出された場合、迅速な確保が求められる。もちろん殺害は許されていない。その分、報酬は高めに設定されているが、この人型と言われるヴィクター社最初の成功例は特に破格である。桁がふたつくらい違っているのだ。
 よほどの機密だったのか、捕まえる気がなかったのか。どちらなのか判別はつかないが、いままでは人の形をしたそういうものがいる、という程度の情報しか明かされていなかった。先輩が言うには、雇われスタッフではなく、ヴィクター社の正規スタッフが捜索していたからだそうだ。
 メモに記された新情報は多くはない。
 身長は一五〇センチ前後。形は人間女性のもの。人間と同等の知性を有する。血液を好む。厳重な保管施設から脱走したことから、ヴィクター社内に手引きした者いると見られ、警護や隠匿に当たっている可能性が高い。捜索には注意されたし。
 僕は三回ほど内容を読み返してから目を上げた。先輩はそれに気づくとメモを取り上げる。
「覚えたな?」
 僕が頷くと、先輩はライターでメモを焼却処分した。
「こいつに関しては、チームの担当に関わらず、全員で捜索にあたって欲しいそうだ。確保には許可が必要らしいが……まあ、見つけただけでも報酬の数割はもらえるからな。本当ならチマチマ探すのは柄じゃねえんだが、この金額を見せられちゃあなぁ」
「で、先輩には珍しく昼間からブラブラしてたわけですか」
「おうよ。なかなかの勤勉さだろう」
「普段と比べれば、ですけど。……それより、さっきのメモに書いてあった、血液を好む、ってどういう意味ですか?」
「ああ、平たく言えば吸血鬼ってことだよ」
 ちょっと意外だった。
「ずいぶんとまともなんですね。いままでのは、例の無いような奇天烈なものばっかりだったのに」
「最初の成功例らしいからな。奇抜な発想をするような時期でもなかったんだろうさ。同時期のものに狼男やミイラ人間もいそうな気がするぜ」
「一番ありそうなのは、フランケンシュタインの怪物でしょうか」
「社名からしてそれっぽいな」
 くくっ、と笑ってから、先輩は喫茶店のほうを睨みつけた。
「お前の妹だが……見たところ、背格好はターゲットと一致してるな。どっから来たのかも怪しいし……」
「そう言われても仕方ないですけど、疑うにしては証拠が少なすぎませんか。だいたい、警護したり匿ったりしてる人がいないでしょう」
 先輩は初めから分かっていたとばかりに二度首肯した。
「お前がそうだって可能性もあるが、あんまり現実的じゃねえしな。どっかでなにかが変わって、べつのなにかが動きだすってときは、だいたい繋がってるもんだってのが持論だったんだが……今回はハズレかな。ま、地道に捜すとするぜ」
 じゃあな、と背中を向けようとする先輩を、僕はちょっと待ってくださいと引き止めた。仕事の話から連想して思い出したことがある。
「なんだ?」
「こちらもせっかくなので、ちょっと相談に乗ってもらおうかと」
「金や仕事の相談じゃなさそうだな」
「ええ、妹のことです。ちょっと、先輩以外には話せそうな人がいないので」
「それじゃあ断れねえな。話してみろ」
 僕は雪乃ちゃんの持ち物の中に、拳銃があったことを話した。
 先輩は開いた口をふさがないでいた。たぶん、ふさげなかったのだろう。
「念のために確認するが、おもちゃじゃなかったんだよな」
「おもちゃの銃ごときで相談するほど僕はマヌケじゃありませんよ。武器講習だって受けさせられたんですから」
 先輩はとんとんと自分のこめかみを叩いた。
「……お前の妹が、ターゲットなんじゃないかって気がしてきた。いくらなんでも怪しすぎる」
「怪しいことは認めますけど……」
「分かってる。仮にあの子がターゲットだとしたら、引っかかるところが多い。パイソンはマグナム銃だろう。女の子が自衛のために持つにゃゴツすぎる。そもそも匿ってくれるやつがいるなら、自衛する必要がないようにするのが自然だ。のこのこ出歩くものかよ」
「……そうですよね」
「が、それはそれ、これはこれだ。とっとと追い出したほうがいい。きな臭いことに巻き込まれてるのは間違いないぞ」
「やっぱりそう言いますか」
「女ってのは信用ならねえ生き物だからな。拳銃を隠し持ってるような怪しい女の子を信じるのは勝手だが、まあ、まずは銃を奪っておいたほうがいいだろうさ」
 考えておきます、と言いかけたとき、先輩が顎を上げて僕の背後を示した。振り向くと、愕然と表情を凍らせた詩織さんと、辛そうに目をつむる雪乃ちゃんが立っていた。
「ふたりとも……どうして?」
 震える声で詩織さんが答える。
「戻ってくるの遅いから、出てきたんだけど……だけど! いまの話……本当なの?」
「どの、話?」
 僕はとぼけようとした。すぐに黒沢先輩が口を挟んだ。
「本当さ。そこのお嬢ちゃんは、モノホンの拳銃を隠し持って信幸の家に入り込んでいる」
「先輩……!」
 僕が睨みつけると、悪びれることなく肩をすくめる。
「聞かせたほうがいいと思ったんでな」
 ふたりが来ていることに気づかなかった僕も迂闊だが、どうやら先輩は、ふたりが来ていることを知っていながら話をするのをやめなかったらしい。
 詩織さんは、やはり信じがたいらしく、もう一度尋ねてくる。
「本当に……本当なの?」
「信幸が話したことだ。こいつと付き合いがあるなら、それがどういうことか分かるだろう?」
 先輩が腕を組み、詩織さんと雪乃ちゃんを交互に見据える。詩織さんはうつむいて、握った拳を振るわせる。雪乃ちゃんは僕を見上げて、小さく口を動かした。
「知って……いたんですね」
「……偶然なんだ。君の荷物を見るつもりは、なかったんだ」
 呟いたとき、詩織さんが勢いよく顔を上げて詰め寄ってきた。僕の両肩を掴んで、激しく揺さぶりかけてくる。
「信幸くん! 私……やっぱり無理だよ! こんなんじゃ無理でしょう! 信じろって言われたって無理だよ……。分かってるの? 下手したら死んじゃうんだよ! もう会えなくなっちゃうんだよ!?」
 僕は詩織さんの手に、自分の手を添える。
「詩織さん、落ち着いて。雪乃ちゃんにも、なにか事情があるはずなんだ」
「そんなの関係ないでしょ! どんな事情があったって、信幸くんが巻き込まれていいはずがないじゃない! そこまでしてこんな子を助けなくちゃいけないの!?」
「詩織さん……」
 言葉が見つからない。喉から洩れるのは震える呼吸。駅前の雑踏が、やたらと耳に響いてくる。共鳴するように心ばかりがざわめいて、僕は雪乃ちゃんの動きを見逃していた。
 この空気に耐えきれなくなったのか、ごめんなさい、の一言と共に駆けだしていた。逃げだそうとしていた。僕は咄嗟に動くことができなかった。代わって動いたのは黒沢先輩だった。雪乃ちゃんの腕を掴み捕らえて、腹立たしそうに表情を強張らせた。
「逃げるんじゃねえよ、お嬢ちゃん。お前さんのせいで、こいつの――信幸の生活は乱されてんだ。見ろよ、彼女とも喧嘩しちまってる。こんな状況にしておいて、てめえだけで逃げるってのはねえだろう」
 雪乃ちゃんが泣きそうな声を上げる。
「ごめんなさい、でも……私、もう――」
「あのな、お嬢ちゃん。信幸は相当なお人好しだ。なんでも受け入れるだろうさ。だからってこいつの優しさに甘えて、てめえの事情に巻き込むってのは感心しねえんだよ!」
「先輩、やめてください!」
 詩織さんを一旦引き離し、僕は雪乃ちゃんと先輩の間に入った。
「信幸、お前が止めるのか?」
 先輩は僕を睨みつけたかと思うと、雪乃ちゃんを掴んでいた手を離し、両手で僕の襟首を掴み上げる。その手を力任せに外してから、僕は先輩の目を見ながら強く頷いた。
「僕だから止めるんです。先輩こそ、らしくないですよ。どうしたんですか。本当に、らしくないですよ……」
 くっ、と呻くと先輩は眉をひそめて視線を落とした。
「……そうだな、すまねえ。だが、原因がこの場から逃げ出すなんてのは見逃せねえよ。気に入ってるやつが女に振り回されてんのも、見ちゃいられねえ」
「お気持ちは……詩織さんや先輩の気持ちは嬉しいですけど……やめてくださいよ。雪乃ちゃんが、困ってるじゃないですか」
 詩織さんと先輩の視線が雪乃ちゃんへと向く。逃げることも、申し開きすることもできず、うつむいたまま立ちつくしている。僕はポケットから家の鍵を取り出した。雪乃ちゃんの手を取り、それを握らせる。
 怯えと悔恨に染まった雪乃ちゃんの瞳に、疑問の色が混じる。いまできる精一杯の笑顔を浮かべて、僕は瞳に答えた。
「家で待ってて。帰り道は分かるよね?」
「信幸さん……でも」
「違うよ。お兄ちゃん、でしょ」
「お兄、ちゃん……」
「雪乃ちゃん、話したいことは沢山あるけど、それはあとにするね。いまはひとつだけ、聞いて」
 小さく頷く。
「僕は君が来てくれて嬉しいんだ。だから一緒にいるんだよ。これからもずっと、一緒にいたいって思ってるからね」
 優しく頭を撫でてあげる。雪乃ちゃんの瞳がにわかに潤み、それを隠すように顔を伏せる。
「いても……いいんですか? 私なんかが……」
「当たり前だよ。兄妹が同じ場所にいるのは自然なことでしょ」
「……分かりました、お兄ちゃん。先に、帰ってます……」
「うん。僕もすぐ帰るからね」
 雪乃ちゃんは背を向け、ゆっくりと駅前の雑踏の中に溶けていく。詩織さんと先輩は追おうとはしなかった。三人で雪乃ちゃんの後ろ姿を見送り、それが見えなくなってから僕はふたりのほうに向き直った。
「もしも雪乃ちゃんが、僕に危害を加えようとか、なにかを盗もうとか考えていたなら……僕が帰ってくる前にいなくなっちゃうと思うんです。そうですよね、先輩?」
 先輩はため息を吐くのと同時に頷いた。
「そうだな。ここまでの状況になれば……普通はそうなるだろうな。少なくとも、俺ならチャンスと見て逃げを打つ」
「それなら……僕が帰るまで家にいてくれたなら、少なくとも雪乃ちゃん自身に悪意はないってことでいいよね? 詩織さん」
 不満そうに、しかし首肯はしてくれる。
「でも……信幸くんがなにかに巻き込まれたら? あの子に悪気はなくても、そうなっちゃったら?」
「そのときはそのときだし、帰ったら雪乃ちゃんに話を聞いてみるつもりだから、できる限り手を打つことにするよ」
 数秒の沈黙のあと、先輩は肩をすくめて詩織さんのほうを見遣る。呆れたように無言で笑いかけたが、詩織さんは先輩とは目を合わせず、表情を強張らせたままだった。
「信幸くん、私も……一緒に家まで行くからね。あの子がどうするのか、ちゃんと確認したいから」
「うん、分かった。そうしてくれたほうが、結果がどうあれ納得できると思う。先輩はどうします?」
「俺は遠慮する」
 先輩はすぐ答えた。
「これ以上一緒にいたら、また醜態を晒しかねないんでな。用事もあることだし、俺はもう行くとする。熱くなっちまって、悪かった」
「いえ、ありがとうございます。僕なんかを気にかけてくれてたみたいで」
「……俺、そんなこと言ったか?」
「言いましたよ。ハッキリと」
 うぐっ、と先輩は顔を曇らせる。
「そう、だったな。だが、ありゃ言葉が足りなかっただけだ。俺が気に入ってんのは、お前の腕だよ。べつに人間性のことじゃない」
「……そう、ですか」
 少し残念に思う。こちらのことなど気にせず、先輩はすぐ背を向けて歩き出す。背中越しに軽く右手を上げて別れの挨拶に代えていた。僕と詩織さんは声でそれに応えた。
 先輩の姿が見えなくなって、詩織さんが小さく苦笑する。
「あの先輩さん、素直じゃないのね」
「そうかもしれないね。あんなに怒ったところは、初めて見たけど」
「先輩さんがあの子に怒鳴ってなかったら、私がしてたと思う」
「……うん、分かるつもりだよ」
 僕は目をつむって頷いた。
「私だって信幸くんに言われて、信じてあげようって思ったんだよ。でも……限度はあるじゃない」
「そうだね……。きっと、それが普通だよ」
「いなくなっててくれたら、一番いいって思ってる」
「うん、きっと、それが一番平穏で、問題が起こらないと思う」
「私は……信幸くんが大切だから……」
 それは苛立ちと苦しさの混じり合った声だった。
「でも……雪乃ちゃんがいなくなってたら、たぶん僕は泣くと思う」
 空を仰ぐと、夕立を予感させる雲が広がってきていた。
 雨に降られないうちにと、僕たちは歩き出す。急な突風に後押しされて歩幅が広がる。ゴロゴロと雲が低く唸り、気持ちが余計に焦っていく。
「ねえ、詩織さん」
 はやる気持ちを抑えつつ、歩きながら声をかける。
「なに?」
「もしも雪乃ちゃんがまだ家にいてくれたなら、詩織さんはどうするつもりなの?」
「どうするって……」
「して欲しくはないけど……追い出すとか、問いつめるとか、するのかな……って」
「……まだ、考えてない」
 それからしばらく、僕たちは口を開かなかった。


 結局、降り出すまでに帰ることはできず、僕たちは歩道橋の下で雨宿りしていた。すぐ止むと思っていた夕立は、予想よりずっとしつこく、三十分を過ぎても降り止んでいない。
 稲光が瞬き、雷鳴がとどろく。水たまりに波紋が絶え間なく描かれる。暑苦しい空気が洗い流されて、雨を取り込んだ風が汗をもさらっていく。水の香りが心地よかった。
 雨に降られるのは嫌だったくせに、いまは好意的に受け入れてしまっている。濡れたくない気持ちはあったけれど、雨が清涼を運んできてくれていることも分かっていた。それが優しさなどだと理解していた。
 だけど、夏の暑い空気が大好きで、どんなに熱く太陽に照らされても構わないと思っているやつがいることも、知って欲しかった。ただの物好きなのではなく、ちゃんと理由があることを話しておきたかった。いい機会だと思える雨宿りの時間だった。
 雨のリズムを遮って、僕は言葉を紡ぎ出す。
「……みんなはたぶん僕こと、人を疑うことも知らなくて、簡単な嘘も見破れないようなバカなやつだと思っているんだろうね」
 すぐ隣にいた詩織さんが、首だけを動かしてこちらを向く。僕はただ正面を見据えていた。彼女の瞳にどんな感情が宿ったのかは見えていなかった。気になどしなかった。
「みんなにそう思われるのは仕方ないよね。そういう風に行動してるわけだし。……でもね、僕はそこまでバカなんかじゃないよ。大抵のことは疑うし、ほとんどの嘘は見破ってる。ただ僕は、それでも信じたいだけなんだ。裏切られるたびに泣きたくなるけど、それも、覚悟の上なんだよ……」
 顎を引いて視線を落とす。アスファルトに水たまりができていた。歩道橋の陰にあって、ほとんど雨粒は落ちてきていない。水面はほとんど揺れることなく、穏やかに僕と詩織さんの間の空間を映し出していた。
「母さんが僕を連れて家を出たのは、僕が小学生に上がるちょっと前だったと思う。新しい家で、母さんは父さんの文句ばっかり言ってたよ。家庭を顧みないやつだった、とか、流産になったのもあいつのせいだ、とか……」
 そんな幼かった日々が、水たまりに映った気がした。
「確かに父さんは、悪く言われても仕方のない人だったのかもしれないよ。滅多に家に帰ってこなかったし、遊んでもらった記憶もほとんどない。……でも、僕は好きだったんだ。もう二度と会えないって聞かされて寂しかったんだ。また会えるって……信じたかったんだ」
 でも母さんは、父さんのなにひとつさえ信じなくなってた。そんな母さんをずっと見てたせいかな。気づいたら僕は、両親ふたりの関係が壊れてしまったのは、母さんが父さんを信じなかったからじゃないかって思うようになってたんだ。
 ここだけは、本当にバカだって言われてもいいね。でも、僕は寂しかったんだ。あの家に、たったふたりだけで……。なのに聞かされるのは父さんの悪口で……。僕は母さんのことは好きだったし、尊敬もしてたけど、それだけは嫌だったんだ。疑心にまみれて、人を信じられなくなったら、それがどんなに愛した人でもいなくなってしまうんだって証明されてた気がするよ。
「……きっと、ただの感傷だったんだろうけどさ。それでも僕は、いまでも思うんだ。母さんがもっと父さんを信じてたら――どんなに疑わしくても、何度裏切られても、信じ続けることができてたなら――その代わりに色んなものを無くしてしまっても、本当に無くしちゃいけないものだけは残っていたんじゃないか……って」
 自嘲気味に、僕は笑った。
「そのせいかな……。嘘だって分かっても、疑いどころしかなくても、つい信じたくなるんだ。でないと、なにか大切なものが無くなっちゃう気がして、怖いんだ」
「だから、雪乃ちゃんのことも……?」
 僕は首を振って静かに否定する。
「雪乃ちゃんのことだけは、ちょっと違うんだ。雪乃ちゃんがうちに来てから、三日間くらいはずっと悩んだよ。信じるのは簡単だけど……生活のこと考えれば、そう簡単に家に置いてあげるわけにもいかないし。それに本当に、疑いどころしか無かったから」
 でもね――、と僕は顔を上げた。いつしか雨は小降りになっていて、遠くの雲に切れ目ができはじめていた。
「ふと思っちゃったんだ。母さんが父さんを信じなかった分、僕が誰かを信じ続けたから……家族がひとり、帰ってきたんじゃないかって。母さんのせいで無くしちゃったものを、取り戻せたんじゃないかって……。そんなの、有り得ない話なのに……一度そう思ったら、止まらなくなっちゃって。気がついたらさ……無くすのが怖いから信じるんじゃなくて、信じるのが当然なんだって思うようになってたんだ」
 寂しかったのも、あるんだろうね。
 ずっと、仲の良い家族を夢見てたから。
 ひとりでいるのは、もう嫌だったから。
 家族が、欲しかったから……。
 天を仰ぐ僕とは反対に、詩織さんはうつむいて水たまりを見つめていた。
「信幸くんは、私とは全然違うね」
「……どういう意味?」
「私、信幸くんと同じでずっと片親いなかったから、気持ち、分かるつもりだったんだけど……なんだか、全然考えてること違うんだなぁ、って。私の場合は、いなくなった家族のこと思い出したら……同時に恨みも思い出しちゃうから気分悪いんだ……」
「……家族の誰かを、恨んでるの?」
 首を横に振る。
「私のお父さん、殺されたの」
 僕は息が詰まって、詩織さんの顔を凝視した。儚げに笑って見返してくる。
「もともと病気で、もう末期だったんだけどね。ヴィクター社の人が、お父さんに言ったらしいの。実験台になってくれれば、生き残る可能性があるって」
「ヴィクター社が……」
「知ってるよね? あの会社、生物兵器作ってるって噂もあるんだよ。生き物に関しては世界一でしょうね。でも、私のお父さんはその実験で死んだの。どっちにしろ死んじゃってたんだろうけど……それでも、何ヶ月かあった猶予を、一緒に過ごしたかったじゃない」
「だからヴィクター社を恨んで、毛嫌いしてるの……?」
「うん……。生きようとしたお父さんの気持ちも分かってるし、ヴィクター社だって、実験台を探してたとはいえ無料で手術してくれたのも知ってるんだけどね。なんていうか、いま思うと、刷り込まれちゃった感があるかな」
「……恨みを、刷り込まれた?」
「そんなつもりじゃなかったんだとは思うんだけどね。あの人もたぶん、ヴィクター社の人だったと思う。お父さんが死んでから、実験に失敗したことのお詫びにってお金持ってきたのが最初だったんだけど……そのあとも何度も来てくれて、よく遊んでくれて、色んなこと教えてくれた人がいるの。名前も知らなかったんだけど」
 足長おじさんみたいに思ってた、と詩織さんは口の端を緩ませる。
「お父さんで実験したのは榊 隼人という男だ、って教えてくれてさ。自分もその人の研究のせいで家族を失ったって……。辛そうにするのよね。私たちのこと、自分の家族に重ねてたのかも」
「それで恨むようになっちゃった?」
「うん。ヴィクター社っていうか、その榊 隼人って人のことをね。あんな泣きそうな顔を何度も見てたら、子供心に恨みを刷り込まれちゃっても不思議じゃないでしょ。顔も知らないのにね」
「そうだね……」
 僕は頷いて、もう一度空を仰ごうとした。が、「あ、あれ?」と詩織さんが驚いたような声を出すので、そちらに視線を戻す。
「なんで私の話なんかになってるんだろ。信幸くんと雪乃ちゃんの話をしてたはずなのに……」
「いいんじゃない。僕は聞けて良かったって思ってるよ」
 特に、榊 隼人という名前を。
「そりゃ、いつかは聞いてもらおうと思ってたけど……。いまは、その、もっと大事な話があったじゃない。信幸くんが、家族を欲しがってたって……」
 バツが悪そうにしている詩織さんの様子、それに、雨の止んだ空模様。ふたつを目にして、思わず微笑みをこぼしてしまう。
「うん、それが……僕が雪乃ちゃんを信じてる理由」
 詩織さんが胸元で手を合わせて、頭を下げてくる。
「ごめん……。私、キミの気持ちも知らないで、雪乃ちゃんを追い出せとか、ひどいことたくさん言っちゃった」
「分かってくれて、ありがとう。でも、詩織さんや先輩が言ってくれたことも分かるんだよ。なにかに巻き込まれたら……やっぱり、困るし」
「そのときは、どうするの?」
「考えは変わらないよ。まず雪乃ちゃんと話をして、それから考えるつもり。家にいてくれれば、だけど」
 微かな不安をつい吐露してしまう。詩織さんが人差し指を僕の口に当てて、小さく首を振る。
「絶対、いるよ」
「う、うん。きっと、きっとそうだよね」
 一歩後ずさって頷く。唇に当たった彼女の指の感触に、胸が高鳴ってしまった。それを悟られないように、空を指さして「雨、止んだみたいだよ」と告げる。
「あれ、ホントだ。いつの間に止んだんだろ」
 先ほどの雲の切れ目は大きく広がり、空の大部分は青色が占有していた。太陽も顔を出し、ありあまる日差しで大きく虹を映し出している。
 詩織さんが「じゃ、行こ」と、ごく自然な動作で僕の手を取り、雨上がりの歩道へと連れ出した。さわやかな風が頬を撫でる。詩織さんと並んで歩き始めるも、手を握られたことに驚きを隠せなかった。
 目を丸くしていると、詩織さんは僕の心中を知ってか知らずか、穏やかな微笑みを向けてくる。本人もちょっと照れているのか、どこか動きがぎこちない。
「ねえ、信幸くん、私も雪乃ちゃんと話してもいいかな?」
「うん、それは僕からもお願いするよ。是非とも、仲直りして欲しい」
「ありがと。ついでに、今日は泊まっていっちゃおうかな」
「え? あ、うん。僕としては、べつに構わない、けど……。三人だと布団が足りなくなるよ」
「なら……あとで家から持ってくるよ。……っていうかさ、っていうかさ……」
 同じ言葉を繰り返して、徐々に頬を赤らめていく。視線もこちらから逸れていく。
「?」
「ず、ずっといてもいい?」
「いや、だから泊まるならべつに構わないって……」
 ちょっと緊張するけど、という言葉は飲み込んでおく。
 詩織さんはすぐ僕の言葉を否定する。
「そ、そうじゃなくて。明日とか、明後日とか、明明後日とか。そういう意味での、ずっと……」
「一週間くらい?」
「うぅん、もっと。具体的に言うと……毎朝、信幸くんの作るお味噌汁が飲みたい……って、くらいかな」
 なにが言いたいのかはともかく、それは立場が逆だと思う。むしろ僕が詩織さんの味噌汁を飲みたい。
「詩織さん、それって、つまり」
「つ、つまり、その……家族、なの」
 詩織さんは耳まで真っ赤にしてうつむいてしまう。
「信幸くんが、家族が欲しいって言うなら、わ、私も……雪乃ちゃんみたいに、信幸くんと、家族っぽいことしてもいいかな……って。け、結婚前提で」
 僕は立ち止まった。詩織さんも足を止めた。手を繋いだまま、僕たちは向かい合う。降り注ぐ日光の熱さより、体内から湧き上がるなにかのほうがよっぽど熱かった。
「信幸くんが、もっと早く話してくれてたら、もうちょっと早く告白してたと思う。絶対……」
 素直に嬉しかった。そうだったらいいと思っていた。そうじゃないかと思うときもあった。そんなわけがないといつも否定していた。
「僕、君に何回も嫌いだって言われたよ?」
「そういう嘘は、見破れてなかったの?」
「……うん」
「バカ……」
 詩織さんは繋いだ手を強く握った。僕はその手を、握り返せなかった。言わなければならないこと、確認しなければならないことがある。後回しにしたかったけれど、ここまで来たらそうはいかない。
「僕が……榊 隼人の息子であっても、いいの?」
 瞬間、詩織さんの手から急激に力が抜けた。
「え?」
「榊 隼人は僕の父さんなんだ。君のお父さんを実験台に使って、死なせてしまった研究者は、僕と雪乃ちゃんの父さんなんだ」
「……」
「君が恨んでる人の子供と、家族になって、いいの?」
「いいよ」
 思ったよりもずっとあっさり、詩織さんは頷いた。逆に僕が驚いて、うろたえてしまう。
「え? あれ?」
 こちらの様子に、くすくすと笑う。
「だって、関係ないじゃない。ちょっとビックリしたけど、私、信幸くんや雪乃ちゃんに恨みなんてないし。私が好きになったのは、榊信幸くんじゃなくて、神楽信幸くんなんだから」
 遅れて、僕も笑ってしまった。こんなことで深刻ぶってしまった自分が恥ずかしかった。確かにこんなことは、僕たちに関係ない。
「ありがとう、詩織さん。君を好きになって、良かった」
 繋いだ手を強く握る。詩織さんはすぐに握り返してくる。急に視界が滲んだ。ちょっとだけ涙腺が緩くなってしまったらしい。そのことに気づいて、詩織さんはそっと微笑む。
「早く帰って、雪乃ちゃんに報告しましょ」
「ちょっと照れるけど……お姉さんが増えるって聞いたら凄く喜ぶよ、きっと」
 希望のある未来に思いを馳せ、僕たちはこらえきれず、早歩きで家路を急いだ。


 僕の「ただいま」に対する返答がなかったとき、その場で崩れ落ちて泣き出してしまいそうになったわけだが、よく見ると雪乃ちゃんの靴は玄関に揃えて置いてあった。どこかへ行ってしまったわけがない。
 雪乃ちゃんは居間のちゃぶ台で、両腕を枕にうつぶせになって居眠りしていただけだった。待ちくたびれてしまったのだろう。
 肩にタオルケットをかぶせてあげる。詩織さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、ふたりでのんびりと雪乃ちゃんの寝顔を眺めていた。
 そうしていると、安堵と実感が胸の奥からだんだんと溢れてくる。畳を伝ってふたりの体温が届くような気がした。僕の想いが届いた気がした。
 詩織さんも両手で頬杖をついたまま、穏やかに雪乃ちゃんを見つめている。目を細めて呟く。
「こうしてると、拳銃を持ってるなんて嘘みたいなのにね」
「君や雪乃ちゃんがここにいることさえ、僕には夢みたいなんだ。それに比べたら、拳銃のひとつくらい不思議じゃない気がしてきたよ」
「全然大したことないみたいに言うのがさすがだよね」
 僕たちの声に反応してか、雪乃ちゃんが小さく呻いた。
「ん、う……?」
 ゆっくりと瞼が開かれて、とろんとした表情のまま制止する。
「……おはよう、雪乃ちゃん」
「おにい、ちゃん……?」
 寝惚けた声で呟いてから、一気に覚醒してバッと顔を上げる。
「お兄ちゃんっ。……それに詩織、さん」
 凄い勢いで正座して背筋をぴんと伸ばす。緊張の面持ちで僕と詩織さんを交互に見遣るが、柔和な雰囲気が意外だったのか、ややして首を傾げる。
「あの……?」
「ただいま。ごめんね、夕立のせいで遅くなっちゃった」
「あ、はい。おかえりなさい。……でも、あの……?」
 ちらりと詩織さんのほうを見て、不安や疑問が混じり合った複雑な顔をする。僕は詩織さんに目で合図した。それに応じて、こくりと頷き、詩織さんは頬を綻ばす。
「さっきはごめんね、雪乃ちゃん。私、ふたりの気持ちも知らないで、ひどいこと言っちゃって……」
 雪乃ちゃんは顎を引いて、少しだけ目を伏せた。
「いえ……悪いのは私です。詩織さんや先輩さんが普通なんです。だから私なんか、本当はいないほうが……」
「こらこら。そんなこと言ったらお兄ちゃんが泣くよ?」
「……」
「信幸くんは妹ができて、本当に嬉しがってるんだから、簡単にいなくなるなんて言っちゃダメだよ。自分で言ってて耳が痛いけど、私ももう、あんなことは言わないから……」
「詩織さん……」
「ね? 仲直りしよっ」
 雪乃ちゃんは少しの逡巡のあと、困ったように僕のほうを見遣った。頷いてあげると、安心してか肩の力が抜け落ちる。
「……はい。ありがとうございます」
「私のほうこそ、ごめんね」
 互いに頭を下げ合うのを見て、僕はひとり微笑んだ。
 それから雪乃ちゃんは思い出したように跳ねて立ち上がり、居間の端に置いてあった彼女のリュックを持ってきた。僕のほうにしずしずと差し出してくる。
「どうか、お納めください……」
「いや、貢ぎ物じゃないんだから……」
 とか言いつつ受け取り、中身を検める。タオルに包まれた重いものを見つけて、それだけを取り出してリュックは返す。脇に置いて、雪乃ちゃんはまた正座する。
 僕は立ち上がり、開け放していた縁側の窓を閉め、続いてカーテンも閉めて外から見られるのを防ぐ。部屋の灯りをつけてから、僕はまた座った。
 僕はタオルの中から拳銃を取りだし、その円筒形のシリンダーから六発の弾丸を手のひらに落とす。拳銃をちゃぶ台に置いて、その側に弾丸を立てて並べた。
「雪乃ちゃん、弾はこれだけだよね?」
「は、はい」
「ん、分かった。危ないから、これは僕が預かることにするけど……いい?」
「はい。そうしてもらおうと、思っていました」
「ところで」
 物珍しそうに僕の動きを眺めていた詩織さんが、不思議そうに口を開く。
「信幸くん、なんでそんな風に扱えるの? すっごく慣れてるように見えるんだけど……」
「うっ……」
 つい癖で、体が覚えているとおりに動いてしまった。先輩との仕事のことを話してもいいけど……えーっと、色々と怒られそうなので秘密にしておこう。
「んー、ほら、映画とかでよく見るし……」
「見てるだけでできるわけないじゃない。凄く怪しいんだけど?」
 あはははっ、と笑って誤魔化す。
「それより雪乃ちゃん、どうして拳銃なんて持ってるのか、話してもらえるかな?」
 詩織さんは釈然としないままだったが、この話題を出すと押し黙った。雪乃ちゃんは言いづらそうに、また視線を落とす。
「……お父さんが、持たせてくれたんです」
「父さんが? いつ?」
「死んじゃう、少し前に……」
「なんのために?」
「逃げるために、と言っていました」
「なにから? どうして?」
「…………」
 僕と詩織さんは黙ったまま雪乃ちゃんの次の言葉を待った。しかし、どうしても話せないのか、雪乃ちゃんはやがて首を振った。
「ごめんなさい……」
「話せない?」
 小さく頷く。瞳が潤む。
「あのっ、でも……私、私は……お父さんに育ててもらったのは本当で……お兄ちゃんがいるって、聞かされてて……それで――っ」
 完全に顔を落としてしまって、どんどん泣きそうな声になっていく。
「私、もう他に家族なんていないから……けど、こんな大事なことも話せないような人間なんだから……追い出されても……っ」
「雪乃ちゃん、僕は前に言ったよ」
 静かに立ち上がり、雪乃ちゃんの背中に回った。肩に手を乗せる。
「女の子は秘密のひとつやふたつ、あったっていいんだって」
「お兄、ちゃん……」
「それに君がいなくなっちゃったら、詩織さんが言ってたとおり、僕は泣いちゃうよ。雪乃ちゃんに、いて欲しいんだ」
「いても、いいんですか?」
「なにも問題はないよ」
 立ち上がって僕の胸に飛び込んできた雪乃ちゃんを抱きとめて、詩織さんのほうへ目を向ける。
「……」
 微笑んではいたが、微妙に不満そうだった。
「ねえ信幸くん、私、かなり置いてけぼりなんだけど……」
「あ、ご、ごめん」
「それと……なんか口説き文句っぽいのが聞こえた気がするんだけど……気のせい? いくら血が繋がってないからって……」
「えっ……? いや、いやいやいやっ、そういうつもりじゃないから!」
 慌てて雪乃ちゃんから離れようとするが、雪乃ちゃんは離さない。
「わ、わっ、お兄ちゃん、ちょっと待ってください。あ、足がしびれて……」
「えっ、そ、そんな」
 仕方なく抱きとめたままの姿勢を維持するが、その間も詩織さんの視線がビシビシ痛い。
「ひどいなぁ……。私、信幸くんに口説いてもらったことも、抱きしめてもらったこともないのになぁ」
「あ、あとで……! あとでしてあげるから! そんな風に睨まないでよぉっ」
「う、動かないでくださいってばぁ……っ」
 三者三様に文句を言い連ねながら、ドタバタと騒ぐ夕方の頃。
 気がついたら二対一になっていて、夕飯を作れと台所に追いやられたのは、なぜか僕だった。なんにも悪いことしてないはずなのに、なんでだろう。
 でも、こんな騒がしさこそが僕が欲しがっていたものなのだと気づいたら、急に愛おしくなり、自然と微笑みがこぼれるのだ。


 拳銃は有事に備えて弾込めしておき、撃鉄にタオルを噛ませてから包んで、僕の部屋の押し入れの中に押し込んでおいた。
 詩織さんも同居するという話をすると、雪乃ちゃんはまず驚き、それから表情を嬉々としたものにスライドさせていった。やがて、おめでとうございます、と万歳までした。すでに詩織さんの呼称は「お姉ちゃん」となっており、呼ばれるたびにはにかむ様子が見ていて楽しかった。
 お風呂から上がった雪乃ちゃんと入れ替わりに詩織さんがお風呂場へ。ぼうっとテレビを見ている僕の右隣で雪乃ちゃんは、火照って赤らんだ体を甘えるようにすり寄せた。
 石鹸の匂いが鼻孔をくすぐり、熱い体温が伝う。
「こんなに一遍にたくさん良いことがあって、もったいないくらい幸せです……」
 僕は手を伸ばし、そっと頭を撫でてあげる。湿った髪が指に絡み、赤らんだ雪乃ちゃんの顔がさらに赤くなる。心ここにあらずといった様子で目を細める。
「お兄ちゃん……。お兄ちゃんの膝に、頭を乗せてもいいですか?」
 いいよ、と答えると、ころりと横になって膝に頭を乗せた。視線を下げるとすぐそこに雪乃ちゃんの顔があって、照れくさくて僕はテレビの料理番組のほうに目を向ける。
 僕自身、いまの状態に浮かれていたから、雪乃ちゃんの瞳が徐々に虚ろなものになっていくのを見逃していた。
「熱いですね、お兄ちゃん……」
「うん、夏だからね。暑くなくちゃ」
「喉、乾いちゃいました……」
「麦茶でも飲む?」
「いいえ、いりません……」
 雪乃ちゃんが僕の手を取った。かと思った瞬間、鋭い痛みが走った。雪乃ちゃんが、ごちそうを食べるような顔で、僕の腕に噛みついていた。
「ゆ、雪乃ちゃん!?」
 驚いて声を上げると、雪乃ちゃんはハッとして腕を放す。血までは出ていなかったが、腕には確かな歯形ついていた。雪乃ちゃんは我に返って勢いよく身を退き、畳に手をついて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! また……っ」
「雪乃ちゃん……」
 昨夜の一件を思い出す。同じことがまた起きたのだと考え至るのに時間など要らなかった。
「もし良かったら、話してくれないかな。何度も熱が出たりするなら、雪乃ちゃんの体のほうがまいっちゃうでしょ? ごめんね、気が回らなくて。昨日のうちに聞いておけば良かったのに……」
「ご、ごめんなさい、お兄ちゃん……」
「いいんだよ。それより、いまのうちだよ? 秘密にしたいわけじゃないけど、詩織さんに知られたら、たぶん戸惑うと思うし」
 少しの逡巡のあと、雪乃ちゃんは顔を上げて話し始めた。
「よくわからないことを、たくさん聞かされましたけど……お父さんは、ただの病気だって言ってました」
「どんな病気なの?」
「はい……その、血が……。ときどき、発作みたいに人の血が欲しく、なるんです……」
「血……?」
 それを聞いた瞬間、昼間に先輩から伝えられた情報を思い出す。破格のターゲット。最初の成功例。吸血鬼……。
「我慢しようとすれば、我慢できるのですけど……それが過ぎると体が熱くなって、それから夢遊病みたくなってしまうみたいで……。その、昨日はお兄ちゃんだって分かったからなんとか我慢できたのに……」
「……その、発作みたいなものって、どのくらいの周期で来るの?」
「前は……一週間に一度くらいだったのに、このところは一日に一回くらいになってしまって……。お父さんが死んでから、誰の血もいただいてないから……」
「じゃあ、血を飲めばしばらくは平気なんだね?」
「……たぶん」
 僕の中で色々な糸が一本に繋がった。
 最初の成功例を逃がしたというヴィクター社内で手引きした者とは、きっと父さんのことだ。その時点で死んだのかは分からないが、追っ手から逃がすために銃を持たせたのだろう。護衛や隠匿する者がいるという誤った推測から、雪乃ちゃんはいままで無事でいられた。
 けれど、これからはそうはいかないかもしれない。
 先輩を初めとした人たちが、大金目当てに捜索して回っている。下手を打たなければバレはしないだろう。幸い、ヴィクター社の情報は僕にも入る。
 きっと雪乃ちゃんは、このことを知られたくなかったのだ。彼女が実験動物だったということは、つまり、父さんに育てられたのは事実でも、父さんの再婚相手の連れ子というのは嘘であるはずなのだ。負い目を感じるのも、話せなくなるのも分かる。
 でも、だからといって僕の妹でなくなるわけでもない。
 いずれは引っ越すことも考えよう。いずれは彼女の写真が公開されるかもしれない。けれど、何年もすれば女の子の顔や体つきなんて変わっていく。整形するという手だってある。
 あとはどれだけ目立たせないようにするか。
 それなら、僕がするべきことは簡単だ。
 飲ませてあげればいい。僕の血をあげることで、雪乃ちゃんが発作を起こさなくなるというならそれが一番良い。目立たなくなるし、なにより苦しんでいるところは見たくない。
 そうした少しの思考時間ののち、僕は左腕を雪乃ちゃんの目の前に差し出した。
「……おにい、ちゃん?」
「あげるよ、僕の血を」
 雪乃ちゃんはぶるぶると首を振る。
「いけません、そんな……じゅるっ」
「……」
 いま、よだれをすするような音が聞こえたが、気のせいだろう。
「いいんだよ。だんだん発作の時間が短くなってるみたいだし、そういうところ詩織さんにも見られたくないでしょ?」
「それは……そうですけど」
「なら、話は簡単じゃない。それに、こうして雪乃ちゃんに血をあげられるなら……ちょっと意味は違うだろうけど、血が繋がったって見方もできちゃうでしょ?」
 その事実に気づいて、あっ……、と嬉しそうに息を洩らす。
「じゃあ……いいんですか?」
「うん。痛いのは、ちょっとヤだけどね」
 肩をすくめて戯けてみせると、なにか思いついたのか、ぴくん、と背筋を伸ばして目を光らせた。
「あ、あの……お兄ちゃん」
「うん?」
「その、前に聞いたんですけど、どうも……血じゃなくて、精でも代わりになるらしいんです」
「せ、精……?」
 言いしれぬ予感に襲われて、二、三歩分、身を退く。雪乃ちゃんは追いすがる。
「わ、私、この前までは意味がよく分からなかったのですけど、最近知りました。精って、つまり……男の人の、精子のことですよね?」
「だ、誰から聞いたのそんなこと……っ」
「べ、ベッドの下にあった本で……」
「はぅあっ」
 思いっきり僕のせいだった。
「それで……その、お兄ちゃんが痛いのが嫌なら……私は、そっちでもいいかなぁ……って――」
「いや、ダメでしょ。血でいこう。痛いの我慢するから」
「でも……」
「僕ら、兄妹なんだからね? その辺、自覚しよう。ねっ?」
「血は繋がってないならアリだって……」
「あの本の内容は全部忘れなさいって!」
「……むぅ」
 なぜか頬を膨らます雪乃ちゃんである。見ないふりして、僕はもう一度、左腕を彼女の眼前に持って行く。
「はい、召し上がれ」
「わかりました。いただきます」
 手を合わせてから、雪乃ちゃんは両手で僕の左腕を取り、大きく口を開けて、勢いよくかぷりと行った。二本の八重歯が突き刺さり、鋭い痛みが走る。唇を噛み締めて、腕を動かさないよう維持する。
「ん……」
 熱く湿った空間の中で、血が溢れ出すのが分かった。雪乃ちゃんの柔らかい舌が傷口を舐め回し、吸い取られ、喉の奥に集められていく。数回の嚥下ののち、雪乃ちゃんはうっとりと目を細めて唇を離した。
「お兄ちゃんって、甘くて、美味しい……」
「満足した、かな?」
 左腕には小さい傷口がふたつ。まさしく吸血鬼に血を吸われたあとのもの。残った雪乃ちゃんの唾液に血が滲み、まだ濃くなっていく。ちり紙で拭き取ろうとすると、慌ててまた腕を取られる。
「も、もったいないですよ」
 と、有無を言わさぬまま、雪乃ちゃんは舌を出して、その先でペロペロと血を拭き取るように舐め回していく。少し、くすぐったい。
 すっかり舐め取ると、頬を綻ばして目をつむる。
「えへへ……お兄ちゃんの味……」
 セリフや仕草が妙に艶めかしくて、この子も女の子なんだなぁ、と今更ながらに実感してしまう。かすかな動悸を否定しつつ席を立ち、ちり紙で傷口を押さえつつ救急箱を取りに行った。戻ってくると雪乃ちゃんが、私がやりますっ、と普段の様子で救急箱を奪った。
 消毒して絆創膏をはり、それから包帯を巻いてもらう。
「そんな大層な傷じゃないけど、見られたら怪しまれちゃうから。僕が夜食作ろうとして、包丁の扱いをミスったってことにしておこうね」
「あ、はい。わかりました。ふたりの、秘密ですね」
 それらしいことがあったような痕跡を台所に残して、居間に戻ると雪乃ちゃんが恥ずかしそうに提案してくる。
「あの……お兄ちゃん、もしなにか怪我したら、言ってくださいね」
「また手当してくれる?」
「はい、もちろんです。そ、それに……また、ペロペロします」
 微苦笑をして、何気なく引き戸のほうに視線を向ける。そこで凄いものを見つけてしまい、ビックリして息が止まる。詩織さんだった。僕が貸したワイシャツに、ショーツだけを身に着けた非常に官能的な姿だったが、いまはそんなことは気にしていられない。
 詩織さんは、戸口を半開きに手をかけたところで静止していて、冷ややかに鋭く、青白い炎のようなオーラで目を光らせていた。
 穏やかに、殺意めいたものの混じった声が響いてくる。
「信幸くん……ペロペロって、なぁに? 私がお風呂入ってる間に、兄妹でなぁにをしていたのかなぁ……?」
「しししし詩織さん! いつからそこに!?」
「質問に答えなさい。場合によっては……」
「あの、たぶん、勘違いしてると思うんだ。ペロペロってのは、僕がちょっと怪我をしちゃったから――」
「そ、そうです。それを私がペロペロって舐めて止血しただけで!」
 雪乃ちゃんの慌てて弁解する。僕は左腕の包帯を見せた。
「ほら、ね? たいした怪我じゃなかったけど、手当もしてもらったわけで……」
 ふっ、と詩織さんから恐怖のオーラが消える。
「あ、あれ……そうだったんだ」
「うん、そうなんだ」
「ごめん。早とちりしちゃったみたい」
「うんうん、早とちり早とちり。あはは」
「えへへへ――って、なによそれぇ!」
 安心したのも束の間、今度は涙目になる。両の手を握りしめて、上目遣いに僕を見据える。怒りからか、かすかに顔が赤らんだ。
「うぅ〜、そんなの……まるで恋人みたいじゃない……。私だってしたことないのに……。どうして雪乃ちゃんとばっかり……」
「そんなこと言われても……ねえ、雪乃ちゃ――」
 と、いるはずの雪乃ちゃんへ同意を求めようとしたが、そこには誰も無し。ちゃぶ台に置き手紙が一枚。
『お兄ちゃん、頑張って。おやすみなさい』
 逃げた。雪乃ちゃんが逃げた……。この兄を置いて……!
 微妙にショックを受けている隙に、詩織さんが詰め寄ってくる。もちろん涙目のまま。
「どうなの、信幸くん。いくら大事な妹さんでも、いきすぎな行動は、その……困る、じゃない」
「そう言われても……」
「信幸くん、もしかして……本当は、私のこと好きじゃないの?」
 怒りが急激にしぼみ、めそめそと泣き出してしまう。
「そ、そんなことないって!」
「でも、私、好きだってはっきり聞いてない……」
「ち、ちゃんと言ったよ」
「言ってない」
「言ったって」
「じゃあ、いま、言ってよ」
「す……好きだよ、詩織さん」
「うっ。感情が、こもってない……」
「こ、こめてるよ。ちょっと、照れただけで……」
「うう……。やっぱり、年下がいいんだ。禁断の恋とかのほうがいいんだ……?」
「ち、違うって。もう――!」
 このままでは埒があかないと見て、仕方なく行動を起こす。
「あ――」
 と言わせる間もなく、僕は詩織さんを抱き寄せて唇を奪った。詩織さんが目をぱちくりさせる。照れてしまって僕はすぐに離れてしまった。柔らかな唇の感触が残り、胸が高鳴り、体温が上がってしまう。
「ぼ、僕がこんなことするのは、君にだけだから。妹にじゃなくて、こ、恋人にしかしないんだから、ね?」
「わ、わ、わ……っ」
 へなへなと幸せそうに脱力して、ぺたりと床に尻餅をついてしまう詩織さん。かぁっ、と全身が紅潮していく。
「わかって、くれた?」
「う、うん……。ごめん……。私、また変なこと言っちゃって……。よりにもよって、雪乃ちゃんに、嫉妬しちゃうなんて……」
「いや、僕のほうこそごめん。確かに、僕と雪乃ちゃんは、ちょっと近すぎるよね……」
 と、そこでようやく詩織さんの格好に気が向く。
 ワイシャツの奥で揺れる胸元の谷間。すらりと伸びた脚線。湿った黒髪。赤らんだ頬。上目遣いの澄んだ瞳。
 唾を飲み込む音を抑えるのがやっとだった。視線を逃がして、話題を変える。
「そ、そういえば詩織さん。もう夜もいい時間だけど、お布団とか家から持ってこなくていいの? さっきも話したけど、うち、雪乃ちゃんが使ってるベッドの他には、もう一組しか布団がないんだけど」
 ちなみに僕がここ数日、寝室にしている部屋は一階にあり、すでに布団は敷いてある。お風呂に入ったらすぐに寝ようという心づもりだった。
「うん、知ってる」
「知ってるって……なに落ち着いてるの」
「だって、知ってて忘れたふりしてたんだもん」
「……えっ?」
 その意図が分からず、僕は聞き返す。詩織さんは、少しだけ緊張した声を出した。
「口実……かな。一緒に、寝るための」
 僕は深呼吸して、頭の中を整理する。たぶん、それを望んでいるのだろうと考えつつも、遠回しな言葉に変換して尋ねる。
「僕は詩織さんが好きで、詩織さんは魅力的だから……もしかしたら、襲ってしまうかもしれないよ?」
「……責任、取ってね」
「う、うん……」
 加速する鼓動と上昇を続ける体温に耐えかねて、引き戸を開けて廊下に出る。付き従う詩織さんに一言。
「お風呂、入ってくるから……。あとで、部屋で」
「……うん」
 その後、僕たちは互いに求め合い、愛を確かめ合った。


 それから三日後。
 この日は、この前買い物に行った際に注文した雪乃ちゃんのベッドなどが送られてくる日であって、朝から雪乃ちゃん用の部屋の掃除と整理をおこなっていた。リュックの中の私物を置く場所がやっとできたと雪乃ちゃんは喜び、それからなぜか名残惜しそうに隣の僕の部屋を見ていた。
 詩織さんの荷物は前日のうちに持ち込まれた。親御さんも僕らとの同居には賛成しているらしい。彼女の部屋は一階の、僕と身体を重ね合った部屋であり、昨日も夜にお邪魔したりした。
 と、言うわけで二日がかりの引っ越し作業が終わったのが先ほどのことで、一番働いていた僕は疲労困憊で、居間に大の字になって転がったのである。
 それから数時間後の夕暮れ時。
 のんびりと三人でテレビを見て過ごしていると、不意に来客を知らせる呼び鈴が鳴り響いた。玄関に出てみると、意外な人物が立っていた。
「よお。様子を見に来てやったぞ」
 黒沢先輩は、軽く手を上げた。
 まさか雪乃ちゃんのことがバレたのかと危惧するが、そんな様子をまったく見せない先輩に安堵して、僕は居間へと招き入れる。
「おや、彼女さんも一緒だったか」
 詩織さんに気づいて先輩が一言。ふふっ、と僕は軽く笑う。
「水原詩織さんです。いまは、一緒に住んでるんですよ」
 先輩は苦笑する。
「そりゃまあ、なんつーか、事態が悪化してるな」
「そうですか?」
「いや、どうなろうと知ったことじゃないが……女には慎重になれと常々言ってきたはずだぞ?」
「大丈夫ですよ。まあ、座ってください」
 座布団を敷いて、手で促す。先輩はそれに従った。ずっと緊張していた雪乃ちゃんに目を向ける。びくっ、と詩織さんの陰に隠れてしまった。怒鳴られたときのことがフラッシュバックしたのだろう。
 先輩は肩をすくめた。
「怖がるなよ。もう怒鳴ったりはしないさ。信幸だけならともかく、彼女さんもお前を認めたんなら、俺から言うことはなにもねえよ」
 ゆっくりと、こくり、と頷いておずおずと席に戻る。先輩は本当に気にした様子はなく、やがて雪乃ちゃんも安心した。
 僕もちゃぶ台について、先輩に問いかける。
「それで、本当に様子を見に来ただけなんですか?」
「いいや。だがまあ、少しばかり心配してたのは事実だぜ。銃で撃たれたお前の第一発見者になる覚悟もしてた」
「……拍子抜け、しましたか?」
「いや。これはこれで、これ以上なくお前らしい展開だったんでな。むしろ納得してる」
「左様で」
「左様だ」
 それから僕は、来客があったこともあって、腕によりをかけて夕飯を作った。もともと引っ越し祝いにと材料はちょっと余分に用意していたため、ひとり増えたくらいでは量的にはどうってことない。
 僕と詩織さんと、雪乃ちゃんと、先輩と……。
 四人の晩餐は、驚くほど楽しく進んでいった。僕は喋り、詩織さんがツッコミを入れ、雪乃ちゃんが笑う。冷静に先輩が皮肉を言って、詩織さんも笑い出す。そんな、明るい食卓だった。
 先輩の皮肉には悪意よりも、むしろ好意が滲んでいるように思えた。僕に限らず詩織さんや雪乃ちゃんにも向けられるが、それは悪ぶっただけの適切な忠告であったり、短所を長所として見るものであったりと、気づいてしまえば素直じゃないだけだと微笑みがこぼれてしまう。
 先輩はそれを指摘されると全力で否定したが、明らかに照れているようにしか見えず、むしろその通りだ、と主張していた。
 やがて夜も更けて、まず雪乃ちゃんが寝入る。それを見送る先輩の優しげな瞳を、僕は見逃さなかった。その様子で、先輩も雪乃ちゃんを気に入ってくれたのだと確信して、僕はひとり喜びに笑んだ。
 三人だけになった居間に、詩織さんがお酒を持ち込んでくる。
「さあ、夜はこれからですよ」
 楽しげに一升瓶を持ち上げて揺らしている。詩織さんも、先輩の人柄――素直じゃない、いい人っぷり――を気に入ったと見える。
 それに応えたかったが、しかし、それはできない。先輩の先ほどの様子から、べつに用事があり、それが仕事の件であることは察しがついているのだ。
 僕と先輩は同時にパタパタと手を振った。
「いや、悪い。いまは飲めない」
「ごめん、詩織さん。いまはダメ」
「ええぇ〜?」
 さっそく自分の分をグラスに注いでいた詩織さんは、がっくりと肩を落とす。
「どうしてよぉ、飲みましょうよぉ」
 ふっ、と笑って先輩が答える。
「いまは……と言っただろう? 俺は酒を飲む前には決まって夜風に当たるんだよ。少しばかり風流な気分になると、酒が美味くなるんでな。ま、待っててくれよ」
「う〜ん、それじゃあ待ちましょう」
 悪いな、と謝罪してから先輩は立ち上がる。ちょいちょいと指で僕も立つように促すので、それに従う。
「信幸、お前も付き合え」
「ははっ、いいですよ。というわけだから、詩織さん、ちょっと行ってくるね。すぐ戻るから」
 私も行っていい? と、視線で問われたが、僕は首を横に振る。
「できれば、おつまみ用意してくれてると、嬉しいな」
「むう、分かったわよぅ。待ってるからねっ」
 少しばかり頬を膨らませた詩織さんに見送られて、僕たちは玄関から出た。
 しばらく夜道を普通に散歩して、家から充分に離れてから、先輩が切り出してくる。
「その腕、どうした?」
 先輩の視線の先には、包帯を巻いた僕の左腕がある。
「この前、包丁で切っちゃったんです」
「へえ……。じゃ、傷口、見せてくれよ」
「嫌ですよ」
「頼むよ、見たいんだ」
「……なぜ、ですか?」
 ふう、と先輩は空に向けて息をついた。
「あのな信幸、俺は一度怪しいと思ったら、それがどんなに確率の低いことでも、百パーセントの確信が無ければ安心できねえんだ。分かるよな? それが、理由だ」
「なら……なおさら、見せられません」
 僕の声は、静かな夜道の遠くまで響いていった。
 そうか、と呟き、先輩は諦めた。だがその瞳は確信に色づく。今度は先輩が「……なぜだ?」と問いかけた。その問いの意味は分かる。血の繋がりもなく、僕との関係も虚言であるはずなのに、なぜ実験動物の――雪乃ちゃんを妹として守ろうとするのか。
 僕は逆に聞いてやる。
「分かるでしょう?」
 ふっ、と先輩は微笑する。
「確かにな。いい子だった。信用できる。ああいう女の子は、いまどき貴重だな。気をつけなくてもいい女だ……。だが、お前こそ分かっているんだろう? あちこちでスタッフが探してる。誰もお前や彼女さんには、容赦しない」
「……先輩も、ですか?」
「……」
 先輩は顔を下げた。眉をひそめ、眉間にしわが寄る。
「先輩さえ黙っててくれれば、なんとかなるはずなんです」
「お前は、間違ってる」
 真剣な視線だった。それは先輩の心遣いだった。優しさだった。だから僕も本気で答える。
「そうかもしれません。でも、幸せなんです。僕は……この間違いを、愛します」
 それきり、先輩は息を飲んで口を噤んだ。僕もなにか言うことはなかった。
 何分間もの沈黙があった。
 歩は止まらず、風に流されるまま歩き続けていく。
 不意に先輩が立ち止まり、たった二言だけ口にした。
「……そうか、分かった」
 沈黙の中、ずっと考えてくれていたのだろう。僕のこと、雪乃ちゃんのこと。先輩との絆、僕と家族の絆。そして破格の報酬……。
「ありがとうございます、先輩」
「まったく、お前ってやつは……本物のバカだな」
 悪態をつきつつも、先輩は笑顔だった。一息ついてから、先輩は話題を変える。
「実はな、信幸。俺は今日、お前に最後の仕事を持ってきたんだ」
「最後の……?」
「持ってきて正解だった。お前の家族ってものを見て、確信したよ」
「最後って、どういう意味なんです?」
「今回の仕事が終わったら、俺はお前をスタッフから外すことを進言する。まあ、確実に通るだろうよ。コンビは解消だ」
「そんな……っ。困りますよ、先輩っ。僕にはお金が要るんです」
「確かに妹を抱えちまったんじゃ、普通のバイトじゃきついよな。お前だって大学は辞めたくないだろうし。ま、その辺は心配するな、手は打つ」
「……え?」
「色々と危ねえから、もうやめろってことさ。金のことなら、まあ俺に任せておけよ」
「先輩……」
「今日の仕事が終わったら、もう会うこともないだろうが、な。俺なんかは、お前とは住む世界が違ってる」
「それでも、会いに来てください。歓迎しますから」
 ふん、と先輩は鼻を鳴らした。やれやれ、と呟く。
「……考えておいてやるよ」
 僕たちはまた歩き出す。いつもの事務所へ。最後の仕事へ。
「なあ信幸、俺とお前の初仕事は、なんだったっけなぁ……?」
「確か……巨大なイモムシにバルカン砲がくっついたやつでしたよ。ほら、殺虫剤が効いちゃったやつです」
「そうだったな……。そういや、バズーカを背負った犬ってのもいたな。あれはどうやって捕獲したんだっけか……」
 星空を仰いで、先輩が惜しむように思い出を吐きだしていく。
「すっごく高いドッグフードで釣ったんです。経費で落とせないって知ってたら、僕、お金出しませんでしたよ」
「ははっ、あれの払いはお前だったっけなぁ」
「先輩に騙されて、です」
 あっと言う間に時間は過ぎて、事務所へとたどり着く。入る前に、先輩は横目でちらりと僕を見た。
「俺な、お前のこと、弟みたいに思ってたんだぜ」
「弟……?」
 ふと、先ほどの晩餐の光景を思い出す。世間の仲の良い兄妹は、毎日の食事があんな楽しいのだろうか。雪乃ちゃんが僕を「お兄ちゃん」と呼ぶなら、先輩のことはなんと呼ぶだろう。雰囲気的に「兄さん」だろうか……。
 へっ、と先輩が微苦笑を浮かべる。
「俺にゃ、まともな親はいなかったし、兄弟もいなかったからよく分からねえけどよ……。さっきの夕飯は、久々に、楽しかった」
 先輩は事務所へ足を踏み入れた。遅れて僕も扉をくぐる。
 仕事が、始まった。

 いつもの銃を持って、いつものように事務所を出る先輩。僕もいつものようにパソコンを起動させ、ヘッドセットで交信を開始していた。パソコンの画面上に映し出された地図に浮かび上がる、先輩の現在位置を示す点も、いつもどおりの速度で事務所から離れていく。
 だが、その他はいつもと違っていた。
 先輩は未だに、ターゲットを明かしてくれていない。それに、べつのチームがこの地区に、なにかを追い込んだような報告もない。
「今日のターゲットって、いったいなんなんですか?」
「ああ……実は、正式な仕事じゃねえんだ。ちょいと特殊でな。いつものオペレートはできねえだろうが、お前がそこにいるだけで色々と助かるんでな」
「そう、なんですか……」
 かすかな疑問はあったが、先輩を信頼して画面の地図を眺め続ける。先輩は止まることなく進んでいく。明確な目的地を持った進み方だった。
「場所は、特定できてるみたいですね」
「ああ、下調べは済んでるからな」
 少し不思議だった。先輩はあれだけ熱心に、破格のターゲット――つまり雪乃ちゃんを捜していた。それなのに他のターゲットの下調べなどしていられたのだろうか。
 やがて先輩は、僕がよく知っている地区にまで到達する。
「そろそろ着くぜ」
「なんか、僕の家に近いですね……」
 急に胸がざわつき、疑惑と不安が強くなっていく。そして、先輩の次の言葉で、爆発してしまう。
「当たり前だ」
 ふっ、と地図から光点が消える。発信機の電源を落としたらしい。氷点下にまで冷え切った声が届く。
「お前が愛した間違いに後悔しな。あばよ、もう会うこともないだろうよ」
 ぷつり、と交信が途絶える。戦慄して何度も呼びかけるが応答がない。あるはずが、ない。
「な、んで……」
 信じられない気持ちがありながらも、僕はすぐに事務所から飛び出していた。詩織さんは僕らを待っている。きっと、玄関の鍵はかけていない。
 先輩が家に来てからのことが、脳裏に浮かんでは消える。
 僕を散歩に誘ったこと。雪乃ちゃんの正体を探ったこと。確信した上で、僕を信用させる言葉を連ねたこと。僕をここに、釘付けにしたこと……。
 普段から異常なほどに、お金に執着していたこと!
 すべてが繋がり、理解する。
 先輩が選んだのは、雪乃ちゃんを捕らえることで得られる莫大な大金のほうだったのだと。

 息を切らして家に戻ったとき、すでに雪乃ちゃんは捕らえられていた。玄関先で詩織さんに銃を向けていた先輩は、僕の存在に気づき、雪乃ちゃんのこめかみに銃を向けた。
 にやり、と不敵に笑む。
「早かったじゃねえか。意外といい足してるぜ」
「先、輩……。雪乃、ちゃんを……離して、ください」
 肩で息をしながら、先輩を睨みつける。全身が汗で濡れ、肺は酸素不足で痛み、足はガクガクだった。鼻で笑い、先輩は首を詩織さんのほうへ向ける。
「分かってるな、動いたらこの子は死ぬぜ」
「嘘、だ……。雪乃ちゃんを、殺せば、報酬は……でない」
 くっくっくっ、と先輩が喉を鳴らす。今度は僕のほうへ銃を向けた。
「そう、よく分かってるじゃねえか。というわけだ、彼女さん。俺はこの子は殺さねえが、動いたら信幸が死ぬぜ」
 雪乃ちゃんが、くしゃくしゃになった顔で泣きながら叫ぶ。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん……。本当に、動かないで、ください! この人、本気……です」
 詩織さんは、悔しそうに拳を握って震える。
「なんで……どうして、雪乃ちゃんを連れて行くのよ!」
「俺の仕事さ。信幸から聞いてねえのか? なら言っておくぜ」
 先輩が僕らの仕事を簡単に説明して、そして、雪乃ちゃんの正体までも明かした。
「縁もゆかりもねえ。嘘っぱちの関係。そんなのを、お前らは信じてたのさ。すべてを疑えとまでは言わねえが、すべてを信じるのはどうかしてる」
 詩織さんはキッと睨みつける。
「そんなの……関係ないじゃない。雪乃ちゃんのことは――信幸くんが……私が認めたら、それでいいのよ!」
「麗しい愛だな。信じる心ってやつかい? だがな、その麗しい心でもって俺を信じたからこうなった。分かるな? 信じたせいで家族が消える。バカな話だぜ」
 先輩が僕に銃を向けたまま、雪乃ちゃんを引きずって近づいてくる。僕は両腕を広げて道をふさいだ。
 先輩は短く、どけ、と言い放つ。
「どきません」
「どかねえなら撃つ」
 僕は大声を張り上げる。
「あなたが、僕を撃てるというものな――っ」
 言い切ることもできないまま、視界が揺れて、一瞬のうちに倒れ伏していた。かすかな音があったのだと思う。左肩に炎が走り、感覚が麻痺していく。撃たれたのだと気づいたのは、雪乃ちゃんと詩織さんの叫びが届いてからだった。
「お兄ちゃあぁぁん!」
「信幸くん!!」
 次の瞬間、うるせえ! と先輩の声がして、雪乃ちゃんの声が途絶えた。後頭部辺りを殴って気絶させたのだろう。雪乃ちゃんを肩に抱えて、悠然と歩き去っていく先輩の後ろ姿が見えた。
 その方向に手を伸ばそうとするけれど、まともに動くことができずに、届かずに地へ落ちる。
 詩織さんが駆け寄って、しかし、なにもできずに狼狽える。僕は左肩の痛みを必死でこらえ、かろうじて口にする。
「詩織、さん……。だい、じょうぶだから、落ち着いて……」
「だ、だ、大丈夫なわけないでしょ……。血が、こんな……。撃たれて……っ」
「なら、手当て、して欲しい、な……」
「あっ、うん……。うん!」
 動揺しながらも、詩織さんが頷いてくれる。僕は右腕を上げて、詩織さんの肩を借りた。なんとか足を動かし、玄関をくぐり、廊下に倒れ込む。
 血がそれほど広がっていないのに気づき、当たり所は悪くなかったのだと理解する。あの距離なら弾も抜けているだろう。運が良かったのか、それとも……。
 とにかく止血して、簡単な手当てをほどこせば、先輩を追うことが、できる。
 僕は詩織さんに順番に指示を出して、手当てを頼んだ。それに従い、消毒や止血などをしていくうちに詩織さんも落ち着きを取り戻していく。包帯を巻ながら、詩織さんは泣き出していた。
「雪乃ちゃん……雪乃ちゃんは、どうなっちゃうの?」
「分からない。けど、僕は先輩を……追う。詩織さんのお陰で、動けそうだから……。怒るかもしれないけど、病院はそのあとで行くよ……」
 頷いて、詩織さんは包帯の先を結ぶ。
「信幸くんなら、そうするって分かってるから……。それに、私も行くから……」
 新しいシャツを渡してくれたので、手伝ってもらってそれを着る。
「うん、行こう。雪乃ちゃんを、取り戻すんだ……!」
 僕たちは連れ立って、家を出る。
 雪乃ちゃんが持ち込んだ、あの拳銃を持って……。


 どれだけ歩いたのか、分からない。痛みに耐えながら、詩織さんに支えてもらって色々な場所を探し回った。先輩がまず駆け込むはずの研究所や支社には現れた形跡はなく、事務所や公園にも姿はなかった。
 ズボンの背に挟んでシャツで隠した拳銃。その重みが、足を引っ張り、疲労を増加させ、心までも重くする。
 時間の感覚はとうに麻痺していた。疲労は僕たち双方にあった。歩みを止めることはなかった。諦めることなどしたくなかった。
 待ち伏せすることに決め、研究所へと向かった。研究所は住宅街からかなり離れた場所にあり、林を切り抜いて作った土地はかなり広い。道は他にもあるにはあるが、僕たちの街からは、この道が一番だった。林の中で綺麗に舗装された広い道路は、深夜には通る人も車もない。
 この道の途中に座り込み、ただひたすら待つ。仕事のあと、先輩といつも通った道だった。必ず通る道だった。楽しげに話しながら、報酬に目を輝かせて……そのあとで僕を飲み屋に誘って……。
 ずっと、信じることと裏切られることを考えていた。
 先輩は裏切った。僕を裏切った。
 散歩に出るときにした話は、どこまでが嘘だったのだろう。
 どれだけの期間、騙されてきたのだろう。
 何回、冗談を口にしてくれただろう。
 いつから、信じていただろう……。
 答えは出なかった。
 詩織さんはよほど疲れてしまったのだろう。僕の右肩に頭を乗せて眠っている。待っている間は、そうしたほうがいい。僕は痛みと思考と、怒りと悲しみと愛憎が渦巻いて眠気ひとつ感じることはない。
 東の空が明らみ、夜が終わりかけたとき、その影はようやくやってきた。詩織さんの肩を揺さぶり、ふたり揃って立ち上がる。先輩のほうもこちらに気づいて足を止める。背負っていた雪乃ちゃんをその場に降ろす。雪乃ちゃんは自分の足で立ち、先輩の背中に従った。
 呻くように声をひねり出す。
「なんでこんなところに、いやがるんだ……」
「先輩こそ……ずいぶんと寄り道したみたいじゃないですか。いつもなら、すぐにお金に換えちゃうはずでしょう」
「こっちにも、事情ってものがあるんだよ」
 それは、先輩の良心による迷いなのかもしれなかった。逡巡によって、こんな時間にまでなってしまったのかもしれなかった。いまはそんなこと、どうでも良かった。
「雪乃ちゃんを、返してください」
「お前が報酬額を払ってくれるのか? ローンなら聞かねえぞ」
「どうしても、ダメなんですか」
「ダメだ。簡単に騙されたお前の過失だ。何度も、色んなやつに騙されて、裏切られて、忠告だってされてきたはずだ」
「……先輩も、僕を裏切った。本当に、そうなんですね?」
「お前からしたらそうなるんだろうな。ま、俺にとっちゃ人間関係なんざ、ケツを拭く紙みてえなもんなんだよ。金のために切って捨てる。最初からそのために買ってんのさ」
 僕は背中に隠した拳銃を取り、先輩へ銃口を向けた。こちらの動きに気づいた先輩が、同様に素早く銃を構える。互いに引き金を引かぬまま膠着する。
「雪乃ちゃんを返してくれないというのなら、撃ちます……」
「そっちこそ。そこをどかなきゃ、今度こそ心臓をぶち抜く」
 折れてくれなければ、本当に、撃つしかない。
 先輩と過ごした時間。嘘で塗り固められた日々。
 たまに見せた優しさ、親切さ。いつか裏切るときのための下準備。
 信じたものが悪いという。騙されるほうが悪いという。
 怒りも憎しみも胸で渦巻き、強くなっていく。引き金にかけた指にそれらが伝わり、すべてを終わらせようとしている。
 家族を奪おうとする裏切り者と、それを憎み阻もうとする者……。
 それが先輩と僕のいまの関係だった。
 なにかに似ていると気づいたのは……あと一歩で撃鉄が降りるところまで引いたときだった。
 ――家族を奪った裏切り者と、それを憎む残された者……。
 父さんと母さんのことが思い浮かび、指の力が弱まってしまう。
 父さんを悪く言い続けた母さんの気持ちは、いま僕が先輩に抱いた気持ちに似ていたのだろう。裏切られて、もう信じることができなくなって、憎み続けることしかできなかった母さん……。
 けど……けど……!
 僕は思ってきたはずだ。
 母さんがもっと父さんを信じてたら――。
 どんなに疑わしくても、何度裏切られても、信じ続けることができてたなら――。
 その代わりに色んなものを無くしてしまっても、本当に無くしちゃいけないものだけは残っていたんじゃないか……と。
 家族が離れ離れになることなんて、なかったんじゃないか、と!
 いまの僕が本当に無くしたくないと思っているのは、雪乃ちゃんや詩織さんだけじゃない。嘘かもしれないけれど……僕のことを弟みたいに思っていたと寂しそうに言った、黒沢京介という先輩だって失いたくはない。
 僕だって彼を……兄のように思っていたのだから。
 信じたせいで家族を失うなんてこと、あるはずが……ない!
 銃を持つ手を降ろして、先輩のほうに一歩踏み込んだ。それに驚き一歩退いた先輩は、しかし、こちらに突きつけるように拳銃を前に出した。
「……なに考えてる。動くんじゃねえよ」
「教えてください、先輩。全部が嘘だったんですか? さっき僕にかけてくれた優しい言葉も、雪乃ちゃんのことで本気で熱くなってくれたことも、仕事のあとでいつも見せてくれた笑顔も……本当に嘘だったんですか!?」
 ぎり、と歯ぎしりをしてから、先輩は返答する。
「当たり前だ。お前に言ったこと、見せたもの、全部――そう、全部、嘘なんだよ!」
 なら――! と僕は叫んだ。
「――この前の仕事で、報酬を多めに配分してくれた理由や、僕の人間性じゃなくて腕を気に入っているというのも、嘘だったんですね? あのときは、妹ができた僕を助けるために色を付けてくれて……そして、やっぱり本当は僕の性格のほうを気に入ってくれてた、ってことで、いいんですよね……!?」
 先輩は息を飲み、銃を持つ腕を震えさせた。
「勝手な解釈ばかり、しやがって!」
 先輩が引き金を引く。ボシュッ、と減音された銃声がかすかな炎と共に銃口から現れて、すぐに消える。雪乃ちゃんがびくり、と震える。背後で詩織さんがうろたえる。だがその弾丸は、僕らの誰をも傷つけることなく、どこか遠くへ消えていった。
 先輩は続けて発砲したが、二発目も同じように外していた。
「……たまたま、外れただけだ」
 悔しそうに呻く先輩に、僕はゆっくりと近づいていく。
「それも嘘でいいんですよね。本当は、わざと外してくれたんです。さっき肩に当たったのだって、脅しのつもりが、狙いが逸れちゃっただけなんです。そうですよね!?」
 先輩はいきり立ち、こちらに踏み込んだ。僕の額に銃口を突きつけ、ピタリと静止する。硝煙の匂いが漂い、かすかな熱を感じた。
 先輩のこめかみから汗が伝い、目元を経由して頬を流れていく。泣いているように見えたのは、気のせいじゃない。でも、素直じゃない先輩は、無理矢理に不敵な笑みを作っていた。
「……これでも信じられるか? 俺がちょっと指を動かせば、お前は死ぬ。それでも……それでもお前は信じられるのか。信じるのか!?」
 僕はしっかりと、強い意志で先輩の瞳を見据える。
「信じます。たぶん僕は……そのために来たんです」
「そんな、無条件に……信じるんじゃねえよ! いつも言ってんだろ、世の中で信じられるのは金だけだ! 金は裏切らねえし、平等なんだよ――」
「――神様を信じても救われないけれど、お金を信じればなんとかなる。確かにそうですけど、どうしてそこまでお金に固執するんです。他のものは、そんなに信じられませんか……?」
「信じ、られるかよ……!」
 先輩はそのままの姿勢で、苦しそうに言葉を紡いでいく。
「……俺には、生まれる前から親父がいなかった。戸籍にもいねえ。売女がどこぞで孕んだガキだった。あっちこっちで男に取り入って、金を巻き上げて生活してた。あのクソ女は、女房子供に逃げられたばっかりの男にも、地位と金目当てに近づいた。ヴィクター社の、最高の研究者さ。榊 隼人って言ったか。そこそこ有名らしいじゃねえか」
 父の名が出てきて、一瞬だけ戸惑う。雪乃ちゃんや詩織さんも同様だったが、しかし誰も口にはしない。先輩が僕らの変化に気づかず、夢中で話していたからだった。
「取り入ったのは上手くいってたらしいがよ……あの人は、クソ女のほうより俺のほうに気をかけてた。息子に重ね合わせてたみたいだぜ。クソ女と再婚したって話もあったが、ありゃ事実じゃねえんだ。突きつけられた離婚届にサインもできずに、後生大事に持ち続けてた。俺は……あの人のお陰で、少しはまともに成長できたのさ」
 ひと呼吸して、話はここからだ、と続きを口にする。
「クソ女が肝臓を悪くして、あっさり死にやがった。べつにどうも思わなかったが、ガキがひとりでどうやって生きていこうかは考えたぜ。あの人は……自分を頼れとか言ってたな。だが、んなことできるわけねえだろ。縁もゆかりもねえ売女のガキだったんだぞ、俺は。醜悪なやり方を散々見てきた。その俺が……クソ女と同じようなことが、できるわけねえじゃねえか」
 そして誰にも頼らず生きようとして、挫折した。
「金は力だった。生きていくには力が必要で、俺には力がなかった。けどよ、手に入れちまえばこれほど頼りになるものもねえぞ。あの人のところにいたときは安心だった。不安のひとつもなかった。あの人には、力があったからな……! だから必死だった。ずっと俺は必死で、ひとりで生きていくためにっ……。分かったか、信幸。俺は、安心したいんだよ。そのために、命懸けてんだよ!」
 やがて僕は口を開いた。
「なら……先輩はひとつだけ間違っています。先輩は、その人を、頼ってよかったんです」
「お前……ちゃんと俺の話を聞いてたのかっ?」
 先輩は無意識にか銃を降ろし、片手で僕の襟首を掴み上げた。されるがまま、僕は続ける。
「先輩のお母さんとその人の関係は、確かに正しくなかったでしょうけど……。でも、先輩とその人の関係は……たぶん、親子と呼べるものだったはずです」
「な、にぃ?」
「先輩は、勘違いしてますよ。お金があったから安心できていたわけじゃ、ないはずです。きっと、大好きな人と一緒だったから――」
「そんなわけ――!」
 声を大にして遮ろうとする先輩を、僕はさらに大きな声で制する。
「――なら、思い出してください! さっき一緒に夕飯を食べたとき、先輩は心から、落ち着けたんじゃありませんかっ?」
「……! あれは……大金になるやつが、そばに、いたから……」
「あのときはまだ、先輩は確信していなかったはずでしょう?」
「……ッ」
 先輩の手から力が抜けて、こちらの首元から離れる。ぶらりと落ちて、ゆらゆらと揺れた。
「先輩はひとりだけで生きる必要なんて無かったんです。もちろん、いまだってありませんよ。先輩は知らないのかもしれませんけど、この世の中には、無条件に信じて頼っていい関係だってあるんです」
「……なんなんだ、それは?」
 僕はにこり、と笑った。
「決まってるじゃないですか。家族、ですよ」
「家族……?」
 大きく頷いてあげる。
「榊 隼人は、僕と雪乃ちゃんの父さんです。父さんと家族だった先輩は、僕の家族でいいはずです」
 くすっ、と笑う。
「そんな繋がりが無くったって、僕が先輩を兄みたいに思って、先輩が僕を弟みたいに思っていてくれたのなら……もう充分だと思いますけどね」
 黙って項垂れた先輩の後ろで、雪乃ちゃんも声を上げる。
「そ、そうです! 先輩さんも――私のお兄さんですっ」
 詩織さんも歩み寄る。
「じゃあ私からすると、義理のお兄さん、ってことになるのかな」
 ぎゅっと、先輩はなにかをこらえるように強く目をつむった。唇を噛み締めていた。泣いているのだと思う。素直に涙を見せないのが、本当に、先輩らしかった。
 やがて体を震わせながら深呼吸して、先輩は口にした。
「悪かった……。迷惑を、かけちまった」
「いいんです。家族なら、お互いに迷惑をかけても、いいんですよ」
 東から徐々に昇っていた太陽が、ついに一線を越えて淡い朝の光を届ける。少しだけ靄のかかった空気に、涼やかな風が吹き抜ける。たったいま、夜は終わったのだ。
「……そりゃあ――」
 そして先輩も、やっと素直に、頬を緩ませた。
「――いいもんだな、本当に」
「帰りましょう、家に。話したいことが、たくさんあるんです」
 僕たちは歩き出した。
 四人で並んで、ひとつの塊となって。
 嬉しくって走り出したい気持ちを抑えるのが大変だった。


 それから、数分ほど経過した頃。
 もじもじしながら、雪乃ちゃんが僕と詩織さんの両方を見遣った。言いたいことがあるという様子だった。黙って待ち続けて数十秒。やっと口を開く。
「あの、お兄ちゃん、お姉ちゃん。今更かもしれませんけど……黙っていてごめんなさい。私が……その、普通じゃない、こと」
「うん、今更。どうでもいいことだよ。気にしない気にしない」
 詩織さんも僕の隣でうんうん、と頷く。
「あ、ありがとうございます。それと……お父さんのことなんですけど……」
「うん」
「世間的にも、戸籍上も死んだ、ということになっているのですけど……それ、実は嘘なんです。お父さんは、本当は――」
 言いかけたその刹那、雪乃ちゃんの胸をなにかが高速で貫いていった。胸から血が飛び散った。一気に力を失い、背中から倒れ伏す。
 なにが起きたのか、理解できなかった。
 雪乃ちゃんは最後までなにも言うことができずに、目を開けたまま動きを止めた。アスファルトに血が広がっていく。急激に、なにかが失われていく。
 撃たれた? 雪乃ちゃんが、撃たれた?
 呆然としていた僕を、先輩が詩織さんと一緒に地面に転がらせる。さっと銃を取り出し、先輩は周囲を見渡す。
「どうなってんだよ……これは」
 が、先輩は銃を構えることなくそれを地に落とした。林の中から現れた集団に、手を上げて動きを止めるしかなかった。十人前後の集団に知った顔はいなかったが、装備は僕や先輩に支給されたものと同様で、ヴィクター社のスタッフだということは分かった。
 先輩が冷静に、しかし荒げた声で問う。
「お前ら、この子は殺すなって聞かされてなかったのか!?」
 殺す……?
 雪乃ちゃんは、殺されたのか……?
 誰もなにも答えない。
「な、ぜ……」
 気がついたら、僕は立ち上がっていた。三方から銃を向けられ、しかしそのひとりに食ってかかる。
「なぜ、こんなことをする! 僕の、僕の妹を……!」
 返答は期待していなかったが、意外にも一言だけ返ってきた。
「榊 隼人の命令だ」
「なっ、父さんの――?」
 驚愕に目を見開いたとき、後頭部に打撃を受けた。ぐらり、と視界が揺れ、暗くなっていく。体が倒れ、しかし痛みは感じなかった。僕の名を呼ぶ詩織さんの声が届いた。それを最後に、僕は意識を失っていた。

 途切れた意識が繋がり、目を開けたとき、飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。あれから何時間経過したのかは分からないが、疲労はすでに無い。やがて肩の痛みも和らいでいることにも気づき、確認すると、何者かによって手当てし直されていた。
 僕は体を起こすと、正面に先輩と詩織さんが座っていた。どこかの拘置所で、僕たちは牢の中にいた。僕が目覚めたことに気づくと、詩織さんは心配そうな顔をする。
「信幸くん、大丈夫?」
「うん……それより、雪乃ちゃんはっ!?」
 気絶する直前の出来事を思い出し、声を荒げる。詩織さんは目を逸らす。代わりに先輩が答えた。
「……死んだよ。連中に運ばれていった」
「そんなっ……まさか!」
「お前も見ただろう。胸を撃たれた」
「でも、その割には血は出てないと――」
「そりゃ、心臓が完全に壊れたからだろう……?」
 僕は全力で首を振って否定する。
「雪乃ちゃんが……死ぬわけがない!」
「諦めきれないのは分かるが……」
「ふたりのほうこそ、なに諦めてるんだ! 僕はまだ信じてる。雪乃ちゃんは、絶対……絶対に生きてる!」
 虚しい沈黙が数秒。
 それから先輩は立ち上がって、牢の扉に手をかけた。それは意外にも簡単に開いた。
「なら、そろそろ行ってみるか。お前が寝ている間に確かめてきたが、警備どころか人員は誰もいねえ。道も、他はロックされてるのに、一カ所だけ開いてたりしやがる。俺たちに用がある誰かがいるってことだ。それはたぶん……」
「……父さん、か。ところで、ここはどこなんです?」
「ああ、俺たちがいつも報酬もらってた研究所の中だよ。さすがに俺もここまで入るのは初めてだが、壁に掛かってる地図で分かった」
 詩織さんも立ち上がり、僕に手を差し伸べる。
「行こう、信幸くん。キミのお父さんがなにを考えてるのか、私も知りたい……」
 僕は頷き、詩織さんの手を借りて立ち上がる。背中に重みを感じて、僕がまだ拳銃を持っていることに気づく。確認したが、弾丸も入ったままだった。
「気づかれなかったのか、あるいは、なにか狙いがあるのか。きっと、行ってみりゃ分かる」
 拳銃に対してそれだけを述べて、先輩が先を行く。僕と詩織さんはそのあとに続いた。
 いくつもの扉をくぐり、何度も階段を下りた。やはり人影はない。だが、この建物そのものに人の意志めいたものを感じる。僕たちを誘い込むという意図のほかに、確かな目的があるように思えた。
 やがて辿り着いたのは、大学の講堂ほどの広さのあるコンピュータールームだった。壁際にいくつものマシンが並び、それらはすべて部屋の中心にある巨大な柱のようなメインコンピューターに繋がっている。
 そのメインコンピューターに近づいたとき、誰かが語りかけてきた。ひどく懐かしく、それでいて許し難い声だった。
「よく来てくれたね、信幸。それに京介くん。詩織ちゃんも、そこにいるのか……」
 驚きを最初に口にしたのは、詩織さんだった。
「おじさん? おじさんがどうして、ここに……?」
 詩織さんが幼い頃に世話になったという、足長おじさんのような人。その声が聞こえてきたのだという。だが、先輩は首を振って違うと示した。
「いや、この声は……隼人さん。榊 隼人さん。そうなんだろう?」
 先輩の呼びかけを肯定して、それから声は詩織さんに向けられた。
「騙していたようで、すまない。君のお父上には、申し訳ないことをした……」
「そんな……私、ずっと、おじさんのことを恨んでたなんて……っ」
 混乱を示す詩織さんを尻目に、そんなことは関係ないとばかりに僕は声を上げた。
「なぜ雪乃ちゃんを撃たせた! あの子は、どこにいる!」
「あとのほうの質問にはまだ答えられないが、なぜ撃たせたかと言えば、その必要があったからだとしか言えない」
「なん……だと?」
「怒っているな。それでいい……」
「ふざけるな! どこにいるんだ、姿を見せろ!」
「君たちの目の前にいるさ」
 僕たちは正面に目を向けた。そこにはメインコンピューターしかない。
「どこだって?」
「目の前のコンピューターが私だよ。人の脳を使った生体コンピューターだ。研究の、ひとつの到達点さ」
 僕は銃を取り、喋る機械に向けた。声は嬉しそうだった。
「そうだ。それでいい。そのまま正面に向けて撃てば壊れる。私は死ぬ。それこそ、私の望みなんだ」
「まさか……そのために雪乃ちゃんを撃たせて、僕を……!?」
「それもある。君たちは来て、狙いどおり信幸は銃を向けるほどに怒っている。さあ、気兼ねなどしなくていい。撃つんだ」
「……理由を、聞かせろ。なんでこんな機械になって……死ぬことを望むんだ」
「少し、長くなるが?」
「だったら、まとめろ! 早く喋れ!」
「手厳しいな……」
 それから声は一旦途切れ、数秒後にまた語り出した。
「私は、いわば研究の鬼だった。狂っていたと言ってもいい。実験台に人間を使うことなど気にも留めなかった。詩織ちゃんのお父上も、私が切り刻み、実験を繰り返して、挙げ句に殺した……」
 私は確かに家庭を顧みなかったし、ふたり目の子が流産となったのも、あのとき妻のそばにいてやれなかったせいだろう。見限られて当然だった。だが私は、次の実験台として……自分の娘の死骸をあてがわれたとき、やっと目が覚めた。
 私は必死だったよ。あらゆる手を尽くした。どうあっても生き返らせたかった。ただの偶然か、あるいは祈りが天に通じたのか、実験は初めて成功して娘は生き返った。
「その子は、研究所に取り上げられてしまったが、ね……」
「まさか……それが――」
「そう、雪乃だ。君たちは血の繋がった、正真正銘の兄妹だ。信じるかね……?」
「……」
 沈黙は肯定を示す。
「しかしね、私も目が覚めるのが遅かった。大切なものに気づいたときには、妻と君は一枚の紙切れを残して去っていたんだ。離婚届だよ。あとは私がサインして届け出ればよかった。だが……できるわけがなかった……」
 成功して地位を手に入れた私は、社内でも少しは融通が利くようになったよ。唯一の家族に――娘には毎日会いにいった。過激な実験は絶対にさせなかった。人間として扱うように命令していた。
 だが、私には足りなかった。妻に会いたかった。君に会いたかった。けれど、どうしてそんな恥さらしなことができるだろう。行方も居場所も、すべて知っていたのに、私は遠くから見ているだけだった。
「運動会のときや、中学入学のときも、見に行っていたんだ。好物だって知っている。どんな風に成長していったのかも、私はみんな知っている」
 僕は急激な不快感に駆られて叫んだ。
「……でも、あなたは会いに来てくれなかった! 恥さらしがなんだっていうんだ! そこまで知っていたなら、僕がなにを一番に望んでいたのかも知っていたはずだろう!」
「……人知れず、生活を支援していた。高校のときの特待生の抽選にも口を出したよ。大学の奨学金だって私が――」
「でも、あなたはいなかった!」
「妻が死んだときには、墓参りにも行ったよ。君とは何度もすれ違った……」
「どうして、声をかけてくれなかった! 僕は、あなたの顔さえ覚えてないというのに!」
「妻は私の身分を嫌っていたからね……。ヴィクター社を辞めて、君たちの元へ行くこともできた。でも、雪乃を捨て置くことなどできなかったさ」
「そんなの、言い訳に過ぎないでしょう! どんなに母さんが嫌がったって、会いに来てくれれば……!」
「それに加えて、計画もあったもので、な……」
「関係、あるもんか!」
 楽しそうに、声に笑いが混じる。
「ははっ。随分絡むな……そうか、これが反抗期か。初めてだ……」
「ふざけるのも、いい加減にしろ!」
 怒鳴る僕をついに見かねて、先輩が声をかけてくる。
「よせ……。その人がお前をずっと想っていたのは、俺が知ってる」
 詩織さんも口を揃える。
「おじさん、すごく寂しそうだったんだよ。会いに行かなかったのは、本当になにか理由があったから――」
「うるさい!」
 僕はさらに声を張り上げて怒鳴った。
「うるさいうるさい、うるさい! 父さんが近くにいたふたりに、なにが分かるって言うんだ! 口出ししないでよ! 初めての……初めての親子の会話なんだから!」
 ふたりは息を飲んで押し黙る。
「……信幸。私には本当に、計画があった。君や雪乃のためのものだったんだ。信じてくれないか?」
「いやだ……。信じられるもんか……。だって、だって……雪乃ちゃんは、ここにいないじゃないか」
 だが、父さんは気にした様子も見せずに話を続ける。
「なんとかして、君と雪乃を会わせたかったんだ。でも、そういうことをするんじゃないかって怪しまれてもいたから……。家族を捨てたように振る舞うしかなかった。遠くから見ているのが精一杯だった」
「そんなの、そんなの……信じられるもんか――」
「生体コンピューターを開発して、私は会社のために体を捨てるという忠義を見せたよ。連中は私の意識が残っていることすら知らない。榊 隼人は完全なシステムとして、状況を判断し、命令を下すだけの存在となった。これが数ヶ月前のことさ」
 そして人事に介入し警備に穴を作り、セキュリティを解除して、内通者の存在をちらつかせ、雪乃ちゃんを脱出させたのだという。公開された情報が極端に少なかったのもそのためで、影ながら雪乃ちゃんを守り続けていた。
「雪乃は自分自身にコンプレックスを抱いていたからな。実際に君と会ったときになにを話せばいいのかも、私が吹き込んだんだ。あの子が嘘を言ったことも、話すべきことを黙っていたことも、悪く思わないであげて欲しい」
「なら、拳銃を持たせたのは?」
「自衛のため。そして、いまこのときのためさ」
「……なんのために、雪乃ちゃんを撃つように命令したんだ」
「そうすれば私は君に会える。こうして、終わりにしてくれる」
「矛盾してるじゃないか! 僕に会わせるために雪乃ちゃんを脱出させたのに、こうやって殺してしまうなんて!」
「雪乃はもう君に会ったよ。あとは、私が君に会うだけだった」
「ふざけるな! 僕は、あなたの望みを叶えたりはしない! あなたは……僕がせっかく取り戻したものを……奪ったんだ! 結局、あなたは自分のことしか考えていない! 家庭を、顧みてない!」
「大丈夫だ。私を撃てば、すべて元通りになる」
 息を飲む。
「なにを、根拠に……」
「根拠は見せられない。だが、信じてくれ。きっと、君が望んでいる結果になる」
「そんなことを言って、僕が素直に信じると思っているのか」
「君は信じるさ……。見てきたから知っているよ。そうして生きてきた。何度裏切られても、何度騙されても、君は信じてきた。そして、本当に無くしてはいけないものを守り通し、なによりもの望みを叶えてきた。そうだろう?」
「……ずるいじゃないか。僕は……僕は、父さんのこと、なにも知らないというのに!」
「すまないな……」
「どうして、撃たなければならないのか、ちゃんと教えてよ……。仮に信じても、納得できなくちゃ撃つことなんて、できない」
 いつの間にか僕は、大きな感情に駆られていた。怒りではない。憎しみでもない。それは静かな別れの気配が奏でる悲しみの旋律だった。
「私はこんな姿になってしまったから、もう君たちと生活することはできない。抱いてやることも、温もりを感じることもできない。だから、せめて一度だけでも親孝行をして欲しいんだ。親子として干渉して欲しい」
「もうこんな方法しか、無いって言うの……!? いくら……いくら離れていたとはいえ、親を殺すのは……重たすぎるよ!」
「そうだろうな……。だからこそ、私はずっと君の心に残る。一緒にいられる……」
「あなたは、歪んでいる。歪みすぎだ!」
 それでも僕は、銃を構え直した。両手で保持し、重心を低くする。
「でも君はまっすぐだ。嬉しいよ。でも、ひとつだけ間違えている」
「な、に?」
「すべてを信じ続けたから、大切なものを取り戻せたんじゃない。信じ続けることで、君が自らの手で掴んだんだ」
「……父さん」
 喉の奥でなにかが震えている。呼吸が詰まり、視界が滲む。
 父さんは、静かに嬉しそうに独言する。
「私と一緒に過ごした子供たちが、血の繋がりを越えて、こうして信幸の家族になっている。不思議なものだ……いや、そうでもないか。みんなが私の家族なら、一カ所に集まるのは、むしろ自然なことか……」
 詩織さんや先輩も、惜しむように口にする
「おじさん……」
「……隼人さん」
 父さんは最後に優しい声を出した。
「さあ、撃ってくれ。雪乃のことを、まだ恨んでいるはずだろう」
「…………」
 拳銃を構えたまま数分が過ぎた。
 思考がぐるぐると回って、やがて、納得しきれていないはずなのに、引き金にかけた指に力がこもった。それは父さんを信じたからなのかもしれない。望みを叶えたかったかもしれない。僕には分からない。分からないまま、沈黙を切り裂いた。
 その声はきっと、泣き声でしかなかった。
「……さようなら、父さん」
 引き金を、思い切り引いた。
 激しい銃声と反動があった。その衝撃が響いて、肩の傷がひどく痛んだ。その痛みを消さぬように、次々に銃弾を放った。痛みは胸にまで伝わり、心底に刻み込まれる。撃ち尽くしたあと、肩の痛みはやがて消えたが、胸の痛みは残った。永遠に、消えないだろう。それが少しだけ、嬉しかった。
 完全に停止したと思われたコンピューターだったが、やがて再起動して動き始める。失敗したのかと思ったが、違う。サブシステムに切り替わったに過ぎない。
 抑揚のない電子音声がアナウンスする。
「最終プログラム、実行」
 それはメインコンピューターが停止したときに実行される行程であるらしかった。そして、それは父さんが仕組んだものに間違いなかった。
 アナウンスに指示されて向かった場所には、雪乃ちゃんが寝かされていた。胸の傷は塞がっていて、心臓も立派に動いている。
 喜びと同じくらいの疑問があったが、それさえ見透かしていたのだろう。アナウンスが丁寧に説明を始めていた。
 一度、殺してしまえばヴィクター社はもう雪乃ちゃんを狙わない。そして全システムを掌握しているいまならば、かつての手術の後遺症――吸血などにより他者の遺伝子情報を取り込み続けなければならないという不完全な仕様を、取り除くための手術もできた。
 たとえDNAを採取されても、書き換えられた情報とは確実に一致しない。戸籍も、父さんと母さんの娘――僕の妹として、最初の手術のときに登録されているという。
 雪乃ちゃんの安全は、完全に保証されていた。
「そういうことかよ……父さん」
 父さんは、僕が撃ちやすいようにとこの事実を隠していたに過ぎなかった。それが憎たらしく、しかし笑えてしまう。よく知らないはずなのに、父さんらしい、と思えてしまったからだ。
 やがてアナウンスは研究所からの脱出を促す。
 数時間前から事故に見せかけて動力炉を異常回転させているのだという。あと数十分で研究所は、様々な研究資料や実験動物たちと共に爆発して消える。
 人員はすでに避難済みで、だからこそ僕たちを自由にできたのだろう。
 数分で研究所を出た僕たちに、最後のアナウンスが届く。
「さようなら、私の子供たち」
 僕たちは遥か彼方から、巨大な送り火を眺めた。
 ひとりの父親の魂を天へと送る炎。
 不謹慎かもしれなかったが、その巨大な爆炎は、本当に、綺麗だったのだ。
 でも、と僕は呟く。
「父さんは、嘘つきだ。なにが、撃てば僕が望んでる結果になる、だ……。ここに、父さんはいないじゃないか……」
 いや、いるさ。
 そう言うような胸の痛みがあったが、僕が望んでいたのは、そんな精神的な意味なんかではない。


 母さんのお墓の中に、父さんを撃った拳銃を埋葬して手を合わせたとき、僕は少しだけ考えていた。
 もしもあの世でふたりが再会したら、仲直りしてくれるだろうか。
 ……きっと、するだろう。
 突きつけた離婚届にずっとサインできなかった父さん。それを知りながら、強要しに行くことの無かった母さん。心の内では会いたかったに違いなかった。互いに、会いに来てくれるのを待っていたのかもしれない。
 それが本当に正しいかどうかは分からないけれど、僕はそうであることを信じることにした。
 立ち上がると、雪乃ちゃんの声が届いた。
「お兄ちゃん、もういいんですか?」
「うん、お待たせ」
 僕はお墓に背を向けて、先に行った詩織さんや先輩のあとを追おうと軽く駆けようとした。
 そのとき、不意になにかが聞こえた気がした。
 懐かしくて、切なく。
 意味のあるようで、聞き取れない。
 そんな声だった。
 振り返っても、お墓はただ静かに佇んでいるだけ。風の運んだ空耳だったのだろう。
 でも、僕は微笑みを返した。
 父に最後まで見せられなかった笑顔を、届けるために……。

 それから、あっと言う間に一ヶ月もの時間が過ぎた。
 夏休みも終わりかけた、そんなある日。
「えーっと、その、お金出して欲しいなぁ……って」
「なんで? また?」
 大学の研究室で、パソコンで作業していた詩織さんは、呆れた様子で手を止めて僕のほうに目を向ける。その双眸から放たれる視線が若干痛々しくて、僕は視線を逸らした。
「なんだか、このシチュエーション懐かしいんだけど……まさか、また騙されたんじゃないでしょうね?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、うちに住まわせたいやつがいてさ。色々と揃えてあげたくて……」
「……誰よ。まさか、今度は弟だとか言わないよね?」
 視線が柔らかなものに変わっていくのを感じながら、くすくすと笑ってから詩織さんの目をちらりと見る。やっぱり冗談だったらしく、詩織さんは微笑んでいた。僕は答える。
「詩織さんが出てすぐだったんだけど。雪乃が犬を連れてきたんだ」
「犬?」
「うん、なんか、やたら僕たちに懐くんだよね。それで、兄さんが飼うぞ、とか言い出したんだけど……」
「例の如く、お金は出してくれてないわけね?」
「うん。まあ、兄さんは受験勉強してて働く時間もないわけだし、貯金を生活費に回してくれてるだけでもありがたいんだけどさ」
「私だってあんまり余裕は無いんだけど……?」
「僕も出すから、頼むよ」
 はあ、とため息をつく。
「しょうがないなぁ……」
 あれから、僕たち四人は同じ家で生活している。
 僕と詩織さんは大学生を続けつつ、アルバイトにも精を出して生活費の足しにし始めた。
 雪乃ちゃん――改め、雪乃はいままで教育は受けてきたが学歴がまったくなかったので、先輩――改め、兄さんの薦めで高卒認定を受けるために勉強中である。大学へ行かせようという魂胆である。
 兄さんも、雪乃に付き合う形で大学受験すると言っていた。いままでの貯金を少しずつ崩して生活費に回してくれていて、雪乃と一緒に受験勉強に励んでいる。志望校は教えてくれなかったが、集めたパンフレットから察するに、天文学を学びたいらしい。天文学者になりたかったという話は、実は本当だったわけだ。
 ヴィクター社の研究所が事故によって消失したというニュースは、それなりに取り上げられたがすぐに沈静化した。生物兵器の暴走が原因だとかいう噂もあったが、僕たちはそんなものは一笑に付して捨てたものだ。
 家に帰ると、雪乃と兄さんが出迎えてくれる。白毛の秋田犬も一緒である。僕と詩織さんは、それぞれに犬小屋とドックフードを抱えていた。
「おお、ご苦労ご苦労」
 兄さんは偉そうにドックフードを受け取ると、さっそく封を切って犬に与える。僕はかなり値の張った犬小屋を庭に置くと、ふう、と息をつく。雪乃はしゃがんで、餌をがっつく犬を楽しげに眺めていた。
 縁側に座ってそんな光景を眺めていると、詩織さんが隣に座る。やがて兄さんも、犬の世話を雪乃に任せてこちらに来た。
「いくつか、名前の候補を考えた」
 と、メモを手渡される。
 ハヤタ、ハヤチ、ハヤツ、ハヤテ、ハヤト。
「……兄さん、犬に父さんの名前つけたいの?」
「なんのことだ? 語呂が良さそうなものをリストアップしただけなんだがなぁ」
 素直じゃない。というか、素直に言われてもちょっと困る。
 詩織さんも困った顔で首をひねった。
「犬に、お義父さんの名前は……ちょっと」
 その反応を見てから、兄さんはふふり、と笑って、雪乃と犬のほうを見遣った。
「なあ、あの犬、どうして信幸や雪乃に特別懐くんだと思う?」
「えっ? なにか理由があるの?」
 尋ねると、こくりと頷く。
「あの犬もヴィクターの実験動物だよ。処置された痕があった。たぶん、研究所の爆発のときに逃げたんだろう。どんな実験動物か、分かるか?」
 僕と詩織さんは、分からない、と首を横に振る。兄さんは答えてくれた。
「いつだったか。人間の人格とか記憶を、べつの人間の脳にコピーさせて、バックアップを計るって計画があったと聞いた。その実験にまず犬とかその辺を使ったそうだ。もっとも実用化にはほど遠く、記憶のほんの一部しかバックアップできなかったそうだ。同じことするなら生体コンピューターのほうが性能も良かったから、計画はあっと言う間に打ち切られたらしい」
「……それが、僕らに懐く理由になるんですか?」
「なるさ。計画の実行者は榊 隼人で、バックアップの実験も自分の記憶を使ったって話だからな」
「……!」
「この話、信じるか?」
 その質問には答えず、僕は兄さんが渡してくれたメモをもう一度見遣った。
「その候補の中じゃ、俺はハヤトがいいと思う。漢字じゃなくてカタカナでハヤトだ。出来損ないのコピーでも、まあいいんじゃないか」
 その言葉を背中で受け止めつつ、僕は雪乃と犬のほうへ歩み寄る。
 ペロペロと雪乃の顔を舐めていた犬は、今度は僕のほうに向かってきて、激しく尻尾を振りまくった。頭を撫でてやると嬉しそうにわんわんっ、と鳴き吠える。
「あはっ、やっぱりお兄ちゃんにも懐いてるっ」
「雪乃、兄さんがこいつの名前、ハヤトがいいって言ってるんだけど。どう思う?」
「えっ? お父さんの名前、ですか? う〜ん」
 と悩んでから、こくん、と頷く。
「いいんじゃないですか? なんだか、似合ってる気がします」
「……そっか」
 ハヤトという単語に反応して、犬は返事をするように、わんわんと吠えた。
「この子も、気に入ってるみたいですよ」
 胸がちくりと痛んで、一ヶ月前の出来事を思い出す。
 あのとき交わした会話。撃てば僕が望んでる結果になる、という言葉。
 そして知った父さんの人格。色んなことを見透かしていたり、したいことをスムーズに運ぶために隠し事をしたり。
 そんな父さんなら、こういう仕込みもしているかもしれない。
 僕の傷心を、少しは癒せると思ったかもしれない。
 ハヤトは僕に構って欲しいらしく、やかましく吠えまくる。
 まるで、十数年ぶりに息子に会ったみたいに。
「まったく……もう。しょうがないな、ハヤトは……」
 本当に、憎たらしくて笑いが出てくる。
 そういう父さんらしさを信じてやることにして、僕はハヤトと遊ぶために雪乃と一緒に公園へ出かけた。








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