七、積雨の残滓
◇
翌朝の目覚めはイヤにスムーズだった。気味が悪い程にすっきりとした目覚め。しかし、それとは対照的に空はぐずついている。対照とは、気味が悪くはないという意味だ。
一階に降り、朝食を適当に見繕ってソファに腰掛けた。テレビを点けようとリモコンを探す。その拍子にテーブルから分厚い紙の束が落ちた。
慌てて拾い上げる。ひらり、と一枚の紙が床に落ちた。
手を伸ばし、裏返った紙を見た。
履歴書か、と何気なく目を通した。
寒気を覚える。顔から血の気が引いていく。
違う。履歴書ではない。これは捜査報告書だ。父が読むために昨晩持ってきたのだろう。
だが、僕が驚愕しているのはそんなことではなかった。
その報告書は個人情報が細かく記載されていた。当然顔写真も添付されている。
その、A4版の用紙の右上に貼られた写真は、紛れもなく柴先輩のものだった。
なぜ警察が先輩の資料を持っている、と考えるがすぐに答えは出た。
俺も見たんだ、元人間を。先輩はそう言っていたじゃないか。そしてその容疑者として調べられていたとしても不思議ではない。
ほっと胸をなで下ろした。その理由はわからなかった。いや、誰だって知り合いが警察に調べられているとわかったらいい気はしないだろう。当然。そう、当然だ。
『本間 真』
目に入ってしまった事実から、これほど目を背けたかったことはない。そして、これほど興味を惹かれた事実もなかった。
先輩の顔写真の横に記載された、氏名、本間真の文字。
みどりさんが紹介してくれた、本間家の長男。縁の母、藤澤詩織の死体を発見した学生。うちの学校の生徒会長。そして、僕の友人、柴真。全て同一人物だった。
複雑だった式を簡略化した先に見えたのは数々の共通項だった。
なるほど、本間の社長ならば警察と繋がりがあってもおかしくない。親の働きかけで先輩は容疑者から外れたのだろう。そういったことが本当に可能なのかどうかはわからないが、事実僕は父の息子だということで捜査対象から外されているように思える。
ここまでは納得できる。だが、そもそもどうして先輩は本間を名乗っていない?
校内では皆、教師達でさえ柴と呼んでいる。なら、その事実は知られていないということだろう。誰も知らないというのは不自然だが、実際は校長など一部の人間は知っていたのかもしれない。
先輩が本間の息子だというなら、何故あんな公立の学校を選んだのだ。特別扱いされるのを嫌った、とか気楽な方がいい、という小説のような理由も、先輩を見ていると否定はできない。しかし、根拠はないが、それは違う気がした。何か理由があるはずだ。
もう一度調査書に目を通した。なるべく不必要な情報には目を通さないようにしながら一つ一つ情報を拾い上げていく。
家族欄、父、母。違う。略歴、違う。備考、両親は離婚、その時のトラブルで両親と不仲。現在は市内に一人暮らし。
これだ。
母親の旧姓は柴、とある。両親の離婚が原因で何らかのトラブルが起きた。そのトラブルの内容は想像するしかないし、知りたくもない。とにかく、それで母親が親権をとったのか、それとも名乗っているだけなのかはわからないが、先輩――本間真は現在柴真として生活している。
そういえば、いつだったか先輩が一人で暮らしているという話を小耳に挟んだことがある。その時は興味がなかったので直接先輩に聞くことはしなかった。
先輩に連絡をとりたいが、僕は先輩の電話番号を知らない。学校に聞いても教えてはくれないだろう。どこに住んでいるかも知らない。
僕は先輩のことを何も知らないのだ。先輩にも僕のことは殆ど話したことがない。
待てよ――。じゃあ、なぜ、先輩は僕の家を知っていた。
僕は教えた覚えはないし、もちろん来たこともない。
いくらでも調べる方法はあるだろう。例えば、生徒名簿を調べる方法。生徒会長の先輩なら見る機会はあるだろう。住所を調べるぐらい造作もないだろう。
だが、そんなことをするならなぜ僕に直接聞かなかったのだろう。他の方法でも同じことだ。僕に直接聞けば直ぐに済む話だ。
わからない、と頭を振る。ここで考えていても仕方がない。先輩に連絡を取ることが先決だ。聞きたいこともある。
学校に行けば家の電話番号ぐらいわかるだろう。
当然だが、相変わらず学校に人気はなかった。どうやら教師もあまりいないらしく、静寂は不気味さを作りだしている。
それでも見つかると面倒なので職員室を避け、大回りして生徒会室にたどり着いた。
当たり前のようにかかった、古い錠前。錆ついたそれは、それでも必死に外敵の進入を防いでいる。
隣の準備室のドアを、音を立てないように開けて中に滑り込んだ。その奥にある古い机の引き出しを開け、鍵を取り出した。
そして机の横のドアノブに差し込み、回す。カチリと音がして隣の部屋と道が繋がった。
生徒会室とこの準備室は、中で行き来できるようにドアで仕切られている。会室側は常に錠がかけられ、一部の教師と生徒以外は自由に出入りできなくなっているが、準備室側は鍵がかかっていない。正確には壊れているのだが、自由に出入りできるという意味では違いはない。
そして会室と準備室を繋ぐドアの鍵は準備室に保管されているので、実質会室にも出入りは自由なのだが、このことは生徒にはもちろん教師にも意外と知られていないようだ。
もっとも、生徒会室に入る必要があり、好んで使用する人間は教師も含め殆どいない。
基本的には先輩と数人の生徒会中央政権のみで、唯一の例外が僕。
そして、もう一人、いた。
会室の棚を探すと、あっさりと連絡先一覧が見つかった。自宅の電話番号と名前が記載されている。
今は皆携帯で連絡を取り合っているのでこれは飾り程度だろう。しかし携帯を持っていない僕は先輩の番号を知らない。電話で連絡を取り合ったこともなかった。
先輩の番号をメモし、会室を出た。
学校から連絡してもよかったが、やはり教師に見つかると多少面倒なことになるだろうと思い、学校の外の公衆電話からかけることにした。
携帯を持っていれば場所など関係なく連絡できるのに、と思う。必要性は感じたことがないが、持っていれば確かに便利だろう。縁に勧められたときに買っておけばよかったと少し後悔したが先には立たない。後悔は人間の特権だ。
お金を入れ、番号をプッシュした。コール音が鳴る。十回ほど鳴らしたところで一度受話器を置き、もう一度コールしたが、結果は同じだった。
受話器をフックにかけ、軽く舌打ちをした。何か、酷く嫌な予感がした。今の空のように雲がかっている。
電話ボックスから離れ、何か他に先輩に連絡を取る手段はないか、と頭を回転させる。
無意味な時間を過ごしているような気がして、気ばかりが急く。
そうだ、と重要な見落としに気づいた。あの捜査記録なら本間の家の連絡先が書いてあるのではないか。だが、今の時間では既に父が持っていってしまっただろう。朝、僕が目を通せただけでも有り難いことだった。
そこまで考えて、何か引っかかりを覚えた。少し考えると、それはすぐにはっきりと形を描いた。
みどりさんだ。彼女なら本間の家の連絡先を知っている。迷惑をかけることになってしまうが、今はそれ以上の方法を思いつかなかった。
早足は気づくと駆け足になり、駅へと向かう。何をそんなに焦っているのか、と自問するが答えは返ってこない。
雲は一層深くなっている。「見た」通り雨が降るのは時間の問題だろう。
◇
藤澤の家に着くと、みどりさんは心底意外そうな顔で出迎えてくれた。
「天野さん、縁さんとお会いになりませんでした?」
「縁ですか? いえ、会ってませんけど」
そうですか、と首を傾げる。僕は何かあったのかと尋ねた。普通ならあまり気にならないが、縁には前科があるため内心気が気ではない。
「今朝、縁さん宛にお手紙が来たんですよ。本間真さんから」
「え?」
耳のすぐ後ろで心臓が跳ねた。体の外に飛び出すのではないかとすら思えた。
「タイミングが良すぎるので、多分先方が気を利かせてくれたのだろうと思いました。縁さんにお見せしたら、天野さんに知らせに行ってくると飛び出していきました。行き違いになったにしては時間が経ちすぎてますね」
血の流れは緩む様子を見せずに、少しずつ凍り付いていく。最悪のビジョンが脳裏に浮かぶ。
無意識に空を見上げた。雲が空を浸食し、雨が降るのは時間の問題に思えた。
「縁は、その手紙を読んだんですか」
すぐにでも走り出したい衝動を抑え質問すると、みどりさんははっきりとはい、と答えた。
「ですが、わたしは中を見ていないので中身はわかりません」
「そうですか」
「お役に立てず申し訳ありません」
「そんなことありません。ありがとうございます」頭を下げるみどりさんに声をかけた。「家に戻ってみます」
藤澤家に背を向けた。
時計を見ると、一時になろうかという時刻だった。今日、僕は朝から学校へ行っていた。だから縁とは会えなかっただけだ。そうに決まってる。
そう自分に言い聞かせる。だから二人でここに帰ってこられる。藤澤家の門を振り返り、そう強く思った。
息が上がる。今度は心臓が口から飛び出しそうだ。
家に戻っても案の定――あって欲しくないことだったが――縁の姿は見あたらなかった。彼女の携帯に電話をかけてみたが、電源が入っていないようだった。
自転車を引っ張り出し、どこへともなく漕ぎ出した。
脳裏に浮かんだ最悪のビジョンが、一昨日の夢と重なり、現実味を帯びて像として形成されていく。
ずっと、引っかかっていることがあった。
先輩は昨日、僕が現場にメガネを落としたことを、コネのある刑事から聞いたと言っていた。その時も疑問に思っていた。なぜ、そんなことを知っているのかと。
あれを見つけたのは僕の父だ。それを聞いたとき、父は確かに、応援が到着する前に拾っておいた、と言った。
それを同僚に話すこともあるかも知れないが、本当はいけないことだが、とも言っていたことから話すことは考えにくい。
先輩と繋がりがある刑事というのが、その同僚だという可能性。考えにくいが、考えられないことではない。
けど、例えそうだとしても、高校生にそんな細かいことまで話すなんてことがあり得るのか。
今朝、先輩は本間の人間だと知った。先輩の父親が警察に圧力をかけることのできる人間ならば、そういった情報を手に入れることができるかも知れない。
そして、一時警察に容疑者扱いされていた息子にそのことを教えても不思議はない。漠然とそう考えていた。
だけど、よく考えてみると、それはあり得ないのではないか。
報告書に書いてあったではないか。『現在両親と不仲。一人暮らし』、と。不仲とはどの程度のことなのかはわからない。しかし、本間の暮らしを捨てて一人で生活している程の人間が、反発している父親からそんな情報をもらうだろうか。
もちろん、息子を心配している父親が勝手に情報を送ってきたとか、その刑事と先輩が個人的な知り合いである可能性などもある。
でも、そのどれもがピンと来ない。食パンに納豆を乗せて食べるように、どこかちぐはぐな気がした。
なら、柴、いや、本間真はどうしてそのことを知っていたのか。 どれも違うというのなら答えは一つしか考えられない。
いたのだ。彼は現場に。
岡田先生を殺したのは、先輩なのだ。
殺された藤澤詩織の第一発見者。そして今回、岡田先生が死んでいた現場の状況を知っていた。
この程度ではとても断言することなんか出来はしない。普通なら。
でも僕は夢を見た。先輩が動かない縁の隣で狂ったように笑っていた夢。
今までずっと否定してきた。ただの夢だと。思い込もうとしてきたのだ。
以前にも同じ経験をしたことがある。病院からいなくなった縁を捜した日。霊園の、藤澤詩織の墓の前で佇んでいた縁。僕は授業中に全く同じ光景を夢で見た。
デジャヴなんかではない。今ならはっきりとわかる。僕はその光景を見ていた。
その時と同じだとしたら。そう考えると寒気がして、汗が流れた。
急げ。どこだ。
考え過ぎならばそれでもいい。そうあって欲しい。
それなら、ばかやろう、と先輩に頭をこづかれて終わる。
何もかも今まで通り。
縁の無事と、それだけを願って車輪を回す。
公園、霊園、商店街。縁の行きそうな場所は大体回った。何人かみかけた知人にや、何軒か店にも入ってみたが、見かけた人はいなかった。
ダメだ。闇雲に回っても見つかるわけがない。
手がかりが欲しい。何か、ほんの少しでもいい、何か。
みどりさんが手紙を見ていれば、と考えるがどうにもならない。
これだけ探して、見かけた人もいないとなると縁が町外に出ているのはほぼ間違いないだろう。
おそらく先輩と二人なのは間違いない。なら、場所も先輩が指定した場所だろう。
僕は先輩のことを何も知らない。
舌打ちをして、止めていた自転車を再び漕ぎだした。体を動かしていないと何かに押しつぶされてしまいそうだった。
先輩と、縁。
そうか。
あの、夢。そこで僕は一度、その場所を見ている。
あれが本当に現実に起こることなのか。確証はない。ただの思い込みかも知れない。
でも、今は少しでも頼るものが欲しい。
あのとき、場所までは見えなかった。普段は空の様子が見えるだけなのだから、それだけでも特別なものだった。
その前、縁の姿を見たときもそうだった。感覚が研ぎ澄まされ、集中することで、霧の向こうを垣間見た。
なら、僕次第でその先を見ることも可能なはずだ。不可能だとしても、やるしかない。
空を見る。雲がかかり、黒ずんでいる。
雨が降れば確実に先輩は行動を起こすだろう。時間が、ない。
公園まで自転車を走らせる。入り口に自転車を乗り捨て、人気のないベンチに腰掛けた。
信じられないほど冷静な自分に驚いた。糸口を見つけたからだろうか。気負いも緊張も感じてはいなかった。
今まで一度も自分の意志で「見た」ことはない。まして、あの時と同じ場面を見られるのか。
でも、そんな不安も今は感じていない。
目を閉じる。自然に、立って歩くほどの煩わしさも感じずに、すんなりと霧の世界へと移り変わる。
白い壁、白い大地、白い空。世界全てが白の中で、ゆっくりと目を開いた。
白い闇へと踏み出す。その度に世界は揺れる。不安定な世界。頭痛。
深く、深く歩くほどに頭痛は激しくなっていく。それでも進む。
小さく開いている穴の奥に目を向ける。黒い雲。あの時の空だ。
目を凝らす。鼓動は加速し、頭痛も更に酷くなっていく。
あの夢と同じ光景が見えた。倒れている縁。笑う先輩。
やはり風景は見えない。もっと、深く。
ノイズが走る。血管が張り裂けそうに膨張し、呼吸が乱れる。頭が割れそうに痛い。このまま続ければ、自分がどうなるのか全く見当もつかない。
それでも進む。きっと、彼女が感じていた痛みはこんなものじゃないから。
限界まで感覚を酷使させ、先輩が立つ霧の中を凝視する。灼けつく脳の熱さに耐え、神経をすり減らす。
一瞬。世界が色を取り戻し、再び白く染まる。
そこで接続が切れた。突然戻った世界に戸惑う。
深呼吸をし、動悸を落ち着けようとするが、息は荒くそれすら覚束ない。
既に太陽は落ちかけている。半袖には少し肌寒い風が熱を冷まし、現実感を煽っていく。
だが、今「見た」ものも、紛れもなく現実。僕が体験した、現実。そして、きっとこれから起こる、現実。
そこまで考えて薄ら寒くなる。勢いよくベンチから走り出し、乗り捨てておいた自転車に跨った。
駅に向けて自転車を飛ばす。
見えた場所。大量の水、緑色の床、ガラスの天井、飛び込み台。学校のプールだ。
◇
プールの外観からは全く人気も活気も感じられなかった。部活動も全面禁止になっているため、水泳部も使用していない。
プールは敷地の隅に別棟として建てられている。温水プールで、冬にも使用することが出来る。外から中の様子はわからず、音も聞こえない。
入り口には鍵がかかっていた。舌打ちが漏れる。扉を蹴り、生徒会室へと走った。焦る自分を抑え、教師に見つからないように鍵を持ち出し、プール棟へと戻った。
錠に鍵をさすが、合わない。確認してみると、裏口と表記があった。
裏口に走り、鍵を回すが手応えはない。ノブを回すと、拍子抜けするほどあっさりと開いた。先輩もここから入ったのだろう。
鍵をポケットにしまい、薄暗い屋内へと足を踏み入れた。
プール、とりわけ更衣室というものは元々薄気味悪く作ってあるものだ。光が届かない、カビの繁殖する世界に入ると例外なく憂鬱になった。
しかし、今感じている不安はそのせいだけではない。
奥のドアをくぐると、世界が開けた。いつもなら天窓から差し込んでいる陽はなく、照明もついてない。
一人、薄暗い世界に立っている男。
「よう」
振り向き、期待外れなほど明るい声で呼びかけてきた。
「縁はどこです。柴、いや、本間先輩」
水槽を挟み、プールサイドで視線をぶつける。そうでもしていないと気圧されてしまいそうだった。
「さて、ね」
僕の視線を受け流し、肩をすくめる。視線を外さずに少しずつ距離を詰める。
「お前、どこまで知ってるんだ?」
僕は返事の代わりに、さらに強く視線を叩き付けた。
「気づいてるんだろう」
何に、とは聞けなかった。聞いたら全てが崩れてしまう気がした。衝動を抑え込み、理性で言葉を吐き出した。
「縁はどこです」
「まあそう慌てるなよ。少し俺と話してくれよ」
「本当に」言葉が詰まる。でも、喉の奥から溢れてくる言葉を塞き止める力は理性にはなかった。「本当に、先輩が」
殺人犯なのか。
口に出したつもりだったが、それ以上言葉にすることは出来なかった。そこが最後の境界線。
そして、「そうだよ」
ご飯を食べに行こうと誘ったときのように気軽な口調で、
「俺が殺したんだ」
自分は殺人犯だと、口にした。
思っていたよりも冷静な自分がいる。仮説はあくまでも仮説だったはずなのに。疑惑はいつの間にか確信に変わっていた。
「で、何か他に聞きたいことは?」
軽く振り上げた右手。その手は、一体今までどれだけの死を生み出してきたのか。軽く微笑んだ瞳はどれだけの死を見てきたのか。
「何で、僕に気づかせようとしたんです」
先輩は微笑みを崩そうとはしない。僕は続けた。
「今まで全く手がかりが得られなかったのに、今回だけはそれが沢山あった。それも僕にだけわかる形で。決定的な言葉さえ残した。そんなことしなければあなたはずっと疑われているだけで済んだはずだ」
それだけがずっと疑問だった。いくら考えてもわからなかった。
僕だけにわかる、といってもここまでやってしまったからには警察に気づかれるのも時間の問題だろう。先輩はただでさえ容疑者なのだから。先輩がそのことに気づいていないとはとても思えなかった。
「天野、俺はな」
口調も、表情も変わらない。でも、ほんの少しだけ雰囲気が変わった。仮面が外れたのか。
「初めてお前に会ったとき、こいつは違うって思ったんだよ」
僕を見る。
視線はずっと僕を見ていたけど、僕を見たのは初めてだった。
「屋上で昼飯を食っているお前を見て、一目で興味を持った。自分は他人とは違うって雰囲気を出してた。教室って空間から隔離されているのか、お前が学校を隔離してるのか、なんて思ったよ」
目を見開いて、嬉々として、目の前の殺人者は想い出を語る。
「とにかく、こいつは俺と同じだと確信した。そうだろう? お前が何を隠してるのかはわからなかったけどな」
「言えば、あなたも教えてくれましたか? 通り魔殺人犯は自分だ、って」
柴、いや、本間はくくっと小さく笑った。
「俺もお前も、社会からつまはじきにされる。それを隠さないとな。だが、それを隠すから、不信感が募り社会から弾かれる。だからもっと上手く隠す。だが、完璧なんてものはない。どこかが完全ならどこかに歪みが出来る」
歪み。それが、凶行に及んだ理由なのか。
「バカバカしい。鶏と卵の理論だ」
本間はそうだな、と軽く頷いた。
「お前は完全に隠そうとしなかった。だから弾かれた。自分以外の世界はどうでもいい。俺もお前の視界には入っていなかった。そんなお前のスタンスに俺は憧れすら覚えたよ。俺には出来なかった。だから俺は思ったんだよ。コイツを、綺麗に殺してやりたい、ってな」
その、鋭く冷たい眼差しに、背筋が凍る。
本間真が語る、柴真の本心。
「それから、目的が変わった。いわばストレスの解消が目的だった行為に目的が出来た。お前を綺麗に殺してやるための予行演習。なんだって練習は大事だろ?」
壊れてる。世界から弾かれた人間。僕も、なにかを間違っていたらこうなっていたとでもいうのか。
「岡田先生もそうだったのか。そんなことのために」
「そうだ。元々あの人も俺好みの人だったからな。だけど男を殺すのは大変なんだよ。抵抗されて証拠でも残されたら取り返しがつかない。これは女でも同じだけどな。その点あの人は俺のこと信用しきってたから隙をつくのは簡単だった」
頭が灼けるように熱い。昂っている。吐き気すら感じる。
いつの間にか外では雨粒が落ち始めていた。天井を打ち付ける音が響く。舌打ちを一つ。
「縁はどこだ」
「まあ聞けって。そうやって練習を重ねて、一年ぐらい経った頃、突然お前に魅力を感じなくなった」
目に見える落胆の色を瞳に宿し、視線が僕を射抜く。先ほど感じた薄ら寒さは感じない。興味の尽きたおもちゃを見るかのような、蔑み。
「周囲を拒絶していた、鋭い目と雰囲気が和らいで、どこにでもいるような男にしか見えなくなった。それから少しして、お前が女と一緒にいたという話を聞いた。正直耳を疑ったよ。お前が女とつきあうなんて想像も出来なかった。いや、お前とつきあう女なんて想像できなかった、だな」
余計なお世話だ、と言葉を飲み込んだ。
出会ってから一年というと、今から三ヶ月ほど前だろうか。ちょうど、縁と出会った頃。
「お前の家まで行ったあの日に初めてその女を見て驚いたよ。世の中にはこんな偶然もあるんだなって素直に感心した。まさか俺が最初に殺した女の娘だったなんてな」
本間の顔が歪む。僕の中の嫌悪感は更に強まっていく。縁がいなくてよかったと本心から思った。
「葬式のとき以来だから、五年ぶりか。でもすぐにわかったよ。俺の記憶の姿とぴったり符合した。ただ、一つ違ったのはお前と同じ眼をしてたこと。以前は鋭くていい目をしてた。葬儀の時も気丈に振る舞っててな。すぐに興味を持った。だけど、もう魅力は感じなかったよ。あの女のせいでお前が変わったって考えるとな、もう憎悪の対象にしかならなかった」
「それで、手紙を出したのか」
「藤澤の家から連絡があったのは聞いてたからな。それがお前絡みかどうかまではわからなかったが、結果的に上手くいった。母親のことを書いたら、あっさりひっかかったよ」
反吐が出そうになる笑い声が薄暗いプールに響く。波のない水面に映る、歪んだ身体。
「僕は、縁と会えた」
小さく、本当に小さな声で呟いた。風が吹いたら、飛ばされてしまいそうな、小さな言葉。
「先輩は、会えなかった」
先輩の言うように、僕たちは似ていたんだろう。それが、僕と先輩の、ほんの少し、だけど決定的な違い。
先輩は、長い間自分を傷つけてきたのだろう。だから、他人を傷つける術を知っていた。
先輩が縁と、僕にとっての縁と同じ存在と出会っていたら、こんな結果にはなっていなかった、のかな。
「――先輩、縁は、どこです」
本間は一瞬目を伏せ、両手をポケットに入れた。そして直ぐに薄ら笑いと共に視線を戻す。同時にポケットから手を出した。
「死んだよ。俺が殺した」
言葉は、僕の中に深く突き刺さる。先輩がおそらく持っているであろうナイフ。そんなものよりもずっと僕をえぐる。
「嘘。嘘だ」
「白い肌にナイフを軽く突き立てると、プツッって音がして、軽く血が出るんだよ。そのまま引っ張るとブツブツって肉を裂く感触がナイフから伝わってくるんだ。その時の気分といえば、もう言葉では言い表せないほどの快感だ」
右手を見ながら恍惚とした表情を浮かべる本間。自分の口内から歯が擦れあう音が響く。煩い。
下卑た笑い顔。
煩い。
「楽しませてもらったよ。――色々とな」
煩い。煩い。
「なあ、天野――」
「柴ぁぁっ」
絶叫。
強く、強く一歩を踏み出し、飛びかかる。
六歩と半ほどあった距離を一足で飛ぶ。
二足目。視界の端で柴の手がポケットに入る。右肩を掴む。押し倒す。
浮遊感。衝撃。呻き声。
同時に肺から息が漏れる。二人の動きが止まるが、準備していた分こちらの方が一瞬早い。
身体に無理矢理ムチを入れ、強引に馬乗りの体勢を作る。
柴の手が顔に伸び、視界を遮る。構わずに握った拳を振り下ろす。
呻き声。同時に伸びた手の力が弱まる。
振り下ろす。振り下ろす。何度も。何度も。
手を止めると、虚しさがこみ上げた。力が抜け、へたり込む。
外を見ると、もう雨はやんでいるようだった。通り雨だったのだろうか。
倒れている柴の手がポケットをまさぐる。とっさに身構える。
「まあ、待てよ」
その声から既に不快感は感じなかった。どうでもよくなってしまったのか。ただ、虚無感が募る。
柴がポケットから取り出したものはタバコだった。
「タバコぐらいゆっくり吸わせろよ」
慣れた手つきで一本くわえ、逆のポケットからライターを取り出す。揺らぐ篝火を見ながら、なんだよ、ナイフじゃないのか、とぼんやり考えた。
柴は大きく煙を吐き出すと、ゆっくりと上体を起こした。
「痛ぇな。おもクソ殴りやがって。口の中切れてやがる」
顔をしかめる。口内の傷に煙がしみるのだろう。
「吸うか?」
ケースを振ると、中から一本だけ顔を出した。僕は首を振る。
真面目だねぇ、と漏らし、柴はまた仰向けに寝転がった。
「ナイフじゃ、なかったのか」
声は届いているのだろう。でも、返事は届かない。代わりに煙を吐き出す息づかいが空気にのって螺旋を描く。
様々な感情が雨の飛沫のように弾けては消える。怒り、憎しみ、悲しみ、虚無感。
「なんで、縁を……」
縁はもういないという事実がただ僕を苛む。もっと早く気づいていたら、もっと早くここに来られていたら。僕はまた間に合わなかった。いつも、肝心なときに届かない。
「ゲームだったんだよ」
ぽつり、と漏らす。独り言のような、語り言。
「俺が勝つか、お前が俺を見つけるか、ルールはそれだけの、シンプルなゲーム。景品は、藤澤縁。でも、それだけじゃ俺が有利すぎるだろう」
根本までなくなったタバコを床に押しつける。水を被って湿った床は、小気味いい音をたて、鎮火させた。
「だから、ヒントをくれたとでも」
「ゲームはな、リスクがないと面白くないんだよ」
「ふざけるなっ。そんな理由で――」
縁を。その先は言葉にならなかった。言葉にしたら認めてしまいそうで。認めたくない。そんな小さな思いが言葉を詰まらせる。
「ふざけてなんかいないさ。俺は本当に許せなかったんだ。お前が変わってしまったことが。だから、あの女がいなくなれば、お前がまた――」
そこまで言って、本間はいや、と首を振った。
「満足か。ゲームはあんたの勝ちだ。次は僕か」
本間は僕を見ずに、勢いを付けて立ち上がった。
「景品はあそこだ。早く持って帰れよ」
指の先は、ボイラー室。
「どういう、意味だ」
「制限時間は、雨が降るまで。お前の勝ちだよ。さっさと持って帰れよ」
そう言って歩きながらもう一本タバコに火を着けた。
僕は意味がわからずにしばらく呆然としていた。
僕の勝ち? 先輩に勝った? じゃあ、縁は?
「先輩、あなたは」
「安心しろ。何もしちゃいない」
無造作にポケットに手を入れた先輩は中から取りだしたものを、やはり無造作に僕に投げた。
綺麗に弧を描いたそれを空中でキャッチした。
黒い柄。その中に銀の曲線が走っている。二股に分かれた柄を開き、回転させると、銀色に光る刃が飛び出した。黒と銀のバタフライナイフ。
「持ってけ。ロープが切れないだろ」
自分の右ポケットをズボンの上から触る。金属との接触感。こんなことも忘れていた。僕はきっと口の端をつり上げて微笑っているだろう。
「必要ありません」
僕には縁がいるから。こんなものは、必要ない。
先輩へナイフを投げ返した。
「必要ありません、ね……」
受け取った先輩はそれを一瞥した後、プールへと放り投げた。中央に落ちたナイフは波を立て、波紋を残す。
僕はもうどうでもよくなっていた。目の前にいる男が、この街を恐怖させている殺人犯だということ。父が長い間追っている男が目の前にいること。岡田先生を殺したのは先輩だということ。
全部どうでもよくなっていた。縁が無事なら、それでよかった。
「僕はずっとあなたが羨ましかった」
外の世界を持っていたから。皆から必要とされていた。そう思っていた。
だから僕は先輩に勝ちたかった。何をやっても敵わなかった。だから僕は先輩を必要な存在にしたくなかった。認めたくなかった。
「バカなこと言ってんじゃねえよ」
後ろ姿からは、その表情はわからない。水面に映し出されたその横顔は、波紋に揺らいでいた。
◇
先輩の言ったとおり、縁はボイラー室で手足を縛られ、壁にもたれていた。
部屋に入った僕を見て、名前を呼んだ。そしてほっとため息をついた後、縁は申し訳なさそうに目を逸らした。
何故そんなことをするのかわからなかったが、すぐに、勝手に本間に会いに行ったことを申し訳なく思っているのだと気づいた。
とりあえずそのことは言及せずに、ポケットからカッターを取り出し、縁の自由を奪っているロープを切断し始めた。
腕のロープを切ると、手首が鬱血して紫色に変色していた。遅くなってごめん、と謝ると、縁は黙って首を振った。
「そのカッター、まだ持ってたのね」
その瞳に宿る感情は、とても言葉で表せるようなものではない気がした。少なくとも僕にはできない。
「役に立ったね」
足のロープを切ると、縁は壁を使って立ち上がろうとするが、よろけて手をついてしまう。肩を貸すと、足が震えていた。
「とにかく出よう。ここは暑い」
四十度近くあるのではないだろうか。縁の身体は汗に濡れている。
プールサイドに出ると、ひんやりとした空気が汗ばんだ身体に心地いい。もうそこに先輩の姿はなかった。
縁を壁にもたれさせ、手足をマッサージする。
「怜司君、ごめんなさい。私ね」
「今はいいから」
でも、と動く縁の唇に指をあてる。動き出さないうちに先手を取って立ち上がった。
「飲み物買ってくるよ」
校内の自販機でジュースを買う。みどりさんに電話して縁の無事を連絡し、縁の所に戻った。
ガラスの天井から差し込む月明かりがプールの水に光を反射させている。その幻想的な雰囲気の中で、少女は足だけを水に浸していた。
僕に気づくとパシャパシャと動かしていた足を止めた。ジュースを渡すと、美味しそうに飲み始める。
「あの人、寂しそうだった」
彼女の隣に腰掛ける。
「私と似てた。きっと、私みたいにあなたと会えなかったのよ」
驚いた。縁が同じことを考えていた事実に。ストレートな言葉に少し気恥ずかしい。
「行きましょう。もう大丈夫」
先ほどと同じように肩を貸して立ち上がる。
外に出ると、湿った風と土が雨の残滓を残している。雲の合間から顔を出した月が夜を照らしていた。
「みどりさん、心配してるかな」
「さっき電話しておいたよ。帰ったらまず謝らないとね」
「うん」
ふと、胃が空腹を訴えてきた。そういえば朝から何も食べていない。縁の方を見る。
「お腹空いてない?」
「そういえば、朝から何も食べてない」
「じゃあ、ラーメンでも食べながら今日の話を聞かせてもらおうかな」
「私、ラーメンて食べたことないのよ。美味しいの?」
「えっ、ラーメン食べたことないの?」
「みどりさんは和食専門だから」
甘かった。縁に一般常識を適用させようとした僕が甘かった。改めて考えてみるととんでもない人なのではないか。
「失礼なこと考えてる顔ね」
「よし。食べに行こう。近くに美味しい店があるんだ」
肩を貸している格好を利用し、無理矢理方向転換。文句を言っていた縁もしばらくすると静かになり、二人で何を言うでもなくゆっくりと歩いた。
先輩と歩いた道を縁と歩く。
僕が先輩と出会ったことにも、何か意味があったのだろうか。先輩が、僕を見つけたことに、何か意味が。
考えてもわからないけれど、一つだけわかったことがある。
僕の、天気が見える力は、今日のためにあった。この力がなかったら、僕は間に合わなかっただろう。今回は間に合った。間に合えた。縁を守ることが出来た。それだけでいい。
たぶん、もう先輩と会うことはないだろう。確信に近い予感。そして、これからも縁と一緒に歩いていくのだろう。
そんな感傷に近い感情は縁の一言で空に霧散した。
「明日、晴れたら公園に行きましょう」
「うん。そうだね」
「またお弁当作っていくから」
「もう少ししたら紅葉の季節だね」
「そうしたら、また行きましょう」
「うん。そうだね。これからいつでも行ける」
「そう。いつでも」
笑いながら、手を繋ぐ。
色々考えなきゃいけないことはあるけれど、とりあえず、手を繋いで、ラーメンを食べて、今日のことを話そう。
これから、時間はいくらでもあるんだから。
隣に並んだ縁を見て、そう思う。
このまま二人で歩いていく。
行きも、帰りも。
雨でも、晴れでも。
〈/雨のち晴れ〉
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