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アメノチハレ

   
 
 
 
 
 縁の葬儀から三日ほど経った。
 太陽は、いつも同じように空から僕たちを照らしつけている。
 四角い箱に入っていた縁を、箱に入る彼女を見つめていた僕を、いつも変わらずに照らし続けている。
 交通事故。
 ニュースでは毎日のように聞く言葉。遠い世界の言葉のように聞いていた言葉を、初めて実感した。理不尽な死。近い現実。遠い実感。
 なんだよ。あの事件と同じじゃないか。
 何も変わらない。違うのは、悪意の有無。ある方が悪いのか、ない方が悪いのか。
 どこにだって殺人者はいて、誰だって殺人者になる。誰かは殺人者を恨み、誰かは庇う。そして、誰かはその人の隣に住むのだ。
 皐月橋の交差点。交通事故が多いのは既知の事実。警察も対応していた。
 警察から聞いた話だと、ちょうどお互いが見えないタイミングで出会い頭に衝突した、らしい。
 誰も悪くなかった。運転手だって、警察も悪くなんてなかった。もちろん縁も。
 悪かったとしたら、運が悪かった。縁の運がなかっただけ。ただ、それだけ。
 僕は、知らせを聞いたとき、それほど驚かなかった。
 縁にはまだ危ういところがあったし、どうでもよくなって自分から飛び出したのではないか――とさえ思った。
 そんな自分に嫌悪を感じた。僕はこんなにも汚い人間だった。
 僕の汚い思いとは裏腹に、死に化粧をした縁は、とても綺麗だった。
 綺麗。
 この世に、この言葉がこれ以上似合うものはないだろう。
 葬儀の時、みどりさんは泣いていた。必死に、悲しんでいた。
 僕は、泣けなかった。縁を見ても、ただ寝ているだけで、数時間後にはおはよう、と目を覚ますのではないかと、必死に信じていた。
 そのとき初めて縁のお父さんに会った。藤澤さんは会場で僕を見つけると頭を下げて、ありがとうございました、と言った。
 僕は何も言えなかった。藤澤さんは頭を上げると、呼ばれて行ってしまった。その背中は、間違いなく父親の背中だった。
 色々、あったのだと思う。気づいたら僕は自室のベッドに寝ていて、次の日から学校へ行っていた。僕は気づくとベッドに寝ていて、次の朝には学校へ行っている。特に変わったことはない。いつも通り。
 縁がいない。ただ、それだけ。
 約束通り紅葉を見に行った。
 いつも見慣れているはずの公園が、その時期だけは特別な場所のように紅く輝いていた。
 芝に座って弁当を食べた。一緒に紅葉を眺めた。散歩して、来年も来ようねと約束した。
 机の上にあった本を手に取った。縁から借りていたミステリー。あの日、返すはずだった本。縁に言うために感想を考えて、何度か読み返した。
 適当なページを開いて、読み進める。丁度、この物語の核である、殺人事件が起きたところだった。
 登場人物の、『死んだ』という発言を目にするのと、本を投げ捨てるのは多分同時だった。カバーが剥がれ、紙の破れる音が聞こえた。
 そこから先は簡単だった。緻密な感情の綱渡りから落下した僕は部屋のものを手当たり次第に放り投げ、蹴り飛ばし、拳を叩き付けた。
 ペン立て、本、CDラジカセ、椅子、机。投げて、叩き付けた。物がなくなると、壁を蹴って、殴った。こんな物。こんな物。あってももう意味がない。拳を叩き付ける。意味がない。意味がない。こんな意味のないものは、壊れてしまえ。
 壊れてしまえ。
 
 様々な物が散乱した部屋の中央で、ぼんやりと佇む。部屋には荒い呼吸音だけが響いていた。涙は出ていなかった。
 階下から電話のコール音が耳に届いた。
 面倒くさい。煩い。黙れ。
 ベッドにもたれ、そのまま眠りに就いた。
 
 
 翌朝、ポストを見ると、僕宛の手紙が届いていた。差出人はみどりさん。内容は、渡すものがあるから来てくれというものだった。
 封筒ごとポケットに入れて、学校へ向かった。
 学校では先日行われた中間テストの結果が張り出されていた。
 近くを通りかかると、クラスの女子に呼び止められた。
「天野君、六番だって、凄いね」
「上に五人もいるよ」
「こんなに勉強できれば悩みなんてないんでしょ。いいなぁ。天野君になりたい」
 隣にいた友達も、そうだよね、と頷いている。
「うん……そうだね」
 
 藤澤の家に着くと、すぐにみどりさんが出迎えてくれた。笑顔を作っているが、顔色は優れない。きっと何も食べずに、ロクに眠れもしないのだろう。
 なら、僕も同じか。
 縁の部屋に通された。微かに残る縁の香りが、主のいない部屋にかろうじて暖かみを残していた。
「こちらです」
 そういって差し出されたのは、日記帳だった。縁の字で、diaryと書かれている。
「机から見つけたんです。中は見ていません」
「いいんですか?」
 みどりさんは恭しく頷く。
「天野さんに見て頂く方が縁さんも喜ばれます」
 そういってみどりさんは部屋を出て行った。
 日記を捲る。
 一ページ目。
『お母さんが死んだ。私が殺したのと同じ。この気持ちを忘れないように、日記をつけよう。罰』
 始まりの日。バカだ。
 ページを捲る。
『また、死ななかった。死ねたらどれだけ楽だろう。でも、死ななければ私はお母さんを忘れない。どっちでもいい。今回もたまたま死ななかった。次は、どっち?』
 ページを捲る。
『ヘンな日だった。橋から落ちたら助けられた。男の子。凄くヘンな男の子だった。名前はたしか、あまのれいじ。絶対普通じゃない。友達いないんじゃないのかな。傘を拾った。あの、あまの君のだったりして』
「お前に言われたくない……。自分だって友達いないくせに」
『この前の橋でまた天野くんにあった。傘はやっぱり天野君のだったらしくて、うちまで来てもらった。趣味が同じで驚いた。本について話した。やっぱり天野君はヘン。普通の男の子じゃない。少し優しかった。あんなに楽しかったのはいつ以来だっただろう。まだお母さんがいた頃かなあ。
 今日の雨音は綺麗だった』
 捲る。
『見られた。たぶん、気づかれたと、思う。また忘れていった傘を取りに来た天野君に、手首の包帯を見られた。天野君は私の飛び込み現場を見ているし、手首の包帯を見れば誰だって気づくだろう。何も聞かなかったけど、また、会う約束をしたけど、不安』
 ここだ。ここでも、僕は遅れている。
『天野君から電話が来ない。そろそろ来てもいい頃だと思う。私の勝手な思い込みだけど、天野君なら、約束を守ってくれると思う』
「……」
『天野君の家に行った。彼の家は生活感がなかった。うちと似ている。だから、私は彼を好きになったのだろうか。似ているから。私はこんなに自分が嫌いなのに。素直になれない自分が大嫌いだ。また私はあの時と同じことをしている。多分もう天野君は私に会いに来ないだろう。私からも会いになんか行けない。
 天野君のお父さんは刑事だった。お母さんが死んだときに、何度もうちに来てくれた刑事さんだった。私がお母さんを殺したと、きっと彼は父親に話すだろう。
 でも、初めてあったときみたいに、死のうとする私を助けてくれるかなあ……』
 手に力がこもる。ページの端が少し歪む。
 僕が迷っていた間に縁は自分を追いつめていた。そんなことなんか考えなかった。僕はいつだって自分だった。
 僕は、僕は、僕は。
 縁のことなんて考えてなかった。
 ここから次のページで、日付が少し飛んでいた。この後入院している間は書けなかったのだろう。
『今日退院してきた。みどりさんと、天野君がずっと付き添っていてくれた。
 あの日の夜、知らせを聞いた天野君はすぐに病院まで来てくれたらしい。凄く嬉しかったけど、その分自分にも嫌気が差した。
 何日か経って、ふと思い立ってお母さんのお墓に行った。すぐに帰ってくるつもりだったけど、悲しくなって泣いてしまった。しばらくお母さんのところにいたら、天野君が探しに来てくれた。何も言わずに隣に座ってくれていた天野君に全部話した。受け止めてくれた。もう、死ぬなんて言わない。お母さんも、忘れない。
 それから今日まで天野君は毎日来てくれた。みどりさんと、天野君と、三人でいると、とても楽しい。
 明日もまた、晴れるといいな』
 捲る。
『怜司君のテストも終わって、後は夏休みに入るだけ。たくさんしたいことがあるし、たくさん行きたいところがある。楽しみだ』
 捲る。
『怜司君と街へ行った。怜司君の学校とか、デパートに行った。女の子の知り合いに声を掛けられたり。怜司君の生活が少しわかった』
『怜司君をうちに呼んで三人でご飯を食べた。怜司君はいつも一人で食べているらしいのでこれからはうちで食べることになった』
 しばらく、特別何もない日が続いた。日付は徐々に現実に近づいてくる。
『今日は色々あり過ぎて何を書いていいのかわからない。整理がついたら書こうと思う。ラーメンは美味しかった。他にも種類があるみたいなのでまた行きたいな。
 店主さんが、“柴君”の話をしたときの怜司君は、とても悲しそうだった。
 明日は晴れるといいな』
『紅葉を見に行った。とても綺麗で、力強くて、圧倒された。私もいつか強くなりたい。また来年も見に行く約束をした。今から楽しみだ』
『明日、怜司君の家に遊びに行く。今日は何もなかったけど、明日は、どんなことがあるかなあ。
 明日もまた、晴れるといいな』
 日記はここで終わっていた。
 
 藤澤邸を出ると、自然と足は公園へと向かっていた。
 既に太陽は沈みかけ、夜の帳と同時につるべのように月が顔を出している。公園に人影はない。
 入り口から、長い時間を歩いた。何枚も、何百枚も落ち葉を踏みしめた。
 縁と歩った道を、今度は一人で歩く。
 縁も、先輩も、もういない。
 枯れ葉を踏みしめる。カサリ、と乾いた音が耳に残る。
 光に照らされる。作り物の光。闇を照らすスポットライト。
 照らされるのは、僕だけ。もう、縁にライトが当たることはない。
「くそっ!」
 僕はまだ縁に言いたいことが沢山あったのに。
 縁だって僕に言っていないことが沢山あったのに。
 僕のことをもっと知って欲しかったのに。
 縁のことをもっと知りたかったのに。
 まだ僕は縁にしてやれることがあった、はずなのに。
 僕は、僕は――
「まだなにもできてないじゃないか!」
 力の限り叫んで、涙が溢れて。
 拳を握りしめて、叩き付けて。
 ポケットを探ると、あのカッターがあって。
 ここには確かに、僕がいて。
 でも、君はもう、いない。
 そして明日は、晴れ。
 
 
 
 
〈/アメノチハレ〉
 
 




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雨のち晴れ

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