Chapter 4 Holy War
晴香は松葉杖と一緒に帰ってきた。とは言っても、腕の怪我はほとんど治っているし、足も軽く包帯を巻いている程度。
二、三度通院する間に完治するだろう。
「ほうほう……」
美里と一緒に美也も手伝わせて食事の用意をしていると、晴香が意味ありげに感嘆した。メガネも光る。
「なに?」
「いやはや惚れ惚れするようなお兄ちゃんぶり。拙者、いたく感心いたした」
「……もしかして晴香さん、時代劇とか好き?」
「だーい好き」
「そう。それはさておき、何が言いたいの?」
「美里と美也に手を出したら許さないからっ!」
びしぃっ、と人差し指を突き付けられる。
「襲うなら私にするの!」
「……」
えっと……。
とりあえず、その言葉の裏に隠されているであろう意味を色々と考えてみる。
そして結論。
「プロポーズするならもうちょっとマシな文句があると思うけど?」
「ごめん。冗談」
「分かってる。で、本当は何が言いたいの?」
「まあ、それはおいおい。邪魔してごめん」
と、そこへ美里が台所から顔を出す。
「敬介さん、どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。いま戻るよ」
今日の夕食は晴香の退院を祝して、卵焼きを作ってやった。
そんな和やかな夕餉の後。美里と美也が床に入り、大学の課題もあらかた終わった夜更け。
「飲もう」
酒盛りに誘われた。
「明日学校だよ?」
「そんなに飲まないからさ。付き合ってよぅ」
「はいはい」
居間でちゃぶ台を挟んで向かい合う。ちびちびと、それぞれのペースで飲む。
いい感じに酔ってきたところで晴香は切り出した。
「私、退院しちゃったね」
「そうだね。約束の時だ」
僕は以前、この家にいるのは晴香が退院するまでだと言った。本心では完治するまでだと決意していたが、それもそう遠くはないだろう。
でも、あのトラブルが解決するまで居てやれれば、心強く感じてくれるかもしれないと勝手に思う。
「敬介くん、これからどうするの?」
「君、まだ足、治ってないよね」
「うん。でもすぐ治ると思う」
「それでも、ちょっと不安だな」
「そう?」
「うん。まだしばらくは居させてもらってもいいかな? 契約は、もう少し延長してくれるかな?」
意外そうに目をぱちくりさせて、ちゃぶ台にグラスを置いた。
「それは、構わないけど……。でも、いいの? ほら、その……、敬介くんは……」
「そうだね。あんまりここにはいたくない、っていうのが、僕の意見だったね。それは変わらないけど、まあ、いいじゃない」
誤魔化すように、グラスの中身を口にする。
「そう。じゃあ、いつか……近いうちには出ていくんだ?」
「そうだね。そうしようと思ってる」
「ならその時は、出来れば前みたいに急には出ていかないで欲しいな。それと理由も、トラブルが嫌だとか仲良くなりたくないとかじゃなくて、いい場所が見つかったからだってあの子たちには言って欲しい」
「分かった。僕としても、泣かれたら困るからね」
うん、と頷いて、晴香は寂しげに視線を落とした。
「でも残念。結構、いい感じにお兄ちゃんだったのにね」
「それについてはノーコメント」
グラスに残っている分の酒と、出されたつまみを平らげ、この晩はお開きとなった。
次の日。大学にて。昼休み。
先輩に拉致され、屋上に連れてこられた。こちらも用事があったので好都合と言えば好都合なのだが、もちろん不都合もある。
「一昨日のボディブローは効いたが、それより気になるのは、あの可愛い女の子たちだ。中学生と幼稚園生と見たが、どうだ?」
「まあ、それくらいですけど」
「前に言ってた訳ありの妹たちってのは、あの子たちか」
「ええ、そうです」
「すると、最近のそのやけに可愛い弁当も、あの可愛い子が?」
「ええ。あの子らの姉が作ってくれる時も多いですけど、なんか作ってくれるんですよね。頼んでもないのに」
答えると、いきなりヘッドロックされた。
「このやろー。憧れるシチュエーションじゃあねえか! 世のおっきなお兄さんの夢をその身で叶えながら、てめえは何でそんな淡泊なんだ!」
「うるさいオタク! 黙れオタク! 死ねオタク!」
叫びつつヘッドロックを外し、起死回生の飛び回し蹴りを放つ。上手く命中して先輩はよろけ、倒れた。
すぐ立ち上がり、元のベンチに座る。僕も同じく座り直す。
「で、訳ありってのはどういう事なんだ?」
何事も無かったかのように会話を再開する。
「それはこちらも話す気でしたよ」
「ほう。こっちが訊かずとも話す気ではいたのか」
「ええ、ちょっとお力を借して頂きたくて」
「良かろう。何でも言うといい」
口調は真面目だが、目つきは嫌らしかった。
「ああ、でも、あの子たちには指一本触れさせませんからね」
「そんなこと全然考えてねえよ。いいから言えって」
口調は相変わらずだが、もの凄く残念そうな顔になっていた。
「まずは状況を説明しましょう」
昼食を摂りながら、話していく。
火事の後のこと。桜井家に厄介になることになったこと。その家の厄介なトラブルについて。
順番に、ちょっと省いた部分もあるが、トラブルの部分は詳しく説明した。
「そういうわけで、そのトラブルを解決したくて、先輩のコネとやらに頼りたいんです。誰か、いませんか?」
「ん〜、まあ、いないこともないが……」
顎に手を遣り、考えている様子を見せる。
「いつものお前なら、その場から出ていくんじゃないのか? よく助けようなんて気になったな」
「ん、まあ。一度は出ていこうとしたんですけどね。色々とありまして」
「そうか」
先輩は少し笑ったように見えた。気のせいだったのか、瞬きの間に表情は戻る。
「それで、いい人がいるなら紹介して欲しいのですけど」
「ああ、いるよ。児童相談所の人間でね。歳も近い。お前らのやってる事は法で認められちゃいないが、あの人なら、いい形で収めてくれるはずだ」
先輩は時計を見て立ち上がる。昼休みも終わる時刻だった。
「今日には連絡を取ってみるよ。近いうちに会わせる。いい人だぜ。なにより真面目すぎないのがいい」
「ありがとうございます」
「報酬は、たこ焼き三パックでいいよ」
こちらの返答も聞かず、先輩は屋上から去っていった。
「感謝しますよ、先輩……」
ちょっと前までは、この人からオタクを取ったら何も残らないと思っていたけれど、オタクを取った方がいい人になるんじゃないかと思う。
でも、先輩のコネって、どこから湧いてくるのだろう。
前から思っていた疑問が、少し大きくなった。
◇
「あ……この服、いいかも……」
僕の隣で、美里は女物の服を見て感嘆していた。
そろそろ食料の買い出しが必要とのことなので、家と美也のことは晴香に任せ、僕と美里の二人は、駅近くのデパートに来ていた。
本当は近所のスーパーでも充分だったのだが、僕にちょっと知り合いとの用事があったので、こちらに来ることになった。
その用事もすぐ済み、買い物となったのだが――
「ああ……、これもいいなぁ……」
まあ、なんだ。美里も年頃だし。用事が済むまでこの辺で待つように言ったのも僕だ。服を買うなら、食料品の前に買った方が楽という話もある。
この場でこうしているのは、とても分かる話だ。
しかし、ここで一時間も立ち往生しているのは、どうかと思う。
「……美里ちゃん、メモ貸して」
「あ、はい」
メモを受け取る。これには最低限買わなければならない物が書かれている。
「んじゃ、僕、買ってくるよ」
「あっ、そんな。私も……っ」
慌てて見ていた服から目を離す。一応、買い物の第一目的は忘れてはいないようだった。が、やはり後ろ髪引かれるものはあるらしい。
「ああ、美里ちゃんはいいよ。僕一人で充分そうだし」
「でもそれじゃあ、悪いです……」
「んじゃあ、こうしよう」
人差し指を立てて提案した。
「僕もなにか、こう、男らしい服が欲しいと思ってたわけだからさ。何かいいのを探しておいてくれないかな。僕はその間に、買うもの買っておくからさ」
えっ、とちょっと驚きを見せたが、すぐ了承のはい、が返ってきた。少し嬉しそうな様子だった。
「任せておいて下さいっ」
「うん。よろしくね」
そうして僕は食料品を買い込みに行った。その後、数十分が過ぎ、こちらで買う物も買ったところで戻ってみると、やはり美里は先程いた場所から動いてはいなかった。
値札と商品を交互に見つめ、真剣な表情で思案している様子である。僕の物は既に選んでくれたらしく、何着かを腕に抱えていた。
「それが気に入ったの?」
声を掛けると、始めてこちらに気付いたらしく、ちょっと慌てた顔を見せた。
「あ、はい。そうなんです、けど……」
「ん?」
「お小遣いがピンチなので、買うべきか買わないべきか……」
値札の数字は、僕から見ればそれほど高くはない。美里が選んでくれた服も、あまり高い物は選んでいないらしい。
質素倹約。そんな言葉が頭に浮かんだ。
純真に続き、質素倹約である。素晴らしき中学生だ。その素晴らしさに、褒美を取らせてやることにする。
「僕がお金を出すよ」
「そんなのいけませんっ。いくらなんでも、ここまで面倒みて頂くわけには――」
「いや、面倒をみるってわけでもなくね」
真剣に遠慮する美里の言葉を遮って言う。
「女の子のおしゃれは必要経費……らしいからさ」
知り合いのオタク(青山先輩)の言っていたことなので信用できないが、この場では有効だと思い口に出した。
「でも……っ」
「あんまり子供が遠慮するもんじゃないよ」
「でもでも……」
嬉しさと申し訳なさが上手く混じった表情で言葉を探している隙に、買い物袋を足下に置く。美里が見ていた服を取り、彼女が選んでくれた衣類と一緒にレジへ持っていった。
素早く会計を済まし、服の入った袋を手渡す。
「敬介さん……、すみません。本当に」
「こういう時は、ありがとうだよ」
「はい。ありがとうございますっ」
服の袋は美里に任せ、先ほど置いた買い物袋を再び手に持つ。
「さて、帰ろうか」
「はいっ」
外はもうすっかり夜だった。
帰宅後、自室のベッドに横になってようやく気付く。
なんというか、今日の行為は、自分の主義に反している。
少なくとも、この家に来た頃は、もっと愛想がなかったはずだ。自分からそうしていた。そうしなくちゃいけないと思っていた。それを忘れそうな時は、金時計が思い出させてくれていた。
なのに、どうなって、いるのだろう。
ポケットの中の金時計を握っても、今日の行為を返上しようという思いは生まれてはこなかった。
そして、次の日。
この行為のしわ寄せが、早くもやって来た。
バイトも無く、講義も昼前に終わる水曜日。同じく早く終わった晴香と合流し、一緒に帰っている途中の事だった。
「ねえ、敬介くん。今日は買い物に付き合ってよ」
「ん? 買い物なら僕と美里ちゃんで昨日済ませたはずだけど?」
「あ、そう? ふ〜ん」
ちなみに、今日は昨日美里に選んでもらった物を着ている。注文通り、男っぽいので嬉しい。なかなかに気に入っている。それでも女に間違えられそうな気がするのは仕方のないことか。
そんなことを考えつつ、お互い軽い沈黙のまましばらく歩いていた。が、突如、晴香がぼそりと言った。
「……女の子のおしゃれは必要経費……」
「え?」
「敬介くん、私、女の子だよね?」
「……」
「女の子のおしゃれは必要経費……なんだって?」
自分の迂闊さにため息が出た。口止めしておくのを忘れていた。
「その服いいね。さすが美里が選んだものだわ」
「……」
「敬介くんとデートしたいなぁ。したいなぁ。お姉さんもデートしたいなぁ」
視線を逸らし、早歩きでとっとこと逃げる。
と、携帯電話がメールを着信した。
『結婚して♪』
「いきなりプロポーズするな!」
振り返って送り主に抗議する。
「返答は如何に?」
「断る!」
「うわーん!」
ダッシュで泣きながら逃げていった。
……足の怪我、もう大丈夫じゃないか。
茫然と、走り去っていくのを眺めていたら、やけに強い視線に気付く。痛い。痛い。痛い。視線というか、チョップを食らっていた。
「……何用ですか先輩」
「女泣かせには天誅だ」
数発のチョップを躱すと、ようやく攻撃が止んだ。
「で、何用ですか?」
「今の娘が、桜井晴香さんか」
「そうです」
ふむ、と唸る。
「敬介……、追わなくていいのか?」
いきなり真剣な口調になる。
「彼女、きっと傷付いてるぞ」
「目ぇ笑ってますよ。全然、説得力が無いです」
こほん、と咳払い。
「例の話だが、明日のバイトの後に会えるか?」
「コネの話ですか?」
「そうだ」
「会えます。むしろ会います」
「オーケー」
と、また携帯にメールが届いた。
『駅前の時計台にて待つ。来なかったら今日の夕飯抜き』
「なんと卑劣な!」
思わず叫んでしまった。
「……敬介、行くのか?」
「ええ。行くしかないでしょう、これは」
「なら最後は、先輩として言おう。命令は一つ。必ず、生きて帰って来い。新しい世を作るのは、老人ではないのだからな……!」
「あー、じゃあまた明日」
軽く手を振って、先輩と別れる。
というか、シチュエーションがダイナミックに間違っているのは先輩だけなので、僕まで道行く人に白い目で見られるのは遺憾である。
駅前の時計台。
駅前広場の中央に立てられた時計台で、目立つため、よく待ち合わせなどに利用される。また、一時間ごとに時計台を囲む噴水が、音楽と共に水の芸術を見せてくれる。
僕が辿り着いた時は、ちょうど音楽が流れていた頃だった。時刻は午後一時から一分前後過ぎたところだろう。
「わ、敬介くん。来てくれたんだ」
ベンチに座る晴香に近付くと、白々しくそんな事を言ってきた。
「夕飯のためだよ」
「よし行こう」
こちらのセリフは見事に無視された。立ち上がったかと思うと、すぐ僕の手を引いて歩き出す。
「どこ行くの?」
「色々」
「そう……」
まったくもって冗談じゃなかった。
まずは昼食。そしてデパート。晴香の服選びを手伝ったり、晴香が僕の服を見立てるとか言い出したり。街を歩けば女と間違えられてナンパされたり。自分がナンパされなかったからと晴香に八つ当たりされたり。
正直言って疲れたのだが、不快さは無かった。むしろ、楽しかったと言い換えてもいいかもしれない。
そんな感情に、自分でも少し戸惑っていた。
そろそろ帰ろうというところ。休憩ということで喫茶店に立ち寄った。
「付き合ってくれて、ありがと」
席について一息つくと、そんな声を掛けられた。
「あんな卑劣な手段は見たことないよ」
「だって、遊んでくれないんだもん。美里と美也にばっかりかまってさ。お姉さん、妬いちゃうぞ」
「冗談じゃないよ」
ふう、とため息をつく。
「ここは私が奢るね」
「そりゃ、今までが僕の奢りだったからね……」
ウエイトレスに注文する。僕はコーヒー。晴香はケーキと紅茶。それらは注文してからそれほど待たされることなく出された。
晴香の食事を見つつ、コーヒーを飲む。ちょっと熱い。
「美里ね、敬介くんのことが好きなのかも」
ぶっ、と口に含んだコーヒーを吹きだした。幸い、カップの皿とその周辺のテーブルにしか被害が無かったので、ナプキンで拭く。
「悪い冗談はよしてくれないかな?」
「ああ、やっぱり気付いてなかったんだ……」
呆れ気味に目を瞑り、小刻みに数回頷く。
「……マジ?」
「フジ」
「じゃなくて、いや、ちょっと待って。どういうこと?」
脳に記憶された情報量ではその答えを導き出すことが出来ず、また結論から逆に考え、何をどうすればその結論が出るのかも分からなかった。情報量の不足と、僕と晴香の思考パターンの違いがこの状況の原因であると思われる。その打開策として最も手っ取り早いのがこの結論を導き出した思考の持ち主に質問するということであるが、果たして納得できる答えが返ってくるのか分からない。しかし他にどうすることも出来ない。僕としては彼女の話から、否定できる要素を汲み取りたいと考えているが、どうにもそれは難しそうで――
平たく言うと、僕は混乱しているらしかった。
「……」
「……」
「私のことが好きなの? って美里に訊かれなかった?」
「訊かれた」
「それってさ、否定してもらって、安心したいから訊くんじゃないかなって思う」
「……いや、単に恋愛話に興味があるだけじゃなくて?」
「それなら彼女はいないのかとか、誰か好きな人は? って訊いてくるんじゃないかなぁ」
「そんなものなの?」
とりあえず、思考は落ち着いた。
「あとは、敬介くんを見る目が違うというのも……」
「……」
思い出してみるが、全然、心当たりがない。
「そもそも僕を好きになるような酔狂な人なんて、いないはずだよ。気のせいだと思うけど?」
「あれ? 私、美里以外にもう一人知ってるけど?」
「気のせいじゃなくて?」
「うん。これは確実」
笑みの欠片もない表情で頷かれてしまった。
「……マジ?」
「フジ」
「じゃなくて、えっと……、それ、僕の知ってる人?」
「同じ講義受けてる人だよ」
何人か思い浮かべてみる。客観的に、男性である可能性も否定できないが、もちろん主観的に否定する。やっぱり心当たりはいない。
「……鈍感」
呟くと、晴香は紅茶の残りを全部飲み干して伝票を取った。
家に帰る頃には、すっかり暗くなってしまっていた。
「二人で何してたんですか?」
美里にそんな事を訊かれる。
「デート」
口を開く前に、弾む声で晴香が答えた。
「わ。妬けますねぇ」
「……」
僕を好いている様子なんて、やっぱり全然、無いように見えた。
◇
先輩に紹介された人は、水城みどりという女性だった。
「ロリコンくんかぁ……、女みたいな顔してよくやるわぁ」
「ロリコンじゃありません」
先輩の紹介のだけあって、癖のある人だった。
とにかく、連中が桜井家に現れる日と時間は大方見当がついているので、それに合わせて、作戦を練る。場所はファミレスだ。
「――しかし、やっぱそういう金の亡者が相手なら、言葉だけでなんとかするのは難しいよね。金目の物で話に食い込ませるっていう手も有効なんだけど。さすがに、そんなの無いよね?」
頬杖をついて、水城さんが青山先輩を見ながら言う。
「学生にそういう物を求めるのはちょっとキツいよ」
「無いことも、無いんですけどね……」
「あるの?」
水城さんは身を乗り出す。僕はポケットから金時計を取り出し、テーブルの上に置いた。
ほう、と感嘆の声が上がった。
「敬介。それ、親父さんの形見じゃないか……。祖父さんの頃からお前ん家にあるっていう――」
「そうですね。普通とは別の意味で大切な物です」
前髪を掻き上げ、水城さんは腕を組んだ。
「本当に使ってもいいっていうんなら、使うよ? 子供の未来を考えれば、私なら安い代償だと思う」
「……」
「上手くいくかは分からないんだから、出来れば成功率の高い作戦で行きたいね。たぶん、二度目の話し合いって無理だと思うから」
「少し考えてもいいですか?」
「いいよ。でも、少しじゃダメ。大いに考えてから結論を出して」
「分かりました」
うん、と水城さんは頷く。
「じゃあ、決行日は私と筑波君で行くわ。青山君は、来なくていい」
「うい。りょーかい」
話は決まり、これで解散となった。水城さんを途中まで送り、その後は僕と青山先輩で、久しぶりに二人で夜道を歩いた。
「変わるもんだなぁ」
「……何がです?」
口元を緩ませて、先輩は言った。
「お前が、その金時計と他の何かを天秤に掛けるなんて、前は考えられなかったよ」
「そうですね……。僕も、不思議に思っていますよ」
「下宿先が良かったんだろうな」
「良かったのかどうかは知りません」
先輩とは十字路で別れた。帰宅して、居間を覗いてみると、晴香がまだ起きていた。
「あ。おかえり、敬介くん」
向けられた微笑みに、何か温かいものを感じた。一瞬、声が詰まってしまう。ああ、やっぱり、最近の僕は変だ。
「……ただいま」
「遅かったね、どうしたの?」
「ちょっと先輩とね」
ちゃぶ台を挟み向かい合う位置に座る。
「先輩って、昨日、敬介くんにチョップしてた人?」
「うん、そう。見てたの?」
「目立ってたから」
苦笑する。
閉じられた窓のカーテン。木製のタンス。畳と座布団の柔らかさ。そして、晴香。
なんというか、今この時、とても安心した気持ちになっている。それを言えば、もうしばらくも前からそうなのだが、今始めて気付いた新鮮さがあった。
「……寝るよ」
「うん。おやすみ」
もう少しその場にいたい気もしたけれど、やはり金時計の存在がそれを阻んだ。金時計の存在が、僕を安らぎから遠ざけてくれる。安らぎに失う時、誰かに裏切られる時、その痛みから僕を守ってくれる。
これを、手放すべきなのかどうか。
自室のベッドに横になり、考える。しかし結論が出る前に、意識は闇に沈んでいってしまった。
目が覚めのは早朝だった。
布団も被らず、金時計を握り締めたままベッドに横になっていたらしい。窓から外を見れば、東の空が明るくなってきている。月が冷やした空気を太陽が暖めに来たようだ。
今日は、金曜。決行は明日の土曜。
考える時間は一日。
そんなに長い時間はいらない。洗面所で軽く顔を洗い、いささか寒い外へ出た。
玄関を出て振り返る。庭を含み、家全体を視界に収めてみる。
四、五歳くらいの頃の事だが、それは未だに覚えている。さすがに記憶のフィルムもぼけていてシルエットくらいしか思い出せないが、合致する点はいくつかある。
それは、以前にも思った通り、かつて両親と暮らした家の雰囲気に似ていた。もはや外観の印象だけではない。この家――ここに住む者たちからは、温かいものを感じる。
あれからずっと、これに近いものを感じた時は、すぐ逃げて、その後に待っている辛い事を避けてきた。
この金時計は、父の唯一の形見だった。
気が付いたら母は白い布を顔に掛けられ眠っていた。死んだのだと知ったのはそのずっと後だった。
父が死んだのは、病院のベッドの上だった。その少し前に、金時計を渡された。僕は死に目に会えなかった。
ただ、哀しいことが起きた程度にしか理解していなかった。
成長するにつれて、様々なことを知り、理解した。
父には借金があった。みんながみんな、僕を睨んだ。引き取られた先に安穏は無かった。裏切りの痛みも知った。悲しみも知った。媚びることも覚え、逃げることも覚え、心にない事を言えるようにもなった。
それは何故だろうと、考えた。
どうして僕のように、まだ一人で生きることも出来ない奴がこんな苦労をしているのか。どうして、何も悪いこともしていないのに、ミスを犯すほど生きてすらいないのに、こんな生活を強いられているのか。
どうしてなんだろうと考えて、結論が出た。
理不尽だなと、思った。
父親の所為だ。両親の所為だ。
借金なんか残さなければ良かったのに――
親戚から疎まれるような事なんてしないでくれていれば――
いや、そもそも、無責任に早死するな――!
運が悪い。
そう、不幸だ。これは、理不尽だ。人は生まれながらに、平等なんかじゃない。
どうして、こんな目に遭うのが、僕じゃないといけないんだ――
その日から僕にとっての金時計は、ただの形見じゃなくなった。
安らかだったが故に、亡くして泣いた。
好きになってしまったが故に、裏切られ泣いた。
嫌われる要因があったが故に、過酷な生活に泣いた。
もう涙は流さない。
そんな決意の象徴でもあり、僕自身の防壁を強くするための戒めでもあった。
だけど、最近はどうだろう。
桜井家に来てから僕は、やっぱりどこか変じゃないか。
この金時計に込められた想いを、忘れそうな、そんな気分。
安らかなのだ。
かつての両親と住んでいた家と同じように。
いつからこんな風に感じるようになってしまったのか。
明確な境界線など見たらない。
いつだが、晴香は言ってくれた。
ずっと一緒にいてくれると。
絶対に裏切らないと。
そして、三人は僕を好いていてくれている。
金時計をここで手放すか否かは、僕のこの先の人生を左右する気がしてならない。これがあるから、未だに僕は、絶対に越えてはいけない線を越えずにいられるのだ。
けど、これを手放してしまえば……。
顔を上げ、空を仰ぐ。
「大切……だよな――」
口に出して確認する。
僕は金時計を大切に思っている。今の生活も、どうやら、大切らしい。
金時計がある限り、僕は遅かれ早かれこの生活から逃げるだろう。だが手放せば、今の安穏と、その先にあるかもしれない不幸を一緒に手にすることになるだろう。
金時計を使えば、あの連中相手にも少しは勝機が見える。使わない場合よりもマシな展開にはなると思う。
金時計を使ってもダメだった時の事は考えないでおく。
単純化すれば、簡単なことなのだ。
二者択一。
晴香たちとの日々か、それとも、今まで通りの日々か。
大切に思う何かのために、大切に思う別の何かを切り捨てなければならない。それほど珍しい状況ではない。
僕は決断した。
納得できる答えだと自分でも思えた。
そして、土曜日の昼下がり。
予想通り、呼び鈴が鳴った。玄関に出ようとする晴香を制する。
「ああ、来たのは僕の知り合い。この時間だから間違いないよ」
「え? そう……?」
居間に押し込んで、僕が玄関に出る。二人の敵と相対しつつ、後ろ手に扉を閉めた。もちろん、表情には笑顔を。
「こんにちは」
「ああ、君はこの前の」
「はい。筑波と申します」
女が首を傾げた。
「もう晴香は退院したんじゃなかったのかしら?」
「ええ、もうすっかり元気なんですけど……」
ここで口を濁らせる。
「ん? 何かあったのかね?」
「ええ、まあ。その……」
「?」
顔を上げて、真正面から目を見る。吐き気がしたが、それは飲み込んだ。
「すみません。晴香さんのことで、相談に乗ってはいただけないでしょうか。晴香さんに用事があって来ていらっしゃるのは分かっていますが、そこをなんとか」
これでもかとばかりに頭を下げた。
こうして、僕はこの両人を連れ出すことに成功した。途中、もう一人の友人とも一緒に相談に乗って欲しいと言い、水城さんと合流した。
一応、晴香に対しても含め、嘘は一言も言ってはいない。
水城さんのお宅――小綺麗なアパートに連れてきた。居間のテーブルで四人が席に着く。僕は水城さんの左隣。二人の正面に、晴香の伯父夫婦がいる。
「改めて自己紹介します。僕は筑波。そしてこちらが――」
「水城みどりです。児童相談所の方で働いています」
頭を下げる。夫婦は、児童相談所という言葉に反応してか、驚きの色を見せる。
「今日はご相談したいことがありまして、お越しいただきました」
「晴香についてということだが、どういうことかね?」
「晴香さんと、美里ちゃんと美也ちゃんのことについてですよ」
「あの三人が何か問題でも?」
緊張している。自分でそれが分かった。
対し、夫婦は揃って悪びれもせず堂々としている。
分からないように呼吸をし、心を落ち着かせようとした。
「美里ちゃんと美也ちゃんは、確か、あなた方の里子ということになっていますよね」
水城さんが、前髪を掻き上げ腕を組んだ。鋭い目が二人を捉える。
「それが何故、晴香さんの家にいるのか、お聞きしたい」
「それは、晴香が無理矢理に連れて行ってしまったからです。だから私たちはこうしていつも連れ戻そうと……」
「そうですよ。あの子たちを思うなら、晴香のところになんて置いてはおけませんもの」
「はっ……」
鼻で笑い、水城さんは軽く首を振った。
「それだけ思っているのに、二年間も連れ戻せていないというのはおかしいですね。あなたがた、本当に連れ戻す気があるのですか?」
「あるとも。晴香の奴がただ強情で……」
「あんな人質のような真似をされては、こちらとしても手出しできないのです。育ててあげた恩を仇で返されてるのです」
夫婦は口を揃えて言い訳をする。それが、嘘だということは、僕も水城さんもとうに承知している。
「そうですか。なるほど」
心底納得したような顔で、うんうんと頷く。
「分かってくれましたか」
「ええ、よく分かりました」
こちらに顔を向け、水城さんは真剣に言った。
「本当……、聞いてた通りのクズだね、これは」
「なっ?」
水城さんの発言が気に障ったのか、身を乗り出す。制するように手を上げ、大きく音の出るようにテーブルを叩いた。
だん、という打撃音に怯んでか、男は乗り出した身体を引いた。
「騙し合いというのは、好きではないので、率直に言いましょう」
声は、怒りに染まっている。
「私たちは、あなた達と晴香さんの取引のことは知っている」
「は、ははっ。なんのことを言って――」
「誤魔化さないで下さい」
「そう言われても本当になんのことか」
「誤魔化すな!」
二度目は怒声だった。
「書類の上では里親はあんた達になってはいるが、任せておけないから晴香さんが引き取ったんだ。措置金も取らず、自分の力だけで育てるって言いだして。
あんた達には願ってもないはずだったろ。何もしないで金が入ってくるんだからな。いかにも育てているように報告書を書き、相談所の人間にも偽る。簡単なことだったろうに」
気圧されてか、夫婦は一言も発しなかった。
「それなのに、さらに金を請求した。百万か? 二百万か? 五百万くらいかな。そこまで金が欲しいのか」
ふう、と女が息をついた。
「そこまで知っているのなら、まあ、いいでしょう」
男がまだうろたえた様子を見せる中、女は完全に居直っていた。
「それで? 何が問題なのかしら? 私たちはこれから、美里と美也を引き取って育てるつもりよ。何か問題がある? 里親は私たちなの」
「本当にそう思います?」
「虚偽の報告をしたことを指摘したいの? いやね。あんなもの、いくらでも誤魔化して見せるわよ。貴女が何を言おうと」
「そうですか。では、ここまではオーケーとしましょう」
落ち着きを取り戻したのか、水城さんは小さくため息をつく。相手方の男も、ようやく落ち着いたのか、居直った様子を見せる。
「何が目的なのかしら?」
「そうですね。言うなれば、勧告が目的です」
「あら。私たちに何か要求があるの? あなたがた、そんなに強い立場だったかしら?」
「私たちがあなた達に望むことは三つです」
僕たちは、夫婦に三つ提示した。
一つは、このまま美里たちの里親として変わらずにいること。
二つ目は、今まで通り彼女らを晴香の下に置くこと。
そして三つ目。
「以後、緊急時を除き、二度と晴香さん達に近付かないこと。もちろん、金を請求するのもやめていただく」
「酔狂なこと。あなたたち二人、あんな子たちに肩入れしているのね? 損をするわよ」
「それは僕たちの勝手です」
「でも、私たちがその要求を飲む理由はないわね。わざわざ金づるを手放すと思って? 晴香は私たちに全然恩義を感じてないみたいだから、ちょっとキツく当たってお礼を貰ってるだけよ」
余裕しゃくしゃくといった様子で足を組む。
僕はポケットに手を入れ、中の物を取り出しテーブルの上に置いた。照明の光を反射し、それは金色に輝く。
「それは?」
「祖父から父に受け継がれ、僕にまで回ってきた金時計です。もちろん、それなりに価値があります」
「……ちょっと拝見」
男がそれを手に取った。まじまじと眺め、様々な部分を観察していく。女の手にも渡り、同じように価値を確かめていた。
顎に手をやり、水城さんは目を瞑る。
「それで、手は打てませんか?」
「いいものだね。しかし、これだけでは――」
男の言を女が制した。
「バカね。いいのよ」
約束を反故にし、金も時計も双方取る。そんな考えくらい読める。水城さんもそうなのだろう。目と口を開けた。
「本当は問答無用にこちらの要求を通すことも出来るのですが、こちらとしては穏便に済ませたいのです」
「あら? どういうこと?」
「児童虐待は、立派な犯罪だと知っていますか」
これには少し意外そうな顔をした。
「虐待なんてした覚えはないわよ」
「晴香さんにしたことは虐待ではない?」
「教育上の躾の範囲ね」
ふう、と息をつく。
「それはする人によって印象は違うかもしれませんね。でも、調べればハッキリしますよ。法廷に立ってみますか? 告訴する側が色々と有利だという話は聞いたことあります?」
これは少々効いたらしく、女の顔から余裕が消える。本当は覚えがあるのだろう。
「訴えられただけでも里親の資格が剥奪される可能性もあるんじゃないんでしょうか。そうなれば、あなた達の生活も厳しくなりませんか? 色々と無茶なローンを組んでいらっしゃるのでしょう? 晴香さんや措置金をアテにして」
最後の部分は僕にも意外だった。
「……そんなことまで調べたのか、君たちは」
苦しそうに男は呻く。
「そんなことをして、なんになるというの? あなた達、変よ!」
「なんにもならないかもしれませんね。でも、味方するだけの義理くらいはあります」
「どうして味方しようなんて思えるの。あの子たちの親のことも知らないの?」
「知りませんね」
そう。と女は呟く。
「そうだったわね。なら教えてあげるけど、晴香の母親はね、男と逃げるような女なのよ。子供を平気で裏切れる女の娘なのよ、晴香は。あなたたちも痛い目を見ることになるわよ」
「……」
睨む。睨み付ける。しかし、放つ敵意にも気付かないほど、必死のようだった。
「美里と美也だってそう。私たち親戚一同と縁を切ったりして、一家揃って恩知らずなのよ。それが分からないのっ? 少しくらい生活の糧になってもらうのがそんなにいけないって言うの――」
だんっ。
テーブルを叩く音で相手は黙った。叩いたのは、僕。思わず席も立っていた。
「うるさい……」
「な、にを――」
「うるさい!」
もう我慢は出来なかった。水城さんも、止めないでくれた。怒りは心頭に発した。自分の親戚らと被って見える上に、変わらない醜悪さがあった。もう耐えられない。内側からほとばしる感情を口からぶちまけていた。
「僕は彼女らの親の事なんて知らない。けど……、けど、あんた達に何が分かるって言うんだ! 知らないくせに! 晴香の優しさだって! 美里の純真さだって! 美也の無邪気さだって! 何を知っているって言うんだ! 何かを言う資格があんた達にあるものかよ!」
一度開いた口は止まらない。叫ぶ度にテーブルを叩き、床を踏みならし、言葉を叩き付けて、威嚇していた。
「親が……、親がなんだって言うんだ! みんな早くに亡くしてしまったんだぞ! 可哀想だとも思ってやれないのか! 親がしたことだって子供には関係ないんだぞ! 何も知らない、何も出来ない子供に、親の重圧なんてくれてやるな!」
言い終えて、息が切れていることに始めて気付く。ぜいぜいと荒く呼吸しつつ、夫婦だけは鋭く視界に捉えていた。
「……まあ、そういうことです。ご理解頂けましたでしょう。その金時計を取って下さい。それでお手打ちにして差し上げます」
言葉にならない声で、夫婦は唸った。なかなか金時計には手が伸びない。
「嫌だというのなら、今度は私が、全力であなたがたの相手になります。もちろん、約束を反故にした時もそうですけど」
「私たちが美里たちの里親でなくなったら、そちらの目的だって達成できなくなるんじゃ……ないのか」
苦し紛れにそんなことを言う。
「けど、少なくとも今よりはマシになります。望むところですよ」
屈辱にまみれた顔をしていた。歯を食いしばっていた。それ以外に道が無くとも、それを拒もうとする様子が見て取れる。
「……分かりました」
長い沈黙の後、ようやく女は金時計を取った。
「それでは、お引き取り願いましょう」
水城さんが玄関まで送っていった。戻ってくると、先程とはまったく逆で、明るく笑いかけてきてくれた。
「いいタイミングでぶち切れてくれたね」
「水城さんだってかなりキてましたでしょう?」
「まあね。でも君が怒るのを見てたら冷静になれたよ」
会話しながらお茶を淹れてくれる。湯飲みをこちらに渡すと向かいの席に座った。立ったままだったことにようやく気付き、僕も席に着く。
「ま、ちょっと暴れすぎだけど。あとで苦情来たら責任取ってよ」
「すみません」
そういえばここが集合住宅であることをすっかり忘れてしまっていた。苦笑する。
「今日は、ありがとうございました」
一呼吸ついたところで、僕は改めて頭を下げた。
「いいのいいの。私も、ああいうの嫌いなタイプだし。商売柄、子供を虐げる大人は許せないのよね」
お茶に口をつける。
「僕も知らない情報もあったようですけど、あれは?」
「青山君から聞いたの」
「先輩が? どうやって調べたんでしょう……?」
「いつものコネって奴だろうね」
顔が広い。という言葉で片付けることは出来なさそうな疑問だった。先輩はコネが出来やすい環境にいると言っていたが、それは、不思議すぎる。
「でも、今日の流れだったら金時計、使わなくても良かったかも。ごめんね。大切な物だったんでしょ」
思考を戻す。水城さんの言葉には首を横に振って答えた。
「いや、いいんです――」
自然と笑みがこぼれた。
「――いいんですよ。僕には、もう、あれは必要ないのですから」
そう。もう僕には戒めはいらない。桜井家を気に入り、そこに安寧を見出した僕には、もはや戒めは邪魔な物にしかならない。
裏切らず、ずっと一緒にいてくれると言ってくれた人がいる。
戒めも、古き決意も、彼女を信じるのには、邪魔なのだ。
まだ不安はある。その先が恐いとも思う。
けど、直に慣れる。
もういいのだと思う。金時計は、もう、無くてもいいと。
それが、僕の下した決断だった。
「そっか……」
水城さんの見せた嬉しそうな顔を、僕は生涯忘れないと思う。
この後、下の階の人に平謝りしたことも、たぶん生涯忘れない。
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