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≪Tales Of Orphans≫




 
Chapter 5 Good-bye Loneliness
 
 
 
 ひとまずは、これで美里も美也も連れて行かれることもない。桜井家の家計が切迫されることもない。
 思えば僕は、美里と美也を、幼い頃の自分と重ねていた。それが一番の要因だったろう。
 今回だけだ、と最初は思った事だった。けどいつの間にか、当然のことだと思ってしまっている。
 あるのは、充実感。
 そんな気持ちに包まれて、帰り道を歩く。
 人の感情や思考というものは、理解しがたい。いつ、どんな風に変わっていくか、分かったものではない……。
 家に帰ってみると晴香が首を傾げてうんうん唸っていた。
「どうしたの?」
「あ、おかえり」
「ただいま。なんかあったの?」
「うぅん、逆。なんにもなかったの」
「ふうん」
 ちゃぶ台に着き、点いていたテレビを見遣る。
「実はさ、さっき敬介くんの知り合いが来たって言ってた時間はさ、いつも伯父さんたちが来る時間なんだよ」
 知っていたが知らない振りで、へえ、と相槌を打つ。
「それが今日に限って来なかったのよね。敬介くん、さっきのは本当に知り合いだったの?」
「ああ、うん。間違いなく、僕の知り合いだよ」
「う〜ん」
 腕組みして視線を上に移す。納得いかない様子だった。
「何か急用でも出来たんじゃない? それか、気でも変わったとか」
「そんなことないと思うんだけどなぁ……」
 テレビでは、バラエティと思われる番組がやっていた。テレビとかはあまり見ないので、なんの番組なのかよく分からなかった。画面の中では笑い声が聞こえたが、何が面白いのかが一番よく分からない。
「……ところで敬介くん、どこ行ってたの?」
 考えるのはやめたのか、話題を切り替えてきた。
「知り合いの家でちょっとお茶してきた」
「女の人?」
「うん」
「へえ、そう。ふ〜ん」
 無関心そうにテレビに目を移す。僕も倣ってそちらに視線を向けた。妙に重苦しい空気が辺りに立ち込める。
 なんだろう。なんだか、もの凄い負のエネルギーが晴香の周辺で収束され蠢いているような気がする。
「晴香さん、もしかして何か変なこと考えてない?」
「……その人って敬介くんより年上?」
「ん? そうだけど」
「節操なし」
「……その想像、もの凄く間違ってるよ」
 時刻を確認しようとポケットを漁る。しまったと思い、逆のポケットから携帯電話を取り出し、時刻はそちらで確認した。
 いつもの癖で、つい金時計を探してしまった。新しい時計を買う必要がある。
「僕、部屋に行くから」
「あ。逃げるんだ」
「うるさいな」
 その日の夕食は焼き魚だったのだが、僕の分だけは何故か魚の形をした炭だった。
 次の日。
 バイト帰りにデジタル表示の腕時計を安く購入し、活用していたところ、早くも晴香に気付かれてしまっていた。恒例となった夜の飲み会でのことだった。
「ところで敬介くん、いつもの金時計はどうしたの?」
「別に」
「む〜。つれないなぁ」
 はあ、とため息をつく。
「気にしないでよ」
「でも、いつも大事にしてたじゃない?」
「うん。まあ、一応、父さんの形見だからね」
「あ、もしかして無くしちゃったとか? 探すの手伝うよ?」
「いや……」
 立ち上がった晴香を制し、再び座らせる。
「手放したんだ」
 その一言に、ひどく驚いた様子だった。身を乗り出してくる。
「なんでっ? お父さんの形見なんでしょ?」
「事情があってね。出来れば、聞かれたくないんだ」
「……どうしても?」
「こういうのって、あんまり話すべきじゃないと思う」
「そう……」
 残念そうに視線を落とし、座布団の上で体育座りをする。スカートの中が見えてしまいそうで冷や冷やした。
 いつものようにちびちびとやりつつ時間が無為に過ぎていく。
「あのさ、敬介くん」
 しばらくの沈黙のあと、声が発せられた。ん? と、その呼びかけに応える。酔いが回ったのか顔が少し赤らんでいた。
「私さ、もしかしたら敬介くんが、伯父さんたちに何か言ってくれたのかもしれないって、思ってる」
「僕がそんなことする奴に見える?」
 くすっ、と晴香は笑った。
「見えるよ」
「そんな義理、僕には無いんじゃないかな」
 恩を着せるようなことを言うのが嫌で、そんな風に誤魔化した。今までも黙っていた。やっぱり、自分でも変わったと思う。
 以前なら、貸しを作ったら恩を売り、その見返りを絶対にもらおうとしたはずだった。それが正しいと思っていた。
 けど今は、やはり今の僕こそ正しいと思える。
 晴香はこちらから視線を逸らし、窓から空を眺めながら、またグラスに口を付けた。
 星が見える。きらきらと輝いていた。闇の中、いくつもの光があった。月も出ているはず。そのお陰でまた完全な闇ではなく、中途半端になっているのだろう。
 けど、なんだか、そのわずかな灯りが、中途半端な闇が、今はとても心地いい。
「今日はお酒が美味しいよ」
 見れば、確かにいつもより酒の進みが早いようだった。
「飲み過ぎると大変だよ。明日は学校なんだし」
「う〜、うん。酔った」
 見れば分かる。
「うん、うん。酔った酔った。あははははっ」
「酔いすぎ」
 先程にも増して顔が赤くなっていた。
「この前さ、クラスメイトに敬介くんが好きだって子がいるって話したよね?」
「ああ、うん」
「誰だか見当ついた?」
「全然。考えてもいなかったよ」
 ふふふっ、と心底楽しそうに笑う。
「じゃあヒント。今、君の目の前にいる人でっす」
 ヒントというか、まんま答えだった。
「……晴香さん?」
「はーい。大正解でーすっ」
 言うが早いが抱きついてきた。避ける間もなく晴香の腕が背中に絡む。その体温が、当たり前だが温かくて。なんというか、とても柔らかかった。
「好きなのれすよ、敬介くん」
「酔ってるね、晴香さん」
「へべれけ〜」
 だめだこりゃ。
「キスしていい?」
「離れろ酔っぱらいっ」
 力尽くで引き剥がす。ケタケタと笑っていた。
「……困ったな」
「こうして私たちは、結ばれました。しかし、この先には過酷な障害が待ち受けていたのです」
「?」
「……つづく!」
「続かせるな!」
 酔っぱらいの処理は大変だった。で、次の朝にはすっかり記憶を無くしてるというのだから始末におけない。
 
 数日後の水曜。
 いつもは一緒に帰る晴香だったが、今日に限って、僕より早く帰ってしまっていた。遅れて帰宅すると、今度はどこかへ出掛けたらしく、帰宅の痕跡はあっても本人はいなかった。
 たまには友達と遊ぶことだってあるだろう。そんな風に思っていた。けれどそれは、間違いだった。
 帰ってきた時、晴香のメガネはレンズが割れ、フレームも歪んでいた。顔に痣もあった。ひどく疲れた様子で、晴香は帰ってきた。
 美里や美也がまだ帰ってこない時間でなくて良かったと思う。
 とにかく僕は居間で晴香の手当を始めた。消毒をしたり、絆創膏を貼ったりと。
 晴香は、怪我の理由を言わなかった。いや、言わなかったわけではない。嘘の理由を言っていた。
 転んだのだ、と。
 冗談じゃない。どんな転び方をすればこんな怪我をするのか。
 顔の痣で判断できる。
 自分の顔の怪我を鏡を見ながら手当てしていた頃の記憶が蘇ってくる。同じような痣なら何度も見てきた。それは、いま目の前にあるものとよく似ている。
 殴られてできるものだ。服に隠れているが、おそらく、他にも多数の痣ができているだろう。
 分からなかった。
 彼女を殴る者といえば、あの親戚たちしか考えられない。だが、さすがにわざわざ自分らの首を絞めるほど愚かではないはずだ。調べるまでもなく、これは傷害罪に当たる。
 晴香自らが出向いたというのなら話も少しは変わってくるが、それこそ有り得ない。避ける理由はあっても、近付く理由がない。
 誰に、どういう経緯で殴られたのか、結局は僕の持つ情報量だけでは分からない。
「せっかく新調したのに、もう壊しちゃたよ……」
 ボロボロになったメガネを眺めながら、苦笑していた。
「晴香さん、転んでもこんな怪我はしないよ」
「派手に転んだからねぇ」
「……殴られた痕だよ、これは。僕も同じのを自分の顔に付けられた覚えがある。何度もね」
 すると晴香は押し黙った。
「どうなの?」
「事情があるの。出来れば、聞かれたくないんだ」
 目を瞑ってそんなことを肩を竦めて言った。この前、僕が言ったのを真似たのだろう。
 これを出されると弱い。僕自身も黙っている事がある。それは、あまり気を遣わせないようにするためのことだけれど……。
「悪いことはしてないよ。きっと、お母さんも褒めてくれると思う」
「……分かったよ。でも、これ以上、傷付くことがないようにしてよね」
「うん、大丈夫。これが、最後だから」
「そう。あんまり心配させないでよね」
「あ、敬介くん心配してくれるんだ?」
「いけない?」
 照れ臭そうに、晴香は笑った。
「うぅん。嬉しい」
 手当を終えると、予備のメガネを掛けた。入院中に掛けていた銀縁のメガネである。
「ありがと」
「他にも怪我してるだろうけど、これ以上は自分でやった方がいいと思う」
「そうだね」
 じゃ、と残して居間から出る。扉を閉め切り、外から見れないようにしておく。さすがに晴香の下着姿を見るのは、まずい。
 しばらく自室でぼうっとしていたが、美里が美也を連れて帰ってきたのか、一階の方が賑やかになった。
 きっと晴香の怪我について美里が詰め寄るに違いない。妹にいさめられる様子を想像して、口の端が緩んだ。
「にょーん」
「?」
 奇声に反応し、扉の方を見てみると晴香がいた。
「なに?」
「美里がいじめるよう……」
「それだけ怪我して帰ってくれば誰でも怒るよ。心配してる証拠」
 先程とは違う服装だった。もう手当も済んだのだろう。
「……入っていい?」
「いいよ」
 ベッドに横にしていた身体を起こし、スペースを広げる。僕の隣に晴香は座った。
「やっぱり初めての時は、男の人の部屋がいいよね」
「出て行け」
「冗談だよ、冗談」
「まったく……。だんだん冗談の質が悪くなってきてるよ」
 ふふっ、と笑うところりと転がって、空いてるスペースに横になる。晴香はその場で目を瞑った。
「寝ないでよ?」
「寝ないよ」
 会話も無いまま、そんな風にのんびりしていた。なんというか、酔った時のこととはいえ、晴香が僕を好きだと言ったことを思い出してしまい、緊張してしまっていた。
 不意に晴香が起きあがる。それだけのことなのに、心臓の動きが少し速まってしまった。
「ねえ敬介くん」
「ん?」
「あの金時計さ、やっぱり戻ってきて欲しいとか思う? 戻ってきたら嬉しい?」
 心臓の動きは落ち着く。思考が別の方向に流れた。
「いや。戻ってきて欲しくはないかな」
「えっ?」
 意外そうに、そして何故か残念そうに視線を落とした。
「お父さんの形見、なのに?」
「形見だから、だよ」
 この際だから、話してしまおうと思った。
 晴香は知らないだろうけど、トラブルはもう解決された。それは僕が出て行こうとした理由の一つが消えたことを意味し、また、金時計を手放したことは、もう一つの理由も消えたことを意味する。
「……あの金時計は、僕にとっては戒めみたいなものなんだ」
「戒め?」
「そう。前に話したよね。好きにならないようにとか、その前に逃げるんだとか。僕の生き方についてさ」
「うん」
「あれは、僕の父さんが死んで、それからずっと経ってから考えて出した事だったけど、始まりは父さんが死んだことだったんだ。父さんへの恨みとかも生まれたし。だから形見の金時計には、色んな決意とか、想いとか、そういうのがあって、僕が何かに近付きすぎるのを、抑えてくれてたんだ」
「……そう、だったんだ」
「そう……。そうなんだ。だから僕は、何かある度に金時計に触れて、自分の生き方に背かないようにしてたんだけど――」
 ここで言葉を句切る。
「だけど?」
「――その……、もう、邪魔なだけなんだ。そりゃ、父さんのことはまだ恨んでるけど、それとこれとは関係ない。
 僕は、改めて言うのもなんだけど、この家が気に入ってる。美里ちゃんのことも、美也ちゃんのことも。もちろん君も……だけど。
 出来るなら、ずっと一緒にいたいって思ってて……。けど、金時計があると、それでも僕は逃げちゃうと思うから」
 先程の残念そうな表情が、みるみるうちに明るく嬉しそうなものに変わっていった。今にも抱きついてきそうなくらい、見つめられている。
「だから、もういいんだ。金時計はもういい。無い方がいいんだ」
 大きくゆっくりと頷く。目を細めて晴香は言う。
「私も、敬介くんとずっと一緒にいたいよ?」
「いてもいい?」
「トラブルのことはどうするの?」
「気にしないよ」
 そもそも奴らはもう来ない。
「なら、私の方からお願いするよ。一緒に暮らそう」
 満面の笑みで晴香はそう言ってくれた。風が吹けば鳥が歌うように、雨が降れば草が萌えるように自然に、僕は言葉を返した。
「ありがとう」
 それは感謝の言葉。言い表せない様々な感情を、包んで届けてくれる優しき単語。これ以上無いくらいに僕の今の気持ちを音にして表したもの。耳ではなく心に響かせる五音の曲。
 確かに届いたその曲は、晴香の笑顔をさらに穏やかなものにしてくれた。
 今度は、僕が空いてるスペースに身体を倒す。
「あの契約、期間は無制限とかってあり?」
「あり」
「んじゃあ、これからもよろしく」
「ふふっ、一つ屋根の下だね。なんだか家族みたい」
「血が繋がったちゃんとした兄弟って、美里と美也の姉妹だけなんだよね?」
「でも、ハートは家族です」
 その物言いがおかしくって、声に出さす表情だけで笑った。
「あ、かわいい……」
「は?」
 こっちが何か反応する前に抱きつかれた。
「え、うわ、ちょっと、晴香さ――」
「あの、敬介さ……!」
 そんな状況に第三者。美里の声が響いたかと思ったら、声と一緒にいきなり凍り付いた。
 僕も美里の姿を認めた瞬間、凍り付いた。晴香は石になった。
「……お、お、お」
 美里の口がぱくぱくと動き始める。
「お?」
「お姉ちゃんのバカ! 変態! いんらん? スケベ!」
 叫ぶとほぼ同時に姿を消す。階段を凄い勢いで降りていく音が聞こえた。
「……バカ」
 耳元でよーく聞こえるように言ってやる。ようやく離れてくれた。
「ちょっと反省」
「ちょっとじゃなくて猛烈に反省しなよ」
「あとで抱きつかせてあげて」
「フォローは僕ですか。そうですか」
 その後三日間、美里は晴香と口を利かなかった。また、これ以後より美里が照れながら抱きついてくるようになってしまった。
 なんというか、紛れもなく姉妹だと思える。
 何の問題もない。普通ではないにしても明るく仲の良い家庭。その一部になれたのだと、この時、僕は信じて疑わなかった。そう。疑うことなど、出来なかったのだ。
 
 




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