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≪雨のち晴れ≫




 
三、雨天の霹靂
   
 
 
 
 
「思うに、味噌ラーメンってのは日本の神秘なわけだよ」
「日本は何でも混ぜますからね。鎖国で外国の情報が入ってこなかったのが幸いした面もあるのかも知れません」
「カツカレーなんかもその口だな。こういう物は大概美味い」
「そうですね」
「カレーと言えばカレーにソースかけるやつがいるってお前信じられるか?」
「親父がよくやりますけど」
 なんだと、と先輩は大げさに驚く。身近にそんな人物がいることがよほどのカルチャーショックだったのだろう。
「まさかお前も」
「やりませんよ。あれは邪道です。砂糖と塩を間違えたおにぎりぐらい食べられたものじゃありません」
「そりゃよかった。そんなデタラメな男と交流を持ちたくない」
 放課後を迎えた校舎はにわかに活気を失っていた。
 別棟の音楽室から聞こえるトランペットの音以外に校舎に音はない。
 普段なら聞こえるはずの運動部のかけ声も今日は響いていない。ここ数日の天気でグラウンドが使えないため外周をランニングでもしているのだろう。幸い雨は降っていなかった。
 反対側の棟では文化部がそういった事情とは無縁に活動しているのだろう。部活動に所属していない生徒はこの鬱蒼とした天気に影響を受けないようにと友人達とどこかに出かけているのかも知れない。
 ここ生徒会室もその煽りを食ってか僕と先輩以外には誰もいなかった。特にイベントのないこの時期はこんなものだろうが、先輩を呼びに来ると大概は誰かいるものだ。
 もしかしたら僕が来る前にみんなで出かけたのかも知れない。なんにせよ通り魔対策に家へ帰ったというのが最も現実的な推論だろう。
 例の通り魔は雨の日の夜にしか事件を起こさないのは全国的に有名だ。とりわけこの町では常識だが、殺人鬼を信用する理由はない。信用せずに家に閉じこもってしまえば少なくとも外よりは安全だろう。
 以前珍しく父にこの話をしたことがあった。父曰く、おそらく犯人にはポリシー、というより精神的なこだわり、疾患と言えるものがあるだろうから雨の夜以外に活動したりはしない、らしい。
 異常性と同時に恐ろしいほどの冷静さを感じるとも言っていた。何年もこの町で事件を起こしているにも関わらず今でも捕まっていない事実がそれを証明している。
「どうして時期、時間までわかっているのに犯人を見つけられないんでしょう。一度ぐらい目撃者がいてもいいと思いますけど」
 立ち上がり、窓から校庭を見ていた先輩は、そうだなとゆっくり振り向いた。表情には少し驚きが混じっていた。
「どうかしたんですか」
「いや、俺も似たようなことを考えてたから驚いただけだ。お前からこの手の話を振ってくるのも珍しいしな」
 確かにそうかもしれない。きっとあまり興味が無いからだろう。
 それとも、無いのは実感だろうか。
「例えば、犯人は殺された人の行動パターンを全て知っていた、とか。それならいくら警察が見回りしてようと隙をつくことだって難しくないはずだ」
「殺された人はみんな犯人と知り合いだったと?」
「いや、そうじゃない。なんの関係もない人の行動パターンをじっくり研究してるのさ。何ヶ月も、場合によっちゃ何年もかけてな」
 確かに必ず一人になるタイミングを知っていれば警察を出し抜くことも出来るだろう。だが、被害者は連続で何人も出ている。出来ないことはないだろうが少々現実味にかける。
「ちょっと無理があったかな」
 軽く肩をすくめる。僕は素直に頷いた。
「お前はどう思うんだ」
「そうですね」
 少し間を置いて考えを整理する。
「例えば、被害者が自分の車に乗る所を狙って薬で眠らせる。深夜までどこかで時間を潰して有料駐車場にでも駐車。運び出して路地裏で殺害」
「随分行き当たりばったりな計画だな。車から路地裏に運ぶまでに誰かに見られる可能性が高い」
「深夜ですから酔った連れを運んでいると間違えてくれるかもしれません」
「深夜に出かけた所通り魔に襲われたってところか。でもな」
「ええ、これじゃ計画殺人ですね」
 軽く肩をすくめる。そもそもこれは縁に借りた小説の話ではないか。自分でも気づかないうちに毒されてきているらしい。
「しかし何だってこんな話に――」
 突然、ガラ、とドアが開いた。顔を出したのは、生徒会の担当でもある僕の担任、岡田先生だった。
「お前らまだいたのか。やることないなら帰れよ」
 やる気のなさそうな表情でそんなことを言って、どか、と椅子に腰を下ろした。ネクタイを緩め、煙草に火をつける。
「また休憩ですか。職員室でしてくださいよ」
 先輩が半ば諦めたような口調でたしなめるが、
「あそこの空気は苦手なんだよ。生徒がギャーギャーうるさい方がまだマシだ」
 先輩もふう、と息を吐いて腰を下ろした。あまり深く追求する気はないようだ。いつものことなのだろう。
「あ、灰皿ないか?」
「ありません」
 にべもない。先生は軽く舌を鳴らすと、ポケットから百円玉を取り出して先輩に手渡した。
「それでジュースでも買ってこい。ただし空き缶はここに持って帰ってくること」
 先輩はまたため息をついたが、コインをはじきながら教室を出て行った。
「僕にはないんですか?」
「進路を決めたら奢ってやるよ」
 手にした煙草に細心の注意を払い、灰を落とさないようにしている。この辺りにまだ若干の良識が感じられるのが救いだろうか。
 煙が喉に入り、軽く咳き込んだ。窓を開けようと席を立つとほぼ同時に先輩が缶ジュースを持って戻ってきた。歩きながら飲んできたようで、もう缶は空だった。
「ご苦労さん」
 缶を受け取った先生はそれを灰皿の代わりにし、美味そうに煙を吸い込んだ。
「何しに来たんです?」
 露骨に嫌そうな声で牽制を試みるが、
「休憩」
 敵は強大だった。まるで怯まない。
「ほら、わかったらさっさと帰れ。例の通り魔もまた出てきて危ねえんだから」
 煙草を持っていない左手で僕らを追い払う仕草をする。
「通り魔といえば、あんなに派手に動き回ってる犯人をどうして捕まえられないんでしょうね」
 先輩がさっきまでの話題を思い出したのか、不意に問いかけた。
「なんだ、お前らそんなこと話してたのか。天野の親父さんの手伝いでもする気か?」
 やめとけやめとけと左手を振る。先輩はそれに取り合わずに怪訝な表情を浮かべている。
「天野の親父さんの手伝い?」
 先生は目を丸める。
「なんだ柴、知らなかったのか。天野の親父さんは刑事なんだよ」
 ああ、とため息をつく。
「そうか。天野、お前ってそういう奴だったよな」
 お手上げ、とばかりに両手をあげる。そういう奴の定義がいまいち不明だが確かに先輩に話した覚えはない。
「親父の手伝いなんかじゃありませんよ。ただの雑談です」
「親父さんに聞いてみたらどうだ」
 皮肉げに目を細める先輩。
「そんなこと出来ませんよ。遊びで首をつっこめる話じゃありません。そもそも教えてくれるわけないですよ」
 そりゃもっともだ、と先輩は意見を引っ込める。
「実際どうなんですか、先生」
「ん、何がだ」
 僕の質問に、興味がなさそうに灰を落とす。
「そんなに何年も捕まらずに犯罪が出来るのかってことです」
「そんなこと俺に聞かれても知らんよ。生憎犯罪ってやつはしたことがない」
「本当ですか?」
 先輩の横槍にも取り乱さず、先生はにやりと笑って言葉を続けた。
「実際の話、誰にも気づかれずに生活することだって不可能じゃないだろうな。だから捕まらずに殺人を続けることだって出来なくはない。どうだ」
「理屈はわかりますけど、そんなこと本当に出来るんでしょうか」
「実際にやってるじゃないか」
 確かに。実際にやって見せている人間がいる以上、理屈、方法など意味をなさない。逃げ延び続けているという純然たる事実があるだけだ。
「だが確かに現実的ではないな。そいつは誰も知らない部屋を持っていてそこで殺してるとか」
「それだとわざわざ死体を外に出す理由がありませんよ」
 頭にわき上がった疑問を素直に口にする。
「挑発してるんじゃないのか。捕まえてみろって」
 先輩の表情はいつになく真面目だ。薄く笑う先輩の眼に感じた薄ら寒さと先輩の意見を、まさか、と笑い飛ばした。
「結構的を射てるかも知れないぞ。元々通り魔なんてどっかイカレてる奴のやることだ」
 ってのは一般論だがなと、先生は煙を吐き出す。頭上に停滞した後、煙は見えなくなった。
「もう一つは、バレても問題ないようにしておくことだな」
「警察に協力者がいるってことですか」
 間髪入れずに先輩が答える。
 ドクン、と心臓が脈を打つのがわかった。
「そういうことだ。こっちの方が現実的だろう」
 父に聞けない理由はそれだ。
 警察の眼をかいくぐるための最も簡単な方法は内部の情報を手に入れることだ。警備の状況を知っていれば必ず穴のある場所、時間があるはずだ。だが、何度もそんなことを続けていれば、
「必ずボロが出る」
 否定してもらいたいと、声に出た僕の呟きに先生は頷いた。
「だろうな。それでも捕まっていないってことは、協力者がよほど上手く立ち回っているか、協力者なんかいないか」
 その言葉を最後に、場には沈黙が訪れた。不定期に煙草の煙を吐き出す音だけがリズムをとっている。
 何か漠然とした不安感が体を駆けめぐっていた。いくら考えてみても思い当たることはないのに、いくら忘れようとしてもそれは消えてくれなかった。
 止まっていた空気を再び動かしたのは下校時刻を告げるチャイムだった。その電子音で我に返ると同時に岡田先生が煙草をもみ消しながら立ち上がった。
「さて。休憩は終わりだ。俺はもう戻るからお前らも早く帰れ」
 僕と先輩は同時に頷いた。先生は気をつけてな、と残し教室を出て行った。ドアを閉める音が響く。
 席を立ち帰る準備をする先輩を見ても、しばらく動く気にはなれなかった。
 
 
 
 
「飯食って帰らないか」
 生徒会室を出ると先輩はそう提案してきた。
「先生の話聞いてましたか」
「堅いこと言うなよ」
「今日は平日ですよ」
「どうせ帰っても一人で飯食うんだろう」
「そうですけどね」
「じゃ、決まりだ」
 このまま帰っても特にやることもない。一人で変なことを考えているよりは先輩と時間を潰した方がいいだろう。
「どこにするか」
「任せます」
 先輩は少し考える仕草をするとすぐに頷いた。
「じゃ、ついてこい」
 学校を出ると、駅とは反対の方角へ歩いていく。そういえばこちら側には来たことがない。
 ちらほらと下校中の生徒を見かけるが、大半の生徒はもう下校してしまっているし、駅から電車に乗るため、ほとんど人影は見あたらない。
 しばらく歩くと、近代的な造りの家の数はどんどん減っていく。代わりに古びた木造の住宅が多く目についてきた。この間訪れた旧家街とはまた違った趣がある。
「いい景色だと思わないか」
 物珍しげに周りを見回す僕に先輩が問いかける。その声は問いかけと言うにはあまりにはっきりと言い切っていた。
 どう返事をしようかと思案していると先輩が口を開いた。
「この木造の家には昔からの人間の人生が詰まってる。コンクリートや鉄の建物にはない脆さがある。常に自然災害に対する恐怖と戦ってるのさ。それは人間も同じはずだ」
 そこで先輩は一度言葉を切り、学校の方角へと視線を向けた。
「強い建物を建てたからといって人間が強くなったわけじゃないのさ。人間なんて簡単に壊れてしまう」
 言っていることの意味が掴めずに無言で先輩の顔を見る。
 先輩は口の端を軽くつり上げた。
「人間は徹底してリスクを排除してきた。何にしてもそうだ。けど、それじゃ面白くないだろ。例えばゲームだって、リスクを背負わなきゃ面白くない」
 なるほど、先輩らしいと僕は思った。背負っているのは身を守るための殻ではなく自分の身を破滅させるかもしれないリスクであるべきだということだろう。その爆弾を爆発させるか抑止力とするかは自分次第だ。
「ここだよ」
 そういって先輩が足を止めたのはどう見てもただの古屋だった。相違点を探すとするならば申し訳程度に掛けられている古びたのれんだ。
 知らなければ絶対に到達することは出来ないだろう。そもそも本当に飲食店なのだろうか。
 店員に失礼なことを考えている間に先輩は戸を開けて中に入っていく。僕もそれに続いた。
 店内は独特の熱気に包まれていた。外に比べて少しもやがかっている。同時にスープの香りが鼻腔を刺激した。ラーメン屋独特の匂いだ。
 先輩がこんにちはと声をかけると、カウンターの奥で割烹着姿の柔和そうな老人が頭を下げた。他に店員は見あたらない。
 外観の通り店内はあまり広くない。カウンター席の他には四人がけのテーブルが一つあるだけだった。この広さなら一人で切り盛りすることも出来るだろう。
 案内され、二人でカウンターに座る。
 しばらくメニューを眺める。僕は醤油、先輩は味噌チャーシューを頼んだ。
「醤油とは面白みのない注文だな」
「ラーメン屋に面白いメニューがあっても頼みませんよ」
「俺も頼まないな」
「リスク高いですよ。面白いじゃありませんか」
「口の減らない奴だ」
「先輩程じゃありませんよ」
 ニヤリ、と不敵に笑ってみせる。先輩は少し面白くなさそうに水を飲んだ。
 
 運ばれてきたラーメンを食べ終えた後、少し気になっていたことを店主に聞いてみることにした。
「失礼かもしれませんが、お一人で?」
 店主はまったく笑みを崩さずに頷いた。
「そんな余裕はうちにはありませんからね。毎月赤字です。見た目通りですよ」
「いえ、そんなことは……」
 慌てて否定するが、店主は構いませんよとやはり品のいい笑顔を崩さない。
「すみません」
「もともと家内と二人だけでやっていた店だったんですよ。二年前に家内に先立たれてからは私一人でやっています」
 どういう対応をしていいのかわからない。ただ、軽々しく謝ってしまっていい話ではないことぐらいはわかる。
「柴くんはその前からうちの店に来てくれているんです。私たちは子供がいませんでしたから、家内は息子が出来たみたいに喜んでいましたよ」
 落ち込んだ雰囲気を感じ取ったのか、話題を明るい方向へと向ける。この心遣いは正直嬉しかった。
 隣に顔を向けると先輩は水をあおっていた。おそらく照れ隠しだろう。
「家内が死んで店を閉めようと思ったときも柴くんに止められまして、もう一度考えてみてくれと。それから考えてみると、とても不思議でしてこれしかやりたいことがなかったんです。店を開ける必要がないのにいつもの時間に起きてしまったり、ゆっくり骨休めをしようかと思ったんですがどこか落ち着かなかったんです」
 そこまで話して、店主は年をとると話が長くなってすみませんと謝った。
 僕はとんでもないと首を振った。
「またお話を聞かせて下さい」
「はい。私の話でよければいつでも」
 深い皺を歪ませ、優しく笑う。
 
 
 
 
「まったく、連れて行くんじゃなかったよ」
 帰り道、先輩は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
 もう陽は沈みかけ、夜の帳が落ちようとしている。風の気まぐれか、雲は薄くなり、角度によっては少し眩しい。反対側からはつるべのように月が顔を出していた。
「いいお店ですね」
 テレビから流れる野球中継、何年も使い込んでボロボロの椅子とテーブル。ほころびた座布団、壁や床のシミ。全てが生活感に溢れていた。
 僕にとってその雰囲気はたまらなく居心地のいいものだった。よすぎて、遠ざけてしまいたくなるほどに。
「初めてあそこのラーメンを食べたのは中学生の頃だから、三年前か。そのころ一度、衝動的に家を飛び出したんだ。制服のままで。あてもなく歩いてたら偶然見つけた。凄く美味そうな匂いがして、しばらくぼーっと店の前に突っ立ってた。そしたらのれんをしまおうとしたおばちゃんが出てきて、無理矢理俺を店に入れて、やけに居心地がよくて、ことあるごとに通うようになった」
 先輩もそのときに今日の僕と同じような感想を抱いたのだろうか。
 少し感傷的になっているのだろう、こんなに自分から口を開く先輩は初めてだった。
「食い終わってから財布がないことに気づいてさ、後で払いに来るって言ったら奢りだからいいって言われた。さすがにそんなわけにはいかないから後で払いに来たんだけど、絶対に受け取ってくれなかった。赤字なのに無理しちゃってさ」
 はははと乾いた声で先輩は笑った。この人も知っているのだ。死がどういうものなのか。
「そのうち十倍で返してやるって言ったら期待してるよって言ってたんだよ。もう、返せなくなっちまった」
 僕はしばらく何も言わなかった。先輩もそれ以上何も言わなかった。
 しばらくすると先輩が舌打ちをして口を開いた。
「これは俺のキャラクターじゃないな」
「最悪に似合いませんね」
「お前ほどじゃない」
「旦那さんの手、火傷だらけでしたね」
 代金を払ったときに見た手は酷く荒れていて、所々に火傷の痕があった。僕にはそれがとても綺麗に見えた。
 月明かりに自分の手を軽くかざしてみる。マメ一つ無い、真っ白な手だ。酷く幼稚な手に見えた。
 ふと、僕よりも細く、白い手を思い浮かべる。白い包帯。捻挫だと言っていたが何かを隠しているのは明白だった。気づかないほど鈍感ではないが追求するほど鈍感でもない。
 ぐっ、と拳で思考を握りつぶした。
「これは僕のキャラクターじゃありませんね」
「最悪に似合わないな」
「先輩ほどじゃありませんよ」
 少しの沈黙の後、同時に吹き出した。笑い声は空に吸い込まれていく。
 でも、少しずつ雲に隠れていく月と同じように、僕の中では何か得体の知れないもやが僅かに面積を広げていく感覚が消えてくれなかった。
 
 
 
 
 死ぬってどんな感覚なんだろう、とふと考えた。
 僕は、死を体験したことはない。当たり前のことだ。親しい友人が死んだこともないし、親戚もまだぴんぴんしている。幸い、というべきか、僕は生まれてこの方冠婚葬祭を経験したことがない。
 南米では一日に数千もの子供が死亡しているらしいが、いまいちピンとこない。天野怜司にとって死というものは全く未知の領域なのだ。
 父の職業柄、常に覚悟しているつもりだった。父が死んだら、母は泣くだろう。たぶん、僕も泣くだろう。そういう意味で僕は死を身近な物として感じているのだと思う。
 でも、肝心の死とはどういうものなのかわからない。心臓が止まる。動くことが出来ない。もう話せない。悲しい。
 理屈ではわかっている。足りないのは実感だろう。
 わからない。
 わからないから縁に借りた本を手に取った。ベッドに横になり、しばらくの間思考を放棄し小説を読み進めた。特に真新しい要素があるわけではないが、作者の基本的な力量とチャレンジ精神を感じられるいい作品だ。縁が薦めた理由が何となくわかってきた。
 中程まで読むと、一枚の紙が挟まっていた。栞代わりに使っていたのだろうと思ったが、見てみるとそれは違うことに気づいた。
 少し考え、紙を手に取り、階段を下りる。受話器を取り、書いてある数字をプッシュした。
 三回ほどのコール音の後、電話が繋がり、上品な声が聞こえた。
「はい。藤澤でございます」
「夜分遅くすみません。天野ですが、縁さんお願いできますか」
「あら、天野さんですか。こんばんは。わざわざありがとうございます。すぐに縁さんと替わりますね」
 受話器から保留音が流れ出す。特に意味もなく目の前のカレンダーを眺め、無意識にコードを弄る。
 音楽も二週目にさしかかろうかという頃、保留音が途切れ、代わりに縁の声が受話器から流れた。
「もしもし」
「こんばんは。えっと、特に用事はないんだけど」
 せめてもう少し気の利いたことを言うべきだったかと後悔するが口に出してしまった言葉は消えない。人間は後悔する生き物だ。
「本、読んでくれたんでしょ」
「まだ読み終わってないんだ。次までには読み終わしておくよ」
「ずるいわね」
「何が?」
「そういうところが」
 受話器の向こうの表情は見えないが、声は楽しそうだ。自然と僕も楽しくなってくる。
「明日会えないかな」
「あなたの家に行ってもいいかしら」
「約束だもんね」
「そう、約束」
「それじゃあ、明日学校が終わったら迎えに行くよ」
「待ってるわ」
「じゃあ、また明日。晴れるといいね」
「ええ。また明日」
 受話器を置いた。
 意味もなくカレンダーを眺める。
 冷蔵庫へと歩を進め、飲み物を探す。牛乳、野菜ジュース、缶ビール。無難にペットボトルの野菜ジュースをとりだし、そのままラッパ飲みする。
 傾けた勢いが強かったのか、それとも角度が悪かったのか、予想を越え、逆流してきた液体が口元から流れ落ちる。
 喉元まで侵略してきた液体を慌ててティッシュで拭い取る。
 浮かれているな、と自覚する。
 まったく、女の子と約束したぐらいで浮かれるとは我ながらわかりやすい男だ。
 床にまで及んだ水滴を拭き、立ち上がろうとした瞬間。
 ふっ、と脳裏に映像が浮かんだ。視界が真っ白に染まる。動悸が速くなり、血管を赤い液体が駆けめぐる。
 白く。白く。
 白い闇を深く駆け抜ける。あと少し。すぐそこ。
 突如視界が開ける。
 開けた先は霧。霧の世界。白。
 切り取られた一点。空の一点だけが不自然に、だけど鮮明に。くり抜かれた空は、ロケットペンダントのよう。
 その中には雲だけが巡る。雲が動く。曇り。
 視界が再び歪む。脳に酸素が集まる。白い闇を抜けて、白く開ける。
 今度のペンダントの中身は、太陽。
 白から白へ。
 黒い空。雲。雨粒。
 白。
 始まったときと同じように唐突に映像は途切れた。同時に鼓動も収束する。
 軽いめまいと頭痛がリアリティーを持ち、意識を現実に引き戻す。
 曇りのち晴れ。夜は雨。
 
 
 
 
 「明日の天気が見える」なんてつまらないものをなんで神様は僕にくれたんだろう、なんて考えたこともあった。
 どうせなら触れずに物を動かせるとか、自由に火を出せる超能力だったら僕の人生も変わっていたのだろう。
 時間を問わず唐突に現れる白い闇。それを抜けた先にはやはり白しかない。その霧にも似た白はピンボケした写真のように不鮮明でその先の様子はわからない。
 毎回、見えるのは一カ所だけ。楕円にくり抜かれた空間から覗く空の色。見えた空の様子は翌日、頭上で寸分違わずに再現される。
 子供の頃はみんな同じように天気が見えるものだと思っていた。天気予報の意味がわからずに首を傾げていた。
 小学校に上がる頃にはみんなと少し違う事を認識し始めていた。
 幸いこのことは誰にも言ったことがなかったので面倒なことにはならなかった。
 とりあえず不満はない。ないよりはあった方がいいし、日常生活の中では地味に便利だ。
 例えば今日のような梅雨の曇り空でも傘を持って歩かなくてもいいといった程度の利点だがなるほど、確かに結構重要な点かも知れない。
 などと考えながらビニール傘を邪魔そうに持ち歩いているサラリーマンとすれ違う。
 そして隣には同じく傘を持った少女。何が楽しいのか、傘を開いたり閉じたりくるくる回したりしている
 皐月橋を渡り、土手に折れる。寒いまでに吹く川辺の風も、今は粘ついた空気を押し出すばかりだ。しかし、水流の勢いは普段のそれとは比べものにならない程荒れている。
 ここに至っても縁は未だに謎の行為を繰り返している。そのうちチャンバラでも始めそうな勢いだ。
 あまりに楽しそうにやられるとそれがどんな行為だろうと面白そうに錯覚してしまうのは人間の性というものだろう。傘を持ってこなかったことを少しだけ後悔する。
「あなたもやる?」
「い、いや、遠慮しておくよ」
 差し出された傘を手で制すると、縁は暗澹とした表情で傘を引っ込めた。多少の罪悪を感じてしまう。
「そう。残念。楽しいのに」
 いや、騙されている。
「コツがいるのよ。開いてるときは難しくてできないの」
 本当は帰りは傘を持って出ようか、などと考えている僕が一番騙されているのだろう。
 我が家に到着すると、珍しそうに家を眺めている縁をリビングに通し、飲み物を用意する。確認をとってコーヒーを煎れ、ソファに運んだ。
 縁はカップに口を付け、露骨に苦そうな顔をした後、ミルクと砂糖を三袋ほどブレンドし、美味しそうに飲み始めた。
「家族はお出かけかしら」
 カップをテーブルに戻し、用意していたかのように滑らかに口を開いた。家に入ったときから聞きたかったのだろう。
「両親は仕事。いつも遅くまで帰らない。兄弟はいない」
 自分のカップをテーブルに置く。縁のカップの中身はとても甘そうだった。紅茶にした方がよかったかも知れない。
「それじゃあ、いつも一人なの?」
「そうだね。もう慣れたけど」
 両親は僕が小さいときから仕事で帰宅は夜になってからだった。僕が小さかった頃には母はよく仕事を休んでいたが、僕が成長するにつれてその頻度も減っていった。父は刑事という職業柄時間が不規則になりやすく、何日も帰ってこないことも珍しいことではなかった。
「そう。それじゃあ、私と同じね」
「そういえば、家族の話は聞いたことないね」
 お互い様ね、と軽く笑って縁は家庭のことを話し始めた。彼女が自分の話をするのは初めてだ。少なからず期待を抱いている事に気づく。
 期待? 何にだろうか。
「父は、古くから続いている会社の社長なのよ。骨董品関係の仕事をしている、というだけで詳しいことは知らないわ。昔から家にはほとんどいなかった。お母さんとは見合い結婚だったらしいし、あの人にとって家庭なんてそんなものだったのかも知れないわ」
 淡々と父親のことについて話すその様子からは、親子の繋がりを感じ取ることは出来ない。怒ってもいない、憎んでもいない。ただ、どうでもいい、と。縁の表情が語っていた。
 親子とはここまで冷たくなれるものなのだろうか。先ほどまでの浮ついた感情はとっくに払拭されていた。
 この目はどこかで見たことがある。それもつい最近。どこでだったろう。
 記憶の引き出しを探る。
 しばらく何も言わずにいると、縁はその空気を打ち消すかのように、一転して明るく話を続けた。思考を止め、耳を傾ける。
「みどりさんは私が小さい頃から手伝いに来てくれてる家政婦さんなの。もう今は住み込みみたいなものね。お姉さんがいたらこんなものかなっていつも思う」
 冷たかった目は一転して暖かみが差している。そこからも縁のみどりさんへの感情を推し量るのは容易かった。
「昔からあんなに押しの強い人だったの」
 縁はくすっ、と笑い、
「苦手?」
「……」
 沈黙で答えを保留するが、沈黙は時に言葉よりも正直だ。
「わかりやすいわね」
「僕は正直者なんだよ。嘘がつけないんだ」
「鼻が伸びるのね」
 精一杯の軽口も相手の方が一枚上手だった。表情には出さないがとても悔しい。コーヒーで紛らわす。
 再び沈黙。だが決して重苦しいものではない。
「お母さんはね」
 秒針が何周かした頃、縁は静かに唇を動かした。小さな声だったが、とても大きく、僕の中に響いた気がした。その視線はまっすぐに僕を射抜いている。
 言わせてはいけない。何故かはわからないが、そんな予感が走った。言わせてしまったら、取り返しの付かないことになりそうな、確信めいた予感。
「やめ……」
 やめろ、と言い終えるよりも早く部屋の外から重い金属音が聞こえた。無音だったリビングの空気をひときわ大きく揺らしたその音は、僕たちの間を突き抜け、反響した。
 浮かせかけていた腰をソファに落とす。
 聞かなくて済んだ。本気でそう思った。
 でも、本当は、聞いてみたかったんじゃないのか。
 浮かんだ思考を振り払う。縁は変わらずに僕を真正面から見つめている。僕は無意識に視線を外した。
「ただいま。怜司、いるのか」
 そういってネクタイを緩めながらリビングに入ってきた父は次の瞬間に縁の存在に気づき、目を丸くした。動きが止まる。
「お帰り、父さん」
「お邪魔しています」
 父の視線は縁に固定されたまま動かない。思いがけないものを見たような表情でドアも閉めずに棒立ちになっている。
「父さん?」
 もう一度声をかける。何かに弾かれたようにこちらを向いた。そこで初めて僕がいることに気づいたかのようだった。表情を弛緩させ、ああ、と低く洩らす。
「ゆっくりしていきなさい」
 そう言って身を翻し、部屋を出て行った。
 父の後ろ姿を半ば呆然と見送る。あれほどの狼狽えようを見せる父は初めてだ。
 全く予想していなかったもの、あるはずのないものを見たかのような、いや、それは言い過ぎだろうか。息子がガールフレンドを家につれて帰った驚きとは全く次元の違う驚きなのではないか。
 そんな直感が頭の隅に沸き立ち、少しずつ範囲を広げていく。
「私、今日はそろそろ失礼させてもらうわ」
「そっか」
 時計を見ると、すでに六時を回っていた。父も帰宅したことだし、確かに今日はこれくらいが潮時かも知れない。
 心なしか縁の表情も優れないような気がした。
「それじゃあ、家まで送るよ」
「大丈夫よ。道は覚えたし」
「でも、もう暗いから送るよ」
 縁は少し間を置いた後、納得したように軽く頷いた。
「それじゃあ、途中までお願いするわ」
 途中までというところに少し引っかかったが、彼女も何か一人で考えたいことがあるのだろうと思い、しぶしぶ承諾する。父にその旨を伝え、家を出た。
 先ほどの言葉通り外はもう夕闇に包まれつつあった。明かり無しでは見えないほど暗くはないが、女の子を一人で歩かせるには少しばかり心配だ。
 ましてや通り魔事件の渦中にあるこの町では決して安心できるものではない。
 昨日見たとおり空には雨雲らしき雲がちらほらと見え始めている。急がないと家に着くまでに雨に降られてしまうだろう。
 少し早足で歩を進めていく。
 縁は何も話そうとしない。来たときと同じように傘をくるくると回しているが、どこかぎこちない。僕も何を話していいのかわからなかった。
 父の介入で少し和らいだはずの空気はまた重苦しいものに変わっていた。
 土手の細道を抜けて、皐月大橋に出た。橋に足をかけようとしたとき、無言だった縁が唐突に、世間話でもするかのように口を開いた。
「お母さん、死んじゃったのよ」
 それが、さっきの話の続きなのだと理解するのに僅かに時間がかかった。それほどに彼女の口調は軽かった。
 でも、僕の唇は動かない。何を聞いていいのかもよくわからなかったし、何も聞いてはいけないのだと思った。人が死ぬということはつまりそういうことなのではないだろうか。
 縁はやはり軽い足取りで僕を追い越す。その何倍もの早さで車は僕たちを追い越していった。
 僕から二、三歩離れたところで縁は背を向けたまま立ち止まる。そしてゆっくりこちらに振り向いた。
「私が殺したの」
 唇の動きがゆっくりに見えた。走り抜ける車のヘッドライトとテールライトが立ち替わり縁の姿を照らし出す。僕は動くこともできずに縁の瞳に見入っていた。
 冷たい、無機質な瞳。彼女はその瞳で何を見ているのだろう。
 殺した?
 誰が? 縁が? 誰を? 母親を? 何のために?
 頭の大部分が縁の言葉を解析すべく動こうとしているが、うまくいかない。口に出ていたかも知れないが、車走音にかき消されて縁までは届いていないようだった。
 縁は変わらず僕を見つめている。いや、僕は視界に入っていないかも、知れない。
 思えば、縁はいつも僕を見ていたけれど、視界に入ってはいなかったのではないか。
 あの時も、さっきも。
 思考回路の大半が無意味な思考を繰り返す中、驚くほど冷静に、縁と初めて会った河原のシーンが鮮明にプレイバックされる。
 ああ、そうか。あの瞳だ。
 初めて見た縁の瞳。
 無機質で、冷たい。何も見えていない、何も見ていない瞳。
 父親の話をしたときの彼女も、同じ眼をしていた。
 そしておそらく、これが藤澤縁の本当の瞳。
 ぽつ、ぽつ、と水滴が頬に落ちた。雫はあっという間に世界に広がり、コンクリートを黒く浸食していった。
 さようなら、と、少女は去り際に言葉を残した。
 くるくると傘を回す後ろ姿が、綺麗だなんて、どうして思ったのだろう。
 
 
 しばらく雨にあたり頭を冷やしてみたが、思っていたほどの効果は得られなかった。相変わらず無意味な問答を頭の中で繰り返している。
「手の平を、太陽に……」
 無意識に歌を口ずさむ。子供の頃よく歌った歌。
 幼い頃から、家に帰るといつも一人だった。寂しくはなかったと思う。でも、それから逃れるようにいつも暗くなるまで友達と外を駆け回っていた。
 陽が沈むと、ある友達は母親が迎えに来た。ある者は夕食を楽しみに家へ帰っていった。僕はしばらく一人で遊んで、一人で家に帰って、一人で夕食を食べた。
 夕食を食べ終わる頃になると母が帰ってきて、一日にあったことを話した。週末には母は家にいたし、父も忙しくないときは三人で食卓を囲むこともできた。
 それで十分だった。両親を心配させることもしたくなかったから、大丈夫だと、ずっと笑っていようと思った。
 でも、思い出すのは、ドアを開けると誰もいないリビング。
 夏休み、隣の家から漂う昼食の薫りの中で一度だけ鏡の中の自分を見たことがあった。寂しそうな眼をした、今にも泣き出しそうな子供を。
 悔しかった。こんなことぐらい我慢できない自分に腹がたった。
 だから僕は歌を歌った。
 歌手のように沢山の人を感動させる美声も、楽器を弾くこともできないけれど、できる限りの声で、力一杯歌を歌った。僕は寂しくなんかない、大丈夫だと、叫び続けた。
 縁は、どうだったのだろう。
 両親のいない家で、彼女は笑っていられたのだろうか。
 母親を殺してしまった少女は、それに耐えられたのだろうか。
 それでも縁は笑っていた。楽しそうに本の話をしてくれたし、本当の家族みたいにみどりさんと笑い合っていた。
 きっとあの笑顔のためにみどりさんは想像も付かないほどの努力を重ねたのだろう。ただ縁のために。
 少しだけ縁を羨ましく思う。
 それでも彼女の傷は消えない。母親を殺した、と言った少女の心は、いったいどれほどの傷を負っていたのか。僕には想像すらできない。
 本当の顔はどっちだったのか。あの笑顔か、それともあの冷たい目か。
 雨はまだしとしとと降り続いていた。雨粒が植物に衝突する音が心地いいリズムを作りだしている。
 そんなもの、どっちだって構わないから、また笑った顔がみたい。
 笑っていた方がいいに決まってるのに、笑えないって、とても悲しいことだ。
 無性に何かに腹が立ってきて、夜空に向かって思いっきり叫んだ。
 家に帰ると父さんが風呂を沸かして待っていてくれた。熱い湯船とシャワーは雨なんかよりもずっと、僕の頭を冷やしてくれた。
 風呂場からリビングに戻ると、父は一人でビールを空けていた。いつもは大概母がいるときに一緒に飲んでいるようだが、一人で飲んでいるのは珍しい。
「父さん」
「お前も飲むか?」
 あまり飲んでいないようだが、父のテンションは不自然に高い。軽い表情でグラスを差し出す父に返事をせず、無言で向かいの席に座る。
「怜司、さっきの子、名前は」
 何を話そうか考えがまとまる前に父は口を開いた。うってかわって真面目な表情を浮かべているが、視線はあさっての方を見つめている。
「藤澤、縁さんだけど」
 戸惑いながらも僕が答えると、そうか、とまた新しい缶を開けた。
 その名前に何かあるのだろうか、中空を見つめながらビールをあおる。
 父の態度はおかしい。何を考えているのかはわからないが、今聞いておかなくてはいけないことのような気がした。
「父さん」
「覚えてないか、最初の事件のこと」
「えっ」
 不意の質問に、思わず声を漏らす。
 最初の事件、おそらく通り魔事件のことだろう。確か五年前。記憶を掘り起こしてみるが曖昧で、父の言いたいことはわからない。
「何が、あったの」
 父は大きく息を吐き、ゆっくりと話を始めた。
「五年前、市内の旧家の住人が深夜に殺害された。被害者は何カ所もナイフのような鋭い刃物で刺されていたが、致命傷は腹部への力のこもった一突きだった。場所は繁華街に近い路地だったが時間の関係で目撃者はいなかった。第一発見者は早朝にランニングをしていた学生。その晩に降っていた雨に流された血を辿ると、その先に女性が倒れていた。救急車を呼んだが、既にその女性は息を引き取っていた。犯人は通り魔と判断され、五年間捜査を続けているが未だに特定できていない。その間に出た犠牲者は七人。被害者に関連性はない。確実にわかっていることは、犯人が行動するのは決まって雨の日だということ」
 淡々と話をする父の顔に静かな怒りがこもっている。缶も父の握力に耐えきれず悲鳴を上げている。
 父の言わんとすることはよくわからなかったが、いつの間にか話に聞き入ってしまっていることは確かだった。
「……それで」
「その最初の被害者には娘さんがいたんだ。当時小学生の」
 今までに得た情報が線で結ばれ、形作られていく。無数の情報が整理され、一瞬で脳裏に一つの結論ができあがった。
 顔から血の気が引いて行くのを自覚する。体中に鳥肌が立つのがわかった。
 仮説の段階にすぎない結論を感情が必死に、違う、と否定している。認めてしまったら何かが壊れてしまう気がした。
「被害者の名前は藤澤詩織。娘の名前が確か」
「藤澤、縁……」
 
 
 
 
 その後どうやって部屋まで戻ったのか覚えていなかったが、気づいたらベッドに横になっていた。
 父は眠ってしまったのだろうか、階下から電話のコール音が鳴り響いている。
 無視して眠ってしまおうと目を閉じるが、コール音は止まない。
 掛け主の根気に負け、眠気の残る体を起こし、ゆっくりと電話のあるリビングまで降りる。時計は九時を回ったところだった。
「もしもし、私藤澤と申しますが」
 受話器を取ると、こちらの声を待たずに受話器から声が流れてきた。みどりさんのものだ。珍しく焦燥の色が見える。
「はい、天野ですが、みどりさんですか」
「天野さん、今すぐ来てもらえますか」
「来る? お宅にですか?」
「あ、いえ、今中央病院のロビーです」
「病院? 何かあったんですか」
「縁さんが……」
 そこでみどりさんの言葉は途切れた。嗚咽は聞こえないが、受話器の向こうで泣いているような気がした。
 縁に何かあったのだろうか。一際高く心臓が高鳴る。
 話が要領を得ない。みどりさんらしくない。気が動転しているのだろう。
「わかりました。話はそちらで伺います」
「は、はい、よろしくお願いします」
 はやる気持ちを抑え、受話器を置くと、自分の鼓動も早まっているのがわかった。受話器を握っていた手が汗ばんでいる。軽く顔を洗い、汗とともに不安を洗い流した。
 外に出るとまだ小雨がぱらついていた。傘を差すほどではないが、これから強くなるだろう。傘を持って自転車に跨った。
 ゆっくりとこぎ出した自転車は病院に近づくにつれて加速していくが、路面が濡れているため思ったように走ることができない。水しぶきが飛び、何度も滑った。気ばかりが焦っている。急げという自分と落ち着けという自分がせめぎ合い、そのエネルギーが車輪を回転させていた。
 縁に何があったのだろうかと、頭はそればかりを考えている。
 電話の内容から考えるとみどりさんは無事らしいが、縁は何かのトラブルで入院したということだろう。それも、みどりさんの状態から考えると楽観できる話ではないということだ。
 最も可能性が高いと思われる推論は既に頭にあったが、それは最もあって欲しくないものでもある。
 今は雨。出掛けに父がいなかったこともそれを裏付ける要素だ。
 つまり、縁は橋で別れた後、通り魔に襲われた――。
 考えるたびに背筋を冷たいものが通り抜ける。
 いや、それはない。だって、そんなことがあるわけがないじゃないか。
 駐輪場に自転車を乗り捨て、裏口からロビーへと急ぐ。
 面会時間を過ぎた病院は昼間の開放感とは全く逆に、閉塞感と孤独感を強く感じさせた。響く足音と薄い明かりがそれを助長する。
 霊の存在を信じさせるならば夜間の病院ほどうってつけの場所は他に寺か墓場ぐらいだろう。
 細い廊下を意識的に早足で抜け、ロビーに出た。空間自体は広いが、その広さが孤独感を更に煽る。あり得ない風が吹き抜ける感覚すら覚える。
 規則的に並ぶ長椅子の端に座る人影が見えた。
 みどりさんだ。こちらには気づいていない。それほどに憔悴しているのだろう。彼女が震えているのが近づくにつれて確認できた。
「みどりさん」
「天野さん」
 僕の呼びかけに、彼女は自分の膝にあった視線を僕に移し、安堵の表情を浮かべた。
「いったい、何があったんですか」
 みどりさんは一瞬言い淀んだ後、立ち上がって正面から僕を見据えた。覚悟にも見えたし、諦めたようにも見えた。
「手首を、切ったんです。自分で」
 その一言に熱を帯びていた頭はドライアイスのように急激に温度を奪われていった。思考回路すらも凍り付き、ただ呆然と呟く。
「自殺……?」
「お部屋で倒れている所を見つけて、すぐに救急車を呼びました。幸いそれほど傷は深くなく発見も早かったため命に別状はないそうですが、もう少し遅れていたらどうなっていたかわからないと」
「どうしてそんなこと」
 みどりさんは静かに首を振った。
「わかりません。ですが、以前から何度かこういったことはあったんです。その、奥様が亡くなられた頃から」
 以前見た、縁の左腕の包帯を思い出す。なぜあんなことにも気づかなかったのか。どうして今頃になってそんなことを思い出すのか。
 違う。気づいていたはずだ。避けていた。言い出すのが怖かった。
 右手に力がこもり、歯を食いしばる。
「あなたと会ってからの縁さんは見るからに明るくなって、本当に楽しそうでした。それが、一体どうしてこんな」
 みどりさんはそこで言葉を詰まらせ、顔を覆った。
 聞きたいのはこっちだって同じだ。
 思えば、家を出る少し前、家族の話をしていたときから彼女は少し変だった。あの時は深刻に捉えてはいなかったけれど、それは大きな、取り返しのつかない思い違いだった。
 母親。
 彼女にとってどれほどの存在だったのか見当もつかない。失って、自分をなくしてしまうほどの。
「縁さんの病室を教えて下さい」
 みどりさんはうなだれたまま小さく頷いた。
「三階の三○五号室です」
 ありがとうございます、と向けた背中に、待って下さい、と声がかかる。
「よろしければ、これを預かって頂けますか」
 黄色いカッターナイフ。どこにでも売っているような、ありふれたカッターだった。
 みどりさんの手から受け取り、軽く眺めた後、タブを押しだす。チチチ、と耳障りな音を立てて、赤黒く変色した銀色の刃がせり出してきた。
 刃の腹に指を滑らせると、既に乾いている血液の一部が剥がれ落ちた。握る手に力がこもる。
 カッターを握り、みどりさんに深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 僕は何も言えず、足音だけを反響させ、階段へ向かった。後ろは振り向かなかった。
 振り向いてしまったら、逃げ出してしまいそうで、振り向くことができなかった。
 
 闇に紛れて階段を一段ずつ上がっていく。微かに届くナースステーションの明かりがかろうじて足下を目視させている。
 面会時間は過ぎている以上、部屋につくまで見つかるわけにはいかない。一段ごとに取り付けられたゴム部分で足音を消し、ゆっくりと階段を踏みしめる。
 三階の五号室。名札を確認する。どうやら一人部屋らしい。好都合だ。
 音を立てないようにドアを開けて素早く中に入り込む。縁は寝ているらしく、ドアを閉めてしまうと部屋に光は届かない。
 しばらくの間静寂の時間が続く。自分の鼓動だけがリズムを刻む。
 奥にうっすらとベッドが見える。目が慣れてきた頃を見計らって少しずつそこへ歩を進めていく。
 そのほんの少しの時間で、今日一日聞いた話をぼんやりと反芻していた。
 家で話した、僕の家族のこと、縁の家族のこと。
 縁のお母さんのこと。縁が殺したという、母親。
 父から聞いた、藤澤詩織という被害者とその娘のこと。
 みどりさんから聞いた、藤澤縁という少女のこと。
 こんなに色々なことを考えたのは、初めてかも知れない。
 いくら考えても、最後には同じことを考える。
 僕は彼女に何かしてあげられるのだろうか。何かしてあげたい。
 今までそんなことを考えたことはなかった。今までやりたいことなんて一つもなかった。ただ何となく生きていただけ。死んでいなかっただけだ。
 不思議な気分。なんだろう。
 そこまで考えて、月並みな結論に行き着く。
 なんだ、僕は、彼女のことが、好きなだけじゃないか。
 雲を割って顔を出した月明かりがぼんやりと部屋を照らし始めた。光源を得た目が、うっすらと部屋を形作っていく。
 その中心に、少女はひっそりと佇んでいた。
 耳を澄まさなくては聞こえないほどの寝息。それだけが生をかろうじて感じさせる。青白い顔色は人形を彷彿とさせた。
 初めての邂逅。冷たい、冷えた生の色。
 あの時とは違う。今度ははっきりと感じる、死の壁。
 白い包帯。赤い血。黄色いカッターナイフ。
 また僕が助けてあげられるなんて、そんな軽い考えは、左腕の、赤く滲んだ包帯を見て、吹き飛んでしまった。
 死ぬ? 縁が。
 死ぬってなんだ? わからない。
 助ける?
 誰を? 藤澤縁という少女を。
 どうやって? わからない。
 僕が? 僕が?
 家で彼女と話したことも、父の言葉も、浮かんだ疑問も、自転車で考えていたことも、みどりさんと話したことも、そんなこと全部どうでもよくなって、たった一つのことを考え続けた。
 僕に、何ができるのだろう。
 
 




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雨のち晴れ

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