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≪Tales Of Orphans≫




 
Chapter 2 Orphan's house
 
 
 
 次の日。日曜日。本当なら朝からバイトがあるのだが、桜井にしつこく大事を取って休めと迫られた。僕としてはもう大丈夫だと思うのだが、先輩のアパートも燃えてしまって色々と買い揃えたい物もあったので、休むことにした。
 昨日、桜井に使ってもいいと案内されたされた部屋は、思ったよりも広かった。さすが一軒家といったところか。掃除はちゃんとされていて、机とベッド、タンスが既に置かれていた。
 鞄の中の教科書とノートを机の上に置いて、さらにノートパソコンも置く。これで大分、鞄が軽くなった。
 ベッドに横になったままぼうっとする。
 ポケットの中の金時計の感触。取り出して、掲げてみた。懐中金時計。独特の光沢と、機械的な時を刻む音。
 無責任に早死にした父の、形見。本当なら叩き壊して捨てたいところだが、高価であるらしいことと、自分への戒めとして、持ち歩いている。
 しかし、久しぶりのベッドは気持ちいい。
 トントン、と扉がノックされる。
 返事をして扉を開けると、桜井の妹がいた。
「朝ご飯ですよー」
「え、僕も?」
「はい。当然です」
「そう。分かった、ごちそうになるよ」
 一緒に階段を下りて、居間へ。桜井が料理したらしい。ちゃぶ台には和食の朝食が人数分並べられていた。
「桜井さん、僕も、いいの?」
 一応、桜井にも訊く。するとにこりと笑った。
「当たり前。これも契約のうちだよ」
「……オーケー。ごちそうになる」
 席に座る。正面に桜井、その妹が向かって左側、末妹が右側である。食べ始めて気が付くと、末妹がすぐ近くに移動してきていた。
「あらあら、美也はお兄ちゃんが気に入ったんだ?」
 桜井は穏やかに微笑んでいる。
「うん」
 屈託の無い笑顔で頷く末妹。何も言えない僕。
 だから――必要以上に好かれるのは、嫌だっていうのに。
 今までの僕では、対処できない。桜井と同じく、苦手なタイプのようだった。
「敬介さん、おかわりいります?」
 食べ終わったところを見て、気を利かせる桜井の妹。
「ああ、お願い」
 すぐに立ち上がり、おかわりを持ってきてくれる。ありがとう、と言うと笑顔で頷かれた。
 そして食後。僕は思いきり、引き際を誤ってしまった。
「おにいちゃん、あそぼ?」
「えと……、あー、うー」
「あーうー?」
「真似はしなくていいの」
 きょろきょろと周りを見渡す。桜井は食器を洗っている。居間の外、廊下を妹が歩いているのが見えた。
「美里ちゃん、美里ちゃん」
「はい? どうしました?」
「助けて」
 首を傾げて近付いてくる。丁度いい距離に来たところで、立ち上がる。
「ごめん。任せた」
「え?」
「どうやら、苦手っぽい」
 と、部屋を出ようとしたが、ズボンの裾に抵抗を覚える。首をゆっくり動かしてその場所を見てみると、末妹がその場所を把持していた。
 じ〜っ、とこちらを見ている。
「あ……、あぁ〜」
「一緒に遊びましょ、敬介さん」
 微笑むと、しゃがんで末妹に視線を合わせる。
「大丈夫。お兄ちゃん、どこにも行かないから」
 頭を撫でながらそう言った。
 これはまいった。
 ふふっ、と嬉しそうに笑う末妹。
 本当に冗談じゃあないな……。
 その場に座って、ちょっとため息。
「何して遊ぼうか?」
「にらめっこ!」
 元気よく末妹は答える。
「ようし、お兄ちゃん負けないぞー!」
 半ばやけくそ気味に、その挑戦を受けることにした。
 そして、その結果。
「ぷははははははっ」
 二人に惨敗し、爆笑している僕がいた。
 赤面している妹。勝ち誇っている末妹。
「ん〜、楽しそうだねぇ」
 台所から桜井が顔を出す。上機嫌そうな表情で、エプロンで手を拭きながら。彼女の声のお陰で、三人だけの世界が壊れて、我に返ることができた。
「にらめっこしてたの。おにいちゃん、よわいんだよ」
「へえ、そうなんだー」
 こちらに顔を向けて楽しそうに言う。
「ふふっ、兄妹みたいだね」
「あー、いいですねそれ。これから一緒に暮らすんですもん。敬介さん、私もお兄ちゃんって呼んでいいですか?」
 好かれしまっている、のだろうか……、これは。
 それとも、好いている振り……? 末妹は、そんなことできる歳でもないだろうけど、二人は……分からない。
 ただ、近付こうとしていることだけは間違いなかった。
 思わず僕は、桜井の妹も末妹も、いい子だと思ってしまった。桜井のことも、いい姉だと。
 好感を、僅かだが、抱いてしまっていた。
 それは迂闊以外の何物でもない。利用するだけの相手に、そんな感情を抱くなど、おかしい話なのだ。
 彼女らの表情は、笑っていると称していい。
 けれど、真実はどうか。心はどうなのか。
 その様子が、古い記憶に、重なって。
 裏切りと、もう一つ――
 二つの可能性。
 これ以上の接近は許してはいけないと、警告された。
 その感情。
 その両方に対する、恐れ、怖れ、畏れ。
「どうしたの、敬介くん。答えてあげたっていいじゃない?」
「……冗談じゃ、ないよ」
 それが精一杯。その場を脱出して、与えられた部屋に閉じこもる。
 冗談じゃない――
 今までの教訓は、なんだったのだ。役に立たない……。この桜井姉妹相手には、僕の処世術は通用しないとでもいうのか?
 深呼吸をして、心を落ち着ける。
 大丈夫……、大丈夫。僕自身、まだ彼女らを気に入っているわけじゃない。このままの距離。このままの距離を保てばいい。相手が好いてこようと、こちらが隙を見せなければ、なんの被害もない。裏切ることすらできない。
 そのままをしばらくを部屋で過ごし、適当なところで買い物に出掛けた。嫌われてしまわないように、出掛ける際に言葉でフォローを入れておいた。
 燃えてしまった教科書は大学内の書店で揃えることにし、衣類とノートを買い漁った。一応、自分用に歯ブラシなど、必要そうな物も買い揃えておく。
 出費は少々痛い。が、仕方ないことだと割り切る。なんとなく、出掛ける前のフォローだけでは心配だったので、土産も買って帰ることにした。
 帰宅すると、桜井の妹に出迎えられた。
「おかえりなさーい」
「……」
 この場では、ただいま、と言うのが最適だろうと分かってはいたが、喉からその言葉は出なかった。代わりに、土産であるチョコレートのお菓子を無言で渡し、自室へ戻った。
 ベッドに横になる。その後は昼食と夕食に呼ばれた以外は、部屋を出ることもなく夜になった。窓から月が見えてる。時刻はもう、深夜の十二時を過ぎていた。
 いくつかの科目の課題を大方こなし、最後の数学の問題を解いていた。やはり机があるのはいいなと痛感していると、ノックの音が部屋に響く。
「はい?」
「私ぃー」
 桜井の声。扉を開ける。
「あ、勉強の邪魔しちゃった?」
「いや、別に。どうかした?」
 訊くと、日本酒と思われる瓶を持ち上げて示した。
「飲もう、敬介くん」
 どうしようか思案する。
「と言うか付き合え、敬介くん」
 有無を言わさず手を取られ、引っ張られる。
 なんだか、拒否してもどうせ従わせられそうなので、付き合うことに決めた。この強引さが僕のペースを乱す要因なのかもしれない。
 居間には既につまみが用意されていた。グラスに注がれたお酒をちびちびと飲みつつ、桜井は切り出した。
「ストレートに言うとだね、敬介くん」
「ああ、なに?」
「もうちょい妹たちと仲良くしてくれると嬉しい。お兄ちゃんって呼ばせるくらいのことは許してあげても良かったと思う」
「それは、ここに住まわせてもらうための契約事項?」
 桜井は小さく首を横に振る。
「さすがに違うよ。あくまで希望」
「なら拒否したい」
 即答にも近い回答に、桜井は残念そうに顔を落とした。
「そう……。理由は聞いてもいい?」
「必要がないからさ。契約して僕はここにいるんだ。定められていないことに従ういわれは無いよ。したくないことは、したくない」
 桜井はつまみを口に入れると、また飲んだ。
「つれないね、敬介くん」
「そうかもね」
 それきり、いつもの強引さも見せず、口を噤んだ。飲む音と食べる音だけが居間にある。僕も何かを喋る気にはならなかった。
 そろそろお開きにしようと、立ち上がった時。
 一言だけ、桜井は呟いた。
「どうしていつもそうなの、敬介くん?」
 その声に一瞥だけする。
 物件が見つかるうちは、厄介になるさ。けれど、もし、都合の悪いことが起きたら、すぐ出ていくよ。
 口には出さず、そのまま居間を出た。
 明日は、朝から登校しなければならない――
 
 
 大学と桜井家、そしてバイト先。三つの場所を往復しつつ、日々は過ぎていく。バイト先にも大学にも先輩は顔を出さなかった。当然といえば当然か。
 何もせずとも用意される食事と、安心して眠れる寝心地の良い寝床。少なくとも敵意のない眼差し。
 先輩のところに泊まらせてもらっている時も、心安まる場所ではあったが、色々な面でこの場所の方が勝っていた。付き合うのが楽という点では先輩の方に分があるが。
 それは、始めて桜井家に訪れた日から一週間経った土曜日。
 昼食のあと、大学の知り合いから受けた依頼をノートパソコンを操ってこなしていた。居間から見える庭の雰囲気と畳の感触が素晴らしかったので、今日の作業場は居間だった。
「何をなさってるんですか?」
 興味ありげに桜井の妹が声を掛けてきた。ヘッドホンを外して、顔をそちらに向ける。
「ああ、ちょっと依頼をね」
「依頼……ですか?」
「うん。携帯の着うたってあるだろ。あれを作ってやってるんだ。一曲百円」
「え……」
「マイナーな曲とかは企業でも手を出さないからね。ハンドメイドが一番いい」
「それって、ちょさくけん的に平気なんですか?」
「あくまで僕は労働力を売ってるんだ。曲を売ってるんじゃない。個人で楽しむ域の作業を、肩代わりしてるだけ。大丈夫だよ」
 ……たぶん。
 へええ、と感心している顔。
「えと、それって私もお願いしてもいいですか?」
「いいよ。CDか何かがあればそこから作れる」
「分かりました。持ってきます」
 そう残して居間を一旦立ち去った。すぐにCDを一枚持って戻ってくる。それは何故か、よく知らない特撮シリーズの主題歌集だった。宇宙……刑事? なんだかぴかぴか光っていた。宇宙的だ。
「君の趣味?」
「はい。お姉ちゃんもお気に入りです」
 深く追求するのは止しておく。依頼は受け、のんびりと、背中でわくわくとした視線を感じつつ作業を開始した。
 思えば高校時代、よくこうやって小金を稼いでいた。ついたあだ名が職人やら守銭奴やら。パソコンの扱いは、ちょっと得意だった。
 作ったブツをサーバーにアップし、ダウンロードできるようにまた作業する。全て済んだところで、ダウンロードページのアドレスを教えてやった。
 気付くと、いつの間にか末妹が僕の膝の上に乗っていた。どかしてしまったら泣かせてしまいそうで、結局、手出しできず好きなようにさせておく。まあ子供だし。
 ほどなくして桜井の妹の携帯電話から歌が流れ始めた。
「わあ、ホントにできてる」
「百円だよ」
「わ、ぁ……、仕事しっかり請求しっかりですね」
「悪いね。例外は作れないんだ」
 例外を作ってしまったら、そこから仲良くなってしまいそうであるからだ。甘い顔はできない。
 百円玉を受け取ったところ、呼び鈴が家中に響く。桜井の妹は、時計を見るとやや暗い顔をした。その感情を隠そうとしているのも分かる。
「私、部屋に戻ります」
 それだけを残し、二階へ上がっていってしまう。入れ違いに桜井が降りてくる。まっすぐ玄関に向かった。心なしか、彼女も浮かない顔をしていた。
 二人の様子から、なんとなくその場にいてはまずいような気がした。移動するにも末妹を放ってもおけないので、仕方なく抱き上げて自分の部屋に向かった。
 ベッドの上で遊ばせておいて、窓から玄関の様子が見えないか顔を出す。陰になってよくは見えないが、どうやら来客は二人。老人といってもいいくらいの、夫婦と思わしき二人だった。外には車も停めてある。
 一体なにを話しているのかは詳しくは聞こえなかった。が、何度か大きな声が聞こえて、どうやら揉めているらしいことは分かった。トラブルがあるらしい。
 移動して良かったと思う。話を聞きさえしなければ、少なくとも深入りはしなくて済む。
 しばらくして老夫婦は帰った。末妹と一緒に居間に戻ると、桜井は疲れた顔をしていた。
「……ロリコンめ」
 こちらに気付いて最初に発した言葉がそれだった。
「違うって」
「部屋に連れ込んでたくせに」
「ロリコンってなんですか?」
 背後から桜井の妹の声。
「知らない方がいい」
 居間に座り、とりあえずはさっきのことに関しては今のところは追求せず、桜井と二人で話ができる時を待つ。
 妹も末妹も、やはり僕を気に入っているのか、なかなかそばを離れようとしなかった。しょうがないので適当に相手はする。
「……やっぱりロリコン」
「そりゃ若い方がいいに決まってる」
「……!?」
 桜井が凄い顔で声も出さず固まった。
「いや冗談だよ。そこまで驚かないでよ」
「あ、そう? あは、あはははは」
 桜井の笑い声はやけに乾いていた。
 
 なかなか桜井と二人きりになれそうにもないので諦めて自室に引きこもった。ベッドの上で横になり、大きく伸びをする。
 机の上のノートや教科書。後々引っ越す時のために用意したボストンバッグ。タンスの中には買い足した衣類を入れている。
 カーテンが波のようにうねり、訪れた風を歓迎する。外はまだ明るいが、太陽はやや傾いているようだ。直に夕暮れにもなるだろう。
 ふっ、と息を吐き出す。待つという受動的な行動では時間が勿体なさそうだ。起きあがって、また居間へ行く。
「桜井さん、いる?」
 呼ぶと桜井と妹がこちらに顔を向けた。妹の方はすぐ自分じゃないことに気付いたようだった。
 なに? と訊いてくる桜井に、ちょっと話があると言って居間から連れ出した。何気ない足取りで階段を上り、二階の廊下にまで来る。
「ねえ、紛らわしいから家の中では名前で呼んでよ。桜井さんって、君以外みんな桜井なんだから」
 不満足げに、口をちょっと尖らせる。
「あぁ、そうだね。それより訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「うん。なに?」
「さっきのあれは……、トラブルか何か?」
 すると、目を細めて視線を落とした。
「うん。まあ、そうだね」
「重大?」
「残念……ながら」
「長引くの?」
「かもしれない」
 そして、僕は判断した。
「じゃあ出ていくよ」
 そう。それが一番リスクが少ない。
 僅かに洩れた声。上げられた視線。大きく開かれた瞳。驚きの色。
「そこまで意外かい?」
 その反応に特に感想も抱かず、声を掛けた。
「なんで、いきなり、そんな出ていくなんて……?」
「トラブルには巻き込まれたくないんだ」
「大丈夫だよ。これは私たちの問題だもん。敬介くんには関係ないし、巻き込まれたりはしないよ」
「いや、近くでトラブルが起きてるってだけで、僕には充分な理由だよ」
 言って、自室に入って扉を閉めた。
 荷物をまとめようと、まずはノートや教科書に手を付ける。すぐ扉は開かれて、桜井の声が背中を叩いた。
「でも……、出ていくって、どこへ? アテはあるの?」
「僕だって探さなかったわけじゃない。ちょっと高いけど、アテはある」
「でも、そういうのって普通、時間掛かるじゃない。その間はどうする気なの?」
「どうやら、話を付ければすぐに住まわせてもらえるらしい」
「……そう」
 作業していた手を一度止め、振り返る。
「悪いけど、あんまり見られたくないんだ。部屋から出てよ」
「あ……、ごめん」
 言いたいことがあるのを無理矢理こらえたような様子で、桜井は部屋から出て行った。ため息をついて、作業を再開する。これだけの量なら、そんなに時間は掛からない。
 予想通り、十数分程度で荷物は全てボストンバッグに収まった。抱えてみるとずっしり重い。軽く部屋を掃除した。
 廊下に出ると、桜井がいた。
 財布から万札を三枚取り出し、手渡す。最初に看病してもらった借りの分も含めての、下宿代のつもりだった。
「世話になったね」
 背を向け階段を下りる。声は返ってこなかった。
 幸い、他の二人には見つからずに玄関から出れた。自転車を出し、バッグを括りつける。バランスが悪そうなので搭乗するのは諦め、押して移動することにした。
 誰も追っては来ない。
 いつかとは違って、一応の目的地を持って歩く。しかし野良犬のようにも見える、と自分の影に思った。
 住宅街を目的の方角へ突き進む。やがて、川が見えた。夕暮れ時。赤い光を反射する川を、土手の上から見下ろした。
 桜井家の厄介になった一週間。その間に一度、桜井とその妹に連れ出されて、近くを通ったことがある。そこの十字路は信号がないから気を付けるようにって、教えてくれた。その時は、特に何も思わなかった。
 けれど、今は思うところがある。
 この地方に来る前から、ここに川があることは地図の上では知っていた。けれど、実際に見たのはあの時が初めてだった。この土地に来てからの二ヶ月近く、町の探索すらする余裕のなかったことを示している気がした。
 ようやくゆとりが持てた場所が、たったいま捨ててきた、桜井家だったというのだろうか。
 冗談じゃない。
 自転車を停め、土手から少し降りる。雑草の上に腰を下ろした。
 今度こそ一人だ。先輩も、桜井も、あの糞ったれな親戚もいない。金のことだけが少し不安だが、なんとか出来る範囲のはず。
 ため息。
 振り返る。誰もいない。誰も追っては来ていない。
 これでいい。これで、本当に一人だ。孤独。いや、孤高。
 川の流れを見つめる。雲行きが怪しくなってきた。一雨来るかもしれない。なのに、そこから動く気にはならなかった。
 なにを期待しているのだろう、僕は。
 寂しさを、感じてしまっていた。
 だけど、トラブルの元の近くにいる限り、なにかしら巻き込まれる。頼られたり、八つ当たりされたり、矛先が向けられたり。
 それによって、必要以上に仲良くなってしまうのも、嫌われるのも嫌だった。
 だから出てきた。後悔はない。ないはず……だ。
 暗い雲が空を覆う。対岸の町で、家々に灯がつく。街灯もちらほらその役目を果たそうと働きはじめる。
 川は流れる。風が草たちをなびかせる。
 ふと、桜井の妹と末妹のことが思い浮かぶ。首を振ってかき消して、またため息。
 これくらいの寂しさなら、まだ大丈夫。失っても、痛みは感じない程度だ。
 三度目のため息。不意に携帯電話が鳴った。相手は桜井晴香。そういえば、あの家に住むことになった時に連絡用として教えておいた。
 電源を切り、ポケットにしまう。
 一人でいた方がいいっていうのに……。
 逆のポケットから、金時計を取り出し、握り締める。
 そうだろう? あんたが教えてくれたんだぜ、父さん?
 だがまだまだ甘いらしい。ガードが、弱い。危うく、彼女らに突破されてしまうところだった。出てきたのは、いい頃合いだったろう。
 これで最後のつもりでため息をつく。
「ため息を一つ吐く度に幸せが一つ逃げていくんだってね」
 聞き覚えのある声が降ってきた。
「それとも、幸せをなくしちゃったからため息が出るのかな?」
 桜井は土手を下って、隣に立った。
「いい時計だね」
「そうかな……」
 金時計をしまい、視線を逸らす。
「隣、いい?」
「ダメ」
「でも座るもん」
 隣で桜井が腰を下ろした。強引だな、と思う。
「どちらにしても座るなら、許可を求める必要ないじゃないか」
「あー、そうだね」
 一瞥すると、笑っていた。なにがそんなに楽しいのか分からない。
「なにを……しに来たの」
「引き止めに」
「なぜ? 別にいいじゃないか。僕と君とは、大家と入居者以上の関係なんてないんだよ。なにも、問題なんて、無いじゃないか……」
 視線は向けず、川の流れだけを見守る。
「美也ね、戻ってこないと思って泣いちゃったよ」
 黙っていると、桜井は続けた。
「美里だって、あんな風に急に出て行かれたら、ショックだと思う。絶対、寂しがる。あの二人、こういうことには凄く敏感で、凄く弱いんだ」
「……どうして引き止めに来たの? あの二人が寂しがるから? 違うよね。それだけじゃないよね」
「寂しそうなのが、もう一人いるみたいだから」
「それは君?」
「……君だよ」
 冗談じゃ、ない――
 感傷的になっている。それが口を開いた原因だったろう。
「桜井さん。少し、話をしようか」
 やはり顔を見ずに言葉を紡ぐ。草の香りが、やけに鼻についた。
「僕の母さんはさ、物心ついてすぐ亡くなってさ。父さんも、僕が小学生にあがる前に死んだんだ。両親に、ランドセル姿も見せてやれなかった。
 父さんの借金は、家のもの全部処分しても返しきれなかったみたいで、お金を貸してた親戚からは睨まれたよ。最初はなんでだか分からなかったけど。
 引き取られた先でも同じでね。おじさんおばさんは、僕を目の敵にしてたよ。ひどいところだったね……。お腹一杯ご飯を食べた覚えはほとんどないし、おばさんには小さいミスで何度も殴られたし」
 一呼吸を入れる。桜井の顔は見ない。反応も読みとれなかった。
「中学生くらいになって、おじさんの目つきが変わってね……。僕が女っぽい顔をしてるらしいって、はじめて気付いたんだ。
 そこまでの仕打ちならまだ良かったけど、さすがにコレにはね。もともと僕は人として扱われてなかったから、容赦なくイタズラしてくるし、油断したときは襲われそうにもなった。貞操を守るのに必死だったよ。夜も安心できなくて、ろくに眠れもしなかった――」
 そんな頃だった。少し年上の同居人。こちらと敵にも味方にもならなかった従姉が、僕に手を差し伸べた。色々と世話を焼いてくれて、守ってもくれた。心から信頼してしまうまでそれほど長い時間は必要なかった。恋心すら抱いてしまっていた。
 そして裏切り。嘲弄。哄笑。本性。
 痛み。怒り。絶望。心は、完膚無きまでに打ちのめされた。
 伯母と従妹の目。心底嫌っている者を見る目。
 どうしてこんな目に遭っているのか。
 そう疑問に思った時、気付いた。
 運が悪いということに。自分が不幸だということに。
 世間は敵だらけということに。
 そして、求めてしまったことがいけなかったことに。
 誰かを近付けてはいけない。嫌われてもいけない。
 その日、僕は泣いた。人目につかないところで、声を殺して。
 好きになってしまうから裏切られるのだと、思い知ってしまった。だから、誰かを好きになってもいけない――
 どれもがどれも、つらすぎて、恐いから。
「――それから僕は、媚びることも覚えたし、騙すことも覚えた。心にもないことを言えるようになったよ。人とは一定の距離を保って付き合うのが一番だって分かったしね……」
「……でも、先輩とは仲良くしてるんでしょ?」
「先輩は、僕をからかいもするけど、絶対にこっちに踏み込まないでくれる。だから付き合いやすいんだ。他の人はこうはいかない。少し仲良くなると、すぐ近付こうとしてくる。だから、防壁を張って、距離を保つんだ」
 暗い。辺りはすっかり夜。星も月も無い。もし街灯がなければ完全な暗闇に包まれているだろう。けれど微かな灯りはあった。それすらも消えて、完全な暗闇だったら、どんなに気持ちがいいか。
「でも君や、君の妹たちは、簡単に僕の防壁を突破してくるんだ。ほんの少しだけど、好意を持ってしまって、今も少しだけ寂しいと思っちゃってる」
 ずっと俯いていた桜井は、視線を上げ、こちらに向けた。見ると、泣きそうな顔をしていた。
「なら、ずっといてよ。トラブルはさ、私、なんとか頑張るし」
 他人のことで、ここまで心が揺れる……。やっぱり、今までに会ったことのないタイプ……か。
「僕は、君たちが恐いよ――」
「えっ……」
「裏切られた時の痛みも、失う時の辛さも、もうごめんなんだ。恐いんだよ……、君に――君たちに好意を持ってしまうのが」
 だから、いつどうなっても平気なように距離を取る。
 立ち上がり、土手を上る。自転車の隣に立ち、キーロックを外す。
「もう行くよ」
 自転車を押しつつ、歩もうとする。
 駆け上がってくる気配と音。服の端を掴まれ、引き止められる。
「……」
 黙って振り払おうとするが、固く握って放さない。
「裏切らないから」
 それは小さな呟き。聞き逃せなかった。
「私は……私たちは……絶対に裏切らないから。ずっと一緒にいるから、さ――」
 泣いていた。視線を送ると、メガネのレンズの奧で、瞳から光るものが滑り落ちていくのが見えた。それが、不思議だった。
「――だから……一緒にいてよ……」
「君が泣くことなんて、一つだって無いんだよ」
 振り返る。服から手を放してくれた。
「そんなことないよ。せっかく一緒に生活して、仲良くなって、馴染んできた友達が、出ていくって言ってるんだよ。それに、あんな身の上話まで聞いちゃったら、誰だって泣けてくるって」
 不器用に笑みを作りながら泣き続けてた。
 ぽたり。
 頬に冷たいものが当たる。こちらに届くはずもないのに、桜井の涙かと思った。それは雨。ついに、降り出したらしい。
「……」
 降り出したと思ったら、どんどん強くなっていく。既に本降りと言ってもいいかもしれない。雨足はそれほど強くはないようだった。
 川に波紋がいくつもいくつも浮かぶ。濡れることは二人とも気にしていなかった。
 無言のまま背を向ける。雨の足音。自転車を押し、道を行く。
「待ってよ――!」
 呟きの声ではない。強く響く芯のある声だった。
 振り返りはしない。歩く。歩く。雨と共に。
 しばらくして追ってくる足音。走っているのだろう。
 こちらも走らないと……追いつかれる。
 けれど僕は、ついに駆け出すことはなかった。
 十字路を真っ直ぐに渡る。信号がない。気を付けろと言われた記憶が脳裏をよぎる。
 桜井の足音。足音。
 振り向かず、そのまま歩き続ける。
 桜井の足音。足音。雨音、足音――
 それは突如、自動車の、甲高いブレーキ音にかき消された。
 止まってしまった。
 足音も、僕の足も。
 止まってしまっていた。
 悪寒と震えと、一つの不安。
 けど、桜井は他人だ。気にする必要もない。関係ない。
 事故でだって無いはずだ。彼女が事故に遭うわけがない。気を付けろと言ったのは、当の本人なのだ。
 振り向かず行こう。これ以上、雨に濡れていたくはない。
 気にせず歩いていく。身体はそう動くはずだった。
 けれど実際は、まったく逆だった。
 自転車を放る。バッグが落ちて水たまりに濡れる。それすら気にせず、駆けた。
 すぐ先の十字路。
 車が不自然に停まっている。
 地を踏みしめるたび、しぶきが上がる。
 何度も、何度も繰り返される。
 割れたメガネが、街灯の光を反射している。
 その向こう側。
 乱れた長い髪。動かない四肢。そして、雨の音。
 桜井は倒れていた。雨の中、びっしょり濡れて、倒れていた。
 事故。交通事故。
「冗談じゃ……ないよ」
 ざあざあ雨の音。真っ黒、雲の色。闇という名の黒の中、等間隔に白の光円が、アスファルトの上、いくつも描かれていた。
 誰かが携帯電話を取り出して何処かに電話していた。
 僕はただ茫然としていた。
 やがて赤い光が闇を切り裂きやって来た。白い巨体に赤十字。うるさい音をまき散らし。
 それが救急車だと気付くのに、僕は、やたらと時間が掛かった。
 
 
 救急車が来た意味を理解し、ようやく自我を取り戻した僕は、眠っているような桜井に付き添い、病院へ行った。
 治療中に、桜井家に電話し事故の旨を伝える。桜井の妹は異常なほどに狼狽えていたが、そこまで深刻な怪我ではないと伝えると幾らかは安心してくれた。早めに寝るようにとも付け加えておく。
 桜井は早くに意識を取り戻した。一生残る傷も無く、後遺症もない。生命にはまったく別状無し。
 大きな怪我をしたのは左足と左腕。他にも細かい怪我はあったようだったが、最初に挙げた二つほど大したことはない。これで済んだのは、不幸中の幸いだった。運が悪いのは僕と同じらしいが、僕と違って最悪は避けられるらしい。
 念のため、一週間の入院だとか。完全に治るまでは、その後も通院が必要になるらしい。
 病室に入ると、左足を吊った状態で桜井は笑いかけてきた。少し印象が違うように感じる。メガネを掛けていないからだった。
「あはは、やっちゃったよ」
「あの十字路、信号無いから気を付けろって言ったの、君だよ」
「いやはや面目ござらん」
「サムライ言葉にする意味は?」
「ちょっと自分の非をごまかそうとしてみました」
 そう、と呟き、ベッドの横の小さな椅子に座った。
 これは、僕のせいだよな。僕があの時、せめて立ち止まってさえいれば、事故なんか起こらなかった。
 謝罪を口にしようとした時、僕より先に、彼女が言葉を発した。
「……ごめん」
「なんで、君が謝るんだよ……」
「無理に引き止めようとしたからさ。ごめん。迷惑だったでしょ?」
「ああ、でも――」
「契約違反は私だね。迷惑掛けちゃって。でももう大丈夫。冷静になったから。もう引き止めたりはしないよ」
「……そう」
 責めてくれれば一番楽だった。そうなれば、謝って、補償して、心につっかかるものも無く、その場を去れただろうに。
 入院一週間。今日も含めると八日間。それは、彼女が桜井家――妹たちから八日間も離れるということ。中学生と幼稚園児の二人だけであの大きい家に暮らす。
 心配だと思ってしまうその気持ちが、僕をその場に留めていた。
「あの二人は、平気なの? 君無しで……」
「大丈夫。美里は家事全般出来るし、預金通帳の場所も暗証番号もちゃんと教えてあるもん」
「でも、トラブルがあったんだろ。詳しくは知らないけど、美里ちゃんだけじゃ、厳しいんじゃないの?」
「あー。あはは……、それはちょっと不安だな」
「……そう」
 迷いはあった。
 今なら誰も引き止めはしないだろう。いい機会のはずだった。
 けれど、それは出来ない。出来なかった。
「僕が……一緒にいれば安心できる?」
「えっ?」
「君が退院するまでは、契約は継続しようと、思う。出ていくのは、保留にするよ」
「あ……」
 桜井の顔が、みるみる喜びに染まっていく。
「ありがとう、助かるぅ〜」
 退院するまでというのは、嘘だ。
 完治するまで。
 あの家に留まって、二人の保護者代わりをすることは、必要以上に仲良くなってしまう可能性が高く、そのせいで、恐怖を感じることがあるかもしれない。
 それでも、桜井の手足に巻かれた包帯の償いくらいは、しないといけないと思った。
「さすがに、あの二人を放ってはおけないからね……」
 その言葉が建前なのか本音なのか。自分でも分からなかった。
 
 




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