五、本日も晴天なり
◇
本日も晴天なり。
短かった夏休みも明け、再び授業が開始されていた。
しかし、休み気分が抜けないまま文化祭の準備へと流れているため校内の雰囲気は浮ついていた。
始まってみないとわからないものだが、皆口では面倒だと言っていても意外と楽しみにしている者は多い。かくいう僕もその一人だと先輩は言うが、先輩もその一人だと僕は思う。
日曜日の朝。天気もいい。珍しく両親が家にいる休日ということで、冷蔵庫を覗くと見事になにもなかった。両親はまだ寝ているため買い出しに行くことにした。
商店街のスーパーに訪れた。自動ドアが開くと、冷房によって冷やされた空気が流れ出してきて気持ちいい。
野菜のコーナーでネギを選んでいると、もうすっかり聞き慣れた声がかかった。
「あら、天野さん。偶然ですね。運命感じちゃいますよ」
家の外でも着物を脱がないみどりさん。着物にカートは微妙に似合っていないがそのテンションはどこにいても変わらない。
「こんにちは」
「あら、縁さんはご一緒じゃないんですか」
「いえ、今日は約束してませんけど」
みどりさんはイントネーションを変え、あら、と頬に手を当てた。
「朝からお出かけなのでてっきり天野さんとご一緒かと思いましたが」
「ああ、そうだったんですか」
ネギを手に取り、カゴに入れる。
なにを作るのかはわからないが、とりあえず隣のキャベツも一つカゴに放り込んだ。
「ならきっと奥様の所ですね」
「はい、そう思います」
「いつもご自分で買い物されるのですか」
同じようにキャベツを選びながら尋ねるみどりさん。和服とキャベツは結構絵になっているように思う。
「いえ、あまり。どうしてですか」
「ずいぶんと手慣れているように見えましたから」
それは所帯染みているという意味だろうか。
はぁ、とキュウリの値段を確認し、カゴに入れた。
みどりさんと雑談を交わしながら買い物をし、店を出た。
彼女は荷物を持つという僕の申し出を断り続けた。一体あの細い体のどこから大袋二つ持っても動じないほどの力が出ているのか不思議でならない。
「では今日は夕食ご一緒できないのですね」
「ええ。今日は両親と食べることにします」
しばらく前から僕は、頻繁に藤澤家で夕食を摂るようになっていた。
両親は帰りが遅いという話をしたら、それならばと二人に半ば強引に押し切られる形で始まった。僕にとっても、一人で食事をするよりは遙かにいい。今ではすっかり馴染んでしまっていた。
「みどりさんのご飯が食べられないのは残念ですけど」
「褒めてもなにも出ませんよ」
皐月橋でみどりさんと別れ、帰宅した。両親とも既に起きていたようで、家の中に音が生まれている。
「ただいま」
「おかえり。買い物に行ってたのね」
「うん。なに作るかわからないから適当に買ってきた」
モップがけをしている母の横を通り過ぎ、冷蔵庫に食料品を詰め込む。キッチンを覗いてみるが父の姿が見えない。まだ寝ているのだろうか。
「父さんは?」
「二階。窓拭きしてるわ」
たまの休日にも家の仕事をする父に尊敬の念を抱く。しかしそれは父に限ったことではない。
そう、と返事をして、冷蔵庫とにらめっこを再開する。思ったよりも多く買ってきていたらしく、割と時間がかかった。
袋を処理している頃には父が二階から降りてきた。窓拭きは重労働なのだろう、額には汗が浮かんでいる。
冷蔵庫から麦茶を出し、三人分用意する。二人に渡すと、二人とも一気に飲み干した。僕もコップを空にし、流しに片づけた。
「ちょっと出掛けてくるよ」
「ご飯は?」母が尋ねる。
「夕ご飯までには帰ってくるよ」
家を出て、気ままに歩きだす。
特にあてはないが公園に足を向ける。霊園に縁を探しに行くという案も浮かんだが却下した。野暮というものだろう。
川を挟んで霊園の反対側にある自然公園。比較的規模の大きい公園で、休日には主に家族連れが多く見られる。
今日も例外ではなく、フリスビーを追いかけ回す少年や、犬と戯れる少女が元気にはしゃぎ回っている。
夏もピークを過ぎたとはいえ、まだ葉は綺麗な緑色を保っている。あと一月もすればすっかり秋の様相を呈することだろう。それまではまだ夏気分を楽しんでもいいのかもしれない。
やはりあてもなくぶらぶらと園内を散策する。
もはや見慣れてしまっている並木。計算され尽くされた配置を持つそれらは作られた自然だ。元は人工物の対義の意味を持つものが人によって作られている。人間は自然を作れるまでに科学を進歩させた。だが、それは大きな勘違いであり、人間が全能になったわけではない。
以前先輩が同じことを言っていたのを思い出す。そうか、あの時先輩がいいたかったのは、こういう事だったのだ。
「あら、怜司くん。偶然ね」
驚きに体を震わせて立ち止まる。眼前に現れた少女もそれに合わせて立ち止まった。
「縁……霊園にいたんじゃ」
「もうお昼だから、お腹空くでしょ」
そう言って手に持ったバスケットを見せる。
「あそこ空いてるわよ」
指した先の芝生には確かに誰もいない。縁は僕の返事を聞く前に先へ歩いている。仕方ないので僕もそれに倣った。
そういえば、と長いスカートを翻し、僕を振り返った。絵になる構図だ。
「なんでお墓に行ってたこと知ってるの?」
「なんでだと思う?」
「私が一人で行く所ってお墓しかないから」
「そうだけど、今日は家にいるって思ってた」
じゃあ、と腕を組み、人差し指を唇に当てた格好で思案する。
「みどりさんに何か言われた、とか」
「正解。今朝買い物に行ったら遇ったんだよ」
縁はふぅ、とため息をつき、
「我ながら行動パターンが少ないわね」
「すぐに増えるよ」
緑の絨毯に腰を下ろすと青の匂いが鼻を刺した。大きく息を吸い込み、伸びをする。
隣に座った縁もそれに倣う。バスケットを開き、僕の肩を叩いた。
バスケットの中身は色とりどりのサンドイッチだった。既に半分ほど無くなっている。
「よければどうぞ。自信作です」
手の平で僕を指し、自信ありげに微笑む。僕はその挑戦を受けることにした。一つを手に取り囓る。
咀嚼、咀嚼、嚥下。繰り返し。
どう、と目で語る縁。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。僕は無言でもう一つサンドイッチを手に取った。
横目で縁を見ると、へへへと笑みを浮かべていた。
バスケットの中身を食べ終えると、そのまま後ろへと倒れ込む。
青と緑だけが視界に収まる。日よけとして手を空にかざした。
「行儀悪いよ」
「気持ちいいよ」
少々のためらいを見せたが、芝生の誘惑には勝てなかったのか縁も緑の絨毯に寝転がった。
二人でこうしていると傍目にはどう見えるのかという問題も脳内に急浮上するが、太陽の前には些細な問題だ。
「気持ちいいわね」
「行儀は悪いけどね」
「天気もいいわ」
梅雨が明けた頃から通り魔はおとなしくしているようで、以降犠牲者は出ていない。
毎年この時期に事件は起きていないが、だからといって楽観は出来ない。安心している町民など一人としていない。それでも、今は間違いなく平和だった。
深呼吸をして、腹筋運動の要領で体を起こす。服に付いた芝がその勢いで宙に舞った。
「そろそろ帰らなくちゃ」
「何か用事でもあるの」
今晩は家族が揃うから夕食の準備を手伝う旨を伝える。
「よければ縁もどう」
「いえ、私は遠慮させてもらうわ。今日はみどりさんとお話し」
「そっか。送るよ」
藤澤の家まで、九月なのにまだ暑いとか、スーパーの特売の話、最近読んだ本の話など雑談して過ごした。今日は縁も僕もよく笑っていたように思う。
藤澤家に到着すると、また、と挨拶を交わした。
「今晩電話するよ」
縁は空を見上げて、指さしながら、降るの、と首を傾げた。
うん、と僕は頷く。
確かに今の青空から考えれば不自然だが、そう見えたのだから間違いないだろう。
「わかったわ」
再び、またと挨拶を交わして、僕は帰路についた。
やはり天気のいい休日ということで、公園と同様に団地を散歩している家族が多い。買い物袋を分担して持っている家族もいた。
あれから僕は雨の夜には縁に必ず電話を入れるようにしていた。心配だというのはもちろん、初めは電話する口実が欲しかったのかもしれない。
電話するのは雨の日ばかりではないが、通常は縁に先手を打たれることが多い。
僕だけがご馳走になるのは悪いと今までも何度かうちに誘ったことがあったが、結果は全て今日と同じだった。
彼女は家族を羨ましいと思う反面、怖がっている。家族の会話を聞きたくないのかもしれない。
◇
何かに急かされるように目が覚めた。暗闇で自分の呼吸音だけが響く。
荒い呼吸を繰り返し、呼吸が落ち着くと秒針の音が耳に障った。首筋が汗で気持ち悪い。漠然とした不安感が胸にこびりついている。
朝に宿題をやっていないことに気づいた時のような焦燥感。
一応ノートを確認するが、間違いなくやってある。
勢いでカーテンを開け放つ。窓の外は僅かに霧がかっていた。季節はずれだが、昨夜の雨の影響だろう。
軽くシャワーを浴び、頭のもやを汗と共に洗い流した。それでも不安感は消えず、背中を押されるように家を出た。
部屋から見た通り世界は軽い霧に閉ざされていた。視界を遮断するほどではないが確実に普段よりも目視できる範囲は狭い。
そんな中、その異常を感知できたのは神経質になっていたせいだろう。霧の匂いの中に仄かに混じった鉄の臭い。
鼓動が高鳴る。周囲を見回す。見慣れた土手。駆け下りる。
昨夜は雨だった。強まる血の臭い。縁と初めて会った場所。その時の光景が脳裏に蘇る。否応にも焦燥感は高まっていく。
少しずつ霧が晴れてきていた。金属だろうか、反射光が目に届いた。
その隣。
白い霧の向こうに映る黒い影。
むせ返るほどの鉄臭。
霧が赤く染まっているような錯覚を覚える。口元を押さえ、ふらつく足を制御し、それを見下ろした。
赤く染まった男。うつぶせに寝ていた。
まず安心し、次の瞬間にその感情を否定する。
これはなんだろう。
分かり切ったことを何度も自問する。吐き気を抑える。膝に力を入れる。
落ち着け、落ち着けと思考を上書きする。膝をつき、赤い腕に触れた。
冷たい。氷のようだ。堅い。石みたいだ。これが人間か。
自分の腕に触れる。温かい。これが人間だろう。
なら、これはなんだ。人間じゃ、ないのか。
抑えきれなくなった吐瀉物が漏れた。なにも入っていない胃から、何かを吐き出せと命令が下る。
地面にひざまずく格好になった僕と、「それ」の目が合った。息が詰まる。膝が震えた。
僕はこれを知っている。そうだ、僕はこのスーツを知ってる。人間だったときの名前――。
「お、かだ、せんせ」
僕は絶叫し、役に立たない足に無理矢理指令を出し、何度も何度も転倒しながら土手を駆け上がった。
家へ、家へ。ひたすらに走った。
そうか、あれが、あれが。
あれが、「死」――。
◇
町内は騒然としていた。今まで身近に感じながらもどこか遠い世界のように感じていた「事件」を目の当たりにし、恐怖を募らせている。
家に駆け込んだ僕はちょうど起きていた父に、断片的に事情を説明したらしい。
そのときの僕はかなり興奮しており、落ち着くと気を失ってしまった。
気がつくと既に太陽は昇りきっていた。母も仕事を休み、僕を介抱してくれていた。僕が起きると父に連絡をすると言って受話器を取った。
僕は自室ではなくリビングで寝ていた。玄関で倒れた僕を二階に運ぶよりも近いソファに寝かせてくれたのだろう。
外では刑事の聞き込みと警戒が行われているらしく、喧噪が届く。
母が昼食を用意してくれていたが、食べる気にはなれなかった。
しばらくすると父が帰ってきた。現場はすぐ近くなので行き来は簡単だろう。
「怜司、平気か」
心配そうな父の声。こんな父を見たのは初めてだ。
「うん、大丈夫、だよ」
そうか、と息を吐く。
父は胸のポケットからメガネを取り出した。そこで自分がめがねを掛けていないことに気づいた。
「現場に落ちていた」
ありがとう、と受け取る。鼻に乗せると景色が輪郭をはっきりさせて再構成された。
「現場のこと聞きに来たんでしょ。僕、第一発見者だし」
「明日でもいいぞ」
父は否定しなかった。こんな父だからこそ、僕は尊敬している。
大丈夫だともう一度口にすると、そうか、と僕の向かい側に腰掛けた。メモを取り出す。母も黙って僕の隣に座った。
「無理はしなくていいぞ」
僕は頷くと、今朝のことをなるべく細かく話した。父は質問を繰り返し、僕もそれに答えた。父の口調はいつもよりも優しい気がした。
「家を出たのは何時だ」
「今朝は時計を見なかったんだ。見たのかもしれないけど、覚えてない」
「どうしてだ」
「何か、さっきも言ったけど、漠然と嫌な予感みたいなものを感じて目が覚めた。ずっとそのことが気になってたから」
話が途切れると、時間を刻む音だけが反響する。耳障りだ。
「何か、近くに落ちていたということはあったか」
「いや、よく覚えてない。周りを見てる余裕は無かった」
今日何度目だろうか、父はそうか、と漏らす。僕はでも、と続けた。
「そういえば、光が何かに反射していた。それで僕は先生、を見つけたんだ」
先生という言葉に抵抗を感じる。
「あのときはそれがなんなのかは見えなかったし、ガラスの破片かなにかだと思うけど」
父は黙ってメモを取っている。
「他には?」
「わからない。そのすぐ後から自分でもよくわからなくなっちゃったから」
メガネも落としたしね、と冗談を言ったが上手く笑えているのかよくわからなかった。
「どこに落ちてた? やっぱり土手の下かな」
土手を上れずに何度も転んだことを思い出す。
父は頷く。
「本当はまずいんだがな。無いと困るだろうと思って、応援が来る前に拾っておいた」軽く笑う。
父はその後も何度も質問を繰り返した。僕は必死に朝のことを記憶から引き出し、整理しながら答えていった。
終わった頃には既に日は傾いていた。父は母と何かを話した後、仕事に戻っていった。
母と二人で夕食を摂った。母は無理に明るく振る舞ったりはしなかった。ただ、優しかった。
僕はごちそうさまの代わりにありがとうと言った。明日は仕事にでて欲しいと頼むと、黙って頷いた。
そのすぐ後に電話が二件かかってきた。
一件は学校からだった。校内も大騒ぎらしく、授業にならないのでしばらく休校になるが、明日一度登校しろとのことだった。僕は午前中に行くと伝えて電話を切った。それで僕は朝に岡田先生に会ったことを思い出した。
二件目は縁からだった。珍しく慌てているらしく、彼女にしてはトーンが高い。
「今日の事件、あなたの家の近くなんでしょう。大丈夫なの」
縁の声を聞くと、力が緩むのを感じた。
同時に今現実にいる事を実感する。朝から浮いていた足がようやく地面についた気がした。
今日一日のことを縁に説明した。しきりに心配する縁に、大丈夫だと繰り返すが、縁は納得しない。会って直接言うべきだったと後悔する。
僕が逆の立場だったら、こんなこと、不安に決まっている。彼女の場合はなおさらだろう。安易にこんな話をしてしまった自分に心の中で舌打ちを繰り返した。
「今から行くわ」
「ダメだ。明日そっちにいくから、今日はみどりさんと家にいるんだ」
なおも渋る縁だったが、明日の予定を伝え、午後に行くとなんとか納得してもらった。
「僕は大丈夫だから。大丈夫だよ」
「……うん」
「お休み」
「お休みなさい」
受話器を置き、そのまま床につくと、思っていたよりもすんなりと眠りに就くことが出来た。
◇
白。白い壁。低い天井。
壁づたいにゆっくりと歩いていく。視界がはっきりしない。あるのはただ、白。
やがてぼんやりとしていた視界が少しずつ明瞭になっていく。現れる赤。赤の壁。
理由もなく怖くなり走り出す。逃げ出す。
出口。出口へ。
奥に扉を見つけた。体当たりで開けると同時にその向こうへ飛び出す。
赤。
赤く染まったスーツ。ネクタイ。顔――。
「うわぁぁっ」
跳ね起きた。
息が荒い。頭痛。汗でベトベトする。
ベッドに座っている自分を見て状況を理解した。
昨日に輪をかけた不快感に顔をしかめる。
時計を見ると八時少し前。悪夢を見た割には結構眠っていたらしい。体は睡眠を欲していたのだろう。
シャワーを浴び、家を出る。既に両親の姿はなかった。おそらく父は昨日帰っていないだろう。
何となくいつもの道を避けて駅へ向う。きっと警官が大勢いる、邪魔をしてはいけないと頭の中で言い訳をしていた。
学校へ着くまでの間、何度も昨日の映像と今朝の夢が繰り返された。思い出したくないということは考えているということだろう。
頭痛を感じ、覚束ない足取りで職員室へと向かう。階段を上る行為ですら煩わしい。
ノックをし、ドアを開けると中には昨夜電話で話した副担任の宮田が座っているだけだった。
「天野か」
「おはようございます」
頭を上げると面倒そうに顔をしかめていた。
「全く大変なことをしてくれたな」
その一言で僕は一つの事実に気づいた。こんな事にも気づかなかったことに軽く眉をひそめた。
「すみませんでした」
とりあえず頭を下げてみた。自分でも何に謝っているのかわからない。少なくとも目の前の男に対してではないが、とにかく謝りたかった。
その教師はそれを皮肉と受け取ったのか、ふん、と鼻を鳴らした。
「謝って済む問題ではない。お前がしたことは我が校の名に傷を付けるものだ。それとも父親が警官なら平気だとでも思ったか、だとしたら大した計算高さだな。成績とそこだけは一人前か」
完全に血液が沸騰している頭を、理性で無理矢理押さえつける。怒りを全て奥歯へ持っていき、声を絞る。
「お話は以上でしたら、これで失礼させて頂きます」
勢いよくドアを開け、立ち止まった。表情をコントロールし、微笑を浮かべた。
「数学は苦手なんですよ」
宮田は再び鼻を鳴らした。
職員室を出ると、隣の部屋から教師達のざわめきが聞こえた。職員会議だろう。
それに構わず僕は生徒会室を目指した。
ガタン、と会室のドアを開け放つ。
机に手をつき、椅子に腰を落とした。パイプが軋む。
「なんだよ、えらく不機嫌じゃないか」
「先輩、いたんですか」
先輩は軽く肩をすくめる。
「まあ、容疑者扱いされて気に入らないのはわかるが、あんまり怒ると目が悪くなるぞ」
そう、客観的に考えるとそう思われても仕方がない状況に僕はいる。第一発見者がまず疑われるのはある意味では当然のことだろう。
こんな事少し考えればすぐにわかることだ。頭が正常に回転していなかった証拠であるが、それ以上に宮田の言葉通り僕は父に、刑事という職に就いている父に甘えていたのだろう。
それに、あの男にとって真実は関係ない。僕が第一発見者だという事実が重要なのだろう。
「相関関係はありません。それに僕は怒ってませんよ。少し不機嫌なだけです」
軽くため息をつき、席を立った先輩は隅の段ボールからバスケットボールを拾い上げ、こちらに投げてよこした。思わず受け取る。
「そんなときは体を動かせ」
「どこでですか。体育館は閉まってますよ」
「ここをどこだと思ってんだ」
壁に掛かっている鍵を取り、ニヤリと不適に笑う。
僕は黙って立ち上がり、教室を出た先輩の後を追った。ここで憮然としているよりはよほど建設的だろう。
人気のない体育館は閑散としているという言葉以上に不気味さを感じた。場所というのは人気の有無だけでここまで印象を変えるものなのだろうか。病院の時も感じたが、とりわけ学校という場所はその印象が強い。
先輩は脱いだ上着とネクタイを窓の格子にかけ、準備運動を始めた。僕もそれに倣った。
「ジュース一本でどうだ」
「たこ焼きもつけましょう」
「強気だな」
「ペットボトルでもいいですよ」
「いいぜ。たこ焼きにペットボトル一本だ」
賭け物が決まると、ジャンケンをし、先攻後攻を決める。ハーフコートの一対一で先に三点差をつけた方が勝ちだ。
「じゃ、俺が先行だな」
先輩のドリブルの音で勝負は始まった。
「ま、十年早かったってことだよ、天野君」
戦利品を口に放り込みながら先輩は何度目かのセリフを繰り返した。
「三度目はしつこいですよ」
「四度目だ」
僕は舌打ちをしてたこ焼きを一つ口に入れた。熱い。
「お前たこ焼き二箱も食うのか」
腕にぶら下がっている袋を見ながら先輩が疑問を口にした。
「家に持って帰るんですよ」
「あの女の子の所でも行くのか」
驚きで持っている箱を落としそうになる。慌ててバランスを取った。
「なんで知ってるんですか」
先輩に縁のことを言った覚えはない。まさか先輩が僕をストーキングしているなどと、考えただけで寒気がする。
「有名だぞ、天野怜司が女の子と歩いてるところを見たって」
「……壁に耳あり障子に目あり、ですか」
「知らぬは本人ばかりなりだな」
会話が止まり、街の喧噪が耳に入る。隣町で殺人があったからといって、その被害者がこの街の人間だったからといって、街は時間を止めない。いつもと同じように、変わりなく時間は流れている。
「柴先輩」名前を呼ぶ。
「なんだ」
振り向いた先輩。その表情に違和感を感じた。無表情の上に無表情を貼り付けたような顔。僕は二の句を告げられなかった。しばらくそうしていると先輩が先に口を開いた。
「昨日は大変だったらしいな」
ええ、まあと気のない返事をする。
「担任のあんなもの見せられちゃ、な」
「あんな物?」
「死体」
その単語に顔の筋肉が反応する。
「……見たんですか、あれを」
「ああ、類似品をな」
先輩は表情を変えない。でも、その下の表情は笑っているように見えた。
「じゃあ、僕が疑われてるってわかったのは」
先輩は無言で肯定を表現した。
「俺も見つけちまったんだよ、元人間を」
僕と同じように疑われているというなら、先輩は未だ容疑者だということだろうか。
「数日後にはもう何も言ってこなくなった。上から何か言われたんだろう」
先輩の焦点が合っていない。中空を捉えているように思えた。まるで、違う世界を見ているかのような冷たい目。それは父親の話をしたときの縁を思い起こさせた。寒気すら覚える。
その後は駅に着くまでお互いに無言だった。
「次は先輩に奢らせて見せますよ」
軽口を叩いてみせるが、先輩は表情を変えなかった。
「早く俺に追いついてみせろよ」
先輩はホームへと歩いていった。
僕は初めて先輩の内を垣間見た気がした。錯覚だったのかもしれない。
あの人は、いったい何を考えている?
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