戻る 目次へ 作品インデックスへ TOP 次へ


≪Tales Of Orphans≫




 
Chapter 3 Guardian
 
 
 
 夜も遅くになって桜井家に帰還した。雨はやんでいた。
 帰り道で回収した自転車を敷地の中に入れ、玄関の鍵を開ける。
 鍵。ここに住むと決まった時に桜井がくれた合い鍵。そういえば返さないうちに出てきてしまっていた。
 家の中は暗く、静かだった。
 まずは濡れたバッグをタオルで拭いた。中身は、濡れては本当に困るものだけはビニールで包んであったが、衣類はそうとう濡れていて、大変なことになっていた。次からは全てに耐水装備させておこう。とりあえず干しておく。
 それから確認したが、桜井の妹も末妹も、言いつけを守ってくれたのか、すでに就寝していた。
 改めて頭の中で反芻する。
 僕はしばらく、彼女らの保護者代わりをする。
「冗談じゃ、ないよなぁ……」
 ベッドに横になってみると、思っていたよりも疲れていたのか、そのまま寝入ってしまっていた。
 そして朝。
「――と、そういうわけで、晴香さんが帰ってくるまで僕が君たちの保護者代わりね」
 朝食の席で説明する。僕が出ていこうとしたことについては、一言も訊いてはこなかった。あるいは、知らない振りをしているのかもしれない。末妹はともかく、桜井の妹は、そうだろうと思う。
「分かりました。よろしくお願いします」
「おねえちゃん、かえってくる?」
 末妹が首を傾げて訊いてくる。
「もちろん帰ってくるさ。あとで一緒にお見舞いに行こう」
「うん」
 大きく頷いて微笑む末妹だった。
「ああ、そうだ。美里ちゃん」
「はい、なんです?」
「僕の携帯の番号とメルアドを教えておくよ。何かあったら、連絡するんだ」
「あっ、はい」
 番号とアドレスを表示させ、携帯電話を渡す。手早く自分の携帯電話に僕の番号とアドレスを登録した。すぐに返してくれる。
 こちらに電話を掛けてもらい、また、メールも送ってもらった。それらの番号とアドレスを、こちらの携帯に登録しておく。
「なんでも無い時でも掛けてもいいですか?」
「ああ、まあ、いいよ。でもこれからバイトだから、メールにしてね。仕事中だから返信できないかもしれないけど」
「はぁい。分かりましたー」
「うん。じゃあ、そろそろ行くね」
「いってらっしゃーい」
 二人同時に声を上げる。桜井が出掛けるときと同じだなと思った。
「お気を付けてー」
「ああ、気を付けていくよ」
 玄関を出て自転車に跨る。時刻を確認すると、意外でも無いが、結構ピンチだった。のんびりしすぎた。遅刻の危機である。
「あはは……、冗談じゃないなぁ……」
 乾いた笑みを浮かべる。すぐ気持ちを切り替え、必死でペダルをこいだ。全然気を付けていないのはご愛嬌ということで、勘弁してもらおう。
 結果、見事にすっころんでバイトには遅刻した。
 時間に厳しいことでバイトから恐れられている上司に、こってりしぼられたついでに、ちょっと希望を述べてみた。
「今日、ちょっと早めにあがりたいんですけど」
「遅く来て早く帰るってか」
「あと、これから一週間くらいの間、入るのを遅らせたいんです」
「なんでだ? なにが理由だ?」
「知り合いが入院しちゃって。原因作ったのは僕のようなものですから、出来れば毎日お見舞いに行きたいんです」
 上司は疲れたようにため息をついた。
「まったく。昭吾の奴はしばらく休むとか言ってまだ戻って来ねえし、お前らは共謀して俺を過労死させる気か。この部署はもともと人間が少ねえってのに」
 というか先輩と僕を合わせても五人しかいない。デスクワークだから少なくてもなんとかやってもいけるだろうけど、そんなに忙しいなら人件費を渋っている場合じゃないと思う。
「まー、主任みたいな人は殺しても死なんと思いますがねぇ」
「……」
 上司の顔が凍った。かと思ったらすぐこちらに視線が向けられる。
 ちなみに、今の声は僕じゃない。
 背後の人物を見遣る。上司の視線の先には先輩がいた。
「また今日からお世話になりますわ」
「やれやれ。やっと帰って来やがったか。敬介、さっきの話はオーケーだ。昭吾がいればなんとかなるだろう。ただし、お前もちゃんと、しっかりやってくれよ」
「はい。ありがとうございます」
 上司は禁煙なのにも関わらず煙草に火を点け、奥に入っていた。
「先輩、こっちでいい場所見つかったんですか?」
 慣れた動作でパソコンの電源を入れながら訊く。同じく動きながら先輩は頭を掻いた。
「まあな。ちょいとコネを使った」
「そういうコネってどこで手に入れるんです?」
 椅子をくるりと回して優雅な動きでそこに座る。たまに、オタクから一歩も二歩も上を行くほど格好いい時がある。それで標準レベルであるが。
「まあ、色々だな。俺はちょっと特殊だろうけど」
「特殊?」
「コネが出来やすい環境にいるってところか。それよりお前の方はどうなんだ? ホテル住まいか? また泊めてやろうか?」
 パソコンのOSが起動し、画面に見慣れたアイコンが映る。
「いえ。一応、僕も今のところは住むところは問題ないです」
「そうか。今のところは、ってのは後でどうなるか分からないってことか?」
「ええ。まあ、最低一週間は滞在するつもりですけど」
「そん時が近くなったら言いな。探すの手伝ってやるよ」
「お願いします」
「そんじゃま、無駄話もここまでにし――」
 その時、上司が顔を出した。
「お前らいつまで無駄話してやがる。さっさと働け」
 僕と先輩は顔を見合わせて、肩を竦めた。
 
 仕事に集中していると、携帯電話が鳴り始めた。マナーモードにするのを忘れていた。見れば送り主は、桜井美里とある。
 黙って目を通すが、上司と先輩の二人の視線が痛い。
「お前のコレか?」
 上司が小指だけ立てて訊いてくる。
「違いますよ」
「でも女の子の名前だよな、それ?」
「なに人の携帯覗いてるんですか。マナー違反ですよ」
「先輩特権だ」
「そんな特権聞いたことありませんよ」
 やれやれと頭を掻く。
 クリティカルな言い訳が思い付かない。さすがに、保護者代わりだとか一緒に暮らしてるとか、朝起こしてもらったとか、朝ご飯作ってもらったとか、正直に話すと相当きわどい立場に立たされそうな気がする。
「ああ、まあ、妹……なんですけど」
 苦しい嘘を言うと、上司は、ちっ、と舌打ちした。
「なんだつまらん」
 そう残して引っ込む。
「お前兄弟いないだろ。そもそも名字違うし」
 先輩の一言に上司が、ビデオを巻き戻すように引き返してくる。
「やっぱりコレか。ん?」
 またも小指を立て、突き付けてる。無言でそれを叩き落とし、先輩を睨んでやる。先輩はまったく気にとめない。
「まあ、事情があるというわけか」
「ええ。そうです」
「妹は一人だけじゃないだろ?」
「ああ……、そうですけど」
「もしや十二人の――」
「黙りやがって下さい。この変態オタク」
 ふむ、と上司が唸る。
「昭吾。敬介の罪状が判明次第、報告しろよ」
「アイサー」
「なにもしてねえっす!」
 抗議を無視して上司は奧に引っ込んだ。
「さて、とりあえずは仕事だな。お兄ちゃんよ」
「うわ。この人ぶっ殺してぇ」
「ふふふ。まあ落ち着いて話してみろよ」
 ため息をしつつ、とりあえず先程のメールを読み、返信を送る。
 その折り、現在時刻が目に入る。
「……そろそろ上がります」
「お。逃げるのか。敵前逃亡は即銃殺と知らんのか」
 無視して上司にその旨を伝え、仕事場を出た。
 桜井家に荷物を置き、二人を連れて桜井の見舞いへ行った。
 
 
「美里ちゃん。晴香さんの好物とか、教えて欲しいんだけど」
「お姉ちゃんの好きなものですか?」
 講義も短くバイトもない水曜日。慣れてしまった見舞いから帰ってきた後のこと。二人で夕食を作っている時に、そんな話が出た。
「うん。別に病気で入院してるわけじゃないから、何か差し入れでも持っていけたらと思ってね」
 野菜を包丁で分解しつつ言う。今まで料理は隠れて作るか、一人で作ることがほとんどだったので、誰かと一緒というのはちょっと緊張する。
「お姉ちゃんは、卵焼きが好きですよ」
「そう、か。じゃあ明日作って持っていこう」
「はい。敬介さんが帰るまでに作っておきますね」
 今しがた切った野菜はひとまず置いておき、フライパンに油をしき温め始める。桜井の妹はみそ汁を作り終わり、一息ついている。
「いや、卵焼きは僕が作るよ」
「え。あっ、はい」
 フライパンに切った野菜を入れ込み、炒めていく。適当に味付けし、皿に上げた。
「それにしても敬介さん。やけにお姉ちゃんを気に掛けてくれますね。お見舞いも毎日ですし」
「ああ。まあ……ね」
 自分のせいで事故に遭った人間に対しては、最低でもこれくらいはしないといけないと思うだけのことだ。口には出さず、適当に頷いておいた。
「お姉ちゃんの事、好きなんですね」
 出来上がった料理を居間へ運んでいく。
「……えっ?」
 言われた言葉に疑問を抱き、僕は、動きを止めてしまった。
「あれ? どうしました?」
「いや、今、なんて言った?」
「お姉ちゃんの事、好きなんですねー、って」
「……あー。えっと、そういう風に見えるものなのかな?」
 すると首を傾げる。
「あれ。嫌いなんですか?」
「いや、嫌いじゃないよ」
「じゃあ好きなんですね?」
「……知らないよ」
 正直に答えて、頭を掻く。非常に困る状況だった。
「そうですかぁ、そうですかぁ。じゃ、ひとまずご飯にしましょ」
 なにやら含みのある満面の笑みで居間に促される。誤解されている気がするが、解こうとするとまた深く誤解されそうな気がしたので、黙って夕餉にした。
 次の日。講義の後、無駄な時間を省き帰宅。桜井の妹が用意してくれていた卵で会心の卵焼きを作り上げ、見舞いへ行った。
 病室へ行くと、桜井は本を読んでいた。掛けているのは銀縁のメガネ。彼女が予備で持っていたものだ。こうして見ると知的な感もある。声を掛けようとしたら、何故か泣き出した。
「なに泣いてんの」
「あ、敬介くん。実はこの本が感動的だったんだよう」
 メガネを外し目元をこする。足の回復は良好らしく、もう吊ってはいなかった。そろそろ松葉杖をついて歩けるようになるらしい。
「お姉ちゃん。今日は実は差し入れがあるんですよ」
 僕の脇から顔を出し、包みを桜井に包みを渡す。
「なになに?」
「お姉ちゃんの好物の卵焼きですよ」
「わぁ。サンキュー、美里っ」
「作ったのは私じゃないんですよ」
「えっ?」
 喜びから驚きへ感情をシフトさせていく。こんな会話の隙に末妹はベッドに登り、桜井の隣に座って満足そうな顔をしていた。
「じゃあ、もしかして美也が?」
「いいえ。敬介さんです」
「そうなのっ?」
 瞬間的に顔を末妹の方からこちらへ向ける。
「ああ、うん。好物だって聞いたからね。病院のご飯じゃ満足できないかなって」
「敬介くん……」
 真剣な顔になって口を開く。
「愛してる♪」
「わっ。ももも、もしかしてお二人はラブラブなご関係っ?」
 赤面してうろたえ始める桜井の妹。
「あああ、あのっ、二人きりにした方がよろしいのでっ?」
「美里ちゃん、落ち着きなさい」
「おおお落ち着いてますっ」
 桜井はくすくすと笑っている。
「あのね美里ちゃん、年頃でそういう話が好きなのは分かるけど、僕ら全然、そんな関係じゃないから」
「わわわ、私、敬介さんがお兄ちゃんになってくれるなら大歓迎ですっ」
「……ダメだこりゃ」
 どうしようか、と桜井に視線で訴える。
「結婚しよっか?」
「しないって」
 末妹は一人、寝ていた。
「仲人には是非、この私をっ!」
 あー、もう。収拾がつかない。
「帰る」
「またねー。美里たちは後から帰すからー」
「ああ、よろしくね」
 錯乱と睡眠の邪魔をしては悪いので、この場は桜井に任せ、病室を出た。
 桜井と僕が結婚ねぇ……。
「冗談じゃない。有り得ないさ……」
 口に出してようやく気付く。
 ここまで、馴染んでしまっている。
 距離を置こうと思っているのに、なんでまたこうなってしまっているのか。
 ふと思えば、不思議なことだ。
 僕は、何故こうも毎日、桜井の見舞いをしているのか。そうするべきだと思ってしまったのか。
 僕自身、彼女の怪我には責任を感じてはいる。けど、別に見舞いをする義務なんて、無い。桜井のいない家であの二人だけでいるのが心配で、それが彼女への償いになると思ったから、保護者代わりを言いだした。
 ここにいる必要なんて、ない。無いはずなのだ。
 廊下を通り、外へ出る。暗くはなっているが、街灯もいたるところで照っており、闇とは言えない。中途半端な暗さだ。こういうのは好きじゃない。
 一度、桜井家へ戻り、自転車に乗ってバイト先へ向かう。
 失格。そして失敗だ。
 わずかながら楽しいとすら思ってしまっていた。桜井家に留まるにしても、ここまで接近させ、心許すことなんて、あってはならないはずだった。
 けど、僕は……。どうして、だろう。懸念していた恐怖も、薄れてきている。それどころか、桜井が家に戻って、今よりもっと賑やかになることさえ望んでいる節がある。
 それは……僕が求めてはいけないことのはずだ。
 金時計。
 右のポケットにその存在を感じながら、心に痛みと共に刻まれた思い出を噛みしめながら、ペダルを漕ぐ。
 父との記憶の、最後の時を、思い起こして噛み潰して。
 あの恨みが、まだ僕の感情を支配する力があることを、正直、嬉しく思った。
 
 
 休日。
 朝から特にすることもなく、掃除を手伝ったり、末妹の相手もしたりした。
 桜井は明日には退院と聞いている。
 昼過ぎからは自室でぼうっと、窓の外を見ていた。青と白の空。乱れなく整列する電柱。走る電線。空気の流れが、風の歌を届ける。歌に合わせて髪が踊った。
 金時計をかざしてみる。独特の輝きに包まれて、記憶がふと再生される。すぐ首を振ってかき消し、金時計をしまった。
 結局、桜井の元には毎日見舞いへ行っている。ため息。
 やはりどうしても、そういう風に心が動いてしまうらしい。今日も、そろそろ行こうと思い立つ。二人を呼ぼうと一階へ降り、居間へ足を踏み入れようとした時だった。
 来客を知らせる呼び鈴が鳴った。
 桜井の妹は、時計を見た。暗い顔をして、どうするべきか困ったように俯く。
 以前に一度見たその様子から、トラブルの元が来たのだと分かった。居間に入り引っ込んでいるように言う。首肯して、末妹と一緒に二階へ上がっていった。
 呼び鈴がもう一度鳴る。
 さて。
 保護者代わりをするという約束は、この時のためにあったのだ。
 玄関を開けて、相手を見る。庭の外には車が止まっている。駐車違反だ。
「どちら様ですか?」
 相手は面食らったような顔をした。二人。思っていた通り、老夫婦というと言い過ぎかもしれないが、四十後半から五十前半くらいに見える夫婦らしき二人組だった。
「あ、あれ? 晴香……は? 君は――」
「ああ。晴香さんのお知り合いの方ですか」
 白々しくも、僕はそう言い頭を下げた。
「晴香さんは現在、入院してまして。僕が代わりに妹さんたちの世話をしているんです」
「そうか。そうだったのか。それは世話をかけたね。あの娘は、昔っから人に世話ばかりかけるからな。そのくせ、ろくな礼もしない。君も無理に頼まれたのだろう?」
「いえ、そういうわけでもないです」
「しかし大変だろう。あの二人の親は、親戚の間でも無愛想で有名だったからな。それにあの晴香に育てられた。手が付けられたものではないはずだ」
「あの晴香も晴香で、男と見ればホイホイ付いてく女の娘ですからね。今度も淫らなことで病気にでもなったんでしょう」
「晴香さんは、怪我ですよ。病気じゃありません」
 笑顔を崩さず受け答える。やや不明瞭なところや疑問もあるが、今は気にせず、頭にとどめておくだけにする。
「失礼ですが、お二人は、晴香さんとはどういったご関係で?」
「ああ、晴香は私たちの姪っ子だよ。兄が死んで、そのあと私たちが引き取ったんだ」
「なるほど。そうですか」
「何不自由なく育ててやったというのに、まったく恩義を感じていないようでね。兄の顔は立ててはおいたが、まあ、あの女の娘でもあるからな。君も分かるだろう」
 分かる。理解した。いや、予想はしていた。
 なるほど……。これは確かに厄介なトラブルかもしれない。
 同じなのだ。目が。
 名目上は僕を育てたことになっている、あの連中と同じ目をしている。外っ面だけがいいのも、同じだ。
 その物言い。その佇まい。
 最悪だ。
 あの連中と重なり、敵意も怒りも増幅される。
 表には出さず、笑顔を保つ。もともとこういう輩を相手に覚えた事だ。こんな状況だからこそ、一番役に立つ。
「失礼ですけど、あなた、男の子かしら?」
 女の方が首を傾げ、不思議そうにこちらの顔を覗き込んでくる。『僕』という一人称を使っているからだろう。そうでなければ女と断定されていたかもしれない。
 状況から見て、正直に言うのは愚かなことだ。
 にこりと笑って肩を竦める。
「見ての通りですよ」
「あら、そうなの。『僕』だなんて変わってるのね」
「そうでもないですよ」
「最近の若い子はそうなのねぇ。でもそれなら大丈夫ね」
「何がです?」
「君が男なら骨抜きにされ、搾り取られ、そして捨てられていたかもしれんということだよ」
 男の方が代わりに答える。
「そんなことはないと思うんですけどね」
「それは君が女だからだろうな」
 ふう、と息をつく。
「ところで、今日はどういったご用件で?」
「ああ、晴香に話があって来たのだが……、いないようだからね」
 そう言いつつ、笑っているのが分かった。表面はそうではない。桜井がいなくていかにも困ったような顔だ。
「いつまでも君の世話にもなってはいられない。美里と美也は中だね? 晴香が退院するまで、私たちの家で面倒を見よう」
 すっと、僕を横切って中に入ろうとする。その行為に、瞬間的に、身体が動いた。
 玄関前の柱に手をつき、行く手を阻む。だんっ、と音が出た。
 しまった、の声を噛み潰す。ひた隠しにしていた敵意が、この一瞬に表へ出てしまった。
 驚いて足を止めた男に対し、すぐ言葉と笑顔でフォローする。
「それには及びませんよ。晴香さんは明日には帰ってくるんです。今日連れて行っても二度手間ですよ」
「そうかね? しかし――」
「ご心配は無用です。あの二人、結構、僕に懐いてくれてるみたいですから」
「分かりました。それでは、お任せしましょう」
 女が男を制し、言う。
「また来週に来ると晴香に伝えて下さいな」
「はい。それでは」
 二人は礼をして、外に停めてあった車に乗り、去っていった。
 ふう、とため息。
 最後まで、あの目をしていた。僕の、大嫌いな、あの目だ。
 慇懃無礼。そんな感じもある。
 家に入ってからも、怒りと敵意は静まらない。笑顔を作っていた顔も、今はどんな顔をしているか。鏡で確認するまでも無いだろう。
 敵が去ったのを知ってか、桜井の妹が二階から降りてきた。
「敬介さん、あの、お疲れ様です。お、お茶でもいかがですか?」
 話す気にならず、一瞥だけする。瞬間、ビクッと身体を振るわせて硬直した。気に留めていられず、すれ違って二階へ上がった。
 ドアを閉めるのも億劫で、そのままベッドに寝転がる。
 いくつかの点に関しては予想はつく。しかし、分からないのは理由だ。なにをしにここに来たのか。
 それに、面倒なことだと知っているくせに、わざわざ二人を連れて行こうとした。
 とっさにそれは阻んだが、どうもきな臭い。
 だから避けたいと、思っていたのだけど……。
 と、携帯電話が鳴り出した。メールを着信したらしい。送り主は桜井美里。用があるなら言いに来ればいいのに、と思いつつ文面に目を通す。
『ごめんなさい』
 頭の中が一瞬で疑問に染まった。返信し、そのままメールで会話する。
『何を謝ってるの?』
『なにか、お気に障ることを言ってしまったかと』
『全然、そんなことないよ』
『本当に、怒ってませんか?』
『怒ってないよ』
 送信すると、すぐ、開け放したドアから桜井の妹が顔を出した。見遣ると、慌てた様子で素早く隠れてしまう。
『おこっているようにみえます』
 どうやら漢字に変換する余裕もなかったらしい。
 思わず笑いが込み上げてきた。
「あのね、近くにいるんなら口で会話しなさいって」
「す、すみません」
 今度はちゃんと全身を現す。こちらが笑っていると見て安心したようだった。そばへ行って頭を撫でてやる。
「敬介、さん?」
「ちょっと、出掛けてくるよ」
「えっ。でも、そろそろお姉ちゃんのお見舞いに……」
「今日は中止。美也ちゃんと一緒に留守番しているんだよ」
「は、はぁ……」
 首を傾げたが、それに背を向けて僕は階段を下りた。
 玄関を出る。すぐ近くの柱に目が行く。先ほど侵入を防いだ時の場景が目に浮かび、またわずかに感情が揺れる。
 あの瞬間、僕の中にあった敵意が、抑えきれないくらいに爆発した。それは不思議なことだ。
 あの夫婦に対する嫌悪感だけじゃないということは、分かる。
 つまり、僕は、あの二人――桜井の妹たちが、奴らと接触するのを避けようとした。守ろうと、した……?
「冗談じゃない……」
 自転車に跨り、桜井の入院している病院へ向かった。
 
 病室に入ると桜井は、待ちかねていたという様子だった。
「待ちかねたぞ〜」
 軽く相槌を打って、ベッドの近くの椅子に座る。
「あれ? 美里は? 美也は?」
「二人で、話がしたいんだ」
 あっ、と洩らす。桜井の顔から笑顔が消えた。
「来たんだ」
「うん。来たよ」
「何か、あった?」
「美里ちゃんと美也ちゃんを連れて行こうとしたよ。防いだけど」
「そう……。ありがとう」
 ふと窓の外を見る。まだ明るい。そう思ったけれど、暗雲が太陽を覆おうとしていた。じきに暗くなってしまうだろう。一雨も来るかもしれない。
「あの二人――」
 しばらくの沈黙の後、僕は口を開いた。
「ん?」
「――美里ちゃんと美也ちゃん、君の妹じゃないんだね?」
「……妹、だよ」
「君の親と、あの子らの親を別人みたいに話してたよ。僕には、この結論にしか辿り着けない」
 目を瞑り、ふう、と息をつき、ちょっと困ったように笑んだ。
「気持ちは姉妹なんだけど、ね。やっぱりバレちゃったか」
「血は繋がってないんだね」
「うぅん。一応、繋がってはいるよ。遠縁だけど」
「結構、ハードな生活だったんだね。連中、虐待するタイプだ」
「敬介くんほどじゃないよ」
「聞かせてくれないかな。連中が何をしに来ているのか。美里ちゃん達と、何か関係あるの?」
「あ。もしかして初めてじゃない?」
 なにが? と聞き返すと、ふふふっ、と桜井は笑った。
「敬介くんが自分から、私たちの事情を聞くの」
「茶化さないでよ」
「だって嬉しいんだもん」
「いいから、話してくれない?」
「不思議だね。トラブルには巻き込まれたくないって言ってたのに」
「話したくないんなら、無理にとは言わないよ」
「聞きたいなら、話すよ?」
「聞きたい」
「でもなんで?」
「自分の置かれてる立場くらい知りたいよ」
「分かった。じゃあ、まず何から話そうかな……」
 メガネのズレを直す。右手を軽く握り、頬に添えた。
 少しの間のあと、小さく頷いて桜井は再び口を開く。
「私が、あの人達に育てられたってことは、もう知ってるよね?」
 うん、と頷く。
「ようやく解放されてさ、もうあんな人達に関わることなんてないって、思ってたんだけどね。しばらくしてから、また誰かが、伯父さんたちのところに引き取られたって聞いて……」
「その誰かっていうのが、美里ちゃんと美也ちゃんなんだね?」
「うん。いてもたってもいられなくってさ。絶対、あんな人達のところに居ちゃいけないって思って、談判しに行ったの」
「そう。でも、上手くはいかなかったんだね?」
「他に引き取り手も無かったしね。私だって、引き取れる年齢じゃないし。でも、書類上は伯父さんとこの里親って事にして、私が育てるってことにしたんだ」
「よく納得したね、あの二人」
「いざって時に頼りになるよね、お金は」
「同意だね。お金じゃ買えないもののために、お金は必要だ」
「そういうわけで、伯父さんたちには、定期的に届け出もしてもらってるの。出さないと里親の資格取られちゃうから、どっちにしても出さないといけないんだけどね。本当は嘘を書いてもダメなんだけど」
 桜井はため息をつく。
「他のところはどうだか知らないけど、あの家には、児童相談所から電話もあんまりこないし、人が来たことも記憶にないんだよね」
「僕のとこも似たようなものだったよ。たまに、施設とか里親の起こした事件のこと聞くけど、露見されてないだけで本当はもっと沢山、虐待とかあると思う」
 小さく頷く。
「何もしないで措置金がもらえるんだから、伯父さんたちには最初から好条件だったんだよね」
「でもさらに金が欲しいわけね」
「そうなの。もう、やんなっちゃう。こっちが絶対に退けないって分かって要求してくるんだから」
 ちょっと長めに瞬きをし、ため息をする。
「まさに、金の亡者……か」
「私があの家にいた頃ね、お父さんの生命保険さ、養育費って名目で全部使われちゃったんだよ」
 太陽がついに雲に隠れたのか、窓から入ってくる光が乏しくなる。
 そんな雰囲気を払拭するためか、桜井は無理矢理に微笑んだ。
 けれどその笑みは、苦笑にしか見えない。
「さすがに家にあった物には手は付けられなかったみたいだけど」
「そうだろうね。でないと、君たちが普通に生活してる説明が出来ない。結構な財産だったんでしょう?」
「うん。家と、色々。ほとんど処分して、お金になっちゃってるけどね。相続税って高いんだよ」
 ポケットに手を突っ込む。金時計を軽く握る。僕の父が遺した物は、これだけしかない。
 えらい違いだな。似たような目には遭っているが、そこから脱出した後には、まだマシな生活の保証がある……。
 僕は自分で稼いだ金しか頼れるものがないというのに。
「……でも、書類の上では、美里と美也は、伯父さんたちのところにいなくちゃいけないから……。本気で連れて行かれそうになったら、私にはどうしようもないんだよね」
「だから、か」
 ようやく、このトラブルの全貌が見えた。
「うん、そう。嫌な話だよね。連れて行かれたくなかったら、お金払えってさ……」
「二人の事を思うなら、払うしかないんだね……?」
「どんな仕打ちが待ってるか、分かってて行かせることなんて出来ないじゃない。払わずに済むように、なんとか、頑張ってはいるんだけど……」
 大きく、疲れたようにため息をついた。怒りにも見える感情を隠しているのが、僕には分かった。
「訊いてもいい?」
「はい、どうぞ」
「どうしてそこまでして、あの二人を育てようと思ったの? どうしてそこまで……、君は、二人を守ろうとするの?」
 すると桜井は目を細めた。わずかに首を傾げ、口の端を緩ませる。儚げな表情だと、思えた。
「私と同じ目に遭わせちゃいけないって思ったから。でも本当は、寂しかったのかも」
「寂しかった?」
「でも今は違うんだよ。美里も美也も、私の妹だもん。理由なんて、それだけでいいと思うんだ」
「そう……」
「敬介くんだって、そろそろお兄ちゃんって感じじゃない? 最近はずっと三人だったんだから」
 冗談じゃないよ。
 と、そう言うつもりだったのに、声は出なかった。
「……それで、どうするつもりなの? あのトラブルは」
「今回は、払うしかないかなぁ。また次がありそうだけど……」
 はあ、と大きくため息をつく。
「お母さん、助けに来てくれないかなぁ……」
「期待するだけ無駄だよ」
「そうなんだけどねぇ……」
「それじゃ、僕は戻るよ」
 うん。と頷く。
 扉に手をかけ、途中まで開けたところ、桜井の声が背に当たった。
「私たちって、似てるかもね」
「そうかな?」
「結構、境遇とかさ。親がいないのも四人一緒だし」
「……そうかもね」
 でも、一番不幸なのは僕だ。それは間違いない。
 ポケットの中の金時計を握ると、そんな思考が巡った。
 そして、扉を開けた先には、なんかいた。
「……」
 後ろ手に扉を閉めつつ優しく睨む。主犯格の女の子は、裁きを恐れてか、それともその罪が露見したのが意外だったのか、目を丸くしながらオドオドしている。
「盗み聞き?」
「そこまではしてないですっ」
「……まあ、それはいいとして」
 問題は保護者代理の、留守番せよとの命を実行していないことだ。
「美里ちゃん。留守番はどうしたのかな? 美也ちゃんまで連れて来ちゃって……」
「あ、う。ごめんなさい。でも……」
「おねえちゃんにあいたかったの」
 末妹が珍しく暗い顔をする。それが意外すぎて、こっちの方が悪いことをしているような気になってしまう。
「分かったよ。来ちゃったものは仕方ないね。中止って言った僕も悪い。会ってきなさい」
 頭を掻きつつそう言って、扉の前からどく。
「あ、はい。ありがとうございますっ」
 末妹の手を引いて病室へ入っていく。今さっき出てきたばっかりなので、僕は入らない。壁に寄り掛かって、しばらくを待った。
 数十分後、出てきたので一緒に廊下を歩いていく。
 病院の外に出て陽の光を浴びる。そこで、自分の予想が間違っていたことを気付かされる。
 なんだ、こんなにも、明るいじゃないか。
 暗雲は遠くへ流されていて、雨も降ることはなさそうだ。
 ふっ、と笑みが洩れる。
「二人とも。夕食にはちょっと早いけど、これからどこかへ食べに行こうか」
「今から、ですか?」
「せっかく出てきたんだから、ね」
「わたし、おこさまランチがいい」
 末妹が手を上げて主張する。桜井の妹も、嬉しそうに目を細めた。
「うん。行こう。晴香さんには内緒ね」
「はいっ」
 自転車を押しつつ、家とは違う方向へ連れ立って歩いていく。そろそろ西の空が紅くなってきている。でも真上の空は明るく青い。青から紅へ変わる見事なグラデーションが街を覆っていた。
 影法師は三つ。僕なんかよりずっと小さいものが二人分。
 金を要求する親戚がいる。桜井は、二人を守ろうとしている。けれど、払い続けていては、いつかは金は尽きる。そうなった時、桜井は守るどころか自分の生活すら厳しくなる。当然、二人の妹を育てる余裕なんてなくなる。あの親戚に頼る他なくなる。
「……」
 影法師は揺らめいている。大きいものに覆われれば、消えてしまうくらい小さく、弱々しい。
 僕を守ってくれた人なんて、いなかった。
 けれど、この二人を守れそうな奴なら、いないこともない。桜井だけじゃ、力不足だと思う。
 影法師の主たちは、陽の光を無垢な笑顔にのせて輝いている。
 僕もきっと、昔はこんな顔で笑えたのだろう。
 それらは、ひどく尊く、儚く、美しい。
「でも、今回だけだからね」
「はいっ。ありがとうございますっ」
「はーい」
 そう。今回だけ……。今回だけだ――
「そういえば敬介さん、お見舞いは中止だって言ってたのは、一人で来るためだったんですね?」
「そうだね。そうなる」
「やっぱり、お姉ちゃんのこと、好きなんじゃないですか?」
「どうだろうね」
「む〜」
 怪しむような視線で見つめられる。軽くため息をついて見せた。
「そうだな……。もしかしたら、好きなのかもしれない――」
 言葉を途中で句切ってためを作る。それが分かるのか、まだ表情を変えずこちらの言葉を待っていた。
「――みんなの事がね。晴香さんを好きと言うんなら、美里ちゃんのことも、美也ちゃんのことも、僕は好きなんだ」
 すると嬉しいのか、表情に笑みが灯り、弾むような歩みに変わる。
 口に出して、意外なことが分かる。
 そうなってはいけないと主張する金時計の存在を、今は、無視できることに。
「うおっ、両手に花かっ! しかも、ロリ――」
 通りすがった青山先輩もついでに無視したかったが、無理くさいので即ボディに一撃入れ、二人を急かして逃げた。
「今の方、どなたです?」
「……僕の先輩」
 なんというか、あの人の後輩だと言うことが、ひどく恥ずかしく感じた。
 
 




戻る次へ


Tales Of Orphans

作品インデックスへ

TOP