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≪雨のち晴れ≫




 
二、雨乞い小町
   
 
 
 
 
 家へ帰り、まずはシャワーを浴びた。着替えながら時計を見ると六時になろうかという時間だった。七時前後と予想していたが、それほど時間をとられたわけではなかったらしい。
 台所をのぞくと茹で上がったスパゲティを見つけた。戸棚にあったミートソースの缶詰を開け、火に掛けた。
 温め直している間にテレビのチャンネルを回すが、大した番組はやっていない。おとなしくニュースを見ることにした。
 温まったスパゲティをテーブルに置き、ソファに腰掛ける。皿と木製の机が接触音をリビングに響かせる。
 しばらく呆としてフォークを皿と口に往復させていたが、電話のコール音で我に返った。
「はい。天野です」
「怜司か?」
「父さん。どうしたの」
「ああ、また急な仕事が入ってな、今日は帰れそうにない」
 少し申し訳なさそうに話す父の背後から喧噪が漏れている。きっと本当に忙しい中から時間を作ってかけてきているのだろう。いつものことながら父の几帳面さには頭が下がる。こんなときには必ず連絡を入れてくる。少しは母も見習って欲しいものだ。
「わかった。母さんには僕から言っておくよ」
「すまんな」
「気をつけてね」
 受話器を置くと部屋からは音が消えた。かろうじて作り笑いのニュースキャスターの言葉だけが耳に入る。
 刑事という職業柄か、父は今回のように急な仕事で帰ってこられないなどということは珍しくない。たまに早く帰宅したときでさえ電話で呼び出され、遅くに家を出ることすらあった。
『明日も雨が多い一日になるでしょう。外出の際は傘を――』
 キャスターの話を最後まで聞かずにテレビの電源を落とす。
「明日は晴れだよ。傘はいらない」
 テーブルに戻り、もう冷め切ってしまったスパゲティの残りを口に運んだ。
 
 
 
 教室の窓から差し込む陽光。小刻みに響く紙と黒鉛が擦れあう音。教室に響く教師の子守歌。
 全ての要素が眠気を促進させる中、眠るなというのはもはや拷問ではないだろうか。教師も刑を執行しようと目を光らせている。
 そんな拷問にもあと五分耐えることができれば今日の我が校のプログラムはめでたく終了ということになる。その後のフリーな半日、さらにその先には休日が待っている。
 だが、特に予定があるわけではない。休日を怠惰に過ごすことこそ最高の贅沢だろう。
 出所前の囚人の気分を軽く想像していると、時計の針は終了時間を指し、同時にスピーカーから授業の終わりを告げる音色が流れ出す。
 帰宅の準備をしながら午後の予定を考えていると、クラスメイトから名前を呼ばれた。
「天野、会長さんが呼んでるぞ」
 ああ、と手で応えると、そのクラスメイトはしきりに首を傾げながら教室を出て行った。
 挨拶をくれる何人かのクラスメイトに手だけで応えて廊下へ出た。
「さよならぐらい言えばいいのに。友達なくすぞ」
「余計なお世話です」
「この後暇だろ。飯でも食いに行こうぜ」
「奢りですか?」
 先輩はばかやろう、と僕の頭を軽くこづき、歯を見せて笑った。僕よりも先輩の方が頭半分ぐらい背が高いので少し見上げる形になる。
「どこでですか」
「どこがいい、希望がないならいつもの店だな」
「構いませんよ」
 先輩に向けられる数多い挨拶に送られ、僕たちが校庭に出たときには既に運動部が校庭で練習の準備を始めていた。
 周囲の人間の認識からすると柴真は優等生、らしい。その生徒会長と僕が友人なのは端から見ると不思議なこと、らしい。
 先ほどのクラスメイトの行動もそれが原因だろう。失礼な話だ。僕自身、それほど不思議なことだとは思えない。何のことはない、先輩もただの人間だからだ。
 目立つ人物を偶像化し、もてはやす。その本当の人格を知ろうともしない。見た目や噂に踊らされ、普通を言い訳にしているだけではそれはわからないのだろう。誰よりも先輩をバカにしている。
「天野くん、ばいばーい」
 思考していた意識が引き戻される。すれ違った女生徒からの挨拶に手だけで応える。それを見た先輩が顔を寄せてきた。
「誰だ? 結構かわいいじゃないか」
「僕に聞かないで下さい」
「万に一つの可能性にかけてみたんだ」
 帰り道にある行きつけのファミレスに入ると、二人用の席に案内された。一息ついて水を飲む。昼時らしく学生でごった返している。
 学校から最寄りの駅までは歩いておよそ三十分ほど。その通り、通称駅前通りは文字通り駅前ということもあり、かなりの発展を見せている。
 周辺には複数の学校や会社が存在し、日用品店から遊び場まで一通り揃っている。何をするにもとりあえず困らない。
 このファミレスもその内の一つで、その値段の手頃さから主に学生が利用している。うちの学校の制服もちらほらと見える。
「今日も雨が降るって予報だったのに、カラッと晴れやがったな」
 そう言ってメニューで軽く風を送っている。確かに少し暑い。
「ええ。少し残念です」
「暑いの嫌いなのか」
 少し大きめの声で話す。雑音にかき消され、声が届きにくい。
「晴れよりは雨の方が好きです」
 本当は雨が好きなのではなく、雨が降ったときの無機的な町が好きだ。町だけではなく、空気そのものが。
「些細な違いだと思うけどな。雨なら傘がいる、ぐらいの。そのぐらいの違いだが、降らなければ傘が邪魔になる。この差は見逃せない」
 と、先輩は肩をすくめた。見たところ傘は持っていないようだ。
「生徒会室に置いてきた」
 僕の質問を先読みし、にやりと笑う。誰かをいたずらにはめたときの子供のような表情だ。何か悔しい。
「これから降るかもしれませんよ」
 悔しさを悟られないよう、メニューを流し目で追う。いつもながら代わり映えしないメニューだ。もっともそれは店のせいではない。
「そしたら取りに戻る」
「大変ですね」
「降ったらな」
「降りませんよ」
「お前、どうする?」
「家まで濡れて帰ります。そうすれば親切な人が昨日なくした傘を届けてくれるかもしれません」
「注文だよ」
 
 
 
 店を出ようとする頃には太陽は雲に隠れ、薄暗くなっていた。昨日の天気予報もあながち間違いではなかったらしい。
「こりゃやっぱり降るんじゃないのか」
 ガラスから空を覗き込み、忌々しそうに舌打ちする。
 しかしその目は少しだけ嬉の色を含んでいるような気がした。やはりこの人は本質的には雨を好んでいる人間なのだろう。だから僕はこの人と友人でいられるのだ。
「降るとしたら明日ですね。今日は降りません」
「なんで?」
「勘です」
「あ、そう」
「勘で話すのは人間だけですよ」
「お前といると退屈しないな」
 そう言って先輩は口の端をつり上げた。
「遠回しな告白ですか」
「安心しろ、そっちの趣味はない」
「安心しました」
 そこで会話がとぎれた。昼時のラッシュも少し落ち着いてきているようだ。周囲の喧噪も心地いい程度に抑えられている。忙しく動き回っていたウェイトレスも奥に引っ込んでしまっていた。
 半分ほど残っていた水を飲み干す。僕がコップを置くと同時に先輩が口を開いた。
「じゃあ、俺はお前の言葉を信じて明日のために傘を取りに行くよ」
「他に傘持ってないんですか」
「あれじゃないと落ち着かないんだ」
「悪いけど僕は帰ります」
 そう言うと先輩は「お前が来るなんていったらここの払いを俺が全額もってやるつもりだったよ」とニヤリと笑った。
「行きます」
「遅刻だ」
 割り勘で料金を払い、店を出た。少し立ち止まり、お互いに道を確認する。
 先輩は右手をポケットから出し、軽く挙げた。
「じゃあな」
「最近通り魔が出るそうですから気をつけて下さい」
「大丈夫だよ。俺よりお前の方が心配だ」
 背中越しに手を振りながら先輩は学校へと戻っていった。
 振り向き、一歩踏み出そうとしたとき、目の前の電柱に気づき、あわてて足の向きを変える。慣性が働き、よろける体を何とか立て直す。
 ため息を一つ。
(やれやれ……)
 先輩の言うとおりだ。
 
 
 
 学校の最寄りの駅から時間にしておよそ二十分。駅数にして三駅を移動し、電車を降りた。
 ここから二十分程歩くと我が家に到着する。
 駅構内の時計を見ると、まだそれほど遅い時刻ではなかったので途中にある古本屋へ寄っていくことにした。
「いらっしゃいませ、ああ、天野君か」
 店に入ると店主が気安く声をかけてきた。僕も頭を下げ、奥で本を物色し始める。文学書から専門書まで様々な本が並んでいる。外国の本も珍しくない。
 土曜の昼だというのに僕の他に客はいない。蔵書特有の匂いが鼻腔を刺激する。中身を捲りながら何冊か小説を選んでカウンターへ持っていくと、店主が老眼鏡で値札をのぞき込みながら声をかけてきた。
「またじめじめして嫌な季節になったねぇ。ただでさえお客が来ないってのに、この時期は商売あがったりだよ。千二百円になります」
 財布からお金を取り出し、はぁ、と気のない返事をする。
「雨の日に出歩く人なんていないからねぇ。はい、おつり」
 喋りながら器用に何世代も前のレジを操作する。チーン、という音と共に吐き出したおつりを取り出した。
「こんな雨が降りそうな中出歩いてくるのは君ぐらいだよ。……ああ、そういえばもう一人よく来る子がいるな」
 僕は袋を受け取り、そうなんですかと相槌を打った。何年も通っているがこの店に僕以外の常連がいるというのは初耳だった。
「君と同じ年ぐらいの子がね。おとなしそうな子だよ」
 ほっほと楽しそうに笑う。店がこの有様では人間観察が趣味になるのは仕方のないことかもしれない。なんにせよ趣味があるということはいいことだ。
 また来ますと挨拶をし、通りに戻った。空は先ほどよりも重く、黒くなっていた。店主の言葉通り僕の他に歩いている人は殆どいない。駅から出てくる人たちも、皆一様に早足で歩いていく。
 駅前の通りを抜けると大きな橋にさしかかる。僕が生まれた頃からある橋で、地元の住民は皐月大橋と呼んでいる。完成したのが五月だからその名前が付いたらしい。八月にできていたら葉月大橋だったのだろう。
 橋を渡った先は住宅街になっている。橋と住宅街の境目は十字路になっていて、事故が非常に多い事で有名である。
 僕は橋を渡らずに手前の土手道に折れる。そこから十分ほど歩き、家に到着した。
 鍵を回すが手応えがない。ノブを回しても手応えはなく、ドアはあっさり開いた。珍しい。誰かいるのだろうか。
「お帰り、怜司」
 リビングから顔を出したのは昨日から帰っていないはずの父だった。
「父さん、帰ってたの」
「ああ、少しだけ時間がとれてな、これからまた戻らなくちゃいけないが」
 そう言ってあくびを漏らす。パジャマを着ているところを見ると今まで寝ていたのだろう。
 僕は二階に上がり荷物を置いて普段着に着替えた。リビングに戻ると父も着替えている最中だった。改めてみるととても五十代とは思えない体つきだ。
 一言断ってテレビをつける。いくつかチャンネルを回すと数年前からこの近辺で発生している通り魔殺人を報道していた。
 数年前に突如起こった惨殺事件を皮切りにおよそ数ヶ月程のインターバルで何度も同じ事件が発生していた。犯人は、まだ捕まっていない。この事実はこの街に住む全ての人間を恐々とさせている。
 学校でも下校時に教師が見回りをしたり、警察が警備を強化したりしているが犯人はそれをあざ笑うかのように次々と犯行を繰り返していた。
 起こる頻度や被害者には共通点や規則性は見つかっていない。唯一の共通点は、事件が起こる日には必ず雨が降っているということだ。そのため、雨の日は外出者は極端に少なくなり、警備も強化される。
 だが、僕自身はこの事件を遠い別世界の出来事のように感じていた。身近な人間が襲われていないからだろうか。いや、身近な人物との関連性という点では犠牲者の遺族以外では僕は極めて近い位置にいるはずだ。
 抑揚のない声でキャスターは、なぜ殺すのか、何が目的なのかと、原稿を読み上げている。その隣には今までの犠牲者である人物の顔写真が浮かんでは消えていた。
 父はその様子を鋭い目つきで凝視している。決して家庭では見せたことのない表情だ。これが仕事中の父の表情なのだろうか。
 この事件は発生当初から父の担当だったらしい。犠牲者が出るたびに父はこうやってやり場のない怒りを感じてきたのだろう。そして今も感じている。
「そろそろ梅雨に入る。雨の日には気をつけてな」
 それでも僕を見て父は笑う。思えば父はいつでも笑っていた。それが父の子育てであり、天野家の繋がりでもあるのだろう。
 うん。と僕は頷いた。父も満足そうに頷く。
「それじゃ、行ってくる」
「明日は雨みたいだ。気をつけてね」
 父は右手を挙げて家を出て行った。僕も右手でそれに応えた。
 
 
 
 翌朝。目を開けると
 昨日「見た」感じだと今日は午後から雨が降るはずだ。ベッドから起きあがり、カーテンを開ける。予想通りというべきか太陽は雲に隠れていて期待していたほどの光量は得られなかった。やむを得ず蛍光灯のスイッチを入れる。
 短針は九時を指したばかりだった。なかなかの早起きだ。
 部屋から出てリビングに向かう。家の中は静まりかえっている。階段を下りる足音が響く。
 冷蔵庫の残り物で軽く朝食をとり、部屋に戻った。着替えながら今日の予定を考える。
 ふと、一昨日見た少女の顔が頭をよぎった。冷めた鋭い目や全く臆さない口調からは強い意志を感じ、ふらつく足取りからは危うさを感じた。
 不思議な少女だった。なぜ服、しかも長袖を着たまま泳いでいたのだろう。そんなことをしたら溺れるに決まっている。
 この冗談は試す価値があるかもしれない。と思うと同時にその日なくした傘のことを思い出した。
 自分で買ったものではないが長い間使い続けているので愛着がある。何より新しく買うのがもったいない。雨が降る前に探しに出ることにした。
 母の寝室をのぞくが、まだ寝ているようだった。疲れているのだろう。リビングに、出かけると書き置きを残し家を出た。
 外は半袖では少しだけ肌寒かった。雨のことを考えるとせめて長袖を着てくるべきだったかと後悔した。
 五分ほど歩くと土手に出る。この場所は向こう岸との距離が最も近い場所で、小さめの橋が架けられている。見通しがいいため、大橋も視認できる。その大橋を挟んで線対称の場所も同様に幅が狭くなっている箇所があり、やはり橋が架かっている。
 川に近づくにつれて少しずつ気温が低くなっていく。小さい川なので普段は気にならないが一度気になってしまうと余計に寒さを増幅させている気がした。
 一昨日に少女を発見した周辺を探す。
 帰り道に川の中に人を見つけた時点では確実に傘を差していた。
 川から引き上げた時点で傘の記憶はない。だとすると発見してから土手を駆け下りる間にその辺りに投げ捨てた可能性が最も高い。
 念のため河原まで降りてみるがやはりというべきか傘は見あたらない。
 そもそもあの日にこの辺りは大体探している。当時になかったものが今日あるはずがない。
 一縷の望みをかけて交番に行くしかないのだろうか。しかしあの傘は自分のものだという証拠がない。こういった事態に備えてやはり傘には名前を書いておくべきだったと後悔するが先には立たない。人間は後悔する生き物なのだ。
 万一自分のものだと証明できたとしても拾い主にどう一割の謝礼を返すかという難問もある。骨を一本あげればちょうど一割くらいだろうか。しかしそれは傘としての機能の六割を失うに等しい。なるべくならさけたい手段だ。
 だいたい前提からして間違っている。拾った傘を交番に届けてくれる奇特な人なら謝礼など請求してこないではないか。
 思考の限りない暴走に気づき、空を仰ぐ。元々曇り気味だった空は今にも降り出しそうな様相を呈していた。
 視線を戻す途中、橋の中央付近の人影に気づく。ずれていた眼鏡を人差し指で直し、凝視した。
 あの時の少女だという直感が頭を走る。今朝、部屋でも感じたイメージがよりはっきりとした形で脳内にフラッシュバックする。土手を登り、人影に近づく。その間も視線は少女に固定されていた。
 天気のせいだろうか、周囲に人影はない。皐月大橋を渡る車のエンジン音と川の音だけがかろうじて町の形を保っている。
 途中、向こうも僕に気づいたようで、こちらに視線を合わせていた。今日も長袖を着ている。
「こんにちは。今日も水泳するの?」
「こんにちは。天野怜司くん。今日の水泳は中止ね」
 視線を僕から外さず、目を細める。
 魅力的な笑顔だと、僕は思った。
 でも、何か足りない。パズルの端にピースが一つ足りない。そんな感じがした。
「何してるの。こんなところで。もうすぐ雨降るよ」
 自分で言って、あまりに月並みな質問だと思った。少し恥ずかしく思う。
 彼女は目を少しだけ逸らして、ぼそり、と何かをつぶやいた。消え入ってしまいそうな声で、僕の耳には届かなかった。
「え、聞こえなかったんだけど、もう一度言ってくれないかな」
 彼女はごめんなさいと謝って再び視線を合わせると今度は普通の声量で発音した。
「あなたこそ何をしていたの。あんなところをうろうろして」
 言うべきかどうか少し考える。
 あの時彼女もこの場にいたのだから何か知っているのではないかと思い当たり、正直に話すことにした。
「傘を探してたんだよ」
 僕が理由を話すと傘、と一言つぶやいた。腕をL字型に組み、人差し指であごの先を軽く触るポーズで、彼女は何かを考え始めた。その間何も言わずに待つ。
 彼女はすぐに何かを思いついたように軽く頷いた。
「どんな傘?」
「色は上から下まで黒。ただし骨は銀色だけど。紳士用の傘で僕ぐらいの体の人間が使うと少し大きめに感じる。昔父親が買ってきたものだけどいつの間にか僕が使ってる」
「なくしたのは私と会った日ね」
「そう。暇なら探すの手伝ってくれると嬉しいけど」
「じゃあ、こっちよ」
 彼女は僕が来た方とは反対側の橋の先を指で示した。その方向に傘があるということだろうか。それとも交番があるのだろうか。
「僕の傘、交番に届けてくれたの?」
 彼女はくす、と笑って示す方向へ歩き出す。
 仕方なく僕もそれに続いた。
 少女が前を歩き、僕は一歩離れてついていく。微妙な距離だ。
 先ほどの質問に返答はない。肯定だとすると嬉しいが一つ問題がある。
「交番に届けてくれたのは嬉しいんだけど、お礼、どうしようか。骨、いる?」
 彼女は僕の問いには答えず、代わりにあはははと笑い出した。
「あなた、面白い人ね。思った通り」
「褒め言葉?」
「もちろん」
 軽く笑う少女。つられて僕も顔が緩んだ。
「あの後ここに落ちてた傘を拾ったの。たぶんあれがあなたの傘だと思う」
「ああ、なるほど」
 いくつかの疑問が解消された。いくら探しても見つからないはずだ。
「私の家にあるからよかったら取りに来て」
 僕はすぐに頷いた。彼女も頷くと、歩みを再開した。
 
 
 歩き始めてから二十分ほど経っただろうか。時計を持ってきていないので正確な時間はわからない。
 橋を渡り、住宅街の奥に入っていくと、自分とは全く縁がないと思っていた由緒ある旧家が立ち並んでいた。旧家街があるのは知っていたが、この辺りの住人とは全く接点がないため足を踏み入れるのは初めてだった。
 その内の一軒で彼女は足を止めた。
「ここよ」
 立ち並ぶ城のような塀、寺にありそうな門、表札には達筆な文字で『藤澤』とあった。
 なぜかそれに既視感を覚えた。デジャヴだろうか。その手のことは頻繁に起こる。
 こんな由緒がありそうな、いや、確実にあるであろう家を見たのはテレビ以外では初めてだ。
 思わず立ち止まってしまった僕を後目に、彼女は軽い足取りで門をくぐり、中から手招きした。
「上がって。お茶ぐらいは出すわよ」
 門の先には少し離れて玄関が見える。横の開けた道はおそらく庭に続いているのだろう。
 屋敷に入るとすぐに長い廊下続いていた。見る限り全室が和室になっているようだ。畳の匂いがする。
「こっちよ」
 簡単に靴をそろえると彼女は奥へ歩き出した。僕も靴をそろえ、後に続く。
 一本道の廊下を曲がると、縁側から中庭が一望できた。昔家族で行った旅館を思い出す造りだ。途中、いくつか部屋が見えた。整然としていて埃ひとつすらないように見える。
 庭には松の木や池があり、遠目からではよくわからないが鯉が泳いでいるようだ。残念ながらししおどしは見あたらない。
 廊下の中程まで来ると、少し前方のふすまが不意に開いた。
 部屋から出てきたのは、日本的、とでも言うのだろうか。藍色の着物を着た、落ち着いた雰囲気の女性だった。髪は黒く、腰の辺りまで伸びている。見事に屋敷の雰囲気とマッチしていた。
「ただいま、みどりさん。お客様を連れてきたからお茶の用意をお願い」
 こっちを見て目を丸くしている着物の女性に少し早口でそう告げると、彼女はさっさと部屋に入っていった。
「あらあら、縁さんがお客様を、それも男の子を連れてくるなんて、今日はお赤飯でも炊かなくちゃいけませんね。あ、お帰りなさい、縁さん」
 みどりさんと呼ばれた女性は見た目とは裏腹のハイテンションで一気に喋り通すと、僕の周りをぐるりと回り始めた。しきりに何かをつぶやきながら頷いている。
 一周し終わると、元の位置に戻り、にこやかにぽん、と手を叩いた。
「なかなか拾いものですね。縁さん。ちょっと冴えない印象がありますけど、そこがまた隠し味というか――」
「お茶っ」
 絶妙のタイミングで部屋から檄が飛んだ。
「あら、そうそう、お茶でしたね。ただいまお持ちします」
 みどりさんは小走りに廊下を駆けていった。袖で笑い顔を隠していたが、目もしっかり笑っていたので効果は薄い。
 嵐が去ると、その名残であろう、渦巻きが頭上で回っている。人を見かけで判断してはいけないという好例だろうか。しかし今回に限って僕に非はないのではないだろうか。
 人柄は顔に出る、とよく言われるが、なるほど世の中にはやはり例外が存在するのだろう。
「こっちよ。どうぞ」
 もはやいつものことなのだろうか、過ぎ去った嵐を気にも留めず冷静に僕を部屋へと招き入れる。呼ばれるままに部屋に入り、襖を閉めた。とたんに音が無くなる。だがそれは襖の効果ではなく先ほどの、みどりさんと呼ばれた女性の効果だ。
 部屋は八畳ほどの畳部屋で、部屋の中央に木のテーブルがある以外には物がない。壁に掛け軸が掛かっている程度だ。少し殺風景な印象だが、僕自身こういった雰囲気は嫌いではない。
 どうぞ、と座布団を差し出され、お礼と交換する。彼女の向かいに座布団を敷き、あぐらをかいて座った。
「ごめんなさいね。傘。おかげで雨に濡れずにすんだわ。玄関にあるから帰りに渡すわね」
「そう。なんにせよ見つかってよかったよ」
 礼を言って、軽く笑う。以前会った時に比べて雰囲気が柔らかい。それもこの家の効果だろうか。それとも二度目の顔合わせだからだろうか。そういえば橋で会ったときも以前より明るかった。
「ところで一つ聞いておきたいことがあるんだけど」
 指を立てる。
「なにかしら」
「名前。君の名前」
 彼女は、ああ、といった風に頷いた。本当に今まで失念していたとしたら思っていたより抜けているようだ。人のことは言えないが。
「ゆかりよ、藤澤ゆかり。澤は難しい方の澤。縁日の縁で、ゆかり。改めてよろしく、天野くん」
「立心偏の怜に司る、で怜司」
 よろしく、と返し、差し出された手を握り返した。
 縁の手は冷たく、雪のように白い。細く、力を入れたら折れてしまうのではないかとさえ思える。このイメージは何かに似ている。
 思考と襖の開放は同時だった。
「わたしはみどりと申します。藤澤家で家事を任されています。ちなみに縁さんのお姉さんではありませんよ。あ、握手ですか。みどりともお願いしますよ」
 狙っていたとしか思えないタイミングで現れたみどりさんは持っていたお盆を置くと、僕の手を掴んでぶんぶんと振り回す。
「よろしくお願いします。天野さん」
「ああ、ええ、よろしく、お願いします」
 不可解なほどのテンションの高さに疑問を抱かずにはいられない。どうにもテンポが狂う。
「みどりさん、お茶いただくわよ」
 縁はもう慣れている様子で、ゆったりとお茶を飲み始めた。
「天野さん、お家はどこですか? 学校は?」
「ええっと、家は橋の向こうで市内の学校に……」
「縁さんとの馴れ初めはいつですか?」
 僕は繰り返されるみどりさんからの質問に圧倒され生返事を繰り返す。馴れ初めっていつの言葉だ。
「ぬるいわね。みどりさん、いつから襖の外にいたのかしら」
「みどりはまだお仕事が残ってますので失礼させて頂きます。あ、お帰りの際は声をかけて下さいね」
 縁の質問には答えず、みどりさんは素早い動作で部屋から出て行った。
 嵐が去ると、一気に三歳ぐらい年をとった気分になれる。それはつまりこの短時間で三年分の人生経験をしたということだろうか。いや、それは嘘だ。
 助け船を出してくれた本人は何事もなかったかのようにお茶をすすっている。わずかに表情が引きつっているように見えなくもない。悪意のある誤解だろうか。
 僕も床に置きっぱなしのお盆からお茶をとり、口を付けた。確かにぬるい。
「楽しそうだね」
 縁は僕を軽く睨んだ後、溜め息で答えた。
 目は笑っているように見えた。
 
 
 
 しばらくの間雑談に興じていた。
 初めは僕の話を黙って聞いているだけだったが、読書という共通の話題が出てからは目に見えて表情の変化が多彩になった。
 推理小説をよく読むとのことであれのトリックが面白かったとか、あれはキャラクターが立っていてよかったとか目を輝かせて語ってくれた。僕が読んだことのあるものについてはあれは面白かったけどあれはダメだとか議論に熱が入った。
 今まではあまり読まないジャンルだったが少し読んでみてもいいかなと思う。
「こんな話したの初めて。今までそんな人いなかったから」
 ひとしきり歓談した後、そう口にした彼女の表情は今までで一番柔らかいものだった。
「僕も。楽しかったよ」
 お互いに笑い、ふと会話がとぎれた。その隙間に雨音が進入する。
邪魔するものはなく、木々、瓦、コンクリート。様々な物を使い、雨粒は曲を奏でる。しばらくの間二人でその音楽に聴き入っていた。
「降ってきたわね」
 呟くその表情はすぐれない。
「雨は嫌い?」
「お陽様が好き」
 その子供のような言い方は不釣り合いに思えたが、妙に似合っているようにも思えた。
「あなたは?」
「そうだな、僕は――」
 そこで言葉を切り、部屋を見回す。窓がないので確認が出来ないが、雨脚は少しずつ強くなっているようだ。
「僕は、晴れよりも雨の方が好きかな」
 僅かな躊躇いを打ち消して言葉を続けた。
「どうして?」
「さあ、どうしてだろう」
 曖昧に答える。縁はそう、とだけ言って、深く追求してこなかった。僕もその方がありがたい。何故か理由を話すのは躊躇われた。
「藤澤さんは、どうして」
 目を合わさずに問いかける。答えまでに少し間があいた。染みこむ雨音は刻々と変化しながら心地よいリズムを刻んでいる
「雨を見ると悲しくなるから」
 言葉通り、うつむいた縁は悲しそうに見えた。儚さを感じ取ることさえ出来た。
 雨はネガティブなものと思われている。だから自分は雨が好きなのか。よくわからない。
「気象予報士は、晴れをいい天気とは言わないんだって」
「え?」
「晴れをいいと思わない人もいるから。例えば、農家の人とか」
 縁は顔を上げ、疑問符を浮かべたような表情で僕を見ている。僕は話を続けた。
「雨だって誰かを浮かれささせるし、晴れだって誰かを苛立たせる。今日の雨音は綺麗だね」
 縁は少しの間呆としてたが、やがて小さく笑った。
「それが雨を好きな理由?」
 さあ、と曖昧に答えた。
 
 
「これ使って下さい」
 玄関でみどりさんがそう言って傘を貸してくれた。
 お礼を言って受け取り、戸を開いた。雨はさっきよりも激しさを増している。
「縁さんと仲良くしてあげて下さい」
 恭しくお辞儀をするみどりさんに軽く頭を下げた。
「また伺います」
 戸を閉めるまでみどりさんは頭を上げなかった。
 外に出て、傘を開こうとして、やめた。
 少し頭を冷やそう。
 体に当たる水滴も痛いが、道行く人々の視線も心に刺さる。
 でも、こういうのもたまにはいいかもしれない。
 少し自嘲的な笑みを浮かべる。地面から浮いた足を押しつけてもらおう。
 家に帰ると恒例のシャワーを浴び、リビングに戻ると母親の姿が見えた。ソファで編み物をしている。
「ただいま」
 よほど集中していたのか、母はそこでようやく僕に気づいたようできょとんと目を丸くしていた。
「おかえり。どこに行ってたの」
 あまり興味がなさそうに問われても困るが、一応答えておくことにする。あまり母さんに心配をかけるわけにもいかない。
「うん、傘をね――」
 と、そこで今回外出した本当の目的に気が付いた。
 目的の物は今も藤澤家の傘立てに丁重に保管されていることだろう。
 自己嫌悪の意味を込めてこめかみを人差し指で軽く叩く。
「どうしたの、別に嫌なら言わなくてもいいけど」
「二階に物を取りに行って、ついでにすませようとしたはずの用事だけを済ませて戻ってくるなんてこと、よくあるよね」
「最近多いね。歳かしら」
 いやだわ、と言いつつ鏡とにらめっこを始めた母を後目に、僕は自分の部屋へ戻った。
 ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
 また来るけどいいかなと僕は聞いた。彼女は少し驚いたように頷いた。自分でも不思議だと思ったが、きっとそれで良かった。
 近いうちに、今度こそ傘を取りに行こう。どうやら想像以上に浮かれているらしい。
 会いに行く口実が欲しかったのかもしれない。
 
 
 帰り支度をしていると、担任から声がかかった。
「これから面談するから職員室まで来い」
 簡潔且つわかりやすい構文だ。僕の返事を聞かずに教室を出て行く。断るつもりはもちろんない。断る権利ももちろんない。
 職員室は空調が効いていた。梅雨特有の蒸し暑さは感じられない。人口密度も教室より低いためとても快適だ。
 担任は入ってきた僕を見つけ、手招きした。向かいに座ると、お茶菓子を差し出される。お礼を言って一口かじった。甘い。
「お前、将来のことは何か考えてるのか」
 お茶をすすりながら世間話でもするかのように質問してくる。明らかに真面目な話をする態度ではないが、僕はこの先生のそういうところは嫌いではなかった。
「いえ、特には」
 そうか、と一言。
「漠然とでも何もないか、例えばどんな職に就きたいとか、どういう大学に行きたいとか」
「いえ、そういったこともあまり」
 お茶菓子を一口。甘い。先生に頼んでお茶をもらう。湯気が立っているがそれほど熱くはなかった。メガネが曇る。
「飲み方が爺くさいな」
「ほっといて下さい」メガネを外し、シャツで拭く。
「まあ、まだ二年になったばかりだし、焦らなくても……って全然焦ってないな」
「はあ」
「お前は成績も素行も特に問題ないからあまり心配はしてない。そのときになれば自分で決めるだろう」
「そうですか」
「教師なんてそんなもんだよ。結局決めるのは本人だ」
 はあ、と気のない返事をしてもう一度お茶をすする。
「ごちそうさまでした」
「あっ、全部飲みやがったな」
 湯飲みを持って立ち上がった。お代わりを持ってくるつもりだろう。あ、お構いなくという冗談も思いついたが、結果は予想できるので黙っておく。
 湯気が立つ湯飲みとともに戻ってきた先生は軽くネクタイを緩め、話を続けた。
「で、何か生活面で困ったこととかはないのか」
「特に何も」
 あっても言わないだろう。誰にも言わないだろうという意味だ。
「そうか。ご両親とも帰りが遅いんだろう。そのことで何かあるんじゃないかと思ったが、余計なお世話か」
「もうずっとですから」
「悪かったな」
「いえ」
 謝罪はきっと本心からだろう。僕はこの先生のこういうところが気に入っているのだと思う。
「もう終わりだから帰ってもいいぞ」
 出席簿でぱたぱたと追い払う仕草をする。
「失礼します」
「あ、天野」
 振り返る。
「気をつけろよ。通り魔……いや、お前に今更言う必要はないか」
 今までとはうってかわって真剣な表情を見せる。その変化に僕は好感を持った。
「はい。さようなら先生」
 おう、と片手を上げ岡田先生は僕を見送った。
 
 
 
 
 梅雨に入ってからというもの毎日天気はぐずついている。当たり前だし特に文句を言うつもりもない。
 例に漏れず今日も朝から小雨がぱらついていたが、今雨粒は姿を潜めている。
 授業が終了した時点ではまだ降っていたはずだったが、面談をしている間に止んだらしい。しかしお天道様の機嫌もよくなってはいないようだった。
 我が家最寄りの駅を降り、駅前通りを歩く。やはり人通りは少ない。
 もうすっかりこの環境にも慣れてしまった。当たり前。そう、当たり前なのだ。この町では、雨が降れば人はいなくなる。それは梅雨に雨が降るのと同じ、当たり前のこと。
 車が水飛沫を上げて走り抜けていく。車に乗っていれば安全だと勘違いした人間が、事故に遭う。
 通り魔に遭う確率よりは交通事故に遭う確率の方がずっと高い。その程度のことに人々は恐々としている。理不尽に命を奪われる事に恐怖しているのだろうか。
 いや、それは事故も同じはずだ。なら、その差異はなんだ。
 事故は実体を持たないということだろうか。だから恐怖を感じる間もない。だが、本来は実体を持たないものを恐怖していたのが人間だったはずだ。
 皐月大橋を渡り、マンション街を抜け、古住宅街に出た。目的は藤澤家。今差している傘と藤澤家に保管されている自分の傘と取り替えに行く。ついでに縁と会えれば一石二鳥。
 さて、どちらが本命でどちらがついでなのかとふと考えるが、すぐにやめた。分かり切ったことは考えないことにした。
 チャイムを鳴らすと、みどりさんが出迎えてくれた。用件を言う前に中に通される。客間に着くと、「縁さんを呼んできますから少し待っていて下さいね」と残してみどりさんは奥に消えていった。
 相変わらずの押しの強さとテンションの高さに圧倒される。家に帰ってきて、あんな人が出迎えてくれたらどんな気持ちなのだろうか。多少呆れながらも笑って家に入れるだろうか。笑って話が出来るのだろうか。
 襖が開き、縁が姿を見せた。なにやら大量の本を抱えている。机にその本を置くと、僕を見た。僕はそれをずっと見ていた。
「どうしたの?」
「いや、うん。今日は雨が降ってたから、傘を返しに来たんだ。ああっと、前回は目的を忘れて傘を借りていってしまったんだよ。うん」
 慌てて経緯を説明する。しまった、これじゃ慌ててるみたいじゃないか。
「あなたって、人に隠れて必死に勉強するけどテスト範囲を間違えて結局徹夜で勉強するタイプでしょう」
「……今は気をつけてるよ」
 縁はあははと笑う。ちょっと悔しい。
「で、これはどうしたの」
 話を変えるため目の前に積まれた本を指さす。ハードカバーや文庫など合わせて十冊ほど。
「私のお薦め。絶対に気に入るから」
 ちょっといたずらっぽく笑う。
 なるほど。僕が読んだことのない推理小説やミステリーを用意してくれたらしい。どんな物かと一番上の物に手を伸ばした。
 
 今日の音楽は紙の音。一定のリズムを刻むかと思えば止まり、またすぐに動き出す。独特の韻を踏んだ二つの曲は時に不協和音を生み出した。時には完璧な和音を作り出していたかも知れない。
 僕が本を読み出したころはつまらないだのなんだと文句をつけていた縁だったが、しばらくすると自分も本を読み出し、気が付けば外は真っ暗だった。
「そろそろ帰るよ。これ借りていくね」
 本をぱたんと閉じ、縁を見る。
「んー」
 彼女は上の空で気のない返事を返す。心ここにあらずといった感じで完全に読書に没頭しているようだ。
「藤澤さん、聞いてないね」
「んー」
 その集中力に驚嘆すると同時にため息も漏れた。その後、はは、と小さく笑い声も漏れた。一心不乱にページをめくる姿を微笑ましく思ってしまう。
「藤澤さん、藤澤縁さん。天野怜司君がお帰りですよ」
 時間があればもっと見ていてもよかったとも思うが、時間が時間だけにあまりゆっくりしているわけにもいかない。
 机の反対側に移動し、縁の肩を叩いた。あまつさえ肩を揺らしたが、自分のキャラとのギャップに気づき、すぐにやめた。
 揺らされた縁は目の前に僕がいないことに首を傾げて、次に隣に立つ人物を見上げて、どうしたの、とまた首を傾げた。
「もう夜だからそろそろ帰ろうとして本に入っていた藤澤さんを現実に戻してあげたわけ」オーケー、と肩をすくめ、ニヤリと笑う。
 縁はあははと照れ笑いし、慌てて本を閉じた。それを見て僕もあははと笑う。
「ごめんなさい。玄関まで送る――」
 立ち上がった瞬間、バランスを崩す縁。机に倒れ込む。手を伸ばす。寸前で抱き留めた。顔をのぞき込む。縁自身も驚いているようだった。
「大丈夫?」
「うん、平気よ。ごめんなさい、ちょっと立ち眩みしたみたい」
 机に手をつき、立ち上がる縁。今の拍子でめくれた左の袖から包帯らしきものが見えた。それ、と指を差すと縁は素早く袖を直した。
「前にあなたに助けてもらったときに捻挫したのよ。心配ないわ。それよりもう帰るんでしょう。本忘れないでね」
「ああ、うん。それならいいけど」
 有無を言わせないその態度が気になったが、本人にこう言われては仕方がない。それ以上その話題には触れず、素直に帰ることにした。
 玄関まで出るとわざわざみどりさんが見送りに出てくれた。
 縁と二人で並ぶとまるで姉妹のようだ。
「お邪魔しました」
「とんでもありません。またいらして下さい」
「はい。傘ありがとうございました」
 今度こそしっかりと回収した自分の傘を少し持ち上げる。
「置いていってくれても構いませんよ。いつも忘れていって下されば縁さんも喜びます」
 ねえ、と底意地の悪そうな顔で隣にいる縁に視線を向ける。
「今度は私があなたの家に行くわ。いいでしょう」
 突然のことに少し驚いたが、僕はいつでも、と返事をした。
 縁は満足そうに頷く。得意げに腰に手を当ててみどりさんを見た。
「これで理由が出来たわ」
「よかったですね、縁さん」
 一転して穏やかな声色のみどりさん。縁は不意をつかれたように押し黙る。結局みどりさんの一人勝ちらしい。
 梅雨のただ中である六月の夜。湿った空気と地面の影響はない。雲の隙間からほんの少しだけ顔を出している月が優しく穏やかだった。
 
 




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雨のち晴れ

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