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≪SUMMER OF MAGICIANS≫




 
零 プロローグ
 
 
 
 中学に進学して一月目の五月。
 青く澄みきった空の下、俺は近所の神社に向かっていた。用事は一つ。神頼みのお願 いである。
 日射しがやや強く、夏の気配もやや色濃くなってきている。桜はもう散っていて、代 わりに緑が多くなってきている。
 この空気。この匂い。
 最高だ。もうすぐ夏が来る。
 境内へ続く石段を昇っていく。一段一段ゆっくり、しっかりと踏みしめて、ようやく 頂上へ辿り着いた。
 境内の隅にあるベンチに、見慣れぬ男がぼんやりと座っている。気に留めず、賽銭箱 の前にまで歩いていく。
 財布の中で一際大きい小銭を右掌に載せる。眺めていると、今更ながら躊躇いが生じ てきた。やはり賽銭箱に五百円玉を放るのはやりすぎだろうか。俺の一月の小遣いの三分の一である。
 ……やっぱり止めよう。思い直し、五円玉を取り出して賽銭箱に放った。鈴を鳴らそ うと綱に触れるが、思い留まって伸ばした腕を引く。
 嫌な気配を感じた。何の対処もしなければタンコブが出来てしまいそうな予感。それ は綱から手を離すことで消えた。
 手をパンパンと二回叩き、心の中で呟く。
(何か面白いことがありますように……)
 漫画のような事件が起きるとか、突然、異世界に召喚されるというような出来事が あったら、と本気で思う。
 世の中はひどく退屈で、面白くない。
 その時、じゃり、と砂を踏むような音が背後から聞こえた。瞑っていた目を開け、回 れ右をしてみると、さっきまでベンチで座っていた男の姿があった。
「なんで今、鈴を鳴らさなかったんだ?」
 今さっき感じた嫌な気配が蘇る。
「あ、いや――」
「最近の子供は知らないのか? 神社で願い事するときは鈴を鳴らすんだぞ。こうやっ て、な」
 こちらの言い分を無視して、男は思いきり綱を揺らした。嫌な気配が濃くなるのを感 じて、とっさに一歩飛び退く。
 がらんがらん、という音の代わりに、とても堅くて重そうな金属製の丸い物体が降っ てきた。がんっ、と金属独特の音を出して着地し、ころころと転がっていく。
 とっさに飛び退かなかったら脳天に直撃しているコースだった。
「あ、危なかったぁ」
 胸を撫で下ろして呟く。男はあまりの出来事に、口をOの字に開けたまま停止してい た。お社から突然の左遷を申し付けられた鈴は不機嫌そうに、歪んだ景色をその身に描いている。
 無事だったのはいいが、この状況にどう立ち向かえばいいのかは分からない。見よう によってはかなり面白い展開だが、俺が願ったこととは違う。賽銭を渋ったからだろうか。きっとそうだ。
 さて、この場はこの見知らぬ人に任せて早々に立ち去ろう。悪いのは俺ではないはず だ。まあ、男も悪いとは言えないが、運が悪かったのは事実だろう。
 と、自己完結して一歩踏み出すが、逃がさんとばかりに肩を掴まれる。かなりの握力 がこもっていた。
「なあ、どうするべきだと思う? 俺は、お前を置いて逃げるのが一番ベストなチョイ スだと思うんだが」
 爽やかな笑みがなんとも涼しげで、匂うような男ぶりだった。
 ……言い換えよう。
 邪悪な笑みがなんとも妖しげで、臭うような悪党ぶりだった。
 この人はとてもアブナい、そう直感した。それは生まれながらに持っていた能力が知 らせるものではなく、普通人としての直感だった。
「あ、いや、神主さんに謝りに行くとかしなくていいんですか?」
「いいんだ」
 即答である。
 ダメだ。この人を相手にしていたのでは埒が明かない。ため息をついて鈴の方へ向か う。
 拾い上げると、それは予想外に重かった。かなり面倒くさいけれど、この変な人の相 手をするよりは幾分かマシだった。
「ん、じゃあ、俺が謝ってきます」
 おー、と答える変な人。無視して神主を探しに行った。
 数分後、それらしき人物を見つけて事情を話す。すると、逆にこちらが謝られた。な んでも、以前、外れてからまともな修理もせず使っていたそうなのである。外れるのはこれで三度目らしい。
 なるべく早く修理するから、このことは神主には黙っていて欲しいと頼まれた。どう やら神主さんではないらしかった。
 賽銭箱の前にまで戻ってくると、変な人は始めに座っていたベンチに腰掛けていた。 無視して行こうとすると、駆け寄ってきた。
「ご苦労さん。ほらっ」
 と、缶ジュースを放られる。辛うじてキャッチすると、それは炭酸飲料だった。
 なんだろう、と男を見てみると彼も同じジュースの缶を持っていた。確かに喉は渇い ている。
「奢りだよ。鈴を落としちまったのは俺だからな。まあ、ご苦労さん、という意味も込 めてだ」
「振りましたね」
 プルタブに指を掛けた瞬間、なにか嫌なことが起こりそうな気配を感じた。ジュース の缶を開けて起きる嫌なことと言えば、炭酸飲料が爆発したみたいに一気に出てくるあの現象しか思いつかない。
 男はくくく、と笑って、バレたか、と洩らした。
 自分も子供だが、子供のようだと思える人だった。
「お前、名前は?」
 男が訊いてくる。
「あなたなんかに名乗る名前なんてありませんね」
 嫌みのつもりでキッパリと言い放ったのだが、男は心底おかしそうに笑った。
「いいねぇ、あんたなんかに名乗る名なんて無い、か。いいね、いいセリフだ。嫌な奴 に名前を訊かれた時に使わせてもらうよ」
 どうやら自分がその嫌な奴だとは思いもしないらしい。
「俺のことはシガンって呼んでくれ。あだ名みたいなもんで本名じゃないが、まあ気に するな」
 はあ、と曖昧に返事をする。
「で、お前の名前は? 先に名乗ったんだから礼儀は守ってるぜ」
「人に先に訊いてきたのを忘れたんですか」
「先に訊いたのは事実だが、先に名乗ったのも事実だ」
 自信満々に腕組みをして言う。この人、一体いくつなんだろう。
 二度目のため息をついたところで、俺は自分の名前を名乗った。
「へえ、普通の名前だな。呼びやすいから、中の上ってところか」
「人の名前を勝手に評価しないで下さい。用がないなら帰りますよ、俺は」
 嫌な気配が消えたのを確認し、ジュースの缶を開けてグビグビと飲み干す。空き缶を ゴミ箱に捨てに行き、その足で石段へ向かう。当然、シガンと名乗った男には背中を向けている。
「じゃあ、また明日な」
 まるで以前から友人だったかのように、それが当たり前であるようにそんな声を掛け られたので、俺は脱力して石段から落ちそうになった。
 これが、初めてシガンという人に出会った日だった。
 次の日。ようやく慣れてきた下校道を一人で歩く。友人とは一つ前の曲がり角で別 れ、ちょうど一人になったところだった。
 神社の境内へ続く石段が見えてくる。今日はまっすぐ家に帰ることにして道をまっす ぐに進む。
 すると、道の真ん中でばったりシガンに出会った。
「うわぁ、本当に出てきたよ、この人」
 思わず口にすると、不満そうな顔をした。
「なんだよ。そんなに俺に会うのが嫌だったのか?」
 その様子から、やっぱり子供だなと思ってしまう。
「あなた何なんです?」
「ああ? 疑問文には疑問文で返せと学校で教わってるのか? まあ、別にいいけど よ。俺は心が広いからな」
 両手をいっぱいに広げ、心の広さとやらを表現する。
 ……微妙に狭い。
「で? また用も無いのに俺の前に現れたんですか?」
「いや、今日は別に。たまたま道で会っただけだろ」
「まあ、それもそうですけど」
 狙い澄ましたように絶妙なタイミングだったという点を除けば、そういうことになる のだろう。詮索はしないでおく。
「あ、そうそう」
 思い出したようにシガンが声をあげる。
「俺よ、しばらくこの町に滞在することになったから。よろしく頼むわ」
「はあ、そうなんですか」
「そうなんだよな。ちょいと、仕事が出来ちまったようでな」
「それはそれは。じゃあ、お仕事頑張って下さいね」
 と、俺はシガンの横をすり抜けて自宅を目指す。とことこと足音が二人分。振り向く とシガンが付いてきている。
「なんですか?」
「家の方向が一緒なだけだな、きっと」
「いや、どこかへ行く途中じゃなかったんですか? 進行方向が違ってたじゃないです か」
「ありゃフェイントだ」
「誰にフェイントかけてんですよ」
「それは最重要機密というヤツだな」
 不本意ながら、シガンと会話をしながら一緒に帰るという形になってしまった。
 シガンの住居は、俺の家から歩いておよそ四十秒の所にあった。どこにでもあるよう なアパートの一室に、昨日引っ越してきたのがシガンなのであった。
 すでにお近所の人たちと知り合いになっている辺りが、ただ者じゃないと思う。
 もしかしたら何処かの悪の組織から密命を帯びて町に潜入したエージェントか何かか もしれない。
 町に眠る秘宝を狙うシガン。事件に巻き込まれ、突如、超能力に覚醒する俺。壮絶な 町防衛戦。スリルと冒険。愛と友情と感動の最終決戦。
 ……なんていう話だったら面白いかもしれない。しかし、シガンの締まりの無い顔や 態度からではとても組織のエージェントとも思えないし、何より突拍子もなさすぎる。
 だいたい、超能力みたいのならもう持っているみたいだし。
(なにか面白いこと起こらないかな……)
 その日も、平和すぎて退屈な時間を過ごした。
 
 
 それから早くも一ヶ月が経った。木々の緑は一層濃くなり、たびたび暑い日に見舞わ れた。雨が降るのも多くなり、そろそろ本格的に夏であり、梅雨だと感じられる。
 シガンは町に溶け込んでいた。本名は結城隼人と言うらしいが、俺だけはまだシガン と呼んでいた。そう名乗られたのだから、そうとしか呼ばない。シガンはまだ俺に本名を名乗りはしない。
 その日は、折角の休みだというのに雨だった。
 だからといって、家に籠もっているのも悔しかったので、何か面白そうなことを探し に外に出た。
 漫画とかドラマとか、なにか起こる時は雨が降ってる時の方が多いと思う。それだ け、現実でも面白いことが起きる可能性が高いのではないだろうか。
 手始めは近所の公園だ。と、辿り着いてみるとシガンがいた。
 とっとと帰ろうと今来た道を引き返そうとするが、何か、シガンが何をしているのか 気になった。雨の中、傘も差さずに公園の中央の砂場の前で立ちつくしているのだ。
 気が変わり、見に行ってみることにする。
 近付くと、シガンはこちらを一瞥して、また砂場に視線を落とした。
「未練がましい奴だな、俺も」
 何のことか分からず黙っているとシガンは続けた。
「ここには昔、桜の樹が植えられていたんだぜ。よく登ったりして遊んだんだ」
 昔? と僅かな声が自然に出てきた。シガンは視線を動かさずに答える。
「ああ。この町は俺の、故郷なんだ。いい思い出も、嫌な思い出も沢山、残ってる。も う知ってる奴は一人もいなくなってたけど、ここに骨を埋めるのも悪くは、ない」
 気付けば、そこには子供のような男ではなく、俺の二倍も三倍も長く生きたような大 人が立っていた。雰囲気が、いつもと違っていた。
「ここにあった桜は、子供が登ったりすると危ないからって抜かれていったんだ。見て の通り、今はもうない。
 俺が町から出てくずっと前の話だってのに、今でも……未練がある。忘れられない。 だから未だに嫁さんも貰えねえんだな」
 口の端を緩ませてこちらを向いた。
「これからウチに遊びに来ないか? 飯くらいは作ってやれるぜ」
「じゃあ、ご馳走になります」
 昨日までの俺なら、既に遠慮と呼べない遠慮をするところだったが、今は、もう少し シガンの話が聞きたかった。
 自分の知らないモノを持っている。そういう人に興味を持ち、話をしてみたいと思う のは、当たり前のことだと思う。
 俺はシガンの宅へお邪魔した。
 決して広い住居では無かったが、人二人が入って窮屈になるほど狭くはなかった。居 間の卓袱台を挟み、向かい合って座る。
 不思議と、初めてあった時の嫌な印象はなくなっていて、なんのわだかまりも無く話 すことが出来た。シガンは子供のようだが、やはり大人で、大人のようでやはり子供のようだった。
 いつの間にか口調は他人行儀なものではなくなり、友人に話す時のような口調になっ ていた。シガンが何も言わなかったので、俺はその口調のまま通した。
 いろいろな事を話したと思う。
 両親がやや過保護ぎみで困っていること。
 一ヶ月の小遣いが少ないこと。
 平凡な生活より、もっとスリルと冒険の溢れた生活を送りたいということ。
「スリルと冒険だぁ?」
「そう、巨大な組織に立ち向かう、とか。悪党と生命を掛けて戦う、とかさ。格好いい と思わない?」
 ふ〜む、と眉をひそめたかと思うと、苦笑いをした。
「そういうのは、あんまり望むもんじゃねぇな」
 シガンは席を立ち、台所から大きめの皿を二つ持ってきた。それは昼食のシーフード カレーだった。
 
 
 それからまた一月が経った。
 シガンは相変わらず子供のような所があったけれど、真面目な時は真面目で、近所の どんな大人より大人びていた。
 シガンと親しくなって今まで見えなかった一面が見えるようになってきた。ただ、そ れだけが俺にとって不安であった。
 そんな素振りは全く見せないのだけれど、定期的に何かを警戒しているような感じ で、その時だけは目つきが鷹のように鋭くなった。
 締まりのない普段の様子からは想像なんて出来ない。
 俺がそれに気付いたのは、その何か、シガンが警戒しているものがもたらす危険を、 シガンを通して感じたからだと思う。
 その気配と、シガンの目つきに気が付いた時には、背筋が凍った。けれど、シガンは 次の瞬間には、誤魔化すように笑うのだ。
 この頃、梅雨の時期はもう明けたと思われていた。
 けれど突然の雨。局地的に、何日にも渡って降り続いている。
 今日は、降り出して六日目だった。
 俺は登校の途中だった。雨が降り続いていて、人の通りは普段より少なく、代わりに 車の通りが多くなっている。信号はきちんと守り、事故に遭わないように気を付けていた。
 そんな雨の中、傘も差さず、着ているコートをずぶ濡れにさせながら二、三人の集団 が正面から歩いてきた。俺は道の端に避けて、すれ違う。
 すれ違った瞬間、実体のない鉄球で殴られたような感覚を覚える。身体に影響がない 代わりに魂だけが吹き飛ばされるような衝撃だった。
 ゾッとして振り返る。集団は曲がり角を曲がったのか、姿は見えない。その通りは、 俺の家とシガンの住むアパートのある通りだ。
 シガンが警戒していたのは、あの集団に違いない。
 震えが来た。気付けば傘を落としてしまっている。慌てて拾い上げ、しかしすぐに畳 んで別の道からシガンのアパートへ走った。
 雨に濡れることも気にせず、息が切れ、心臓が悲鳴を上げ、肺が酸素を求め悶えて も、俺は足を止めなかった。
 これは、例えるなら、走っているトラックと道路を横断する歩行者の関係だと考えた ことがある。
 迫り来る危険が、トラック。その被害を受ける可能性がある人物が、歩行者。
 そのトラックは、赤信号を無視し歩行者を撥ねようとスピードを上げてる。さらに質 が悪いことに、そのトラックは爆音も上げず、姿も見えない。
 歩行者には撥ねられる以外の道が残されていない。
 ただ、俺だけがそのトラックを視る力がある。迫るトラックを回避することが出来 る。危険な事や嫌な事、その他の色んな出来事の気配を感じることが出来る。起こり得る危険に、然るべき対処が出来る。
 生まれつき、そういう超能力らしきモノがあった。
 シガンの部屋の扉を開け放ち、叫んだ。叫んだつもりで、声が涸れて大きな声が出て いない。一旦、息を整えもう一度叫ぶ。
「逃げ、るんだ。逃げるんだ、シガン!」
 目を一瞬見開いて、シガンはすぐ立ち上がった。こちらが何を言っているのか、理解 しているようだった。
「んにゃ、逃げるのはお前さんの方だ。それと、その力は見せない方がいい……」
「何を、言って、るんだ、俺はっ」
「事象の気配を読みとる能力……。バレたら恐いおっさん達に連れて行かれちまう ぞぉ」
 シガンがその事を知っていたことに驚いたが、それ以上に、やけに落ち着いているこ とに腹が立った。
 手を精一杯に伸ばし、胸ぐらを掴んで部屋から引っ張り出そうとする。ぴくりとも動 かない。
 シガンは俺の手を優しく外し、一変して真剣な顔になった。
「スリルと冒険どころの話じゃ、ないんだぜ」
 自分が震えているのが分かる。感じている気配に恐怖していた。自分がここにいた ら、どんな危険な目に遭うか分からない。
 息がまだ上がっている。
「俺が逃げて……シガンは、どうするんだ?」
 口の端を緩ませ、肩を竦める。
「なんとかするさ。安心しろ。なに、死にやしないだろ。だからさ、お前は学校行っ て、しっかり勉強してこいって」
 その笑みにどうにか落ち着いて、俺は切れ切れの声で、なんとか分かった、と紡い だ。
「けど、ちょっと遅かったみたいですね」
 回れ右をしたところに、あの集団が来ていた。三人の内、一番背丈の低い人物が喋っ ている。
「準魔法使い、ですか。いい土産になりますね」
 バッとシガンが前に躍り出て庇うように右腕を広げた。ジリジリと後退する。シガン に合わせて俺も後ろに下がっていく。
 吐き気がした。これから起こる、何か嫌な事。その気配だけで吐き出してしまいそう な気分になった。耐えきれない程の頭痛もしてきた。
「もう諦めたらどうだ? 俺は組織には帰らんし、お前らに殺されもしない。仲間が何 人減ったか、覚えているだろ。簡単な引き算が出来ないわけでもあるまい」
 腕組みをして、ひょろりと背の高い人物がこちらに目を向ける。
「二十七人……。使命に殉じていった同胞らのためにも、貴様は生かしてはおけん。も はや、捕らえるまでもない」
「お前らもその仲間に入りたいってのかよ?」
 口は笑っているが、目は真剣そのものだった。やや汗を垂らしている。状況はまずい らしい。
 狭い部屋に五人。時間が止まったかのように動かず、沈黙が流れる。
 今までずっと無言だったもう一人が、沈黙を破った。
「墓碑銘くらいは考えさせてやっても良い……」
「そりゃこっちの台詞だ。今の内に考えておけよ。でないと、三馬鹿トリオここに眠 る、とでも彫らせてもらうぜ。お前らの墓に、な!」
 瞬間、シガンの眼が三人を威圧しようと光った。
 戦慄が走る。視神経から取り入れられた情報が、脳の指令を待たずして全身を駆けめ ぐる。震えが光速で全身に伝わっていった。
 身動きが出来なくなる。
 いつもは子供のように見えていたシガンの顔が、まるで、そんなものは一度も見たこ とはないというのに、死神に、見えたのだ。
 息が苦しい。気が付くまで呼吸をしていなかった。再開させるが上手く息が出来ず、 ハッ、ハッと途切れ途切れだった。
 心臓もドクドクドクドクと激しく鼓動している。
 何かが始まった。何かが響いた。
 聞き取れない。視点が定まらない。
 気配が絡みついてくる。絶対零度だった。
 何も考えられない。いいや、気配の正体に、思考が暴走して情報の整理が行われてい ない。何故って、なぜなら……その気配が、この死の気配なのだと気付いてしまって、それに抗う術を持っていない事実を知っているのだから。
 空気が、冷たい。ひどく、寒い。
 視界が回転して、なにか衝撃があった。
 喉の奥から吐瀉物が込み上げてきて、勢いよく口から出ていった。
 地に這いつくばっているらしく、吐瀉物は近くに留まった。一部が顔に触れている。
 身体が動かない。指一つ動かない。
 何かが、響いた。
 人の声? 断末魔か? ああ、それは確かに、響く。
 何かが、転がった。
 転がる? 頭か? ああ、それは確かに、転がる。
 何か、赤い。
 赤い? 血か? ああ、それは確かに、赤い。
 感覚が、薄れていく。意識が、薄れていく。
 薄れる? 消える? 死? ああ、それは確かに――
(――消えてしまう……)
 そこには、ただ暗闇があった。
 
 
 気が付いて目を開けてみると、俺は死んではいなかった。生きているらしい。陽はも う落ちていて、灯りの点いていない部屋では何も見えないに等しい。
 脈が打たれる度に頭が痛む。口のまわりが気持ち悪かったので右腕で拭った。手探り でスイッチを探そうと手を伸ばして一歩踏み出す。
 なにかボールみたいな物を踏んづけて転んでしまう。床に手を付いたつもりが、何か ぬめりとした液体に滑って、頭から床に激突してしまう。
 意識を失う直前のシガンの眼と、夢うつつに見た光景が脳裏に煌めいた。ぬめりとし た感触……。ボールみたいな何か……。
 それらが一体何なのかを考えるのは止め、さらに灯りを付けるのも止めにした。壁づ たいに玄関へ行く。
 外へ出る。雨音は随分と小さくなっていた。しかしまだ雲が厚いらしく月明かりも何 もない。通りの両端に街灯が等間隔に置かれ、道に円形の光の舞台を作っていた。
(シガン……、シガンはどうしたのだろう)
 小降りの雨の中を徘徊する。雨のお陰で、手や顔に付いていた嫌な感触の液体は流さ れていった。
 街灯の光が届かない所に、マネキン人形が捨てられていた。暗くて確認は出来ない。 けれど、実寸大の人の大きさだったのだ。マネキン人形の他に考えられない。
 きっと、首と右足が取れてしまったから捨てられたのだ。
 近所の公園に辿り着いた。今は何時なのだろう。高くそびえる時計に目を遣ると、七 時を回ったところだった。
 車の走る音が何度か聞こえた。人の気配はない。
 雨はしとしとと降り続ける。
 砂場へ足を進めた。その途中で、ベンチに座っている人を見つけた。その人はやはり 砂場を見つめている。
 そちらに歩んでいった。
「よお、元気そうじゃないか」
 感じられた気配に、俺は泣きそうになった。
 シガンはぐったりとした様子で、挨拶とばかりに上げた手も、肩ほどの高さにも達し ていない。
「死なないでください……」
「ああ、悪い。それは、ダメかもしれない」
「今、救急車を呼ぶから、待ってて――」
「待てっ」
 駆け出そうとした瞬間に、鋭い声が鼓膜を叩いた。
「待ってくれ。いいんだ。ここに骨を埋めるのも……悪くはない」
「縁起でもないこと言わないでよ。まだ、すぐ病院に行けば間に合うはずなんだっ」
 シガンはゆっくり首を振った。
「うんにゃ、自分の身体の事くらい……分かる」
 勝手に拳が握られる。ふるふると身体が震える。嗚咽が洩れそうになるのを必死で堪 えた。
「……ここの桜、なくなったのは、俺のせいなんだよな。俺が……俺が木から落ちなけ りゃ、良かったんだ。俺が遊んで、落ちなけりゃ、焼却なんて、されなかったのに」
 シガンは泣いていた。頬を伝って涙が零れる。すぐ雨に混じって地面に吸い込まれ た。
 す、とシガンはジュースを差し出してきた。炭酸飲料だった。
 シガンは自分の分のプルタブを開け、グビグビと飲み出した。
 俺もプルタブを開ける。
 瞬間、缶から勢いよくジュースが吹き出してきた。顔にまで達し、雨に濡れた服をさ らに濡らした。指がべとつく。
「あっはっはっはっは――」
 子供みたいに、シガンは笑った。
 俺も可笑しくて大声で笑った。
「すまん、手を握ってくれないか。女の子じゃないのが寂しいが、まあ、お前なら及第 点だ」
「人を勝手に、評価しないでください……」
 俺はシガンの手を取った。
 そして、シガンは笑顔のまま事切れた。
 
 
 一件は殺人事件として警察に扱われた。
 俺も話を訊かれた。家族も、近所の人も。
 だけど、ただ分からないと答えるしかなかった。
 彼は結城隼人で、シガンで。
 今回、何があったのか巻き込まれた俺にすら分からないし、そもそも、シガンが何者 であるかすら、俺は知らなかった。
 そう、知らなかった。
 あれだけ親しくしていたはずなのに、俺はあの人のことを何も、そう、何も知らな かったのだ。
 未解決のまま、俺たちは解放された。
 俺はこの町から引っ越すことになった。両親が決めたこと。居心地の悪さは、俺にも 身に染みて理解できた。
 そしてこの頃から俺――僕は、平凡と平穏を望むようになった。
 平凡と平穏。
 それら大切さを教えてくれたのはきっと、シガンであり、思い出すのも寒気のする、 あの日の出来事であろう。
 ただし、シガンという人物も、この出来事も、僕にとって不可思議なものとして記憶 されていた。
 なんだったのか。知りたいという気持ちと知りたくないという気持ちで半々のまま、 月日は流れていく。
 そうして気付けば、四年もの刻が過ぎていた――
 
 




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