戻る 目次へ 作品インデックスへ TOP 次へ


≪SUMMER OF MAGICIANS≫




 
壱 常雨の中で
 
 
 
 快挙だった。
 それはただひたすらに、快挙としか呼べない程に素晴らしい結果だった。
 夏休みの宿題が終わった。終わったのだ。
 三日前にである。三日前。
 両手で万歳をして、そのついでに背伸びをする。ノートや教科書類を片付け、机を立った。夏休みの宿題は終わったが、外はあいにくの雨だった。午後からの予定に支障はないのだろうかと、携帯電話を手に取る。すると、偶然にも丁度メールが届いた所だった。
『ウテンケッコウ コレヨリ キデン ノ イエ ヘ ユク』
 モールス信号か何かを受信したのではなく、相手のただの遊び心である。送信者の名は山岡敬一。雨だというのにご苦労なことである。
 そう、雨。
 梅雨の時期は、暦の上ではとっくに過ぎている筈なのに、しつこく降り続いている。今日で、もう五日目になろうか。
 長い雨は四年前の出来事を思い出させる。あの時も、しつこい雨が降っていた……。
 敬一が来るまでの間、彼から借りた漫画でも読んで過ごすことにする。本棚から一冊、コミック文庫を取り出した。某有名週刊少年誌の伝説の名作である。ところどころ話の展開に矛盾するところがあるが、それに目を瞑れば確かに傑作だった。
 連載当時は、寝ている友人の額に肉と書くのが流行ったらしい。
 三分の一くらい読んだところで呼び鈴が鳴った。母が応対する前に玄関へ行き、友人を出迎える。
「やあ、雨の中ご苦労だったね」
「まあな。少ししたらお前も同じ苦労をすることになるがね」
 部屋に通し、座布団を二枚持ってきて床に座った。
「どうだ? お前のことだから、夏休みの宿題、もう八割は終わったんじゃないか?」
「ああ、うん。終わったよ、十割。百パーセント」
「終わった? そりゃ凄いな。いつもはギリギリだろ」
「快挙でしょ? これでのんびり過ごせるよ」
 手を頭の後ろの持っていって伸びをした。ついでに柔軟体操もする。ここから先、めくるめく自由な時間が僕を迎えてくれる。
「しっかし、感心するよ。いつも、長い休みの前には出された宿題は終わらせてる。よくそんな気力があるな」
「休みが終わる直前に一気に終わらせる気力は僕にはないよ。無いって言ってるのに、いつも君や涼子には手伝わされてる」
 去年の夏休み終了直前もひどい有様だった。答えを写してしまえば早いだろうに、二人とも変なところだけは意地を張り、一問一問丁寧に解いていくのだ。僕はその間、教官になって二人の質問を受け付ける。
 結局、始業式当日の朝五時まで二人は僕の家に居座った。
「ああ、去年は悪かったよ」
「去年も、でしょ?」
「お前、結構嫌な性格だな。分かったよ、今年はなんとか一人で片付けるよ」
「それは去年も聞いたよ。だいたい、なんでわざわざ小学生みたいに宿題溜め込んでおくのさ。僕みたいに先に終わらすか、毎日コツコツやるか、もしくは、やらずに済ませちゃえばいいだろ」
 敬一は腕を組んでふ〜む、と唸った。
「まあ正論だな。実際、俺も一度毎日コツコツやって始業式の一週間前には終わらせた事もあるんだけどね」
「なんで一度だけなのさ」
「いや、どうもね、最後に火の車に乗らないと夏が終わったって気がしないんだ。分かるか?」
「分からない。分かりたくない」
 だいたい、春休みや冬休みの時の説明になっていない。冬休みが終わっても冬は終わらない。
「祭りみたいなものなんだよ」
「なるほど。祭りは一人じゃできないから僕を巻き込むわけね」
 壁にかかっている時計を見上げた。
「そろそろ行こうか?」
「そうだな、行くか」
 二人同時に立ち上がった。
 傘を持って家を出た。雨の勢いは相変わらず。湿度が高く、また、しばらく陽が出ていないためにやや寒い気もする。やはり暑くないと夏という気分がしない。
「お前、涼子とはどうなんだ?」
 道なりに歩いていると敬一が訊いてくる。
「付き合ってるって噂、まだ聞くぞ。あの話、嘘じゃなかったのか?」
「あれ? おかしいな」
 日付を逆算する。それは確かゴールデンウィーク直前の話だった。
 強引に僕と付き合おうとしてきた娘がいて、たまたま通りかかった涼子に助けてもらった。僕と涼子は既に付き合っているから、二股は出来ない。そう言って断った。
 厳重に口止めしたのだけど、次の日にはクラス中に、その次の日には学年中に噂が広がっていた。
 もう二ヶ月以上前の話である。
「まだそんな噂が流れてるんだ。噂も七十五日でしょ。もうそれくらいは経ってるはずなんだけどな」
「既に全校公認って感じになってきてるからな。嘘じゃない噂なら何日続いたって不思議じゃない」
「ありゃ僕と涼子の、その場しのぎの嘘だよ」
 溜息をつく。
「それは知ってるよ。けどよ、嘘だって知らない連中が、お前と涼子のじゃれ合いを見てたら誰だってそう思うぜ」
「じゃれあってる覚えはないけどな。仲は良いとは思うけど……」
 今まで涼子と過ごしてきた時間を思い出す。付き合っていると言われるほどの事は無いように思えた。
「ちなみに、藤堂政樹と三上涼子は付き合ってるんじゃないか? って噂は、もっと前からあったぞ」
 えっ、と声を上げて敬一の方を向いた。
「今は付き合ってるという話になってるらしいが」
「僕と涼子って、そんなに風に見える?」
「見えるよ。お前ら、何回もデートに行ってるそうじゃないか」
「デートなんてしたことないよ。一緒に遊びに行った程度だって」
「一般的に、それをデートというんじゃないのか」
 どもりながら、そっか、と呟き、僕は下を見た。地面と絶対に勝てない睨めっこをしながら歩く。
 涼子は、デートのつもりだったのだろうか。
 それとも、僕と同じくデートだとも思っていなかったのだろうか。
 どちらだろう?
 仮に答えが出て、その答えが前者だったら?
(それって、つまり――)
「そういえば……」
 不意に敬一が声を上げたので、びくっ、と身体が動いた。今までの思考が吹き飛んでしまう。
「ななな、なに?」
「お前、今日はよくどもるな。いや、今回の旅行、貴人は来れなくなった」
「え、なんで? なんかあったの?」
「文化祭の準備で忙しいとよ。あとコミケにも出るらしい」
「ああ、そうなんだ。でも、女将さんには三人で行くって言っちゃってるんだよね。どうするの? あの人のことだから、きっちり三人分、もう用意しちゃってるよ」
 毎夏行っている旅行の泊まり先は、敬一の叔母が女将を務める旅館である。そのお陰で僕たちは少ない旅費でより多くのサービスを受けている。特に食事の面で。朝昼夜と豪華な食事を作って貰っちゃっている。
 ちなみに、毎年行くのは僕と敬一だけで三人目はよく入れ替わる。
「ああ、叔母さんはちょっとアレだからな。すぐ三人目を見つけるよ。行きたいって奴がいたら教えてくれ」
「そうだな……。今のところは該当者は無しだね。それより今は、お土産を何にするかの方が重要だよ。いつもお世話になってるから」
 今日の目的はそれだった。
 以後、当たり障りのない話――主にアニメの話をしながら商店街の方へ向かった。雨のため人の通りは少なくなっていて、逆に車の通りが若干多くなっている。
 結局、二人の総予算二万円で買ったのは、旅館で使えそうな洗剤やタオルなどの雑貨と、瓶一本の日本酒だった。下手に食べれるものを買ってしまうと、僕たちが食べる羽目になる。女将さんはそんな人だった。実はお酒を買うのも危ない賭である。
「さて、買い物は終わった」
 店から出てすぐ敬一は言った。
「これからどうする? ゲーセンでも行くか?」
「いや、荷物」
 持ち上げて誇示する。
「そうだな。濡れないうちに持って帰るか。ここからは……お前の家の方が近いが……」
 問題がありそうな口振りだ。
「なに? 僕の家じゃダメなの?」
「いや、お前の親御さんの事を考えてな。酒を持って帰ったら俺もお前もどやされるだろうからなぁ」
「ああ、うん――」
 僕も高校二年になるというのに、未だに両親は口うるさい。人に渡す物だと言っても、僕がお酒を持つことなど許してくれる筈がない。
 もともと過保護気味だったのが、それが四年前からさらに増している。それも無理は無いとは思う。けれど、僕もあの出来事で少しは成長したのだ。
 とはいっても、やはり面倒は避けたい。それに、あまり両親にいらぬ心配をさせるのもやはり悪い気がする。
「そうだね、じゃあ君の家に行こう」
 OK。と、敬一が先行して歩き出す。やや遅れて後を追った。
 敬一とは、中学二年からの付き合いだ。クラスで同じ班になって、趣味の話で意気投合。次の日、大量の荷物を持ってきたかと思ったら、それは某機動戦士のビデオ全巻で、僕にそれを見ろと言ってきた。
 懐かしい思い出である。
 ちなみに、涼子はそんな僕らのやりとりを見てオタクだとかオタクじゃないだとか言っていた。以来、彼女が敬一の趣味に対し理解を示すことはなかった。
 少し苦めの思い出である。
 その頃の敬一は父親とあまり仲が良くなかったようだが、今はそうでもないらしい。彼女ができて、それで変わったのだろうか。
 雨は相変わらずの強さで降り続いている。
 ……雨。
 雨の街。普段より、やや危険の気配が濃い。
 たまにすれ違う人。
 傘を差す人もいれば、レインコートを着込んでいる人もいる。
「……っ!」
 レインコートの人を見て、四年前の雨の日を思い出す。そういえば、あの時の雨もしつこかった。
 今のところは、特別強力な気配は感じられない。嫌な予感がするのは、気のせいに違いない。
「あの……」
 雨音に紛れて女性の声が聞こえた。足を止め、声のした方に顔を向ける。若い、僕らと同じか少し年上くらいの女の子が立っていた。
 濃い藍色で短い髪。碧眼。白い肌。なにより、雰囲気から外国人であることが分かる。化粧はしていないようだが、可愛い。いや、綺麗と言った方がいいのだろうか。それも違う気がする。可愛いと綺麗のちょうど真ん中辺りに位置付けておこう。
「どうしたんですか?」
 見とれていた僕より先に敬一が答えた。
「ええ、あの……道をお聞きしたいのです」
 発音がほんの少しおかしいが、敬一は気に留めてはいない様子だ。
「何処へ行きたいんです?」
「ホテルです。MKグランドホテル」
 微笑んで少し首を傾げた。そこは街一番の高級ホテルだ。受け答えをしていた敬一に変わって僕が答える。
「この道を真っ直ぐ行くと大きめの郵便局が見えてきます。そこの十字路を左に曲がって道なりに行くと橋があるので、それを渡って最初の信号を右に曲がって少し行けば、MKグランドホテルです」
 女の子は傘を肩と頬で抑え、メモに取っていた。どうやらメモは英語らしい。それが終わると、深々と頭を下げて教えた道を歩いていった。
「……美人だったね」
 後ろ姿が遠くなってから、僕は言った。
「やっぱりお前、面食いだったんだな」
「え、なんで? 何を根拠にそんな――」
「女の子を見て、美人だとか言い出す奴は面食いだ」
 否定できない。話題を変えよう。
「あの娘、日本語上手だったね」
「俺の方が上手だぞ」
「当たり前じゃないか。日本人なんだから」
「それよりお前、状況がまずくなると話を変える癖があるよな」
「……お腹空かない?」
 朝ご飯を食べて以来、飲み物以外何も口にしていない。家を出る前に見た時計は十二時半を差していたから、今はおそらく二時半から三時くらいだろう。
 昼時はとっくに過ぎている。
「確かに腹は減ったな。そうだな……、これからウチに来るんだから、ついでに飯でも食っていけよ。食材は余ってるし、まあ、二人分作るって言っても大した労力じゃないしな」
 敬一の父は、敬一が高校二年に上がってからすぐ仕事で遠い地方へ行ってしまっている。
 敬一が一人暮らしを始めてもう三ヶ月が過ぎている。敬一に母はいない。ちゃんと一人で家事炊事はこなしているらしいので料理の腕前は並以上になっているに違いない。
「助かるよ。実はお金持ってないんだ」
 買い物に使ったお金は、あらかじめ敬一に預けてあったものだ。
「なんだ、やっぱり財布持ってきてなかったのか」
「いや、財布はあるけど、中身が空っぽなんだ」
「そうか。まあ、それはいいんだ。いま重要なのは、お前が面食いだってこと。自覚しとけよ」
 
 
 中途半端だな、と思う。
 普通、長期休暇が始まるすぐ前に休日があったなら、その休日の前の日にでも終業式を行っておくべきではないのだろうか。
 今、教壇では数学の先生が懸命に夏休みの宿題の重要さを説いている。僕はもう終わっているのでどうでもいい話なのだけど。
 それより授業はどうしたのだろう。
 夏休みまであと二日に迫っている。昨日の休日は敬一と土産を買いに行った。そして今日は放課後、涼子と付き合う約束がある。最近はどうも忙しい。
 それも平和なお陰だ。何に感謝すればいいのか分からないけど、とりあえずは感謝しなければならない。
 四時間目の授業が終わり、昼休みに入った。
「まーさーきっ」
 机に突っ伏していた顔を上げると、涼子が満面の笑みで僕を見つめていた。開け放たれた窓から流れる風が彼女の長い髪をなびかせている。機嫌が良さそうだった。
「その妙でやけに甘ったるい声出すのやめてくれない? で、どうしたの、機嫌がいいみたいだけど」
「別に何でもないけどね。お弁当、一緒に食べよ」
 弁当箱を包んだ布の結び目をつまんで持ち上げる。
「うん。そうしようか」
 了承すると、涼子は頷いて僕の机に弁当箱を置いた。前の席の人に断って、机を反転させてもらう。ドッキングを完了させ、僕と涼子は向かい合って座った。
 鞄から弁当箱を取り出す。
「あ、敬一」
 後ろの席から敬一が歩いてきたので声を掛けた。
「どう? 一緒に食べない」
「いや、今日は屋上だ」
 と、敬一は教室の扉の方へ視線を向け、立てた親指をその方向に倒した。何度か見かけたことのある、髪の短めなメガネの女子生徒がクーラーボックスを両手に持って立っていた。制服のリボンの色から一年生であることが分かる。廊下で静かに佇んでいた。
 敬一を待っているらしい。
「んじゃ、後でな」
 そう残して、敬一は上機嫌で教室を出ていった。ちなみに、今日も雨なので屋上には出られない。階段の踊り場で食べるのだろう。
 弁当箱を開け、食事を始めた。今日は父さんの特製唐揚げ弁当である。両親は炊事と家事を一日交代でこなしてくれている。
「そう言えばさ――」
 涼子との会話の最中、ニュースの話題になってふと思い出した。
「昨日、敬一の家に遊びに行ってそこでも話をしたんだけど、最近は妙な事件も増えてるね」
「え、何が?」
「ほら、最近話題になってるじゃない。観光バスとかが乗客ごと行方不明になって、数日後にバスはひょっこり戻ってくるけど、乗客は戻ってこないってヤツ」
「ああ、あの事件ね。知ってる。確かに変だよね、乗客だけが行方不明になってるんでしょ?」
「そうそう。でも、行方不明になった人の何パーセントかはいつの間にか帰ってきてるんだってさ。不思議だよね」
 これに似た事件は他にも頻繁に起きているらしい。ここ二ヶ月でマスコミも騒ぎ出し、しばしば特集番組も放送されている。同じような事件は世界各国でずっと前から起こっていたそうである。
 それらは共通して不可解。原因も不明。帰ってきた人は全員、事件については何も覚えてはいないとのこと。
 だが、周りのみんなから見ればただの話のタネでしかないようだ。危機感などは微塵もない。僕も危機感はほとんど無いが、この事件に巻き込まれた人を思うと少し心が痛む。
 そして少し気にかかるのは、一番最近起きた事件がこの街の近くで起きたということ。僕の、あの力は今のところは何も感じないが、なんだか嫌な予感がする。
「でも、偶然の事故が重なっただけ。きっと、その程度のことなんじゃないかな。この近くで起きたっていうのは少し気になるけどね」
 事件について意見を言った。
「政樹は気楽ね。自分が巻き込まれたらどうしようとか、思わないの?」
 涼子は少し不安そうに言った。
「というよりね、そうであって欲しいっていう願いかな。だって、偶然じゃなかったら誰かが引き起こしたってことでしょ。何らかの目的を持ってさ。テロとかそういうのの一環かもしれない」
 ふ〜ん、と涼子は相槌を打つ。弁当箱を仕舞い頬杖をついた。
「やっぱり、政樹も不安?」
 最後の唐揚げを飲み込む。弁当箱を片付けながら言った。
「そりゃ、少しはね。でも、今のところ自分が巻き込まれる確率なんてずっと低いだろうし、どちらかと言えば、旅行の時に雨が降らないかの方が心配かな」
「敬一と毎年行ってるってやつ?」
「そうだよ。あそこの温泉は露天風呂なんだ」
「今年の三人目は斎藤くんだっけ?」
「ああ、いや。貴人は来れなくなっちゃったんだ。敬一が代わりに誰か誘うって言ってたけど」
「ふうん。やっぱり、男の子だけ? 誘ってるのは」
「さあ。多分そうだと思うけど。女の子誘ったら、まあ、倫理的な問題も絡んでくるだろうしさ」
 チャイムが鳴り始る。僕たちは机を元の位置に戻した。涼子は軽く手を上げて席に戻る。僕は次の授業の準備を開始した。
 予鈴から三分くらい経って敬一が戻ってくる。
 僕の目の前を通る際、話しかける。
「三人目。どうなってるの?」
「今、候補の連中に確認してるところ」
「さっき、手ぶらで出ていったよね。購買?」
「いや、聖美が作ってきてくれたんだ」
 聖美というのは、先程、敬一を迎えに来たメガネの女の子のことである。フルネームは白川聖美。敬一は彼女と交際している。
「ラブラブだね」
「まあな。でもラブラブってのは死語だろう」
 敬一が席につくとすぐ教師が現れ、授業を開始した。
 
 
 特に変わったこともなく放課となった。五時間目の地理の授業があまり面白くなかったことと、六時間目の化学の授業で先生が若い頃の自慢話をしたことを除けば、有意義な時間だった。
 窓の外では雨が降り続いている。昨日よりは雨の勢いは弱まっているように思えた。いい加減、止んでくれてもいいだろうに。しつこい。
 不意に視線が遮られる。涼子だった。
「ね、政樹。ちょっとお願い聞いてくれない?」
 困った様子で、胸元で両手を合わせて片目を瞑る。
「……もしかして、また?」
 あははっ、と笑い、頬を人差し指で掻く仕草を見せる。
「どの先生に頼まれたの?」
「図書の佐々木先生。朝、会った時に」
 ははあ、と呆れ笑いと溜息を混ぜた様な声を出して、僕は席を立った。鞄を持って、涼子に視線を向ける。
「じゃあ、行こうか」
「ごめんね、いつも」
「そう思うなら、自分一人で解決するか、頼まれた時に断るかしてよ。……昇降口?」
「うん、そう。今日は三百冊くらい届いてるってさ。これからは気を付けるね」
 廊下に出て、一階の昇降口に向かう。涼子は、教師から頼れる存在と見られているらしく、よく何かを頼まれる。いつも断り切れず、また、一人では解決出来ず、僕や敬一に助けを求めることが多かった。特に力仕事の時は。
 最近、図書室の本を増やそうと図書の先生が張り切っているらしく、やたらと本を収集している。涼子は、学校に届けられたそれを図書室に運ぶように頼まれたらしい。ちなみに、これで三回目だ。過去の二回は敬一も巻き込んで手伝わせたのだが、今日の彼は早々に教室を後にしていた。
 昇降口に辿り着くと、結構な数の本が積まれていた。手伝いを頼まれたと思われる生徒も数名いたが、みんな非力そうな女子生徒ばかりだった。つまり、僕が人一倍働かないとみんなの帰りが遅くなるということだ。
「しかし、どこからこんなに本を集めたのかな」
「どこかの団体が寄付してくれてるみたいよ」
 佐々木先生の指示に従い、僕たちの本運びは始まった。小さく薄目の本の数が多く、そちらは女子生徒らが担当した。僕は大きく分厚い本を運ぶ。冊数はこちらの方がずっと少ないが、積み上げた時の高さは明らかにこちらの方が高かった。
 みんなが真面目に働いたことと、先生が暇そうな生徒を連れてきたことで、予想より早く仕事は片付いた。
 早く片付いたといっても、時刻は既に五時を回り、空は雲に覆われ、暗かった。
 三階の図書室から下駄箱へ歩いていく。
「疲れたね」
「多分、僕、明日筋肉痛になってるよ」
「ごめんね。今日は私が奢るから」
「そういえば遊びに行く約束してたね。忘れてた」
 学校を出て、行きつけの喫茶店に寄った。同じ学校の制服が何グループかいたが、ざっと見渡した限りでは知り合いはいなかった。
 四人用のテーブルの席しか空いていなかった。僕と涼子は向かい合って座る。店内では有線放送で聞いたことのあるような曲が流されている。
 涼子とはこの喫茶店を利用することが多い。しかしながら、正直に言うと僕はこの喫茶店があまり好きではない。メニューにカレーもラーメンも無いからだ。
 店員が注文を聞きに来る。僕はサンドイッチと紅茶、涼子はホットケーキとカフェオレを注文した。
 注文の品が来るまで、他愛もない雑談で時間を潰す。そんな時、ふとあるカップルの姿が目に入り、昨日の敬一の言葉を思い出した。
 言葉が詰まり、会話が止まってしまう。これは、デートなのだろうか。僕は今、涼子とデートをしているのだろうか。
 心なしか、顔が熱い。
「あ、あのさ、ちょっと訊いていいかな?」
「うん? 何?」
「これってさ、もしかしてデ――」
 と、そこに店員が品物を持ってきたので僕は口を噤んだ。料理を置いて店員がいなくなると、僕はもう一度口を開いた。
「これって、デート……なの、かな?」
 涼子は、ぷっ、と吹き出した。
「何かと思ったら、そんなこと? 変なこと訊くね」
「あ、あはは。そうだね。ちょっと今日は、僕、どうかしてるね」
 サンドイッチを頬張り、紅茶を飲んだ。
 涼子はホットケーキにたっぷりハチミツをかけて食べる。その様子をぼうっと眺める。ハチミツのかかったホットケーキを口に入れる時、口の端を緩ませ幸せそうな顔をする。
 いい表情だな、と思う。カメラがあったら写真に残しておくだろう。折角だから心のフィルムに焼き付けておいた。
「ああ、やっぱり政樹か。奇遇だな」
 最後のサンドイッチを片手に、見てみると敬一がいた。
「敬一。こんなところで何してるの?」
「デートだ」
 やや右に瞳を動かすので、そちらに視線を向けると聖美さんが席に大人しく座っていた。僕と涼子に気付き、軽くお辞儀をする。入り口からは見づらい角度の席だった。
「明日言おうと思っていたが、折角だから、今言っておくか」
「なに?」
「三人目の候補者は、藤田か長岡だったんだが、二人とも期末テストが赤かったそうだ。補習で日程が合わない」
「じゃあ、どうするの?」
「他の誰かを探すか、俺たち二人で、だな」
「うん、やっぱりそうだよね。女将さんに悪いから、二人で行くのは避けたいけど」
「んじゃ、俺はこれで。涼子、頑張れよ」
「え? あ、うん」
 突然、話を振られて涼子は驚いた様子だった。そんな涼子をよそに敬一は、敬礼の様な角度と高さに右手を上げ、聖美さんのいる席へ戻っていった。
 しかし、この状況で涼子が何を頑張るのだろう。
 相変わらずの変わり者だな、と思う。
「ねえ、なんで敬一は自分の彼女を誘わないの? やっぱり、さっき政樹が言ってたみたいに女の子と一緒の旅行じゃ倫理的に問題だから?」
「いや、それもあるだろうと思うけど、そうじゃないんだ。確か、あの娘――聖美さんは敬一の友人関係の輪に入ろうとしないんだって。自分の所為で友情が壊れて欲しくないとか」
 聞いていたのと少しニュアンスが違うような気もするけど、大方は合っているはずだ。
「へえ、いい子ね。なんで敬一なんかに惚れちゃったのかしら」
 顎に指を当て、不思議そうに首を傾げた。
「敬一は結構いい奴だと思うけど?」
「でもオタクでしょ?」
「身も蓋もないね」
「だって、そうとしか見えないもん」
「どの辺りが?」
「会話する時、よくどこかのアニメのセリフを使ったりしてる」
「……それじゃ僕もオタクの仲間だ」
「政樹は健全よ。少し敬一に染められちゃっただけ。引き返せばまだ帰ってこれるの」
「それ、絶対偏見だよ」
 言いながら、某機動戦士に登場するヘンケンというキャラクターを思い出した。戦艦の艦長は格好いいと思う。
 喫茶店を出ると、雨は止んでいた。とは言っても雨雲はまだ残っている。またすぐ降り出すに違いない。
 外を歩き回るのはあまり得策ではないと思う。
「雨が降り出さないうちに帰った方がいいかな」
 空を見上げながら口にした。傘は右手に持っている。
「だめ。今日はとことんまで付き合ってもらうんだから。夏休みに入ったらなかなか会えなくなっちゃうでしょ? 旅行行くとか言ってるし」
「いや、夏休みだろうと、会いたければ会いに来ればいいじゃない。携帯だってあるんだしさ」
「そうしたいけど、そうできない理由があるの」
「なに? 理由って。涼子もどっか旅行に行くの?」
 涼子は何故か顔を赤くし、視線を逸らした。
「い、言いたくない」
「そう? まあ、言いたくないならいいけど」
(なんで赤くなるんだろう)
 疑問に思う。
 そういえば、さっきの質問――これはデートなのか、という問いにも明確な答えは返ってこなかった。涼子の答えを、デートなんかじゃないという意味だと解釈したのだが、本当はどうなのだろう。
 涼子――三上涼子とは出会ってもう四年目になる。この街に引っ越して来たその日、僕は初めて涼子に出会った。
 あの時から涼子は変わったと思う。
 ……いや、本質は変わってなんかいない。
 けど彼女の、家族を含めた知り合いからは、性格の根っこから変わってしまったようにしか見えないのかもしれない。初対面だった僕に対してだけ、涼子は明るかった。
 何がきっかけになったのかは知らないけど、僕と出会ってから涼子は、少しずつだけど、他の誰に対しても明るく振る舞うようになっていった。そして今に至る。
 俺が僕になったのも、丁度その頃だろう。
 お互い、特別な存在といえば、特別だと言える。
(……特別? 特別ってどういう意味だろう)
 それは、親しいという意味か。友人という意味か。
 それは、愛しいという意味か。好きだという意味か。
(好き? 何を考えているんだ、僕は)
 そんなわけがない。ただの、仲の良い女友達だ。
 そもそも僕は、好きという気持ちすらまだ知らない。
 ……そう、知らない。
 だから、きっと、僕のこの感情は違うに違いない。
「政樹、どうしたの? いきなり黙り込んで」
 気が付くと、涼子が下から覗き込んでいた。
「えっ? あああ、いや、何でもないよ」
「そう? その割には顔が赤い」
「き、気のせいだよ。ほら、買い物行くんでしょ?」
 言って、涼子から顔を背けて歩き出す。気のせいでなく、顔が熱い。いきなり涼子の顔が目の前にあったからビックリした。そういうことにしておこう。
 再び降り出した雨。
 雨に降られながら、幾つかの店を回った。涼子が服を買いたいと言っていたのだが結局、見るだけになった。
「気に入ったものがなかった?」
「う〜ん。ちょっと、ね。流行の服はあんまり好きじゃなくて」
 雨の中、二人共通の帰り道を一緒に歩いていく。
「僕、少し疲れたよ」
「ごめんね」
「まあ、いいさ。僕でよければ、大抵いつでも付き合うよ」
「ありがと」
 分かれ道に差し掛かる。僕は左、涼子は右に行く。
「じゃ、また明日ね」
「うん、また明日。明日は敬一も誘って、ご飯食べに行こ」
「そうだね、終業式だもんな」
「それじゃ、バイバイ」
 涼子が自分の道を行く。僕は手を振ってそれを見送った。
(さて、と……)
 これからどうしようか。ここから涼子の家は比較的近いが、僕の家は少し遠い。そして疲れている。
 そういえば、ここからはバス停が近かったはずだ。家の近くにもバス停がある。
(お金が、かかるなぁ)
 しかし、それでも今日は使いたい気分だ。早速バス停へ向かう。
 バス停に着いて、二、三分後、バスが到着した。運がいいな、そう思ってバスに乗り込もうとする。
 瞬間、身震いするような感覚が突き抜けていった。
 危険の気配。
 これとそっくりの感覚を以前に感じたことがある。四年前の、あの出来事。その時に感じた危険の感じにそっくりだった。
 バスに乗ろうとした足が止まる。
 他の客が次々に乗り込んでいく。僕は結局、バスに乗らず、その危険に乗り込んでいく人達を見逃してしまった。
 バスが走り去る。
 息が苦しい。いままで呼吸をしていなかったのだろうか。
 ぐぅ、と呻く。あのバスは、事故に遭う。もしくは、それに似た災難に見舞われる。それは確実なことだ。
 誰か、よほど危険に鼻の利く誰かがいない限り、危険を避けることは出来ない。
 それを、僕は、何もしないまま見過ごしてしまった。
(ダメだ。ダメだ、これじゃ!)
 今ならまだ間に合うかもしれない。
 僕は傘を捨て駆け出した。
 だが再び、嫌な気配が全神経を伝った。許容しきれず、気分が悪くなって足を止めた。
(なんだ、一体なんだッ)
 周囲を見渡す。視界が街を舐め回す。その中の一点、ある部分に特に嫌な感じがした。そこを凝視する。
 人がいた。
 僅かな人通りの中、凍ったように佇む人。
 背景に溶け込んでしまいそうな、コートを着込んだ男。
 知っていた。
 そして、この気配も知っている。これで、二度目だ。
 記憶が蘇ってくる。
 長い雨。
 コートの三人。
 シガン。
 赤い視界。
 危険。
 桜。
 死。
 四年前の出来事が、ビデオを早送りするように流れていった。
 男は、笑った。
 冷たく、笑った。
 雨。雨が降っている。
 あの時と同じように、雨が降っていた。
 危険なんて類のものではない。
 死。
 死そのものの気配。
 あれから少しは成長して、大抵の気配を感じても気分が悪くなることは無くなった。だが、これだけは別格だ。
 逃げるか? それとも、バスを追うか?
 いや、バスはもう間に合わない。逃げるべきだ。
 理性は働いていてくれた。逃げようと足も動かしたが、突如煌めいた思考に止められる。
 もし、もしも、あのバスの乗客に、僕の知り合いがいたら?
 友達の家族や、大事な人が乗っていたら?
 僕は友達を失いたくないし、泣くところも見たくない。
 自ら危険を望むわけじゃないけれど、出来れば痛い思いや恐い思いなんてしたくないけれど、ここまで考えてしまったら、逃げるに逃げられない。
 僕は、コートの男を無視してバスが走り去った方向へ駆けた。
「何処へ行くんだい?」
 目の前に男が現れ、慌てて足を止める。男が先程までいた場所にはもう誰もいない。一瞬で回り込んだというのか。
 危険、いや死の気配が一層濃くなる。
 それ相応の対処をしなければ、待っているのは確実な死。
 では、それ相応の対処とはなんだ?
 四年前に見たマネキン人形を思い出す。
 あれは、数分前まで人間と呼ばれていたモノだった。頭の中でこねくり回した理屈など入る余地はない。死ぬとは、そういうこと。
 ほんの数秒前に決意したばかりだというのに、その想いはもうすでに揺らいで倒壊寸前だった。
 足が震える。顔は青ざめているだろう。全身が寒気に覆われている。逃げることは、出来ない。そして、今、仮に追ったとしても、バスにはもう追い付けない。
 ゆっくりと男が近付いてくる。街灯が照らす範囲に侵入し、顔が見えた。
 僕は、やはり、その顔を知っていた。
 四年前、目に焼き付いた三人の男。その内の一人、背が一番低かった男だった。
 あの時シガンに殺されたのではなかったのか。
 そんな疑問はどうでもよかった。分かるのは、この男が僕を殺そうとしていることだ。
 何の為に。
 そんな疑問もどうでもいい。
 あるのはたった一つの願望。
 ただ、
 まだ、
 ずっと、
 生きていたい。
 暗い。数時間前から街灯は灯り、暗くなっていることを教えてくれていたのに、僕は、今初めて、その暗さに気付いた。
 一歩一歩、男が近付いてくる。
 逃げ出したかった。
 今すぐ駆けて、その場を離れたかった。
 けれど足が震えて動かない。
 また一歩、男は近付く。
「君を、殺す――」
「なッ……ん、で」
 詰まる喉からやっとのことで声を出す。
「君が、シガンだからだ。仲間の、仇だからだ」
「ち……が、う。僕は、シガン、じゃない」
「――死ね」
 男が突然加速して突っ込んで来る。僅かに浮いているようにも見えた。危険の気配が濃くなる。
 無意識のうちに、左に転がっていた。先程まで立っていたアスファルトに、何か鋭利な刃物で切り裂いたような痕が残る。
 わけが分からない。
 幸い、今の一瞬で足の震えは止まっていた。僕はそこから全速力で逃げ出す。
 追いつかれては方向を変え、疲れも息切れも、意識できなくなるほど必死に走った。追い込まれている。それは分かっていたけれど、立ち止まってもすぐに殺されることが分かっていた。
 行き止まり。裏路地というのだろうか。街灯の明かりも届かない、暗い袋小路で僕は足を止める。止めるしかなかった。
 雨の中、こんな所に人はいない。車も通るはずがない。
 助けてくれる人なんていない。
 助けてくれたシガンもいない。
 急いでどこか逃げ道がないか辺りを見渡す。男の顔が一瞬で目の前に来る。男の右腕が突き出される。危険の気配が濃くなるを感じ、今度は意識的に、右足を踏み切った。背中で着地し、そのままアスファルトを転がる。
 赤い、炎のような閃光が走り、僕がいた空間を飲み込んだ。
「流石だね、シガン」
 男はゾッとするほど冷たい笑みを浮かべた。
「僕は、シガン、じゃ、ない……」
 息が上がっている。ろくに声を出すことも出来ない。立ち上がってみると、ふらふらだった。身体にあまり力が入らない。
「安心したまえ。君はもうすぐ死ぬ。楽になれるんだ」
「嫌、だ」
 建物の壁に背中をつけて寄り掛かる。ぜいぜい、と息をする。気配は依然として危険ゾーンだが、一応は安全圏だった。
 この気配を感じる力で、危険も死も、その足音を察知できる。対応してうまく動きさえすれば、死からも逃れられるということか。
 しかし、それもいつまで保つか。うまく動くことなど、そう毎回出来ることではない。
 男がまた動き出す。ゆっくりと、しかし足は動いていない。滑るようにして近付いてくる。
 また、来る。
 気配が濃くなる。
 今度はどう避ければいい? 必死に思考を巡らす。
 男の動きが止まる。
 途端、視界が男の足音にまで落ちた。
 地に這いつくばっている。よく分からない力に押され、身体が冗談のように重い。肺から空気が絞り出される。身体中が何かに潰されていくような感覚。それは激痛となって神経を駆けめぐる。
 強力な磁石に吸い寄せられた金属片のように、僕は身動きが取れなかった。
「驚いたかい? 重力だよ。君を縛っているのは重力だ」
 喋ることなど、出来ない。構わず男は続ける。
「君はこちらの攻撃を読むのが得意なようだ。でもこれなら、読んでも無駄だよ。君は蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶と同じ」
 くっくっく、と不気味に笑う。
 嫌だ!
 叫んだつもりでも声にならない。
 死にたくない。
 口だけが虚しく動く。
 男が右腕を振りかざす。
 死の気配が濃くなる。
 体中の血の気が引いていく。記憶がスナップ写真のように印象深い場面だけを映し出していく。視界が暗い。身体中、何も感じられない。吐き気がした。
 もう一度、涼子に会いたい。
 目を瞑り、歯を食いしばった。悔しくて涙が出てくる。
(僕は、死ぬのか? 死ぬ……。死ぬってなんだ?)
 ただ暗闇が、恐ろしかった。
 刹那、鋭く高い音が聞こえた。僕を縛り付けていた力が消え、身体が軽くなる。とっさに跳ね起きてその場から一歩退く。
 赤い閃光が走る。ギリギリの差で、僕は躱せていた。
 見れば男は崩れ落ちようとしている。
 何が起こったのか。見渡した時、すぐ隣に誰かが立っていることに気が付いた。一体いつの間に現れたのか。
 雨が、上がっている。
 雲が流され、月明かりが裏路地を照らした。
 男の目は血走っていた。そして、僕の隣にいた人物。
「君、は……」
 息は切れ切れだった。
「またお会いしましたね」
 昨日、僕と敬一に道を聞いてきた外国人の女の子だった。僕に一度微笑みかけ、すぐ男に向き直る。いつか見た、シガンの鋭い眼光にも似た目つきだった。
「西口泰成さん。あなたの任務は四年前に終了しています。今すぐ帰還してください。あなたのやっていることは、命令違反です」
 口を拭い男は立ち上がった。
「組織のことなど、もう知らん。私は、殺された仲間の仇を討つだけだ。君に止める権利などありはしない」
「この方はあなたの仲間の仇ではないはずです」
「いや! 仇だよ。シガンなんだからなぁっ」
 男は跳んだ。明らかに人間の限界を超えた跳躍で、頭上から僕に迫る。けれど不思議なことに、全く危険は感じなかった。
(この娘がいるから……?)
 一瞬の思考。男の両手から赤い炎が巻き起こり迫ってくる。女の子が僕の前に立ち塞がった。彼女が左手をかざすと、炎は軌道を変え四散していった。
 馬鹿な、という叫びが聞こえたかと思う。次の瞬間、男は目に見えない何かに殴り飛ばされ、路地に落ちた。
 女の子は軽々と男を担ぎ上げる。男は気を失っているらしい。
 僕は呆然と彼女のするままを見ていた。先程とうって変わって、危険の気配はまるきり感じない。緊張が解けて、身体から力が抜ける。僕はその場に座り込んだ。
「何なんだ、一体」
「ご無事ですね?」
 女の子は白い歯を見せる。やっぱり美人だと思う。あの細腕でどうやって男を担いでいるのか気になったが、何も言わないでおく。
「私は、イリア・セイブレムと申します。あなたを迎えに来ました」
「は?」
 間抜けな声を出している隙に、女の子は僕に背中を向ける。顔だけをこちらに向けて一言。
「またお会いましょう、シガン」
 女の子は去っていった。一跳びで建物の屋上にまで登り、またもう一跳びで見えなくなった。
 生きるか死ぬかの瀬戸際だったので、ずっと考えられずにいたけれど、さっきから理解不能な現象が起こりまくっている。
 本当に、わけが分からない。
 大きく溜息を吐いた。
「あたま、痛いな……」
 その場に横になる。
 悔し涙が流れてきた。
 何が悔しくて泣いているのか。落ち着き、ようやく記憶が整理される。
(――バス。……何も、出来なかった)
 このまま、この場所で眠りたかった。
 
 




戻る次へ


SUMMER OF MAGICIANS

作品インデックスへ

TOP