六、葉の如き落陽の空を仰ぎて
◇
「お前、友達いないのか?」
それが僕たちの間にある最初の言葉だ。一年半ほど前、僕が入学してから一月ほど経った日だった。
当時僕は昼食の時間になると、立ち入りが禁止されている屋上で昼食を摂っていた。
禁止されているといっても名目上のことで、実際に屋上の入り口は施錠されていない。このため屋上で食事をする生徒は意外と多い。
これは教師達の間でも周知の事実であるが、黙認されている。ノイローゼで自殺するほど勉強する生徒は開校以来いないからだというのが通説だった。
その後聞いたところによると、先輩も同じように屋上で昼食を摂っていて、気まぐれで声をかけたらしい。
僕がその質問になんと答えたのかは覚えていないが、そこから先輩とのつきあいが始まった。
特に気があっていると感じたことはないし、必要性を感じたこともなかった。
ただ、先輩の周りにいる人たちが感じていると同じように――おそらくだが――先輩の何かに引っ張られていると感じたことはある。
それが何かはわからないし、きっとみんな違う物に引っ張られているのだろう。中には人柄、つまり親切で優しい先輩に惹かれている人もいるだろう。中には身体能力や成績に憧れている人もいるのだろう。
ただ、僕が感じている物はそれとは全く違った物だということはわかる。
そう、強いていえば、僕が縁に感じている物に近い。
ということは、恋――。では決してない。敢えていうのならまな板の上の鯉だろう。
ゆっくりと景色が通り過ぎていく。やがて停止すると、ドアが開き、数人が乗り込んできた。再び電車が動き出した。特有の振動と走行音が加速していく。
一つ、はっきりわかったことがある。僕は先輩を恐れている。本心を隠している先輩が怖い。
何故だ。今までだってずっとそうだった。それでも怖いなんて感じたことはない。居心地よくすら感じていた。
先輩が変わっていないのなら、変わったのは僕の方か。
いつからだ。なぜだ。
縁と会ってからか。縁と会ったからか。
感傷的になっているから、そう思うのか。
何故感傷的になっている。
岡田先生の死――。
そこで思考をシャットアウトした。
気づくと少し猫背になっている。歳をとると人間はどんどん背中を丸めていく。それは胸を張って歩くことが出来なくなると同時に、背負う物が出来るからだろう。
そしてその重さに耐えることが出来なくなっても、背中を曲げて、まっすぐに立とうとするのだ。
でも、僕が背負っている物は焦燥であり、不安であり、恐怖。昨日から感じている正体不明の感情は先輩とのバスケで払拭することは出来なかった。
窓ガラスに映った男の表情には余裕は見あたらなかった。
「怜司君」
藤澤家に到着すると、文字通り縁が飛び出してきた。肩を掴まれ、揺らされる。首がガクガクと揺れ、上手く声が出ない。
「ちょっ、と、待っ、て。今話すから」
「あ、ごめんなさい」
軽いめまいを感じる。
いつもの客間へ通されると、お茶菓子をお盆に乗せたみどりさんが現れた。どうぞ、とお盆を机に置き、自分も腰を下ろした。
「話して頂けますか、天野さん。縁さんとても心配していましたよ」
僕は頷き、昨日の出来事を詳しく説明した。縁には昨日既に話した内容だったが、やはり不快らしく、しきりに顔をしかめていた。
「学校ではなんて?」
「大丈夫かって聞かれただけだよ。もちろん大丈夫」
嘘をついた。宮田との話をして余計な心配をかける必要はないだろう。それに、僕自身あまり思い出したくない話だ。
縁はそう、と安堵の表情を浮かべた。気づかれたかと思ったがどうやら大丈夫らしい。
「大変でしたね」
優しくみどりさんが言う。今は何よりもその言葉が心強く思えた。
不意に縁が席を立った。お盆に既に冷めてしまったお茶を載せる。
「縁さん、わたしがやりますよ」
みどりさんが慌てて立ち上がるが、それを手で制した。
「いいわよ。私がやるわ」
みどりさんは、ははあ、と細い視線を向ける。
「お花摘みですか」
言い終わるが早いか、お盆の端がみどりさんの頭に衝突した。ししおどしのような小気味いい音が鳴り、縁はお盆と共に廊下へ出て行った。
残された僕と、頭をさすっているみどりさんはお互いに軽く笑う。
みどりさんは手を止めると一転して静かに話を始めた。
「天野さん」呼びかけに僕はすぐに答える。
「奥様、縁さんのお母様を見つけた方も、学生の方だったんですよ」
以前、父がそう言っていたのを思い出す。
「ええ、知っています」みどりさんは頷く。
「あの方もとてもいい人でしたよ。その分ショックも大きいようでしたが。少し寂しそうでもありました」
さっきの言葉はそういう意味か、と気づいた。
以前にも僕と同じことで暗澹とした表情を浮かべていた人を彼女は知っているのだ。
きっとそのときにも、「大変でしたね、どうかお気になさらないで下さい」と言ったに違いない。
それがどんなに心強いことか、この常に微笑みをたたえている女性は気づいているのだろうか。この人は知ってか知らずか、それができる人間なのだろう。
「本間さんという方でした。本間電工の社長さんの息子さんらしいですよ」
「ああ、そうなんですか」
本間電工といえばこの辺りでは昔から続いているちょっとした会社だ。そこの息子といえばかなりの、いわゆるボンボンなのだろう。
「はい。確か天野さんと同じぐらいのお歳でしたよ」
え、と思わず声を漏らした。父に学生と言われたとき、僕は自然と大学生ぐらいの年齢だと思っていたが、確かに大学生などとは一言も言っていない。
もっとも、父から、いや、警察からすれば学生には違いないだろうが。
「一度お会いしてみたらどうですか。連絡先はメモしてありますから」
僕は少し考えて、お願いしますと頭を下げた。
あまり気は進まないが、確かに会ってみても損はないだろう。
「任せて下さい」
みどりさんはゆったりと微笑んだ。
周囲に音はない。この周辺まで警官は見回っていないのだろうか。それとも、息を殺して警戒しているのだろうか。
世はこともなし。岡田先生がいなくなっても、世の中に変化はない。せいぜいあぶれている教員免許が一つ意味を持つ程度だろう。
だけど、家族はどうだろう。両親はきっと泣いただろう。兄弟はいたのだろうか。
きっとあの時、この家も泣いたのだろう。
「縁さんの、考えるときの癖、知ってますか」
思考を切り替える。とっさに思いつかなかったので口に出して考えてみた。
「癖、ですか」
「左手で右の肘を持って、人差し指をあごの先にあてるんです」
こう、と言ってポーズをとる。何度か見た覚えがあった。
「ああ、はい」頷く。
「あれは、奥様の癖だったんです。まだ小さかった縁さんもよく真似をしていました」
みどりさんはでも、と言葉を続けた。
「縁さんはそのことを覚えていらっしゃいませんでした。無意識にやってらしたんです」
話の意図が掴めず、曖昧に頷く。みどりさんはわかってますから焦らないで下さいとでも言いたそうに穏やかに笑う。
「奥様がいた証拠は確実に縁さんの中にあるんです。生きるって事はそういうことなんですよ」
なら、僕たちの中にも先生の生きた証拠があるのだろうか。家族の中には確実にあるだろう。
生者は死者に引きずられる。死者は動かないからだ。動かないから、重い。変えることができない。
動かないから、生者は自分で死者を振りほどかなくてはいけない。背負ったまま歩くのも、置いていくのも、墓を作るのも生者の自由なのだ。
そうやって確実に人は繋がっていく。それが過去からの唯一の共通点なのかもしれない。
でも、殺されたのだ。藤澤詩織も、岡田弘幸も。理不尽に人生を奪われた。これが運命だったとしても、そんなものは認める気になれなかった。
コンサート開演前のような静寂を破ったのは主賓の足音だった。
障子を開け、お茶を持って現れた奏者はお盆を置くと、僕に花を差しだした。
「どうぞ」
黄色い菊の花。追悼。
帰宅途中、現場に立ち寄った。警官の数は目に見えて少なくなっていた。
菊の花を添えると、それで全てが終わってしまった気もした。まだ葬儀だって済んでいない。昨日の出来事だというのに。
忘れてしまうのが怖い。
隣に立っている少女は前にそう言っていた。
今ならわかる気がする。最後に手を合わせた。
「行こう」
川の向こうを見上げていた縁はくるりと振り向いた。
「もういいの?」
頷いて、土手を登る。
来たときと同じように無言で歩く。全て溶けてしまいそうな夕焼けの中で、繋がっている手だけは現実だと信じられた。
「怖いの?」
「何が?」
オウム返しに問う。それがわかっていたかのように縁は言葉を繋ぐ。
「死ぬのが」
「当たり前だよ」
そうね、と頷く。
「半分はそう。でも、後半分は間違いでしょう」
「どういう、こと?」
言葉の意味がわからず、疑問を投げ返した。縁は歩みと同じように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは、今までこの通り魔事件をどこか遠いところの話だと思っていた。そんなことないと思っても、やっぱりどこかで思っていた。けれど、今回、担任の先生が被害にあったことでそれは身近なものだったと認識した。だから怖くなった」
ずっと考えていたことを見抜かれていた。まっすぐに僕を射抜く彼女の視線は本当に僕の中を全て見通してしまっているかのようだ。
縁は目を逸らさずに、でも、と続けた。
「それは違うと私は思うの」
「違う?」
違うとはどういう事だろう。縁が看破したことは、事実僕の中にずっとあったものだ。僕が近辺の住人に感じていた無責任という感情は自分自身が抱いていたものだった。
「それが正解の半分」
そして、後半分。
「あなたは事件を身近に感じていなかったわけじゃないのよ。だって、あなたのお父さんはこの事件を直接担当しているのよ。その息子のあなたは自分が狙われることとは別に身近に感じていたはずよ」
縁から目を逸らせなかった。自分でも驚くほど聞き入っている。
「じゃあ、あなたは何を遠く感じていたのか。それは、多分、死。死ぬ事よ」
ドクン、と脈打つ。握っている手に力がこもる。当たっている。自分ですら知らなかった領域に、彼女に手を引かれ、入っていく。
「死ぬのが怖くなかったのよ。だから事件が起きようが関係なかった。だからここで私を見つけたときに、あんなに冷静に対処できた」
ここで、と縁の視線が動いた。僕が縁を見つけた場所。縁が死を選んだ場所。一度別れを告げられた場所。
「でも、今のあなたは死ぬのが怖い。怖くなってしまった。理由は、あなたにしかわからないけれど」
理由。理由など一つしか考えられない。
目の前にいる聡明な少女。それだけで理由など十分だ。
しばらくの間その場所に立ち止まっていた。
歩き出したのは殆ど同時。口を開いたのは縁が先だった。八百屋で値段を尋ねるくらいの気軽な声で。
「私も同じだったのよ。死ぬことなんて怖くなかった。でも、最近死ぬことよりも怖いことができたの。だから死ぬのが怖くなっちゃったのよ」
伸びてきた髪と、歳の割に長めのスカートを回転させて振り向く。
「理由はあなたの理由と同じでいいわ」
思わず目を逸らしてしまったのは、きっと夕日が眩しかったからだろう。顔が熱いのも夕日のせいだ。
呆れるほど狼狽していると自分で思う。軽く深呼吸。
「ねえ、知ってる? 僕――」
そこまで言って、いや、なんでもないと打ち切った。
縁から感じる視線から逃げるようにぼそりと、ありがとうと呟いた。聞こえたかどうかはわからないが、どうでもよかった。
縁が一歩前へ出た。長く映された影が僕に重なる。
「知ってるよ」
僕は改めて思う。天野怜司は呆れるほどに、この少女に惚れてしまっているのだ、と。
◇
帰宅してしばらくすると、コール音が響いた。
受話器を取ると、その向こうにいたのはみどりさんだった。
「こんばんは、天野さん。先ほどの件ですが、先方に電話してみたのですが」
みどりさんが気を利かせて本間の家に連絡を入れてくれたらしい。確かに僕がいきなり電話を掛けるよりもその方がいいだろう。
藤澤は古い家なのでもしかしたら本間となにか関わりがあるのかもしれない。
「はい、ありがとうございます。それで……」
「はい、それが本間真さんは既に家を出られているそうです」
「そうですか。連絡先を教えてもらえればいいですけど」
「それが、一切教えられないと断られてしまいました。なんでもご本人からそう言われていると」
残念だがそこまで言われてしまっては仕方ないだろう。
シェイクスピア曰く、知り合い同士が手を取り合うことはなんと難しいことか。
「そうですか。わかりました。わざわざありがとうございます」
「いえ、お役に立てず申し訳ありません」
深々と頭を下げるみどりさんが想像できた。では、と受話器を置こうとするみどりさんを呼び止めた。
「あの、マコトさんとはどんな字を書くんでしょうか」
「真実の真でマコトさん、ですね」
「あと、もう一つ。真さんは今何歳だかわかりますか?」
「確か、縁さんの二つ上でしたから、天野さんの一つ上ですよ」
「ありがとうございます」
受話器を置いた。
白い世界に踏み入った。
これは夢だろう、という実感がある。
ぽっかり空いた覗き穴の先には、雨雲。そしてそこから降り注ぐ雨の子供達。
抵抗感と共に白い闇を抜けると、人間が二人、いた。
いや、一人は、元、人間。赤い、元人間だった。
倒れ伏すそれのそばに佇む男。
項垂れていたその顔が上がる。
そのあまりにも見慣れた顔。それは柴真と呼ばれている男の顔だった。
柴真は死体を見下ろし、狂ったように笑う。笑う。笑う。
強打する雨粒の音をもかき消すほどに、笑う。
これは、誰だ?
力を込め、足下のものを蹴り飛ばす。不安定な体勢で横たわっていたそれは、仰向けに転がる。
顔を覆っていた長い髪が流れた。
そのあまりにも見慣れた顔。それは、かつて藤澤縁と呼ばれていた顔。目を見開いて、微動だにしない。体中が赤く、顔色は青い。
これは、誰だ――?
一階の電話から鳴り響く、喧しいインターフォンの音で現実に引き戻された。外は既に明るくなっていた。
正直煩わしく思ったが、悪夢から覚めさてもらった恩を感じ、素直に出ることにした。
階段を下りている途中でもう一度電子音が家中に反響した。
ドアを開けると、その向こうにいた人物は気さくに声を掛けてきた。
「よう、天野。暇だろ? 遊びに行こうぜ」
ある意味では今一番会いたくない人だった。先輩はそんな僕の心境を知らずに笑みを浮かべている。
追い返すわけにも行かないので着替える間とりあえずリビングでお茶を飲んでもらうことにした。
「いい家住んでるな」
「僕のじゃありませんよ。親の家です」
そりゃそうだ、と肩をすくめた。
リビングに通し、ソファに座るよう勧める。
「お茶とコーヒーどっちがいいですか」
「俺は高い紅茶しか飲めないんだ」
「コーヒーですね」
コーヒーを二つ用意し、一つをテーブルまで運ぶ。
着替えてくると言って、一度部屋まで戻った。
準備を終えて戻ってくると、先輩は新聞を手に、コーヒーをすすっていた。
「飽きもせずによくやるもんだ」
言われて手元を覗き込む。地方欄の一節に、『通り魔殺人、手がかり見つからず』という見出しがあった。大きく写真が載せられており、警官達が忙しく動いていた。
「早く飽きて欲しいですよ。おちおち出歩けもしません」
向かいのソファに腰掛け、コーヒーに口を付ける。
「女の家にも行けないか」
「先輩、性格悪いですね」
「知らなかったか?」
とりあえず街まで出ることにした。電車に乗り、いつもの駅で降りた。車内にも構内にもあまり人影はなかった。時間のせいもあるだろうが、やはり学校が休校中なのが原因に思える。
例の事件の影響で、うちの学校だけでなく、周囲の学校でも休校や授業時間短縮などの措置が採られているらしい。
普段は喧しい高校生の集団だが、いなくなると街自体から活気が消え去ったかのようだった。
スーツやシャツが改札を抜けていく。
特に目的もなく駅周辺やアーケード街を歩く。時折他愛もない話をしながら無駄な時間を過ごした。
昼食の時間が近くなると、空腹を覚えた。そういえば朝食を食べていない。手近にあったファーストフード店に入り、腰を落ち着けた。
「人が少ないですね」
ずっと感じていたことを切り出した。返ってくる答えもある程度予測できる。
「誰も、次に自分が狙われるなんて思ってない」
しかし、先輩の返答は予想とは少し違うものだった。
「それでも怖い、怖いと言って家に閉じこもる。何でだと思う?」
カップに突き刺さったストローでコーラをかき混ぜる。視線は僕を見ていなかった。中空に問いかけたかのように。
「そうだとしても、どこかで次は自分かもしれないと思っているからでしょう」
先輩の瞳に色が戻る。その瞳には、ポテトを囓る僕が映っている。
「それも正解には違いないが、せいぜい1%程度だ」
じゃあ、と疑問が素直に口に出た。先輩はそこで遮る。
「怖いんだよ」ストローに口を付ける。「人と違うことをするのがな。今は事件が起こって世間は怖いと思っている。自分は狙われるはずがないから出歩きたいが今軽々しく外に出ると世間から白い目で見られるかもしれない。って思ってるのさ」
「穿ちすぎです。比率としては単純な恐怖の方が多いと思います」
先輩の話も理解できない話ではない。確かにそういう心理もあるのだろう。
だが、それは人間の、いや、社会の汚い部分だけを掘り起こしているだけなのではないか。
「そうかな。俺はそうは思わない。お前にも少なからずあるんじゃないのか」
そういう表情は能面でも貼り付けたかのように変化がない。でも、その奥では
今朝の夢を思い出す。
「どうした。そんなにヘソ曲げるなよ」
先輩の瞳に映った僕は、思った以上のしかめっ面をしていた。
いえ、とストローからウーロン茶を引きずり上げた。ズズ、と音がして、文字通り底をついた。
「しかし、犯人も意外と間抜けだよな。現場に凶器を落としていくなんて」
「え?」
寝耳に水、どころの話ではなかった。駅の立ち食いそばに入ったらフランス料理のフルコースが出てきた、それを立ったまま食べ、あまつさえ会計時に見た数字もフルコースだった、というぐらいの衝撃だ。
「そんなバカな。だって、新聞にも手がかりはないって……あ」
言ってしまってから新聞に全てが載るわけはない、と思い直した。手がかりなし、という見出しが情報操作だという可能性も十分にあり得る話だ。
先輩は全部わかっているような表情で、口を開かない。
「でも、どうしてそんなこと知ってるんですか」
にわかに信じられる話ではないし、信じていい類のものでもない。
「警察にちょっとした知り合いがいるんだよ」
ちょっとした知り合い、程度でそんな情報が入ってくるわけがない。事実、――当たり前のことだが――僕も知らなかった。
「ちょっとした知り合いって、そんなことまで聞けるものなんですか」
「お前が眼鏡を落としたことも知ってるよ」
ニヤニヤと底意地の悪い笑顔を浮かべる。こんな時まで僕をからかうことを忘れないその根性にはある意味敬服する。
「まあ、その程度で足が着くような奴ならここまで苦労してないだろうがな」
それはそうだ。しかし、今まで全くと言っていいほど物証を残さなかった犯人がようやく出した尻尾だ。警察にとって重要なものであることに変わりはないだろう。
「でも、これで犯人が早く捕まるに越したことはないがな」
ふっ、と能面が外れた気がした。やはり先輩も傷ついているのだろう。あんな物を見てしまって。
「出ようぜ」
先輩は仮面を被り直し、席を立った。
僕も席を立ち、トレイの上のものをまとめてゴミ箱に放り込んだ。
残ったペーパーを中央から握りつぶした。
午後もとりとめもなく街を徘徊したが、結局特にやることもないので電車で戻ってきた。
歩き回るのもなんなのでとりあえずうちを目指すことにした。
陽が傾きかけている。進行方向側から照っているため、少し眩しい。右手をかざし、日を遮る。
何気なく、すれ違う人たちを見ていた。この中の何人が私服警官なのだろう。何人が本当に恐怖を感じているのだろう。きっと、警官達の方がよほど怖がっている。
皐月大橋まで来ると、橋の向こう側に縁の姿が見えた。立ち止まる。左手に買い物かごを提げている。
縁もこっちに気づくと、小さく手を振って、速度を速めた。
一歩前に出ていた先輩は振り向き、ぽんと肩に手を置いた。
「んじゃ、俺は帰るよ」
まただ、と僕は思った。また、仮面が外れた。なぜだ。先輩に対して疑心暗鬼になっている自分に気づく。
「今の人は?」
追いついてきた縁が僕を覗き込む。慌てて表情を作り替えた。
「学校の先輩だよ」
ふぅん、と気のなさそうな返事をこぼした縁は、もう遠くなった先輩の後ろ姿を凝視していた。
「縁、どうかした?」
僕は縁を見て、首を傾げた。縁は僕を見て、首を振った。
「なんでもない。それより、買い物つきあってくれるんでしょ」
頷く。縁と並んで今来た道を引き返す。
先輩の姿はもう見えなくなっていた。
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