漆 エピローグ
電車に揺られて、何十分も僕は座ったままでいた。
色んな人達がいた。学生。サラリーマン。OL。その他。
みんな疲れているようでどこか楽しげで、日常という時間を、本人が気付いていなくとも満喫しているようだった。
涼子を亡くしてしまった日から、僕はどうかしてしまっている。
本当の自分で過ごさない毎日はきっと日常とは言えないもの。
中学生の頃に僕が言い、涼子が思い出させてくれた言葉。
僕はこれから、本当の自分を取り戻さなければならない。
駅から出てまず出迎えてくれたのは、まだ暑い日射しと懐かしい町並み。そこからそれほど遠くない神社へ足を向けた。
境内へ続く石段を昇っていく。一段一段ゆっくり、しっかりと踏みしめて、ようやく頂上へ辿り着いた。
懐かしい境内。
僕はこの場所で初めてシガンに出会った。
ささやかな日常を求める僕はここで生まれた。僕の始まりと言える場所。新しく始めるなら、ここ以外の場所など考えられなかった。
ここに来る途中、ありったけの数の風船を買ってきた。フワフワ浮き、様々な色があって、口にはひもが付いている。多少、気恥ずかしくも思いながら風船を持って町を歩いてきた。
境内の隅のベンチに風船を括りつけ、僕もそこに座った。
風が吹いて風船が揺れる。
ポケットから小さなブローチを取り出し、軽く握り締めて涼子の思い出を馳せる。
僕は涼子のことが好きだった。そして、僕はその大切な人を亡くしてしまった。そんな時、どんな行動をするのが本当の僕なのか。
ただひたすらに泣き続ける僕か。誰かを仇とし憎み続ける僕か。生き返そうと躍起になる僕か。
違う。
本当の僕は……涼子が好きでいてくれた僕なら、彼女が目の前から消えてしまってもなお、彼女のためにするべきことするはずだ。
空を見上げる。
相変わらず青い。雲も相変わらずぷかぷか旅を楽しんでいて、太陽はぎらぎら暴力を覚えた紳士的に日射しを送ってきている。
『――空、飛びたいな。海を空から見下ろしてみたり、色んな国で色んな人と出会ったり。風の向くまま気の向くまま、遠くへ行ってみたい――』
そんな彼女が話した夢。
それに対し僕は、素敵だと言い、いつか叶えてあげられたらいいと、二人一緒に空の旅が出来たら楽しそうだと思った。
風船のひもを一本ずつブローチに結びつけていく。
その度に、ランダムに涼子との思い出が目の前に浮かんでいく。
初めて会った日の夕焼け。
僕にだけ見せた本当の涼子と、演じていた涼子。
公園での二人の談話。
誰にも演じることの無くなっていった涼子。
バレンタインデーにカレーを奢ってもらった。
女の子から告白されて困っていた涼子を助けたこともある。
強引な女の子に押し切られそうになったのを涼子に助けてもらったこともある。あの時は一緒に嘘をついた。
いつも先生の頼み事を断れず途方に暮れる彼女を手伝うのは僕の役目だった。
商店街を連れ回されることも少なくなかった。
キスをされた時、僕はゆでダコのようになっていただろう。
他にも、たくさんある。あの時のことも、あの日のことも――
すべての風船のひもがブローチに結ばれた。手を放すと、小さくそれほど重くないブローチは風船の浮力に引き上げられ、ゆっくりとしっかり空へ昇っていく。
色とりどりの風船が風に揺れ、流されていく。
二人一緒だ。
僕の思い出と、涼子のブローチ。
これが、今の僕に出来る精一杯のことだと思う。
風船とブローチが見えなくなっても、僕は空を眺め続けた。飽きるほど見続けた空から視線を戻し、境内を視界に戻すと賽銭箱が目に入る。
前に立って賽銭を放り投げる。鈴を鳴らそうと綱に触れると、なんの対処もしなければタンコブが出来てしまいそうな気配を感じた。
やれやれ。まだ直していなかったのか。それとも直した後にまた壊れてしまったのか。どちらも似たようなものだ。
綱から手を放し、賽銭箱には背を向けた。
別に、願い事をしようと思ったわけじゃない。なんとなく賽銭を放っただけ。そもそも僕に、神頼みするような願いはない。
境内を通り過ぎ、石段を一歩一歩ゆっくりと降りていく。
気配。
それが感じられたから、神頼みなど必要なくなった。
なぜならその気配が、僕が望んだように押し寄せてくる、ささやかなモノの気配だったからだ。
もう、きっと大丈夫。
その要は無くしてしまったけれど、僕は変わらず、その気配の主をこう呼んでいける――
「――日常、か……。明日からは、きっと楽しいだろう、な」
呟いて、久しぶりに笑ったことに気付き、僕は涙を払った。
終
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