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≪Tales Of Orphans≫




 
Chapter 1 First Contact
 
 
 
 入学以来初めての居眠りは、講義終了のチャイムにより終わりを迎えた。いつも隣に座ってる子は、荷物を持って席を立つ。
 僕は窓辺へ移動した。
 窓から降り注ぐ太陽の陽射し。空は青く、蒼く。構内に植えられたわずかばかりの木々たちは、風に揺られ花を散らす。
 この季節を色に例えるなら青だろうと思う。
「なあ、メシに行かん?」
 クラスで知り合った数人に学食へ誘ってくる。群れをなしていて、どれもこれも軽そうで空っぽそうな顔。
「なんで?」
「なんでって、クラスメイトじゃん?」
「そうだね。けど、あんまり気が乗らないな」
 講義の一環でたまたま同じ班になった連中。
 やれやれ。どうしてその程度のことで、人を群れの仲間にしようとするのか。
「ん〜? なんで?」
「お弁当なんだ。食堂は混んでるし、そこで食べる必要もない奴が席を取るのは他の人に悪いよ」
 適当なことを言って断ろうとする。が、どうしても僕と食事がしたいのか、なかなか退いてくれない。
「んじゃあ、俺らもパンでも買うよ。外で食べない?」
「……う〜ん」
 悩むフリをして、どうすればいいか考える。群れは、いいじゃんいいじゃん、とうるさくもこちらを急かす。
 食事をするのにも群れなければならず、意味もない誘いをする。下らないことだ。だから頭もからっぽなのだろう。
 ここで断ると、嫌われたりとか不利なことがあるかもしれないが、この程度の連中は恐れるに足らず。嫌いなタイプでもある。
 ならば、この距離。
 彼らと取るべき適切な距離を算出し、実行する。
「ごめん。やっぱダメ」
 ええー、と不満そうに眉をひそめる。
「忘れてたよ、今日は人と約束してたんだ」
「えー、マジ?」
 もちろん嘘だ。
「ごめん」
「そっか。じゃあ、また今度な」
 連中はぞろぞろと出ていく。ようやく去っていってくれて安堵する。疲れた。
 ため息を一つ。
 まったく、冗談じゃない。
 一人一人は弱い。それは認める。だが、群れるのは間違いだ。有効に見えて違う。裏切りを考慮してない。その他、様々なリスクもついて回る。
 一人一人は弱い。だから、人と触れ合うことで傷付く。それを避けるには、人と一定の距離を保つことが必要になるのだ。
 嫌われもダメ。好かれても、好きになってもダメ。
 そういうこと。それが今まで生きてきた教訓である。
 弁当を持って屋上へ。そこなら人も少ない。元より一人が好きなのだ。階段を上り、扉を開けると青い空。流れる空気。まばゆい陽射し。ここなら一人で楽しめる。そう思った。
「あ……」
 けれどそこは、僕一人だけの空間ではなかった。
 先客。
「あ……」
 目が合う。お互いに同じ感嘆詞を発していた。
 知っている女性――というほどには知らないが、顔と名前くらいは一致する相手だった。会話したことは一度もない。
 いつも僕の隣に座っている女性。先程も席を立つのを見た。
 おそらくは同じ学科で同じ学年。席は教壇のすぐ前。つまり、最前列の中央の机のさらに中央を僕と彼女でいつも占領しているわけである。
 彼女は弁当を食べていた。ベンチに座って、傍らに弁当箱を置いて。
 名は、確か、桜井。下の名前は知らない。
 軽く頭を下げて、それきり目は合わせず隣のベンチに座った。距離は一メートル前後だろうか。そこに座って、弁当箱を広げた。
 黙々と食べることが出来れば一番楽だったのだけれど、半ば予想通り、相手は話し掛けてきた。思っていたとおり、誰とでも仲良くするタイプのようだ。
「さっき寝てたよね。珍しい」
「ああ、うん。昨日、ちょっと先輩に付き合わされてね」
 ごく普通に返した。感情が揺れる事の無いよう、気持ちを切り替える。より強く、より硬く。そして表面では柔らかく。
 嫌われないように。近付かれないように。好きにならないように。
 時には優しく接し、時には辛く当たる。相手によっては媚びだって売る。
 今までの人生で、そうすることが一番辛くないと学んだ。
 彼女はよく話す。僕も相応に対応する。
「勉強熱心なんだね――」
「私? 私は――」
「あー、確かにあの教授、変だよね――」
 弾ませていた。そう。会話は弾んでいた。
 こちらからは決して話は振らない。話題には適切に答えていく。とりあえず、嫌われはしないだろう。好かれもしないだろう。
 初対面で近付いてくる人間は、ひどく怪しい。警戒するのに限る。この世は、敵だらけなのだから。
 一つの話題が切れる度、彼女は黙ることがあったが、食事が終わるまで彼女は喋りっぱなしだったと言って差し支えない。
 話している様子から、そんなに悪い人間では無さそうだとは分かった。けど、とりあえずは、この距離だ。
 適当なところで席を立ち、適当に挨拶をしておしまい。作戦成功、オールグリーン。
 ……かと思ったのだが、
「……もしかして私と話すの、嫌? つまんない?」
 それは弁当箱を片付けている時に言われた。
 会話を楽しんでいたかと聞かれれば、その答えはノーだ。
 近付かせないために、そして好きにならないように距離を置き、嫌われぬようごく普通の対応を見せただけのこと。
 本当は会話を交わさないのが理想的でもある。
「どうしてそう思うの?」
 感情を表に出ないよう制御し、逆に聞き返した。
「なんとなく」
「感覚的だね」
「私、結構そういうのには敏感な方だと思うけど」
「気のせいだよ。少なくとも、僕は楽しかった」
 すると彼女は首を傾げた。
「ふ〜む」
「……なに?」
 愛想笑いを見せる。普通に笑っているようにしか見えないはず。
「君、嘘つくとき一瞬、目が泳ぐね?」
「えっ、そんな……っ」
 驚いて、視線を下げる。そのまま今さっきの記憶を再生し、自分の目の動きを思い出そうとする。
「ウ・ソ♪」
「ぎゃふんっ」
 思わず地が出た。
「つまり、どこかで嘘をついてたって解釈でいいかな?」
 無言で肯定も否定も口にしない。しかしそれは肯定と同じだった。
「へっへー」
 無言で諦めのため息を小さく吐く。ついで、その女性の顔を始めて正面から見遣る。
 艶のある黒髪は肩よりやや下まで伸びている。目は大きい方。鼻筋も通っていて、全体的に顔の作りは良い。縁なしのメガネを掛けていて、普段は知的にも見える。
 教室で見た感じを思い出せば、体型も痩せすぎず太りすぎず、その人にとってベストの体型を維持しているように思える。
 了解了解。一般に美人と言える人だと認めよう。知的な印象もある。というか、むしろあった。過去形だ。
 目の前で、にへへ〜っと、してやったりといった顔で笑っている彼女から、知的なイメージを絞り出すのは至難の業だ。たぶん、無名の鍛冶屋が名刀を生み出すくらい難しいと思う。決して不可能ではないだろうけど、相当な努力と時間と失敗が必要だ。
「嘘は良くないよね?」
「そうだね、嘘は良くない」
「嘘つき」
「……」
「どの辺? 嘘どの辺?」
「それは、言わない方がいいような……」
「素直に言わないと嫌ってやる」
 それは困るかもしれない。危機感はあまり無いような気もするが、小さい隙も見逃せない。
「楽しかった、ってところ。それと、嫌ってたわけでも無いけど、あまり話したくないって気ではあった」
 嫌われてしまわないよう、素直にそう言った。次はどのようにフォローを入れるか、それだけを必死で考える。
「そう思ってること、言うのは悪いと思ってさ……」
「最初は話が楽しかったって言っておいて、後から、本当は話す気は無かったって言われる方が、ショックは大きいと思う」
 何も返せず、押し黙る。
 それは、似ていると思った。
 けど、違う。アレは、あの時のは、最初から傷付けるのが目的で……。そうするのが一番ダメージが大きいから、使われた手口。
 だから違う。僕は、あいつらと、同じじゃない……。
 一瞬の思考。ゾッとするような自己嫌悪と、否定。こびりつくように汚染されていく。大小の違いはあれど、同じことをしたと、頭の中で響いていく。
「……ごめん」
 謝罪の言葉。それが何の足しになろうか。
 けれど、あの時最後にそう言われていれば、どれだけ気が楽だったか。僕は、誰からも好かれてないって、分かっていても、突き付けられた。誰か一人にでも、嘘でもいいから、ごめんと言われていれば、まだ少しは世間を信じてやれたのに……。
 深刻に、深刻に……。どんどん落ちていく。闇だらけ。
 戻ってこい。考えすぎだと、もう一人の僕が手を伸ばす。その手を掴もうとして、別の何かに引っ張り上げられる。
 それは、声――
「ひどいよ、ひどいっ。ショック。私、敬介くんのこと好きだったのにぃ」
「……」
 あれ?
 なんだか、思考と現実が、もの凄く、ずれてる。
 行きすぎた僕の思考を、一瞬で現実に戻してくれたのだけれど、また、どっか、違うところに投げ飛ばされたような……。
「……って、ぇぇええええっ!?」
 遅れて、また地が出た。表情も隠す余裕無し。
 隣でシクシク泣いてるし。
 名前知られてるしっ。
 好かれてるし!
 自分でも分かるくらい狼狽している。あああ。どうしたんだ、乱れている。ここまで乱されるのは、先輩以来だ。逃げたい。
 と、全力であたふたしていたら、顔に当てていた両手を離し、笑顔を見せた。
「ウ・ソ♪」
 嘘泣きだったらしい。
「死ね! この○○○女!」
「それは本気でひどいって!」
「あ、ごめん。っていうか、そっちも相当な悪じゃん! 冗談にしても質が悪いっ」
 精一杯に非難する。これはもう、穏便な関係ではいられないかもしれないと思いつつも、覚悟して続けた。
「本当にもう、信じられないよっ。まったくもって質が悪い。人が本気で反省しかけてたところを。嘘は良くないって言うけど、君だってもう二つも嘘ついたじゃないか」
 機嫌が悪くなるものだと思ったら、正反対に、くすくすっ、と笑っていた。
「筑波くん、やっぱり違うね」
 彼女は少し真面目な顔をする。ちょっぴり知的さが戻ってきた。
「……え?」
 気が削がれ、勢いが消える。
「普通の人当たりのいいだけの性格かとも思ったけど、やっぱり、わざと距離置いてるでしょ? ホントの筑波くんは、こんな風に面白い」
 こちらも落ち着いて、小さく息が肺から抜けていった。
「ここまでペースを乱されるのは、君で二人目だから、ね……」
「へえ、じゃあ私、筑波くんのスペシャルだ」
 ちょっとため息。
「まあ、スペシャルと言えばスペシャルだね」
「ホントは、好きとは違うけど、興味はあったんだよ?」
「そう……」
 にこりと微笑む。
「私、桜井晴香」
「え……、あっ、ああ。僕は筑波敬介」
「知ってる」
「そうらしいね」
「私のことは、晴香ちゃんって呼んでいいから」
「了解、桜井さん」
「つれないなぁ、敬介くん」
 ほんのちょっとだけ遺憾の意を表したようだが、大したことはないようである。何気に下の名前で呼ばれているのが少し気に掛かるが。
「よろしく」
 桜井は、手を差し出してきた。
 その手が、握手を求めるものだと気付くのに、数秒も掛かってしまい、そしてそれに気付いた時、僕は本当に久しぶりに照れを覚えた。その行為は、ひどく久しぶりだった。
「実は、名前知るまで君のこと女の子だと思ってたよ」
「あー、そう」
 ちなみに言っておくと、この顔は僕のコンプレックスの一部なので、正直、触れないでおいて欲しかった。
 
 
 それからというもの、桜井は、僕と良く話すようになった。友人だと思っているのかもしれない。どうやら、距離を置くのは失敗しているようだ。少しキツい言葉を吐いてでも距離を広げるべきなのだろう。
 だが、どうも、上手く距離を取れない。それが僕と桜井の相性を表している。良いのか悪いのかは、判別できない。
 他の知り合いがいる時はまだ対処できるのだが、二人だけの会話になった時が要注意だった。他の知り合いがいる場では彼女も本気を出してなかったのかどうかは知らないが、とにかくペースを乱される。外壁もあっと言う間に崩壊させられて、接近されてしまう。
 今までに会ったことの無いタイプだと、断言できた。
 そうして知り合ってから一週間近く。
「――えっ、じゃあ、今は……?」
「先輩の家に泊めてもらってる」
 今日は、今住んでいる場所についての話題が出た。
 彼女は家が近いらしく、そこから歩いて学校に通っているらしい。
 僕は、家を出る前に不動産屋や目星をつけたアパートの大家と交渉し、部屋を契約していたはずなのだが、いざ行ってみたら何故か部屋は満室。大家の手違いで、僕の入る場所は無し。
 で、宿無し。幸い、先に払っておいた金は戻ってきたし、引っ越し道具は少なかったから身は比較的軽かった。中学高校時代の先輩が近くに住んでいることを思い出し、連絡して事情を話したら、泊めてくれるとのこと。
 いい物件が見つかるまでという約束で、厄介になっている。
 ちなみに、その先輩も僕のペースを乱せる珍しい人である。
「そうなんだ、苦労してるね」
「こんなのはまだ苦労のうちには入らない。最近この辺りでも放火があったそうじゃないか。やられた人の方がよほど苦労してるよ」
「そうだね。それで、いい物件はまだ見つからないの?」
「いや。正直、探すのサボってた」
 一応、言い訳はある。
 卒業シーズンと呼ばれる三月付近は、出ていく人も多く探しやすいのだが、入学シーズンに出ていった分、入ってきたわけで、今の時期にはもう掘り出し物件が見つかるわけもない。奨学金は学費に消えるし、貯金だってそう何ヶ月も持たないかもしれない。残ってるのは高い物件ばかり。
 不便さや、申し訳なさもあるが、先輩のお宅が一番の場所だった。
「バイトとかも、忙しかったし」
「あ、そっか。いつも急いで帰るのはバイトがあるからだったんだ?」
「まあね。先輩のツテでさ」
 ちょっとため息。うざい連中がいないのはいいが、家があるといえた時期は、意外と出費は少なかった。せっかく出てきたのに、思い通りに行かないのが残念で、腹立たしい。
 そんなところで、バイトの時間が近付く。
「んじゃ、今日はそろそろ」
「うん。またね〜」
 自転車に乗ってバイト先へ。ちょっとした有名企業グループの販売店のバイトで、先輩も一緒にやっている。コンビニなどのバイトなどより時給がいいのが魅力である。ちなみに火、水、土曜日は休みだ。
 いつも通り午後の十一時頃には終わる。
「へえ、そんな娘がいるのか」
「まったく。どうも最近、調子が崩されっぱなしですよ。大学ではあの娘、バイトでは先輩にってね」
 帰宅の準備をしつつ、先輩と会話する。
「俺と同等の戦闘力を持つ女か、ふふっ、燃えてきた」
 にやにやしながら、片付けをしている。
 どうやら先輩はどこか違う世界へ行ってしまったようなので、こちらは無言で目を合わせないように、自分のするべきことを正確に行う。
 帰宅の準備も済んで、廊下を歩く。外がちょっとうるさい。
「なんか、騒がしいですね」
「そう言えばさっき消防車が走っていったような気がするなぁ」
「最近この辺り、連続で放火があったそうですね」
「怖いこと言うな」
 そんな会話をしながら外へ出てみると、正面の空の一部が赤く明るかった。
「……」
「……」
 その方向は、先輩のアパートの方向だった。
「いや、まさかな」
「ええ。まさか……ですよね」
 自転車を押しつつ歩いて帰路へつく。向かうは先輩のお宅。方位は空の赤い方。
 アパートに近付くと、ギャラリーができていた。消防車もあった。救急車もあった。もの凄く騒がしかった。しかもやたらと暑い。正確には熱いと言うべきか。
「うあ……」
 というかアパートが燃えていた。
「うそーーっ」
 見事なまでにごうごうと燃えていた。
「アパート萌え!」
 先輩がボケた。
「萌えるかいアホ! 燃えとるわ!」
 というか壊れていた。
「先輩……、貴重品は?」
 とりあえず冷静に聞いてみる。なにかブツブツと口をぱくぱくさせながら呻いている。立ったまま、遠くを見つつ。
 耳を澄ましてよーく聞いてみる。
「――の初回特典が……。○○ちゃんのフィギュアが……」
「あ、大した被害はないみたいですね。良かった」
「××ちゃんのポスター、△△堂の同人誌……」
「うるさいです。もういいですから黙ってて下さい」
 無理矢理口を閉じさせる。
 容姿だけは好青年なのに……。オタク文化に精神汚染されてしまって……、哀れな。
「大丈夫ですよ、先輩。あの炎は清めの業火。あなたをオタクの呪いから解き放ってくれます」
「はうぅ、はうっ、はうぅぅ!」
 泣いてる。うざい。
 そんで泣き止んだかと思ったら、ふらふらと野次馬を掻き分けて炎に包まれるアパートに向かって歩いていく。とりあえずは手を取って引き止める。
「……先輩。あんまり近付くのは危ないですから、この場は消防士さんに任せておきましょうよ」
 するとなんか暴れ出した。
「うるさい黙れ! あの中には俺の妹がいるんだ! 俺の十二人の妹たちが! 聞こえるよ、妹たちの叫びが!」
 それは幻聴だ。
「見えるよ、炎に悶える妹たちの姿が!」
 間違いなく幻覚。
「中古だったら安いですよ? 新しく買いましょうよ、ゲームなんですから」
「ゲーム? ナニソレ? オマエニモ、妹タチヲ紹介シタジャナイカ。ミンナ懐イテタダロ?」
 もう駄目だ。僕の知っている先輩はどこか遠くへ行ってしまわれたらしい。とにかくこのままだとウザすぎるので、ボディに二、三発ほど打撃を加え気絶させる。支えるのは重いが、狂人を相手にするよりはずっとマシである。
 しばらくの後、炎は消し止められたがアパートはすっかり焼けてしまっていた。黒く染まった骨組みが虚しく佇む。
 巡査さんに事情聴取を受けたりもした。幸いながら、それほど長くは時間を取られなかった。気絶から目覚めた先輩はその前後の記憶がなく正気に戻っていた。非常にありがたいことである。
 ひとまずは落ち着こうという話で先輩と共にファミレスへ向かった。とりあえず向かい合って座る。休日前夜のファミレスは、そこそこに混んでいる。ややうるさい。
「災難……。文字通り災難だなぁ」
「冗談じゃないですよね……。どうしましょう、これから」
 とりあえず、一応念のため鞄の中身を確認する。ノートパソコンを始め、預金通帳、金時計など。とりあえず、なくして困る物は燃えてはいない。
 貴重品は常に身に着けておくという癖が幸いした。
 教科書やらノートやら、服やらは買い直す必要がありそうだが、まあ大した被害ではないと言える。
「先輩はどうです?」
「あー、一応、俺も生活に困るほどの損害はなさそうかな。財布は持ってるし……。しかし、パソコンが……」
「あきらめましょう」
 はあ、と大きくため息をついて、先輩は頭を落とした。
「俺はひとまず実家へ帰るよ。終電はもう出ちまっただろうから始発待ちでしばらくはここにいるつもりだがな。大家さんも大変だろうし、連絡は向こうで落ち着いてからだな。新しい物件探しも」
 ため息。
「僕は行くとこ無いですね……」
「うちに来るか? 頼めば泊めてもらえると思うが」
「いえ、僕もそこまで図々しくはないです」
「そうか」
 適当な注文をし、夜食を取る。
 これからどうするか。まったくアテがないと言っていい。高くてもいいのならすぐに借りられそうな物件もある。が、それは最後の手にしようと思った。
 金はそうそう無駄にはできない。誰かが稼いできてくれるようなものではないのだから。
「アテはあるのか?」
「とりあえず今から大学に侵入して教室辺りで寝ようかと。上手くやればしばらく泊まれますし」
「ビジネスホテルとか行けよ。大学じゃ厳しいだろ?」
「高いです」
「しかも侵入って……、こんな時間に入れる場所ってあるのか? 普通、鍵掛かってるだろ?」
「なんとか入れる場所を探してみますよ」
「そうか。じゃ、防寒はしっかりしとけよ。夜はまだ冷えるからな」
「ええ。まあ、今日のところは新聞紙でも使います」
「ホームレスみたいだな」
「実際そうじゃないですか」
「そうだったな」
 お互いに苦笑する。
 それじゃ、と挨拶し席を立つ。
 まともに泊まれるアテがないというのは、結構、困ることだな。
 なんとも、昔っからだが、運が悪すぎる。何か、そんなに悪いことをしただろうか。ろくな家も無く、嫌な場所からようやく脱出したかと思ったら、運悪く宿無しにされて。
 そして、今回の火事。放火かもしれない。
 疫病神に好かれているに違いない。どうせ住む場所が燃えるなら、もう二、三ヶ月ほど早く燃やして欲しかった。以前の住居なら、困るどころか両手で万歳をしてやれる。
 ポケットの中の金時計を握り締め、大きく息を吸う。誰のせいで今こんな生き方をしているのか。すべての不運の始まりであり、歯車が狂ってしまった出来事。
 息を吐く。考えるまでもなく、思い出すまでもない。
 自転車のカゴに鞄を放って大学へ向かった。途中、新聞紙を拾ったり足りなさそうなのでコンビニで買ったりしてペダルを漕ぎ続ける。
「はあ……」
 大きくため息。大学に着く頃にはすっかり汗をかいてしまっていた。一度、火事の目の前にいてたっぷり出た汗だが、運動によりまた出てきたらしい。今は身体が発熱しているからいいが、身体が平常時に戻ったりしたら、服に染みた汗が体温を際限なく奪っていくに違いない。
 警備の目を盗んで大学構内に侵入……、しようと思ったのだが見事に鍵が掛かって入れなかった。各学科の棟へ行ってもみたが、どこも入れない。研究くらい夜通しでやるものだと思ったのだが、学期の始め頃は違うのかもしれない。曜日のせいである可能性もある。
 とにかく、我が大学の戸締まりは憎いほどに完璧だった。
「はっくしょんっ」
 くしゃみが出る。寒くなってきた。バイトの疲れも残っているし、そろそろ眠くもある。先輩の言う通りにビジネスホテルを探そうと決心した。このまま自転車に乗って、アテもなくホテルを求め彷徨う。
 結果、道に迷う。運がない。
 知っている道の近くであることも分かるし、そこへ行くまでの道のりも記憶してはいるが、ホテルの場所が分からない。少なくとも近くにはなかった。
 駅周辺にはあるだろうと、向かってみるが、今度は部屋の空いている場所がなかった。空いているかと思ったらビジネスホテルではない、普通の高いホテルだったり。
 なんとも、そういえばバイト先の上司が「もうすぐうちの新店がオープンだ。めでたいめでたい。ハッハッハッハッ」とか言っていた気がする。地方からも従業員がやってくるそうだ。
 つまり、そういう連中がまずビジネスホテルに泊まっているということなのだろう。
 まったくもって運がない。
「……ふはぁ」
 あくびともため息ともつかない行為をし、また自転車を漕ぐペダルに力を込める。なんだか、だんだんどうでも良くなってきた。
 しばらく走った先の住宅街。公園を見つけた。小さく、遊具も二、三個ほどしかないが、ベンチくらいはある。
 幸い、誰もいない。
「へろうマイホーム」
 なんだか僕は疲れていた。相当バカになっていたのだろう。
 後先考えず、ベッド――もといベンチに横になり、充分に集めた新聞紙を布団にし、眠ったのだ。そう、長時間自転車に乗って彷徨ってきた身体はすぐに睡眠に入った。ヤバイくらいに汗をかいたまま、温まっていた体がそれに気付かないうちに……。
 
 朝はとても頭痛だった。なにか言葉が変だ。訂正する。
 今朝はひどく、寒かった。明らかに冬くらい寒いと思うし、実際に震えも来ている。それなのに散歩をしていると思われる歩行者らは特に厚着をしている様子はない。
 立ち上がろうとしてみた。頭がさらにひどい苦痛に揺らされ、視界がぐらりと傾き、またベンチに横になってしまう。
 頭、痛い。寒い。震えが止まらない。
 新聞紙をありったけ集めて何重にもして身体にかぶる。それでも寒い。鼻が詰まって呼吸も楽じゃない。
 というか、動きたくない。このまま、もう少し寝よう。
 ぐわんぐわんと、目が回る。脈打つたびにひどい頭痛。さらに常時、脳内に重く響く痛み。間接の節々も痛い。
 冷静に考えてみよう。
 これは、二日酔いの症状にそっくりだ。
 しかし昨日は酒など飲んでいない。それはオーケー。つまり、なんだ。あー。思いっきり体調を崩してしまったわけで、俗に言う風邪とやらをひいてしまったのだろう。
 ならば尚更だ。このまま寝ていよう。
「……って、敬介くんっ?」
 誰かの驚きの叫びが鼓膜を叩き、音波が脳を揺さぶる。吐き気をももよおす疼痛が三割増で駆けめぐった。
「ちょ……、えっ? なにしてんの?」
 驚きには疑問の色も若干混じっているらしい。とにかく、叫ぶのを止めてもらわないと生死に関わるような気がする。というか、マジ死ぬ。
 声の持ち主――桜井がここにいることは不思議ではあったが、そんなことは本当にどうでも良かった。
「……桜井さん、悪いけど説明してらんない。風邪ひいたんだ。寝かせて。わけはあとで話してあげるから」
「ええ、え? ち、ちょっと待って?」
 こちらの額に手を乗せる。もう片方の手を自分の額に当て、体温を比較しているらしい。
「やっぱ熱あるよっ?」
「うん。だから、ここで寝て体調を回復させるの」
「ここで寝てたら死んじゃうよっ?」
「いやだから、ここで寝て体調を回復させるんだってば」
「バカッ、こんなところで寝てて風邪が治るわけないでしょ! ホントに死にたいのっ?」
 その声は先程よりさらに力が込められており、また脳が揺れて視界がぐらりと、回る。吐き、そう……だ。
「立って。とにかく、ちゃんとしたところで休まないと」
 手を取られ、無理矢理に起こそうとする。なかなか身体は持ち上がらないようだったが、必死で達成させたようである。僕はベンチの上に座る形となった。なんだか頭の中身が回転しているようで、視界も定まらず、とにかく気持ち悪い。
「ほら、立ってよ」
 やっぱり無理矢理引き起こされる。片腕を桜井に取られ、肩を借りる形になってしまう。
「うぅ。ど……こに、行くのさ?」
「とりあえずうちに行くよ」
 ゆっくりとだが、引きずられるように連れて行かれる。
「あ、ぁ、自転車と荷物……」
「あとで、持ってきておくから。っていうか、敬介くん重いよ、もう少しくらい力入れて歩いてよう」
 ひたすら、気持ち悪かった。
 連れ出され、じりじりと道を行き、辿り着いた一軒の家。
 歪みに歪んだ視界で、その家が目に入った。
 ……あ、れ?
 朦朧とする意識の中、どこかで、記憶の扉が開く。
 なんで、こんな所に……?
 庭があって、家屋も大きくて。その貫禄と、雰囲気と。
 誰かに抱かれている記憶。父親と母親と、僕がいて――
 溶けてしまいそうなくらい、安らかな――
 父と母の顔を思い出しかけたところ、桜井は庭を経由し、居間と思われる場所の縁側に僕を寝かせた。
 ああ、そっか。桜井の、家なのか。
 ちょっと待ってて、の声。玄関から回ってきたのか、桜井は僕の身体を家の中に引きずって入れた。靴は途中で脱がされる。
「疲れた……」
 そうぼやくとまた姿を消す。誰かになにかを説明しているような声も聞こえたが、もう僕の意識も限界に近かった。
 どうやら寝てもいいらしい。
 そうとしか思えず、目を瞑る。意識は深く、震えは細かく、頭痛は重く。とにかく、僕はやっと再び眠りにつくことが出来たらしかった。
 
 
 温かい。そう思った。睡眠が終わる前のまどろみ。ふとすればそのまま再び意識が闇に溶けそうな感覚の中で、僕は、温かみを感じた。
 いつの間にか布団に寝かされている。それが認識できた。
 温かい。布団のせいだけでなく、なんというか、もっと別な何かがあるような。まるで、わずかに記憶の残るあの頃のような――
 意識が完全に覚醒した。
 まだ身体はだるく、頭痛も残っているが、先程よりはずっと楽になっている。額の上に濡れタオルが乗せられているのが分かる。
 ……布団? 濡れタオル?
 あれ、ここどこだ?
 目を開けて見ると、女の子が横でこちらを見ていた。こちらが起きたのに気付いたのか、あっ、と声を洩らし、何故か赤面する。
「お、おはようございます」
「あ……れ?」
 誰だろう。この子は。髪は、桜井よりは短い。小柄というよりは幼いという印象。中学生くらい、だろうか。
 いや、それより、ここは……?
 首と目を駆使し辺りを見回しながら、思い出してみる。
 そう。無謀にも公園で寝て朝方に体調を崩し、そして、桜井にここまで連れてこられてた。すなわち、ここは桜井の家。最後に見た部屋は居間と思われるが、どうやらそこからさらに運ばれて別の部屋に寝かされているらしい。
 思い出してみると、もの凄く情けない。なぜ桜井を振り切って別の場所へ行かなかったのかと後悔もする。が、それもある程度は回復している今だからそう思えるのだろう。
 僕は余程いかれていたらしい。
「あ、起きた?」
 桜井が廊下と思われる方から姿を現す。身体を起こし、濡れタオルを手に取る。
「はい。ちょっと体温、計ってね」
「あ、ああ……」
 差し出された体温計を脇に挟み込む。
「ちゃんと美里に礼を言っておいてね。私のいない間、看病しててくれたんだから」
「あ、うん。みさと、ちゃん……だね?」
「はい」
 赤面している少女に頭を下げる。
「ごめん。迷惑を掛けた」
「ああ、いえいえ」
 少女は僕より深く頭を下げて、どこか落ち着かない様子で部屋から去っていった。
「私の妹ね」
「ああ、そうなんだ」
「もう一人いるけど、今は寝てるから」
「そう。三人姉妹なんだ? ご両親は? 仕事? 挨拶くらいはしておかないと……」
「うんにゃ、うちら親無し」
 そんなことを、あっけらかんと。しかし、心底が見えない表情で言った。一瞬、思考が止まりかけるも、すぐ持ち直す。こちらの方がまだ相手にしやすい。
「ごめん。悪いことを……聞いたね」
「いいよ、別に。生きてる人もいるし」
「え、それって……」
 こちらが疑問に思ったことを察してか、何も言う前に答えた。
「お母さんとは、もうずっと連絡つかないんだ」
 両手で体を支えて、天井を仰ぐ。
「どこで何をしてるやら。会いたくても連絡も出来ないんだよね」
「……ごめん。無神経だった」
 そこで脇に挟んだ体温計がピピッと鳴る。取り出して見てみるとやはり熱も完全に下がったわけではなかった。すぐ桜井に返す。
「あー、やっぱりまだ熱あるね。もう少し寝てなよ」
「いや。そういうわけにもいかないよ。これ以上は迷惑を掛けるわけにもいかない」
 と、立ち上がってみるが、思ったよりも回復してないのか、またぐらりと脳が揺すぶられるような感覚に襲われる。吐き気と頭痛が誘発された。すぐ腰を落とし、元の体勢に戻らざるを得ない。
「ほら、やっぱりダメじゃない。おとなしくしてなさいって」
 頭に手を遣り、ため息をつく。小さく、桜井に聞こえぬよう、情けない、と呟いた。
「今、お粥作ってくるから、下着、着替えちゃいなよ。汗に濡れたまんまだと、風邪は治んないよ」
 下着。上下一式。新品の物を、桜井は差し出してきた。
「……いや、そこまで世話になるわけには――」
「それとも私が着替えさせてあげようか?」
 メガネがきらりと光る。にこやかな笑顔でそんなことを言われてしまった。冗談に聞こえなかったのが恐ろしすぎる。
「着替える。洗面所、借りるよ」
「うん。廊下出て突きあたりだからね。戻ってきたら寝てなよ」
 ゆっくりとした動作で、身体に負担を掛けないよう歩いていく。洗面所で脱いだ下着は畳んで、見えないように持って戻ってきた。
 鞄はちゃんと持ってきてくれていたらしく、布団の近くにあった。その中に手に持っていた物を入れて隠す。
 しかし、新品の下着か……。桜井が買ってきたのだろう。あとでちゃんとお金返さないといけないな……。
 ひとまず言いつけ通りに布団に横になる。
 しばらくして、桜井はお粥を持ってきた。その味は、薄い塩味でしかなかったのに、ひどく、美味しく感じた。
 薬を飲まされ、また寝かされる。本当ならとっとと出ていくのだが、今はそれも出来ない身体なので素直に従うしかない。
 本当に……情けない。
 借りが出来てしまった上に、距離も取れていない。
 最低最悪と言える。このままじゃ、また、あの時のように――
 ポケットに手を突っ込み、グッと金時計を握る。大丈夫。あんなことになる前に、風邪を治して、脱出するさ。とっとと借りを返し、また距離を取るように頑張れば、何の問題もない。
 そうと決め、早めに体を治すため、また僕は睡眠を取った。
 次に目が覚めたのは夕方。陽がやや赤みを帯びている頃だ。
 昼と同じように桜井はお粥を持ってきて、体温を計っていく。もうすっかり熱も下がり、頭痛もない。ずっと寝ていたためか身体は重く、だるいが、動いていれば大丈夫だろう。
「んで? いったいどうしたのよ、敬介くん」
 お粥を食べ終わったところで桜井が訊ねてきた。
「クラスメイトに拉致されたんだ。見ての通り」
 空になった食器を渡しつつ、冗談を言う。もちろん、ちょっと悪意を込めてある。
「ふーん。それで逃げてきて、あの公園で力尽きたんだね」
 ものすごく納得した顔を見せる。うんうん、と頷き、大変だったね、と微かに笑む。
「拉致したのは男の人かな? 敬介くん、可愛いもんね。あ、もしかして昨日話してた先輩とか?」
「いや、ごめん。今のは冗談」
「うん。知ってる」
 にへへっ、と笑みを浮かべる。
「ならそういう質の悪い冗談で返すのはやめてよ……」
「でもよく襲われなかったね。可愛い盛りの女の子が公園のベンチで寝てて無事だったんだ」
「いや僕、男だし」
「でも間違えられるでしょ?」
「男だって分かったら襲わない」
 ……ことを切に願う。それは、本当に、恐ろしすぎる。
「私だったら襲っちゃうなあ」
「ぶっ殺すよ?」
 身体が万全ならその質の悪い冗談の制裁としてヘッドロックをかましてやるのだが、今はまだダメである。
 というか、それじゃまんま素が出ちゃうじゃないか。やらなくていい。体調が万全じゃなくて良かったと、少しだけ思う。
 こちらの思惑も知らず、桜井はあははっ、と笑いながら食器を台所へ戻しに行った。すぐ戻ってくる。
「それで、何があったの? 先輩に追い出された?」
「いや、それが……う〜ん」
 話すかどうか迷って唸る。
「聞きたいなぁ聞きたいなぁ。お姉さん聞きたいなぁ」
「……あれ、桜井さん、僕より年上?」
「私、二年間社会人やってたんだ」
「高校卒業後すぐに?」
「うん。すぐに」
「じゃあ二歳上なんだ……」
 よく分からない。
 見た目で年齢が判別できるほどいい目は持っていない。
「で? 聞かせてくれないのかな? あとでわけを話してくれるって言ってたよね」
「ああもう、分かりましたよ」
 やれやれ。と、ため息をついて、今までの経緯を簡単に説明する。一応は嘘もつかなかった。
「――つまり、宿無し。ホームレス状態なんですよ、これが」
 はっはっはっ。と、とりあえず笑っておく。が、桜井は予想外にも真面目な顔をしていた。
「笑い事じゃないでしょう」
 左の手を口元にやり、その肘に右手を添えた。Lの字を左右反転した形になる。
「その先輩はどうしたの?」
「実家に帰ったみたいですね。そこで、物件を探すとか。講義はどうするつもりなのかとか。ほとほと心配です」
「人の心配してる場合じゃないでしょ」
「ええ、まあ。そうですね……」
 視線を下げる。
「敬介くんは、実家には帰らないの? ホテルやら公園やらに泊まろうとなんてしないで先輩みたいに実家に帰ればいいのに」
「実家はありませんから」
「えっ?」
 視線を戻すと、驚いたような顔をしていた。
「僕も桜井さんと同じですよ。親無しです。黙ってるつもりは無かったんですけどね」
 軽く笑む。
「えと、じゃあ、引き取ってくれた人の家とか……」
「あそこに僕の居場所はありませんから」
「……っ」
 声を詰まらせる。ややして、そう……、と呟いた。
 そう。
 あそこは帰る場所ではない。帰ったところで、泊まるという行為には危険が伴う。なによりあの家に、僕の家族はいない。男色の変態と、勘違い女と、人を騙すことを至高の楽しみにしている狂人と。
 だから、大学を受験した。遠いところへ入学すれば、あの家から脱出する口実になる。僕を寵愛してくる男色の変態を納得させるにはこれしか思い付かなかった。
 合格通知が来て、すぐに物件を探してさっさと家を出た。養子になどされたら堪ったものでもない。保証人になってもらうために頭を下げたのが、最後だった。
 それだけのことをして出てきたのに、大家のミスで宿無しになって、先輩の家に泊まらせてもらっていたらアパートが焼けて。
 運の悪いことばかりが続いたが、だからといって帰ったのでは、さらに悪い運命が待ち受けているに違いないのだ。
「……ところで敬介くん?」
「はい?」
「敬語使うのはやめて」
 えっ、と声が漏れる。桜井は視線を逸らさずに続けた。
「年上って分かったからって今までの態度を覆すのは、やめて欲しいな」
「あ……、でも――」
「今までため口だったくせに。今更だよ、そういうの」
 ちょっとため息。
「分かった。敬語はやめる」
「うん。それで良し」
 桜井は依然として真面目だった。
「それで、これからどうするつもりなの?」
「とりあえずは、出ていくよ。泊まれるところ探して、そこでいい物件でも探すよ」
「あるの? 泊まれるところ。昨日さんざん探し回ったんでしょ」
「まあなんとかなるよ」
 はあ、と大きくため息をつかれてしまう。
「そんな考えで昨日は身体壊したんでしょう?」
「んん……、それを言われると弱いけど」
 口元に手を遣ったまま、桜井は呆れたような顔をした。
「まったくもう。しょうがないなぁ」
 肩を竦めて微笑する。
「うちに泊まってけば?」
「え?」
 疑問の眼差しで真正面から桜井を捉える。
「ごめん。間違い」
 ああ、そりゃそうだ。驚きも疑問も姿を消す。
「うちに住めば?」
 たっぷり五秒の沈黙。間を空けて、驚きを抑え込んで、冷静に口を開く。
「ははは。なに言ってるの、桜井さん。冗談キツいよ」
「冗談じゃないよ? うち、部屋余ってるしさ」
「いや、だからって――」
「行くアテ無いんでしょ?」
「そうだけど……、こんな女の子だらけのところに、僕を住まわせるって……」
「そういうところを心配してくれる人は、信頼できるよ」
「そう簡単に信頼しちゃいけないよ。本当は裏で、何を考えているか分からないんだよ」
 右手でメガネのズレを直し、こちらを凝視する。
「……そんな風には見えないなぁ」
「そんな簡単に考えていると、いつか痛い目を見ることになる」
「どうして?」
「裏切られるからさ。だから僕は――」
「裏切るの? 敬介くんは、私を?」
「……いや。そんなつもりは……ないけど」
「なら平気じゃん?」
「……っ」
 声が詰まる。
 分かってない。本当に分かってない。自分以外のほとんどは敵だっていう認識がない。
「まー、どこか良い場所が見つかるまででもいいじゃない? 人の好意には甘えるものだよ」
 真面目に見えた顔を崩して気楽そうに、言った。
「いや……、それでも出ていくよ。これ以上迷惑掛けて、借りは作りたくないんだ。受けたくもない借りを返すのは、嫌なんだ」
「別にいいよ、そんなの」
「君は良くても、僕は良くない」
「踏み倒したって文句は言わないよ。心配しなくていいって」
「心配……」
 ああ、そうだ。
 僕は何を心配をしていたのだろう。こちらが相手を信用しさえしなければ、裏切られることなんて無いじゃないか。そうしていれば、少なくとも自分には被害がない。
 利用するだけ利用して、必要なくなったら、さよならすればいい。
 そうだ。なにも、借りを返す必要なんて、ないんだ。無視して、自分だけ損をしないように立ち回れば、それでいい。自分からいいと言っている相手にならば尚更だ。嫌われる心配すらしなくていい。
 忘れていたな。高校時代は、そうやって過ごしてたはずだ。先輩や桜井にペースを乱されてばかりだったせいだ。気付かないうちに心を許しすぎていたのだろう。迂闊だった、ということだ。
「ああ、もう! また変なところで寝て風邪でもひいたら大変じゃない! あんまり心配させないでよ!」
 黙ったままいると、痺れを切らしたのか声を荒げる。
「心配? 僕のことが?」
「窮地に立たされた友達を見捨てられると思う?」
「分からない」
「分からないって……、もうっ……」
 膝を叩いて首を振る。心底わからない、といった顔をしていた。
「けど、わかったよ。……そう。他にアテもないし、しばらく厄介になるよ」
 考えはまとまった。僕は、この家と彼女を利用する。
「また風邪をひいて拉致されたらたまらないから、ね」
 冗談のように言ってやると、桜井は破顔一笑して大きく頷いた。
「うん。そうしなよ」
「妹さんたちに了承取らないと。あと、さすがにただで泊めてもらうのも悪いからお金のことも……」
「そうだね。立てる? 行こ。呼んでくるからさ」
 立ち上がって歩いていく。こちらも立ち上がりついていく。やはり体力は回復している。廊下に出たところで桜井は振り返った。
「ああ、お金はね、生活費にちょっとだけカンパしてくれればいいよ。いいとこ見つかんなかったらいつまででもいていいし」
 微笑み。メガネの奧の瞳が綺麗に澄んでいた。瞬間、相手は利用する相手であるはずなのに、癒されてしまいそうで、心の動きにストップをかけた。
「……なら、契約だ。期間は僕が新しい場所を見つけるまで。僕はその間、下宿費として生活費の一部を持つ。迷惑も、もう掛けない。不備があったらいつでも破棄していい」
「律儀だね」
「そうでもない。普通だよ」
「分かった。じゃあ、契約成立。私は、カンパしてもらう分くらいは住み心地のいい家を提供するね」
「君の妹さん達がいいって言ったらの話だけどね」
「いま連れてくるよ」
 居間で待っていると、やがて二人の妹を連れて戻ってくる。
 桜井は簡単に、一緒に住むことになったよー、と説明していた。
「分かりました。よろしくです、わいるどなお姉さん」
 説明が一通り済んだ時に、発せられた言葉。
 その言葉で、一気に困惑に叩き落とされてしまった。
 桜井の妹――昼頃、看病していてくれた中学生くらいの子。確か、美里と言ったか。彼女の一言に、なんと言い返していいのか分からなかった。
 どうも、僕の性別について誤解しているような気がする。というか絶対、百パーセント誤解してる。
 今まで何度かあったことではある。実際、あの変態親爺が男色に目覚めたのもどうやら――いや、思い出すのは止めておこう。
 まあ、それだけ女性っぽい顔らしい。一応、筋肉もある方だと思うし、服装も男っぽくしているつもりなのだが、よく女性に見られる。声も高い方らしい。
「わいるどなお姉さん、お名前は?」
 髪型を変えるべきか……。
「あ〜、えっと、美里ちゃんだっけ?」
「はい、美里です」
「私の愛すべき妹です」
 横でえっへんと桜井が胸を張る。
「お姉ちゃんも、私の愛すべき自慢の姉ですよ」
 妹もえっへんと胸を張る。
「きゃー、嬉しいこと言ってくれるぅ〜」
「はぅっ。お、お姉ちゃん苦しいぃぃ」
 妹にベアハッグをかけている。妹はたまらずもがいている。
 間違いなく姉妹らしい。
 ごめんごめん、と解放。妹はふらふらしている。
 それはさておき、誤解は解かないといけない。冷静に、感情を隠して、地も出さず。
 簡単簡単。
「ところで美里ちゃん?」
「はい?」
「ボクハオトコダ」
「はえ?」
 目をまん丸くして、首を傾げる。
 脇でくすくす笑っている桜井と、状況の飲み込めていない幼女。
「ボ・ク・ハ・オ・ト・コ・ダ!」
 ……だめだめ全然、地が出てるじゃないか。
 この誤解を解くのなんて慣れてるはずなのに……。何故だ。
『少女よ、それはこの姉妹の持つ雰囲気が原因じゃ』
 天から老師の声が響いた。
「だから女じゃねっす!」
 思わず訛った。
「ワシは男じゃけえ!」
 強調してみた。
「あ……そうだったんですか。し、失礼しました。ごめんなさい」
 分かってもらえたらしく、深々と頭を下げる。
「あ、いや。慣れてるから」
「でも女の子の扱いには慣れてないと見た」
 桜井の小声。ちらりと見ると、メガネがきらりと光った。
 ……なんなんだ。
 ていうか老師って誰?
「……それで、美里ちゃん、僕が一緒に住むことに抵抗はないの?」
 一応、訊いてみる。
「はい? どうしてですか?」
「え……、いや……、ほら、男と女が一つ屋根の下って……」
「兄妹とかですか?」
「……。なんでもない。ごめん。忘れて」
 ふう、とため息をつく。ぷぷっ、と桜井が吹きだしていた。よく分かっていない様子の桜井家次女。
 純真。そういう単語が浮かんだ。
 もしかして、僕、汚れてる?
 落ち着いて、桜井が淹れてくれたお茶に口を付ける。
 軽く周りを見渡してみる。
 桜井晴香。桜井美里。そして、桜井家の末妹。
 その末妹と目が合う。目を逸らす。
 じ〜っ。
 見られてる見られてる見られてる。
 無邪気な視線をビシビシ感じる。
 正直、困る。どんな反応をしたものか。
 幼稚園児と聞いた。五歳、くらいだろうか。髪は後ろで一つにまとめている。幼い。
 立って、とてとてと歩き出したかと思ったら、桜井の背中に隠れた。ひょこっ、と顔を出したかと思ったら、またすぐに全身を隠す。
 沈黙し、その行動について思考してみる。
 もしかして、怖がられてるのだろうか?
 桜井は微笑んでる。その妹も同様。
「あ、えっと」
「みや」
「……?」
 末妹の発言に、また困惑する。
「名前名前」
 小声で桜井が教えてくれる。
「ああ……。みやちゃんって言うんだ?」
 ひょこ、と顔を出してこくこく、と頷く。
「可愛いでしょ?」
「うん」
「いよっ、ロリコン」
「違うって」
「ショタコン?」
「ますます違う」
 そんなやりとりを、末妹はじっと見ていた。
「えっと……、どうしよう」
「……」
 じ〜っ。
 だから、その視線は、困る……。
 本気で困惑していると、末妹はまた歩き出した。今度はこちらへ。
 微妙な位置で止まると、またこちらの顔をじっと見る。
「おにいちゃんだ」
「え……?」
「ねー、あそぼ?」
「え、あ、ああ……?」
 桜井に視線を送り、助けを求める。
「決定、だね」
 その一言。
 すなわち、僕がこの家の住民になることに異議を唱える者はいないということ。そして、どうやら末妹にも気に入られたらしいということ。
 時は夕暮れ。空は紅。季節は春で、雲は流れてふーわふわ。
 新しい場所での、経験したことの無い生活が、どうやら始まろうとしている。その予感を全身に、主に末妹の視線から感じていた――
 ……。
 とりあえず、小さな女の子にどう対応すればいいのか、それを学ぶことは、今後の僕にとって重大な課題になりそうだった――
 
 




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