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≪雨のち晴れ≫




 
四、片時雨
   
 
 
 
 
 駆け巡る白い闇。徐々に強まっていく加速感。
 更に深い白へと手を伸ばす。
 白霧の世界を抜けた先にある白霧の額縁。
 不自然に開いた縁から覗くのは空虚な空。それはいつも違う表情で、いつも変わらず僕たちを見つめている。
 心なしかいつもよりも空が鮮明だ。頭痛も不快感もない。今ならあの霧の向こうへ届きそうな気がして、必死に手を伸ばす。届かない。
 それでもまだ遠くへ。手が届かないのなら目を凝らせ。
 白い霧を凝視する。文字通り、穴の空くほど。
 集中するに連れて肥大化する血流の早さと頭痛を感じながら点を穿つ。少しずつ、少しずつ穴を広げていく。
 呼吸が止まるほどの圧迫感を感じ、ノイズが広がっていく。しかし、それとは対照的に感覚がクリアになっていく。
 黒幕のカーテンに、微少の宝石がコーディネートされている。
 その空の下、人影が鎮座している。石段に、だろうか。背後には四角いものが見える。箱、か、石のようにも見える。
 ノイズが酷く、顔は見えない。顔が上がり、こちらを向く。
 きみは、誰――?
「おい、天野っ」
 不意に教室に怒鳴り声が響いた。急速に意識が現実に切り替わっていく。それと同時に高ぶっていた血流や頭痛も次第に引いていった。
 急激な違和感に感覚がついていかず、その怒声が自分に向けられたものだと気づくまで呆然とその声の主を見上げていた。
「あ……はい」
「おいおい、しっかりしてくれ」
 岡田先生はしかめっ面でため息をつき、黒板をコンコン、と叩いた。
「ここは来週のテストに出すぞ。ちゃんと聞いてろよ」
 はい、と、ノートに板書を書き写していると、終業のチャイムが響いた。
「じゃあ今日はここまでだな。解散」
 先生の言葉でにわかに教室が活気づく。今の話題は主に来週のテストの話だ。
「天野君、大丈夫? 勉強疲れとか」
 隣の席の女子に声をかけられる。そんなに心配されるほど顔に出ているのだろうか。
「いや、大丈夫」
「ふーん、ま、天野君なら楽勝だよね」
 羨ましい、とぼやく女子を背に、教室を出た。
 しばらく図書館で勉強でもしようと教科書を広げたが、全く身が入らない。諦めて荷物をしまい、屋上へと出た。
 朝は白く、昼間は青く。そして今は暗いオレンジ色。
 梅雨明けが発表され、久しぶりにカラッと晴れた日の空はそんな感じだった。
 明けたばかりということで気温はそれほど上がってはいないが、久しぶりの太陽は心も晴れ上がらせていたことだろう。
 しかし、僕の頭は一向に働こうとしてくれない。ここのところ何をやっても失敗続きだ。
 じきにテストも控えているというのにベクトルが全く別の方向を向いたまま固定されてしまっている。
 唯一、藤澤縁に関する話題だけ頭は飾りではなくなるが、それについても有益な思考を展開できているわけではなかった。
 縁が手首を切り、入院してから二日、いや、三日だろうか。あの夜以来病院には顔を出していない。
 明確に理由があるわけではなかったが、今どんな顔をして彼女に会えばいいのかよくわからなかった。強いて言えばそれが明確な理由だった。
 しかし、いつまでも先延ばしにできないのも事実だ。確認しなければいけないこともある。答えを出さなければいけない。
 すなわち、僕はこれからも縁と会い続けるのかという答えを。
 ポケットからカッターナイフを取り出す。
 同じだ。目的のない生。
 ただ、彼女は死に近い側で、僕はほんの少し生に近い、というだけの話。
 でも、その差は決定的なもののようにも思える。境界線の向こう側とこちら側。たった一歩の決定的な差。
 縁が手首を切ったのは今回が初めてではない。初めて会ったときは、川に身を投げていた。彼女は死のうとしたのか、どちらでもよかったのか。
 たぶん、後者だろうと思う。目を覚ましたとき、彼女は何も言わなかった。ありがとうとも言わなかったし、迷惑だとも言わなかった。
 それは縁なりの賭けだったのかも知れない。見返りは何もないロシアンルーレット。
 死んでしまえばそれも構わない。生きているのならまた引き金を引くだけ。
 もしかして、それも逆で、一発だけ入った実弾を引く可能性を求めている。六分の一の当たりを求めている。
 あの深色の瞳を思い浮かべると、それは冗談と笑い飛ばせる程遠い推測ではないように思える。
 死を求める人間が生き残り、生に執着する人間が命を絶たれている。その皮肉に唇を歪める。
 彼女は初めて境界線を越えたとき、何を考えたのだろう。
 左腕に浮かぶ仄かに青い筋にゆっくりと刃を当てる。刃を吐き出す音が遠くに聞こえた。
 このまま線を引いてしまったらどうなるだろう。彼女の気持ちが少しはわかるのだろうか。
 どくん、と鼓動が弾ける。
 血液の流れが速い。
 銀色の刃と、その赤みの先だけに視界が絞られ、少しずつ右手に力が集中していく。
 呼吸に合わせて左腕に痛みが現れ、和らぐ。
 不快感と期待感がせめぎ合い、全身に汗が滲む。
 やれ、と命令が下る。
 一瞬後に止めろと命令が下る。
 心臓は血液を吐き出し続けている。
 命令が交互に出され、次第に現実感が薄れていく。
 右手は硬直し、押すことも引くこともままならない。
 悪寒が走り、胸の奥で得体の知れない感情が沸き立つ。
 血管がパンクしそうなほどの血液が体を巡っているにもかかわらず、全身に巡る冷気。
 覚えのある感情。
 恐い。怖い。
 そうか、これは、恐怖。
「おい、何してる」
「――っ」
 突然の接触と声に、弾かれたように顔を上げる。
「先輩……」
 視界が開けていくと同時に体の中の音が聞こえなくなっていく。
 全身の筋肉が弛緩し、カッターが高い音を立ててアスファルトに落ちた。
 少しずつ息が整っていく。
 自分がしていたことを思い出し、鳥肌が立った。
 先輩は何も言わずに僕を見下ろしていた。
「死にたいんだったら止めないぞ」
 手首に残った細い線。急速に体温が下がり、切断されていた思考回路が繋がっていく。
「いえ……ありがとうございました」
「ああ。よかったな」
 素っ気ない返事だが、先輩らしい一言。この辺りが先輩の魅力だと僕は思う。
 先輩は僕の二つ隣のブロックに、砂利を払い腰をおろした。
 僕は先輩が偶然ここに来なかったら、あのまま手首を切っていたのだろうか。先輩が来なかったら僕は死んでいたかも知れない。
 知れない。
 自分のことのはずなのに、よくわからない。
 もし、そうだとしたらその偶然には意味があるのだろうか。
 あの日、偶然僕が川を通りかかった事に、何か意味があったのだろうか。それまで縁が生きていたことに。何か。
「意味って、あると思いますか」
「何にだ」
「さあ……何にでしょう」
 先輩は視線だけを僕に向け、すぐに外した。少しだけ空を見て、持っていたパックジュースを地面に置く。
「お前が死んだら、困るな」
 拍子抜けするほど軽い口調でそう答えた。
 困る。先輩は僕が死んだら困る。
 なら、縁が死んだら僕はどうだろう。
 困るだろうか。怒るだろうか。泣くだろうか。
 よくわからない。
 でも。よくわからないけれど、それは、嫌だ。
 縁がいなくなると困る。
 絶対に死なせたくない。
「先輩、もし僕が人殺しだとしたらどうしますか?」
「イマイチだな。三十点だ」
「一応真面目な質問なんですけど」
「冗談だよ」
「イマイチです。三十点」
 先輩はくくっと低く笑う。
「いつもの調子が戻ってきたじゃないか」
「最初からいつも通りですよ」
 先輩はそうだな、と置いてあったパックジュースに口をつけた。
 
 藤澤縁は殺人犯だ。
 五年前からこの町で続く連続殺人の犯人。それが藤澤縁。
 少なくとも僕はそう考えてしまっていた。
 根拠はない。
 ないけれど、なぜだかそんな気がした。
 私が殺した、という彼女の言葉。
 世界を見ていない遠い目。
 自殺を試みる理由。
 全てつじつまが合う気がした。縁は、自分をこの世から消してしまいたいと思っているのではないか。
 いや、もしかしたらもう彼女は消えているのと同じなのかも知れない。だから見ていない。何も。
 でも、だったらどうするというのか。本当に彼女が殺人犯だったからといって、僕はどうしたらいいのか。警察に通報しようとでもいうのか。
 そんなことできるわけがないのは僕自身が一番よくわかっている。
 しかし、放っておくわけにもいかない。僕は父の、この事件を追い続けている刑事の息子なのだ。
 その理由を差し引いても、できないだろう。
 ゲーテ曰く、人生は全て、したいけど、できない。できるけど、したくない、の二つから成り立っている。だったか。
 死んでしまった人たちや、その家族に嘘をつくなんて、きっとできない。してはいけないのだろう。
 わからない。
 僕はどうしたらいいのか、何をするべきなのか。そしてなにができるのか。
 わからないけれど、何かしなくてはいけないのだと思う。
 だから、縁に会わなくてはいけない。
 会って、答えを出そう。
 
 
 
 
 夕方とは言え、平日の病院は想像以上の賑わいを見せていた。息苦しそうに項垂れている女性から元気そうに雑談する主婦まで様々な患者が待合室に溢れている。一日にこれだけの人数が訪れるならば病院の経営は心配なさそうだ。
 そんなロビーの賑わいも、階段を上がるたびに遠ざかっていく。三階に着く頃にはナースステーションの喧噪のみが空気を振るわせていた。
 五号室のドアを軽くノックする。若干の緊張を自覚する。
 少し待ってみるが返事はない。横の名札をチェックするが、やはりこの部屋で間違いない。もう一度ノックしてしばらく待つがやはり返事はない。少し考えた後、静かにドアを開けた。
 なるべく音を立てないように部屋に入る。時間は違えどやっていることはこの前と同じだ。
 おそらく寝ているであろう縁を起こさないよう慎重にベッドに近づき、布団を覗き込む。
 しかし、そこに縁の姿はなかった。綺麗にメイクされた布団だけが無言で佇んでいる。
「……なんだ」
 ぼやきと共に頭をかく。いないのなら返事がないのは当たり前だ。緊張は溜め息に変換され、吐き出される。
 ともかく部屋にいないといっても病院内にいることは間違いないだろう。売店かロビーか中庭か。探しに行ってもいいが、そろそろ夕食の時間だということを考えれば、ここで待つのが確実だろう。
 ベッドの横に置いてあった丸椅子に腰掛ける。
 半開きになっているブラインドから覗く空。先刻まで黒い空に混じっていた橙色は既に闇に飲み込まれ、空は黒一色。
 正直、縁がいなくてほっとしている自分もいる。答えはまだ出ていない。
 しかしそれほど時間があるわけではない。
 自分自身、焦っている事を自覚する。反発する二つの結論。そのジレンマが冷静さを奪う悪循環。軽く舌打ちをする。
 解のない方程式。解き方すらわからない。いや、解が無数に存在する方程式か。果たして最適解はあるのか。正か負か。それとも虚数か。
 コンコン、とドアがノックされる。入りますよーと甲高い声が響き、こちらの返事を待たずにドアが開いた。
「藤澤さん、夕食ですよ」
 トレイを片手に入ってきた看護師はベッドを見て、あれ、と漏らすと、僕に視線を向けてきた。
「藤澤さん、どちらに行かれましたか」
 言いながらトレイをテーブルに置く。
 思いもよらない言葉に僕は椅子から腰を浮かす。
「藤澤さん、どこにいるのか知らないんですか」
「え、はい」
 左腕の時計を見ると、既に六時半を回ろうとしていた。看護師さんなら知っているだろうという甘い考えが音を立てて崩れていく。
 落ち着け。ただ出かけているだけだろう。すぐに戻ってくる。彼女だって夕食の時間ぐらいわかっているはずだ。
「おかしいわね。検温の時はいたのに」
 その言葉に弾かれたように僕はドアから飛び出していた。
 廊下をすり抜け、階段を飛び降りる。
 ロビーを見渡すが、それらしい姿はない。売店は既に閉まっている。靴に履き替え、中庭に出る。
 病院には不向きの街頭が夜の中庭の寂しさを一層強め、不気味さを演出していた。縁の姿は見えない。
 病院内で縁の訪れそうな所は他に思い当たらない。もう病院にはいないだろうという予感が確信に変わっていく。
 一つ舌打ちをして一度病室に戻ることにする。三○五号室の扉を開けると先ほどの看護師が心配そうな表情でこちらを窺ってきた。
 やはり縁は戻っていないらしい。探してきますと一言残し、病院を出た。
 どこだ。思考回路と筋肉を同時に動かす。縁の行きそうな場所を必死で検索するが、全く手応えがない。今更になって、自分は彼女のことを何も知らないという事実が重くのしかかってくる。
「くそっ」
 まただ。また僕は遅れている。あの日、縁の左腕の傷に気づいた日、あのときにすぐに話をしていたら。
 あの日、縁と話をした最後の日、黙って縁を行かせずに、引き留めていたら、縁は手首を切らずに済んだかも知れない。
 あの日、縁と最後に会った日、あれから何日もうじうじしていなければ、すぐにでも、毎日縁と会って話をしていたら、こんな事にはならなかったのでは。
 もしかしたら、と意味のない仮定が頭を巡る。何かができたはずなんておこがましいのだろう。
 でも、それでも何かできたはずだ。僕は何かができた。なら、それは僕にしかできないことだったのだろう。
 ひとまず足を手に入れるために家に足を向ける。日頃の運動不足がたたり、早くも息が上がってくる。それでも足を止めずに、前へとひたすらに足を出す。大通りを抜け、皐月大橋まで出たところで、ふと足を止めた。
 心臓が爆発しそうなほどに高鳴っている。きっと走り続けたせいだけではない。今を逃したらもう、縁に会うことができないのではと、心のどこかで叫ぶ僕がいた。
 膝に手をつき、少しだけ息を整えてから、来た道を引き返す。まずは縁の家に行ってみよう。
 もしかしたら家に帰っているかも知れないし、そうでなくともみどりさんなら何か知っているだろう。
 途中で道を折れ、旧家街に入っていく。歴史ある建物から発せられる圧力に圧倒される。その中でも藤澤家からは一際強い力を感じた。背負ったものの違いだろうか。少なくとも僕にはそう感じられた。
 呼び鈴を鳴らすと、奥からみどりさんが現れた。無理もないが、いつもの覇気がないように思えた。
「あら、天野さん。縁さんならまだ病院ですが」
 それでも無理をしていつもの笑顔を作ろうとするみどりさん。一瞬ためらいが生まれるが、それを振り切り、かいつまんで今の状況を話した。縁が昼頃から部屋にいないこと、探したけれど病院では見つからなかったこと。さらにどこか心当たりはないかと尋ねる。
 話を聞くうちにみどりさんの表情は驚きを隠せなくなっていった。
 話し終えると、みどりさんはそうですかと一言呟いて、一つ深呼吸をした。息を吐く頃には冷静さを取り戻していた。
「わかりました。縁さんは、おそらく奥様のお墓ではないかと思います」
「お母さんの、お墓……」
 みどりさんは軽く頷き、言葉を続けた。
「はい。皐月大橋の通りを北に向かうと、墓地があるのはご存じでしょうか」
 僕ははい、と頷いた。皐月橋北の墓地。霊園と呼ぶほど大きくはないが、この辺りに昔から住んでいる家はほぼ確実にそこに先祖代々の墓がある。うちの墓もそこにある。この旧家街に家庭を持つ藤澤家ならばそこに墓を持っているのは当然だろう。
「その墓地のほぼ中央付近は、主に旧家のお墓が密集しています。縁さんがいるとしたらおそらくそこです。以前にも同じようなことがありました」
 そこに縁がいる。
 きっと一人で泣いているのだろう。涙を流さずに、静かに。
「ありがとうございます」
 踵を返し、早足で出て行こうとすると、背中に声がかかった。
「縁さんは、ずっと待っていたんです」
「ずっと、ですか?」
「はい。あれからずっと、です」
 疑問を全て包み込むかのようにみどりさんは微笑む。
「わたしでは駄目でした。きっと、縁さんがずっと待っていたのは天野さんなんですよ。天野さんでなければ駄目なんです」
 みどりさんは深々と頭を下げる。
「縁さんを、助けてあげて下さい」
 今まではぐらかし続けていた答え。
 何をしたらいいのか、まだよくわからないけれど、縁が待っている。それだけ。
「はい、きっと」言って、すぐに、いえ、と首を振る「必ず」
 再び背を向け、走り出す。体は疲れていたが、足が軽い。荒い息を吐き出しながら、北へと急ぐ。
 僕と縁は、きっと似ている。
 ずっと待ってた。自分と似た人間が現れるのを。
 世界を見ていない人間が現れるのを。
 でも、僕は世界を見ていた。見ていないつもりだったけれど、きっと横目でずっと見ていたんだ。羨ましいと。
 僕は弱かったから目を逸らせなかったけれど、縁は強かったから目を逸らしてしまった。逸らしたまま生きていけた。
 でも、世の中には完璧なものなんてない。陰陽の中の、一点の陽と陰のように、彼女の中にあった、一点の世界が僕を見つけた。
 ああ、そうか。あの眼を僕は、知っていたんだ。
 夏休みに見た、鏡の中の僕。
 あの眼は、僕と同じだったんだ。
 
 
 
 墓地とはやはり特別な場所なのだろう。近づくごとに空気の雰囲気が鋭く変わっていく。一歩足を踏み入れると異世界に踏み込んだかのような錯覚にとらわれる。研ぎ澄まされていく空気に呼応するように感覚も研ぎ澄まされていく。
 しかし、その冷静さとは別の場所で激しく高鳴る鼓動。この厳かな雰囲気には酷く不釣り合いなリズムを鳴らし続けている。
 闇の中を一歩ずつ、地面を確認しながら早足で歩いていく。
 墓地の中央は、円を十字にくりぬいた形をしている。そのマークは進入禁止の標識を思い起こさせる。本当にそういった意味もあるのかもしれない。
 正面ゲートから直進し、サークルに侵入していく。そして中心で交差した道の向こうに、人影を見つけた。
 人通りはおろか街灯すらもない、暗い、本当にあの世にでも続いていると思える道の先に、仄かに佇む人影。
 墓石の文字はよく読めないが、それが『母親』であることは間違いなかった。
 縁はその墓石の前の段に膝を抱えて座り込んでいた。とりあえず最悪の状況になっていないようで、自分の肩から力が抜けていくのがわかった。
 おそらく縁は僕に気づいているのだろうけれど、何の反応も示さなかった。ただ静かに何かを待っているような気がした。
 僕はとりあえず無断で縁の隣に腰掛けた。特にやることもないので星を見上げる。雲の大部分はどこかに出払ってしまったようで、星と僕のコンタクトを邪魔するものは何もなかった。
 星を見たのは何年ぶりだろう。五年ぶりか、十年ぶりか、ひょっとしたら初めてだろうか。
「明日は晴れ。午前中は少し雲がかかってるけど、昼過ぎ、二時を過ぎた頃から日が照ってくる」
 返事はない。僕は一拍おいてそのまま話を続けた。
「僕、明日の天気がわかるんだよ。わかるって言うより、見えるんだ。何でもないときにふっと意識が飛ぶような感覚が抜けて、明日の空模様が見える。天気予報じゃなくて天気予知だね」
 誰にも話したことのない秘密を語る。雲の大部分はどこかに出掛けてしまった。
「大したものじゃない。もの凄く小さな事だけど、そういうわけで僕は昔から他人と少し違うものを見ていたんだ。少なくとも僕はそう思ってた。大したことじゃないなんて言い訳をして、それでも僕は少し特別なんだって自惚れてたのかもね。本当にどうでもいいことなのに」
 一気に言い切って息をついた。軽く深呼吸する。
「だから僕は君を見つけたんだ。何か違うものを見ている君を。初めて君を見たときから何故かとても気になった。最初はどうしてだかわからなかった。でも、やっとわかった。僕と君は似ていたんだ」
 死を見ていた縁。でも、もう終わりにしようと思う。しなくちゃいけない。
 再び静寂が訪れる。相変わらず縁は体勢を崩さずにうずくまっている。
 ふと、歌を口ずさむ。一曲歌い終えると、二曲目、三曲目。なんでもいいからひたすらに、知っている歌を歌い続けた。
 この歌が届けばいいなんて、押しつけがましいのかもしれないけれど、それでも届けばいいと、歌い続けた。
「このお墓はね、お母さんのお墓なの」
 ひとしきり歌い終えると、縁が口を開いた。俯いたまま、小声だったが、声の芯はしっかりしていた。
「お母さんが死んだ日は、雨が降ってた。その日、私とお母さんは喧嘩して、私は家を飛び出した。しばらくどこかで時間を潰してすぐに帰ってくるつもりだった。お母さんもそれはわかってたはずなの。でもね、その日は雨だったのよ。傘を持たずに飛び出していった娘を心配した母親は探しに出てしまった。そして死んだ」
 縁の体が震えているのがわかった。でもこの話は止めてはいけないのだろう。彼女は今とても大きな痛みを感じているはずだ。だから、止めてはいけない。
「通り魔事件の最初の被害者、藤澤詩織。私のお母さん」
 彼女はゆっくりと顔を上げ、僕を見据えた。薄く微笑み、
「みんな私のこと可哀想って言うのよ。運が悪かった、可哀想にって」
 縁の目から涙がこぼれる。それを押しとどめようとするかのように、声のトーンが上がっていく。
「何それ。あんた達なんかに何がわかる。ね? わかるでしょ? 私が殺したのと同じなのよ」
 縁は半狂乱になって泣き叫んでいた。やはりその目は僕を見ていない。
「それから何度も死のうとした。雨の日に一人になると堪らなくやりきれなくなる。死んでしまえたらどれだけ楽だろうって、でも何度やっても死ねなかった。そのうちもう何がなんだかわからなくなって……。ねえ、私可哀想なの? そんな目で見ないでよ――」
 今まできっと誰にも言えなかったのだろう。強かった少女の感情は決壊したダムのように堰をきって溢れていく。
 彼女が見ていたものは母親だった。もうこの世にはいない母親を、自分のせいだと。
 でも、それは逃げているだけだ。
 僕はしっかりと縁を見据えた。
「君は、お母さんを理由に逃げてるだけだ」
「――え?」
 縁に動揺の色が浮かぶ。でも、もう、終わりにしなくちゃいけない。
「それで君が死んでどうなるって言うんだ。みどりさんはどうなる。みどりさんにも同じ思いをさせたいのか。だって、君は生きてるんだろう? しっかり生きて、しっかり死のう」
「――だって、お母さん、私のせいで死んじゃったんだよ? 私がもっといい子だったらお母さん死ななかったんだよ?」
 縁の目から涙が流れ落ちる。それを見た次の瞬間、僕は縁を抱き寄せていた。
「違うよ。君のせいじゃない」
「何よ、あなたなんか、何にも知らないくせに……」
「そうだね」
「だって私……もうどうして喧嘩したのか思い出せないんだよ。このままお母さんのことも思い出せなくなっちゃうんじゃないかって――」
 縁はそのまましばらく泣きじゃくった。
 この子は違う。他人を傷つけることが出来ず、自分を追い込んだ。でも、自分の傷つけ方も知らなかったから、ずっと苦しんできた。そんな子が人を殺すことなんて出来るはずがない。
 そんなことを考えてしまった自分に腹が立ち、腕に力がこもる。
 この子は違う。もし、そうだったとしても関係ない。僕が守ってみせる。
 腕の中の少女は、どこにでもいる、年相応の女の子だった。
 
 
 
「あなたが全然来てくれないから寂しくなったのよ」
「ああ、うん。ごめん」
 ストレートな表現に照れを感じ、頭を掻く。
 縁が落ち着いた後、病院を抜け出した理由を聞いた返答である。
「でも、みどりさんは毎日来てくれてたんでしょ」
「そうだけど」
 まったく、と軽く腕を組んで拗ねたような態度をとる。その様子に僕は思わず吹き出してしまった。
 縁もつられて笑い出す。こんな時間が続けばいいと心から思う。
 縁はもう十分に辛い目に遭ったのだから、これから先は楽しいことばかりでないと釣り合いがとれない。ずっと続けさせてみせる。
「私、何も取り柄ないわよ」
 ふっ、と縁は呟いた。表情は真剣。
 ふと、既視感を覚える。星空。背後の石柱。石段に腰掛けている人物。昼に見た光景そのものだ。
「そんなことないよ」
「お料理も出来ないのよ」
「僕も出来ないよ」
 縁の下唇に出血が見えた。いつ切れたものだかはわからないが、唇を噛んで涙を堪えていたのだろう。やるせなさがこみ上げる。
「私、学校にも行ってないのよ」
「関係ないよ」
「私、わがままなのよ」
「いいよ」
「また、死のうとするかも知れない」
「それは、駄目」
 させない。そんなこと、させない。
「もう絶対に自殺なんかさせない。したら僕は君を許さない。でも、それでももし、まだ死にたいのなら」
 ポケットからあのカッターを取り出す。
 縁は真剣に僕の動作に目を向けている。刃を下唇にあて、ゆっくりと引いた。細い痛みが走り、鉄の味が口に広がる。
「僕が、殺してあげる」
 ゆっくりと、カッターを動かすよりもゆっくりと言葉を紡ぐ。
 そんなことが出来るはずがないことは僕が一番よくわかっている。
 これは盟約だ。
 縁は僕の目を見て、表情を和らげた。
「あなたになら殺されてもいいわ」
 縁との距離が縮まり、やがて唇の傷が触れ合う。血液が混じり、灼けるように熱くなる。
 近い。誓い。
 
 




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