Chapter 6 Betrayal
その季節を色に例えるなら緑だ。
蝉はその生涯を鳴き連ね、木々は陽の光に凛々と輝く。空気は流れ、風鈴は歌い、草葉は踊る。空は青。突き抜けていく蒼穹に飛行機雲が描かれる。熱い陽射しに耐えきれず、水を請えば雲が泣く。
買ったばかりの花火セットが湿気ってしまわないか少し不安になりながら、通りがかったバス停で雨宿りをしていた。
「これで少しは涼しくなるかな?」
ざあざあと雨を降らせる雲を見上げ、晴香は明るくそんなことを言った。陽炎も見えるくらいに暑かっただけに、救いの雨とも言えなくはない。
しかし、僕としては降って欲しくはなかった。
「早く止んでくれるといいんだけどね。花火が出来なくなる」
「そうだね。きっと夕立だよ。すぐ止むって」
「だといいけど」
あれから数ヶ月。正確には二ヶ月半前後か。ついに前期のテスト期間も終わり、桜井一家プラスワンは全員が夏休み突入となった。
雨の冷たさの混じった風が吹き、汗が引く。
今日の夜は花火をすると美里や美也と約束している。僕も実はとても楽しみにしている。僕にとって、花火は初めてに近かった。
楽しく花火をした記憶など、古すぎて掘り起こすことも出来ない。かろうじて思い出せるのは花火を押し当てられた記憶くらいか。
そんなことを思い出しているうちに、雨は止んだ。
「ほらね?」
晴香は微笑み、先に歩いていった。後を追い、随所にできた水たまりを飛び越えて行く。
僕らと同じく雨宿りをしていたのか、屋根のある場所から幾人もが空の下に出てくる。考えることは一緒か。そんな風に思っていると、二人連れの母子が目に入る。
母親の方は四十を過ぎているだろう。娘は高校生くらいだ。仲が良さそうな印象を受ける。母親はともかく、娘の方は服装やその他の雰囲気が周りの若者と少し違った。誰かを待たせているのか、急いだ様子で歩いていく。
母子……。母親、か。僕の記憶にとってそれは最も薄い存在。顔を思い出そうとしても霞がかって見えやしない。それは父と同じではあるが、記憶の欠片の量が違う。ただ一緒にいたことがある程度の覚えしかない。
そのためか、恨みの感情も父ほど大きくはない。良くも悪くもない印象しか持ち得えていないのだ。
母子は歩き去っていく。こちらも気にせず歩いていく。
晴香もその少し雰囲気の違う娘に気付いたのか、母子を視線で追っていた。姿が見えなくなるまでそうしていて、見えなくなった後は首を軽く左右に振った。
「どうしたの?」
「ん? あ、気にしないで。たぶん私の気のせいだから」
「そう」
帰宅後は、ドキドキワクワクしている美也や、夜が待ち遠しくて落ち着いていられない美里の相手をしながら、日が沈むのを待った。
花火の前に夕食と風呂は全員済ます。ろうそくを用意し、バケツに水を汲んで準備完了。
完全に日が落ちたあと、全員で庭へ出た。花火を用意し各人に配る。ロケット花火や打ち上げ花火の類は、危ないので買ってきていない。
火を付けると、じゅっ、という音と共に彩られた炎が先端から吹き出される。煙と火薬の匂いが漂い、炎は絶え間なく噴出しながら色を変えていく。
居間の窓に付けられた風鈴がちりりん、と感嘆を洩らす。
一本目は火薬が尽きるまでの間、没頭していた。二本目の時には美也が火のついた花火を上に向けて遊んでいたので、止めに行く際に慌ててバケツに放った。三本目は、晴香と会話しているうちに終わる。
花火も綺麗で見物だったけれど、それ以上に僕の心を満たしたのは、美里と美也の、本当に楽しそうにしている顔だった。
花火のことよりも二人のそんな顔をずっと見ていたくて、僕の分の花火も二人に分けてしまった。
縁側に腰掛け、のんびりと二人の様子を眺める。その光景が、なんだかとても温まるもので、いつしか僕の頬は緩んでいた。
「ロリコン」
「うわ、それをこの状況で言うの?」
晴香も自分の分を二人に渡してきたのか、手ぶらで隣に座った。
「シスコン?」
「僕は兄弟いなかったから、シスコンとかそういう気持ちは良く分からないよ」
「じゃあズバリ言うと、敬介くんの今の状態はシスコン状態です」
ふう、と小さいため息をついて返す。
「ああそう」
くすくす、と晴香は笑う。
ちりりん、と風鈴にも笑われる。うるさい笑うな。
ふと見れば、晴香のメガネには花火の明かりが反射して映っていた。その奧の瞳にははしゃいでいる二人の姿が映っているだろう。
僕も視線を庭に戻し、二人の姿を捉える。花火の消費スピードは僕や晴香よりもずっと早い。けれどなかなか無くならない。
夜の空気が気持ちいい。目を瞑ってみる。美里と美也の笑い声、微かな虫の声、そして風と風鈴の音。一種の音楽だった。
「あのね――」
晴香の声に、目を開ける。視線は下がり、芝生を眺めていた。
「ん?」
「――私、妹がいるんだ」
「美里と美也のこと……じゃ、なくて?」
「うん」
わずかに首を縦に振って続ける。
「小さい頃にお父さんとお母さんが離婚してね、その時、お母さんと一緒に行ったのが私の妹」
「そうだったんだ」
「そうなんだ。私はお父さんと一緒だったけど、事故でお父さん死んじゃって、お母さんのとこで暮らすようになるのかと思ってたんだけどね……」
「行方不明、なんだっけ?」
「うん。たぶん、外国かどこかにいるんじゃないかな。お父さんが死んだ時に来てくれなかったのも、仕方ないんだと思う」
「……どうして、急にこんな話をするの?」
すると口元に手を遣り、微笑した。
「なんとなく。敬介くんには知って欲しかったのかも」
「そう……」
りりん、ちりりん。風鈴が歌う。風に揺れた晴香の髪が、風鈴の指揮をしているようだった。
「もしかして、まだ会いたいとか思ってる?」
「うん、会いたいな。いつかこの家に戻ってきて、お母さんと香澄と、みんなと、一緒に暮らせたらいいなって思う」
「夢物語だね」
僕には、肉親と一緒に暮らしたいという気持ちが、いまいちよく分からなかった。だから、似た境遇にいたはずの晴香がそんな風に言うのが、不思議だった。
「私は夢みる少女だもん」
「ま、いいけどさ」
少女って歳ではない。せめて乙女だろう。そんなツッコミをしようとしたが、やっぱりやめにしておいた。
花火を消費しきったのか、美里と美也がこちらに寄ってくる。
「おにいちゃん、もうないの?」
「うん、ごめんね。また今度買ってきてあげるから」
「う〜」
残念そうにしている美也をなだめる。
「今度は公園で打ち上げ花火しましょうよ」
隣に座って僕の肩に寄り掛かる。そんな美里の提案は、即座にダメ、と却下した。
「なんでですか?」
「危ないから。美也ちゃんが怪我したら大変でしょ」
「わたしだいじょうぶだもん」
美也が抗議するが、それでも僕は首を縦には振らない。
「でもダメ」
「む〜」
ぽかぽかと膝を叩かれる。痛くはない。そこで美里がぽん、と手を叩いた。
「分かった。敬介さん、怖いんですね?」
「あ?」
「ほら、花火はほとんどやったことないって。だから打ち上げ花火とか、怖いんじゃ?」
「いや、違うよ。ていうか、君たちの方こそどれだけ危ないか分かってない」
「そうですか?」
「そうだよ」
「なんで危ないんですか?」
「見た目からそうじゃないか」
「……」
「……ね?」
同意を求めると、何故かにこりと笑った。美也に耳打ちをする。
「やっぱりお兄ちゃん怖いんだって」
美也も美里に耳打ちする。
「おにいちゃん、こわがりなんだ」
「そうみたい。だから打ち上げ花火はダメ」
「うん、ダメ」
バリバリにこちらにも聞こえている。
「耳打ちしてる意味ないよ」
「えっ、聞こえてましたっ?」
うん、と小さく頷こうとしたが、脳天にチョップを受けたせいで盛大に頭を下げる結果になった。
「なにすんの」
頭をさすりながら振り返る。晴香はこちらに耳打ちをした。
「こういうのは、聞こえないフリをするの!」
「……ああ、そうなの」
よくわからん。
「それはさておき、花火の締めはこれね」
何かを取り出してみんなに見せる。どうやら線香花火のようだった。実物を見るのは初めてかもしれない。
「ああ……、まだあったんだ」
「わあ、いいですね」
やろうやろうと手にとって、それぞれ庭でしゃがみ火を付ける。
「風流〜♪」
晴香は上機嫌に歌っていた。
火を付けた線香花火は、その先端を赤く輝かせる。先端部分は次第に球体へと形を変え、そこから細かい火花をまき散らし始めた。
「あっ……」
僕の線香花火はそこまでの運命だった。ほんの少し揺らしてしまっただけで、先端の赤い球体は地に落ち、輝きを失う。
儚い。この花火がそんな風に言われるのが分かった気がする。
新しいものに火を付けようとすると、家の中から電話の音が響いてきた。それに驚いてしまったのか、他の三人の線香花火もその生涯を終えてしまう。
「あ〜ぁ」
「ありゃりゃ……」
二人の妹が残念そうな顔をする中、晴香は一人、電話を取りに行った。とりあえずは再開。
美也、美里、僕の順で火を付ける。
今度は落とさないように、慎重に、とやっていると先程よりも長持ちするようだった。
ぱちぱちとやや大きく火花が飛び散る。が、それもだんだんと小さくなっていった。最後の方には音もなくなる。静かに火の粉が雨のように先端から降っていくのみ。
そして、輝きは失われ、終わる。
似てるな、と思った。
たとえ生まれたばかりだろうとなんだろうと、自分の所為ではなく、外からの力によって地に落とされ、輝きを失ってしまう。地に落ちたそれは、どんなことをしても元の場所に戻れず、輝きを取り戻すこともない。
幼い頃に、親に何かがあっただけで脱落していってしまう子供の人生。なんとなく、そんな風に連想した。
だがまあ、努力すれば人生はどうにでもなる。別の新しい線香花火を、努力して手に入れた人生と見立てれば、また別の感慨も湧いてくる。
三本目に火を付け、またじっとその生涯を見守る。そんなところで晴香が電話を終え戻ってきた。
「なんの電話だったの?」
顔を上げ訊ねてみる。影になって、表情は見えなかった。
「別に……大した内容じゃ、なかったよ」
「そっか」
線香花火に視線を戻す。
「あ、れ……?」
それはいつの間にか、生涯を終えていた。
◇
次の日から、晴香の様子がおかしくなった。
朝に出掛けて夕方に帰ってくる。一日や二日くらいでは、僕らも深く追求することはなかった。けれど三日目、四日目となると、不審に思うようにもなる。また何かトラブルに巻き込まれたのかもしれないとさえ思った。
しかし、以前のように晴香自身が怪我をしてくるわけでもなく、また、浮かない顔をするわけでもない。
ただ、いつも家にいないことに関しては、ごめん、と謝っていた。僕にはその時の表情が、迷っているように見えて、不思議だった。
五日目、六日目と過ぎていき、ついに七日目。
その日も晴香は朝食を一緒に摂ったあとは出掛けていった。僕も先輩に呼び出しを食らったので、家と美也は美里に任せ、昼前には家を出た。
遊びらしい遊びを青山先輩としたのは初めてだったが、それなりに楽しんだ。その帰りだった。
晴香がいた。
四十代くらいの女性と、もう一人。高校生くらいの、周りとちょっと雰囲気の違う女の子と三人。仲が良さそうに、喫茶店に入っていった。
雰囲気の違う女の子? 記憶の隅で引っ掛かる。前にも見たような気がする。しばらくぼうっと記憶を探る。それはみんなで花火をした日、買い物帰りに街で見た女の子だった。
知り合いだったのだろうか。
そんな軽い考えで家に帰る。僕より遅れて一、二時間。晴香が帰宅して夕飯となった。晴香が先程会っていた母子についての話題は一切出なかった。
その夜は、久しぶりに晴香の誘いがあった。いつもは先に始めてから僕を呼びに来るのに、今日に限っては、まったく酒が入っていなかった。
「どうしたの。今日は飲んでないね」
「酔う前に話しておこうって思ってさ」
「さっき一緒に喫茶店に入っていった人達のこと?」
「見てたの?」
「偶然ね」
「そう……」
呟き、視線を落とす。
「いつも出掛けるのは、あの人達に会うためだったんだね」
うん、と肯定する。
「誰なの?」
「私の、家族……」
重い何かを肺から絞り出すように、口にした。
「そう。良かったね」
確かに飛び抜けて意外なことではあったが、それ以上に祝ってやれることだと思った。晴香は自分の肉親に会いたがっていた。その気持ちはよくは分からないが、その悲願は実現した。
「一緒に暮らせるじゃない。僕や美里や美也がいることには抵抗はあるかもしれないけど、ただの居候だと思ってもらえればいい」
けれど、晴香の口はやはり重かった。
「一緒には、暮らせるけど……、ここじゃダメだって……」
「え?」
「お母さんたち、やっぱり外国にいたの。そこでお母さん、再婚してて。だから、お父さんが死んだのもこっちに来て初めて知ったんだって」
重々しく、言葉の鎖を紡いでいく。
「それで……、それで、お母さん、一緒に、外国で暮らさないかって。ずっと、ずっと一緒に暮らさないかって言ってくれて。でも、こっちだと無理だって。新しいお父さんの仕事で来てるから、そんなに長くはいられないって」
「僕らのことは、話したの?」
「話せないよ……! 話したら、絶対、絶対絶対、こっちに残るように言われるもん。お母さんと一緒にいられなくなっちゃうもん」
「そっか……」
呟いて、訊いた。
「どうするつもりなの?」
「どうすればいいのかな、私……」
「僕には分からないよ。明日、美里や美也にも訊いてみるといい」
まだ僕は、軽く考えていた。晴香が、母親と一緒に外国へ行くことの意味を考えようともしていなかった。晴香は行かない。どんなに迷っても、絶対にこの場を離れるわけがないと、思っていたからかもしれない。
それは、あの約束があったから、だと思う。
「ごめん。私もう寝る。ごめんね、誘ったのは私なのに飲まないで」
「気にしなくていいよ。おやすみ」
おやすみ、と呟くと晴香は居間から出ていった。僕一人がちゃぶ台の前に残る。
一人、グラスに注いで口を付ける。
「……あんま美味しくないな」
一度口を付けたきり、僕はもう飲まなかった。
次の日、晴香は出掛けなかった。
家に残って、今までの経緯を説明し、どうするべきなのかを僕らに訊ねた。
「行った方がいいと思います!」
まず答えたのは美里だった。
「実のお母さんと妹さんと一緒に暮らせるというのは、とても良いことだと思います。私だってお母さんとお父さんが生き返って一緒に暮らそうって言ってくれたら、そうします。それに、これを逃したら、もう会えなくなるかもしれないんですもん。一緒に行くべきだと思います」
自分だったら、と想像してるのか、どこか夢見がちに、感情豊かに言い連ねた。
それは姉思いの妹の言葉だったろう。
「おねえちゃん、ひとりでどこかいくの?」
美也が訊いた。
「うん……。行こうかどうか、迷ってるの」
「たのしいところなら、いってきなよ」
「うん、そうだね」
そして僕は、答えなかった。
美里の言葉を聞いて初めて、この事について、晴香が母親と共に外国へ行くことについてを考えた。
晴香がいなくなる。この家から。
それは、ちょっと、おかしいんじゃないか?
晴香は、書類上は違うけど、美里と美也の実質の保護者だ。それがいなくなる。
それは――
ひどく単純明快で――
とてつもなく、嫌なことだ。
「お姉ちゃんは行くべきです。絶対、幸せになれます!」
そう主張する美里の目前に手を出し、制した。
「美里ちゃん……それが、どういうことか、分かって言ってるの?」
「え……?」
「一緒に暮らせなくなるんだよ。もう二度と会えなくなるかもしれない。もう、姉妹だって、言うことだって出来なくなる」
「あ……」
ようやく、そのことに気付いたようで、絶句した。
「だから、迷ってるんだよね……」
同じくらい大切なもの。家族と、家族。切るならどちらかと訊かれれば、誰だって、迷う。
迷う。そうだ、迷う。
でも、あれ? 違和感が……ある。
同じくらい大切……? それは、おかしいじゃないか。
今まで散々ほったらかしにしてきた家族と、晴香自らが助け育て守ってきた家族が、同じ? 僕との約束も含めて、同じ、なのか?
それは、やっぱりおかしいんじゃないのか……。
晴香は口を噤んだまま何も言わない。
「……僕は、晴香の判断に、任すよ」
そのまま僕は立ち上がり、居間を出た。
「敬介さん」
美里の声が、聞こえた。けど立ち止まらず玄関から、僕は外へ出た。行くアテは特にない。
ただ、この、怒りにも似た不可解な感情をどこかで発散させたかった。
結局、どこへ行っても、知り合いの誰と話しても感情は発散されるどころか膨れあがる一方だった。結局、桜井家に戻ってきて、四人で夕食となる。
けど、その間、僕は一言も話せなかった。
そのあとはずっと自室で一人、悶々としていた。
どうしても、あの感情は消えてくれない。ただ、ただ、おかしいじゃないか、と。思考が堂々巡りしていた。
もう一度晴香と話してみよう。
そんな思い付き。気付けばもう美里や美也は寝ている時間で、それだけ真剣に悩んでいた自分に驚く。廊下に出て、晴香の部屋の扉をノックした。
出てきた晴香を居間に誘い、そこで話を始めた。
「君は、正直どう思ってるの? その、お母さんや妹さんたちを。一緒に暮らそうって言葉をさ」
「……はっきり言って、今更だよね。何年も連絡一つよこさないで、いきなり出てきて一緒に暮らそうなんてさ……」
俯いたまま、こちらを見ずに質問に答えた。
「でも、でも……、嬉しくてさ」
目を瞑るのが見えた。
感情が高ぶったのか、両手で顔を覆い、頭を左右に大きく振る。
「私……、私……! ずっと、寂しかった!」
顔を手で覆ったまま、泣くように、口にした。
「伯父さんたちから解放された時は、これで、前みたいに楽しくやっていけるって思ったけど、そんなの無理だったんだよ。お父さんもお母さんも香澄もいなくて、こんな大きい家に私一人で……。寂しくて、寂しくって……!」
メガネを取って、晴香は涙を拭った。
「だから君は美里と美也を、引き取った。色んな苦労を背負い込みながら、育てていこうとしたんだね?」
「家族が、欲しかったの……」
「でも今になって本物の家族が現れて、迷う羽目になった」
「……どうすれば、いいんだろう」
「迷うってことは、優先順位が同じものをどちらか一方しか選べないからだと思う」
淡々と、僕は、あの感情を抑え込みながら語った。
「君にとって、僕と美里と美也の三人は、君の肉親たちと同じくらい大切。ここまではいい。だけど本質は違うはずだ」
晴香は、ただ黙って僕の言葉に耳を傾けていた。
「美里や美也は、君が助けた。育てた。守った。僕のことだって、君は少しは好意を持ってくれてると思う。けど、それだけの要素が付加されて、ようやく君の肉親と同じなんだ。今まで君をほったらかしにしてきた人達とね。
君は、血は繋がってなくても気持ちは繋がってる。だから姉妹なんだって言ったじゃないか。でも、本当にそうなら、なんでこうなるんだ? 本当にハートが家族だって言うなら、迷うこともなく僕たちを選ぶんじゃないの?」
晴香は答えない。答えられない。ただ、歯を食いしばって、目を瞑って、眉をひそめることしか出来ない。
「君がどうして美里や美也を引き取ったのか、それを聞いて分かったよ」
突き付けるように、僕は、言った。
「君は今まで家族ごっこをしていたんだ。美里や美也は、君の寂しさを紛らわすための道具でしかなかった。上手く演じて見せても、心の奥底じゃ、肉親のようには思ってないんだ」
「そんな……。そんなの、違う」
「違わないよ。あの二人は、こういうのには凄く敏感で弱いって自分で分かってるくせに、捨てていくなんて選択肢があるって時点で決まってる」
「……それは――」
「それに僕だって、ここにいるのは結局は、君が、ああ言ってくれたからなのに……」
心当たりが無いのか、疑問をその表情に映す。
「ずっと一緒にいてくれるって、言ったじゃないか。絶対に裏切らないって、言ったじゃないか……!」
初めてそれを思い出したのか、驚きを見せ、言葉もないのか唇を震わせた。
「そう言ってくれたくせに、君はいま、行くべきか行かないべきかで迷ってるんだよ。今の今まで、忘れてたんだよ。もう、これで、分かったでしょう?」
「……ぅ、う」
声にならないのか、口から漏れるのは呻きだけだ。それもすぐ消えるだろう。認めてしまえば、もう、消える。その手伝いをしてやる。
「でも、もういいんだ。気にしなくていいんだ。君が本当に大切に思ってる人のところへ行けばいい。君の家族のところへさ」
それきり、僕は背を向けて居間をあとにした。居間からは、もう、何も聞こえてはこなかった。
部屋に戻って、ベッドに横になっても、眠れなかった。感情がまだ燻っている。怒りじゃないのか。あれだけぶちまけて来たのに、まだ静まらないなんて。なにか、別のことでもあるというのか。
眠れず、ただ何度も何度も寝返りをうつだけで時間が過ぎていく。いつしか窓から明かりが差していた。陽はもう登り始めたらしい。
それからぼうっと、窓の外を眺めていた。空がだんだんと明るくなる様子が面白くて、ずっと見続けていた。
ふと、玄関が開け閉めされる音が聞こえた。起き上がり、窓から玄関を見下ろすと、晴香が出てきたところだった。
俯いて、大荷物を持って。
これで見納めにするのか、正面から家全体を見上げるように顔を上げた。見られないように窓から離れる。
再び見遣ると、晴香はもう歩き出していた。やけにゆっくり、やけに物寂しく。まるで、誰かに引き止めてもらいたそうに。
晴香は選んだ。
もともと、こうなる運命だったに違いない。
晴香は家族の元へ行く。
至極当然の結果に違いない。
なのにやっぱり、感情はおさまらなかった。
一階に下りてみると、居間のちゃぶ台の上にメモと二種類の通帳が残されていた。
出来れば僕に美里と美也の面倒を見てもらいたい、と。そのために家を自由に使っていいし、通帳のお金も際限なく使っていい。
メモには、そんなことが書かれていた。
ほら、やっぱり。
彼女は裏切り者だ。
僕が暴いてやったのは真実なんだ。出ていったのが何よりの証拠じゃないか。美里と美也を捨てて、家族のところへ行った。
通帳の中身は両方を合わせて一千万を超える額だった。
冗談じゃない。
家族ごっこに付き合ってやった駄賃か。そんなもの要るか。
家を使ってもいいだって?
これも冗談じゃない。契約はもはや破棄されたんだ。こんなところにいつまでもいるものか。一方的すぎる。
いつか、僕たちが似てると晴香が口にしたことがある。そのとき僕は……、僕は確かに四人は似ていると思った。
全員が親無しで、僕と晴香に関しては親戚に恵まれなかった。美里と美也も、晴香がいなければ同じ運命だった。
似てると思った。共感が持てた。
けれど、晴香だけは違ってたんだ。彼女には、まだ生きている家族がいた。父が遺した大きな財産があった。晴香は不幸じゃない。僕や美里や美也に比べれば、遥かに幸福な人間だったんだ。
その結果がこれなんだ、きっと。
幸福な人間には、幸福な人生が待っている。それだけだ。
そう、だから。
不幸な人間には、不幸な人生しか無い。
あ、れ?
なんで、どうして僕は、今、こんなにも不幸を感じているんだ?
どうしてこんなにも、あの感情が、高ぶるのか……。
ん、ああ。そうか。分かった。
これが、感情の正体。
すごい。本当にこれは凄い。かつて無い。見事としか言えない。
こんな裏切り方、初めてだ。
好きな相手を、自分から排斥するようにし向けるなんて。
「ははっ、ははははははっ!」
畳に大の字になり、声の限り笑った。傑作だ。こんなにも好きになっていたなんて、お笑いだ。もう笑うしかない。
まったく、冗談じゃない。
「こんな、こんな……」
こんな目に遭わないように、僕は。
こんな気持ちは二度とごめんだって思ったから僕は!
誰も好きにならないように、好かれないように、嫌われないように。そうやって、生きてきたのに。
大好きだったのに早死にされて。
大好きだったのに裏切られて。
そしてまた、大好きだったのに裏切られた。
理不尽だなと思う。
こんなにも不幸なことが続くなんてどうかしてるよ。
一番始めのが決定的だったか。まだ自分で何かできる歳でもないのに、両親を亡くした。そこからはどん底。底辺にいるとさえ気付かず、精神的にはまだマシだったのが、従妹の裏切りもあって、真に墜ちた。
そこからやっと不幸だと気付き、頑張ってそこから脱出しようとして死ぬもの狂いだった。
そして、ようやく脱出地点が見えたと思って油断してしまった。シンプルな落とし穴に引っ掛かってしまった。
どれもこれも、最初に無理矢理行かされたルートの所為だと思える。僕自身が望んだわけじゃない。選んだつもりもない。
なのに、両親は死んだ。それで決定されてしまった。
どうしよう。もう神様でも恨むか。
守ってくれる人なんて、僕には誰一人としていなかった。そう考えれば、美里や美也も、充分幸福じゃないか。晴香と僕がいたんだ。すでに最低は免れた。
僕とは違う。
いつかまた、晴香と同じように裏切るかもしれない。
金時計……。ああ、金時計があればな。
手放すべきではなかったのだ。あの戒めと、古き決意さえあれば僕はなんともなかっただろうに。
「敬介さん?」
声に驚いて起きあがると、美里がパジャマ姿でこちらを見ていた。
「あ、もしかして起こしちゃったかな? ごめん」
「いえ、あの……。そんな事、より……」
ちゃぶ台の上のメモに目がいっていた。
「読んだまんまの意味だよ」
ちょうど美也も居間に現れる。僕が起こしてしまったのではなく、もう普通に起床時間だったのだと気付かされる。
美里は、メモを何度も何度も読み返していたようだった。それでも内容が変わるわけでもない。
「晴香は、家族のところへ行ったんだ」
「え……」
「僕たちじゃなくて、家族を選んだということ。捨てられたのさ。僕たちは。所詮、寂しさを紛らわすための家族ごっこだったんだよ」
「そんな……」
力無く呟くが、すぐにぶんぶんと首を振った。
「そんなの、嘘です」
「嘘じゃない」
「嘘です。絶対に嘘です!」
「受け入れろ! 現実だ! 晴香はもういないじゃないか!」
「嘘です! 嘘です嘘です! お姉ちゃんはちょっと出掛けただけです! 絶対に帰ってくるんです!」
いつにない美里の剣幕に声が詰まる。
「……もう、好きにしなよ。僕はこの家から出て行く。帰ってこない晴香をずっと待ち続けるがいいさ」
「それも、嘘です」
「なんだよそれ、僕が言うことみんな嘘だって言うのか?」
「私が信じたくないから、それは全部嘘なんです」
「子供の理屈じゃないか」
「それに――」
美里は少しだけ顔を赤らめた。
「――私の好きな人が、そんなこと言うなんて信じたくないですもん」
「……っ」
その刹那、息が詰まる。
それは、場違いな、告白だと思った。
「とぼけてるようでホントは真剣に考えてくれて、恐い時もあるけど凄く優しくて、ちょっと女の人っぽい顔してるけど、ちゃんと男らしくて。私、そんな敬介さんが大好きなんです」
言葉が出ない。こんなの、間違いだと思う。
あっちゃいけないはずだった。
「お姉ちゃんがライバルだっていうのも知ってます。初恋は叶わないっていうけど、それでも、相手がお姉ちゃんならいいんです。その時は、お兄ちゃんって呼ばせてもらえますし」
「やめて、くれよ」
「え?」
背を向けて言い放つ。
「僕を好きになんてならないでくれよ!」
壁に両手と額を叩き付ける。それはひたすらに痛かった。肉体ではなく、精神的に。これではまた縛られる。
僕がこの場から去れば、僕自身には何の影響もないけれど、美里が、いつかの僕のように傷付く。無視してもいいはずなのに、金時計もなく未だにこの場所にいる僕には到底無理な話だった。
「くそ……、くそっ」
何度も、両手で壁を叩く。叩いて、叩いて、叩いて。
「おにいちゃん」
気付けば、美也が近付いてきていた。
「さびしいの?」
「さびしくなんか、ないよ」
「じゃあ、どこかいたいの?」
「え……?」
ああ、変だぞ。こんなの、おかしいじゃないか。
目から、水が、流れているなんて。
「あ……あははっ、そうだね。痛いや。痛い。いたい――」
それは、好きな人を自分から排斥したことへの涙で。
それでも裏切り者には変わらない、と思っている矛盾の痛みで。
そしてもう一つ。
「いたい。……いたいな」
居たい。ここに、居たい。
晴香と美里と美也と僕とが揃って、この場所で居たいと、まだそう思ってしまっていることへの痛みだった。
ダメだ。
僕だけの意志じゃ、やはりダメ。
もう泣かないって、決めていたのに……。
どうしても、金時計に戻ってきて欲しいと、そう願った。
◇
結局、残された僕たち三人は、晴香がいない時――そう、彼女が入院していた時のように過ごしていた。
僕にはやはり出ていくことも出来ず、かといって晴香を許すことも出来ず、どっちつかずとも言える気持ちでいた。
家だけは借り、金には手を付けず。
もうそろそろ外国へ発っただろうかと思い始めた頃。
晴香が帰ってくるなんて絶望的だと思えるようになったその頃。
僕の携帯に、一本の電話が掛かってきた。
公衆電話。発信者を示す文字はそれだけだった。
「もしもし?」
無言。応答がない。もう一度呼びかけてみるも反応は同じ。
ただ、呼吸する音は聞こえた。それに重なる街の雑踏。どこかで聞いたメロディ。時刻はちょうど一時だった。
「悪戯電話なら切りますよ」
『待って……』
相手はようやく声を出した。その声は、よく知っている。
「晴香さんか……」
『う、ん。美里と美也は、元気?』
「今頃になって捨てた妹の心配?」
返す言葉も無いのか、返答はない。
「……元気だよ」
『そう、良かった……』
「もう外国行ったと思ってたよ」
『もうそろそろ、行くの』
「そう……」
『あの、敬介くん……ごめんね』
「なにが?」
『ずっと一緒にいるって、裏切らないって言ったの、私だったのに忘れちゃって。私、いつもそうやって、自分の言ったことも忘れちゃう……』
「そうだね」
『でも、言った時の気持ちだけは、嘘じゃないから。言い訳だけど、それだけ言いたくて……』
「どうでもいいよ。君が僕を裏切ったのには変わりないんだから」
『……ごめん』
「うん」
『もう、電話できないから』
「ああ。外国では家族と仲良くね」
『うん。じゃあ、バイバイ』
そして電話は切れた。泣き声が混じっていた気がする。
電話は、本当にこれが最後だった。
それから数日後のある日。ぶらりと桜井家にやって来た男がいた。
男の名は青山昭吾。オタクである。ついでに言うと僕の先輩である。
「遊びに来た」
「何が目当てですか?」
「いやほら、お前のステディは面白い娘らしいしな。酒もいけるって話だったじゃないか。ほれ」
高そうな酒を持ち上げて示す。
「なんですかステディって」
「想い人?」
「……僕は誰のことも好きになりませんよ」
にやけていた顔が急に真面目になる。
「なんかあったのか?」
「先輩には関係ありません」
「そうはいかん。お前が妙な趣味に目覚めたら大変だ」
「ぶっ殺しますよ?」
「おじゃましまーす」
こっちの脅しを無視して玄関に入っていった。
「ちょっと待て先輩」
追って入っていくと、美里がすでに出迎えていた。
「あれ? 敬介さん?」
こちらに視線が向く。先輩の説明を求めているらしい。
「ああ、まあ、僕の先輩。友達みたいなものかもしれない」
「青山昭吾です。こいつとは中学時代からの仲さ」
「へええ」
「遊びに来たんだとさ。ちょっと騒がしくなるかもしれない」
「大丈夫ですよ」
とにかくは居間に通す。ちゃぶ台に座ると、美里がお茶を淹れてくれた。
「ごゆっくり」
そう言って退室する。
「別にいてもいいのに」
「僕がいさせませんよ」
「信用ねえなぁ」
「信用して欲しかったらそれらしく振る舞って下さい」
ふう、とため息をつくと、先輩はお茶に口をつけた。
「で、何があった?」
「なんで先輩に話さなきゃならないんです?」
「しばらく見ないうちに変わったな。親父さんの形見を使ってまで人助けしようとした奴には見えん」
「今は後悔してるんです」
「ほう。何故だ?」
「あの金時計は、やっぱり僕には必要だからですよ」
そう言うと、先輩はまったく、と呟いた。
「どうしても話すつもりは無いか」
「ありません」
「たまにはこの先輩に頼ってみろ。力になるぞ?」
「……」
「青山昭吾、心の俳句」
「季語はどこです?」
「それ以前に五・七・五になってないだろ」
またため息をついてお茶を飲む。
「そうそう、妹さんたちにも土産がある」
いきなり話題を変えて、鞄の中を漁る。少し大きめのお菓子の箱を二つ取り出す。やっぱり高級そうだった。
「あとで渡しておいてくれ」
「やけに気が利きますね」
「まあな。お前にもスペシャルな土産があるが、まあ、そいつはあとに取っておこう」
「なんでいつもそうやって気を遣ってくれるんですか? そんなに僕と付き合って面白いですか?」
「面白いぞ」
先輩は即答した。微笑も浮かべ、さも当然の如く。
「始めはそうでもなかったがな。まあ、そろそろ付き合いも長いし」
「いつもお節介焼いたり、助けてくれるのは何故です?」
「あんまり言いたくないことだが、交換っこってのはどうだ?」
「はい?」
先輩の提案に、僕は首を傾げた。
「俺が話したら、お前も何があったか話す。というルールだ。もちろん、下らないとかそう思う内容だったら却下していい」
「はあ。まあいいでしょう」
どんな話がきても下らないと言える気がした。
「株式会社アオヤマって知ってるか? アオヤマグループとか有って結構有名だが」
「有名も何も、僕らのバイト先の親じゃないですか」
「俺な、そこの社長の息子なんだわ」
「……ああ、そうですか」
席を立とうとする。が、制され座らされる。
「嘘じゃないって。こんな下らない冗談言うかよ。続きを聞けって」
「はいはい」
「まあ、社長の息子だからってわけでもないが、どういうわけかその辺の人間に親父が紹介したりしてな。顔が広くなっちまうんだ。コネ、出来やすいだろ?」
「水城さんも、そういう繋がりですか」
「いや、水城さんは違う。まあ置いとけ。それでな、アオヤマといえばここ十数年で急成長した会社だってのは知ってるな?」
「ええ。そうらしいですね」
「で、会社が立ち上がった頃には同盟のような仲良しの会社もあった。社長同士が友人だったんだけどな。その会社は、ツクバという名が付いていた」
「……うちの名字と同じですね」
「バカ。お前の親父さんの会社だよ」
その発言には、さすがに驚きがあった。
「アオヤマがピンチの時は、いつもツクバが助けてくれてたのさ。その頃は従業員も五人前後の子会社で、食うに困る時もあった。そんな時に筑波のおじさんは家族と一緒に来て、メシを振る舞ってくれたりもしたんだ。お前のお袋さんの料理はうまかったよ」
「家族と一緒? 僕も一緒でしたか?」
「ま、お前は覚えてないだろうがな」
「……」
「ただ、ツクバがピンチの時にアオヤマには助けてやれるほどの力は無くてね。ツクバは倒産してしまったよ。もっとも、ピンチになったのもアオヤマを助けてばっかだったからなんだがな。そのお陰でうちはなんとか厳しい時期を抜け出せたんだ。アオヤマの古株たちはみんな感謝してるよ」
「……それが、理由ですか?」
「そうさ。親父によく聞かされたよ。筑波の恩を忘れるなってな」
何も言えなかった。
こんな身近な人から、遠い両親の話を聞かされるなんて思ってもいなかった。しばらく口を噤んで、ようやく話せるようになる。
「同じ中学や高校だったのは、どういうことです?」
「偶然だよ。俺たちが中学で会ったのは本当に偶然さ。まあ、高校と大学は、それとなくお前に勧めたりはしたがな」
「そうですか」
「だがまあ、俺たちは偶然会っただけだが、色んなところでお前を助けてくれた人は結構いるはずだ」
「そうですか?」
「さすがに家庭にゃ立ち入ることは出来なかったみたいだがね」
視線を落とす。全然、そんな気はしない。けれど、確かに、家庭生活が悲惨だった割には学校生活は平穏だった気はする。
「お前、親父さんのこと悪く言う時あるよな」
「ええ。それが?」
「もうやめなよ」
今までに見たことがなかった。ここまで真剣な目をする先輩を、僕は一度だって見たことはなかった。
「お前の親父さんもお袋さんも、確かに早死にしてしまった。それは確かに不幸だよ。でもご両親の人格は、周りの人間に刻まれてるんだ」
お茶を、飲み干す。
「助けてくれと言われれば手を貸す。困っていれば黙っていても手助けする。お前の周りには、気付かないだけでそういう人が結構いるんだぜ。それは、お前に両親がいたからなんだぞ。
そうやって、死んでしまっても、親は子を守れるのさ」
「そんなこと……今頃、言われたって……。僕は、それでも……」
それでもまだ、恨めしいと思う。早死にした所為で、僕の人生に狂いが出たって事は変わらないと、思う。
「それならそれで、今はいいさ」
気楽に先輩は言う。
「さて。次はお前が話す番だ。何が、あったんだ? っと、その前に、美里ちゃーん、お茶のお代わりお願い」
大きな声を出して催促する。律儀にも、美里はその注文に従っていた。少し呆れる。
「……ところで先輩」
「なんだ?」
「少しは遠慮して下さい」
「いいだろ別に。あんな可愛い子にお茶を淹れてもらう幸福がお前には分からないのか?」
「ロリコン」
「イエース。ロリコンの何が悪い?」
「死ね変態」
「ひどいなぁ、敬介ぇ」
「ていうか、手ぇ出したらマジ殺しますよ?」
ふむ。と唸って先程淹れられたお代わりに口を付けた。
「で、何があった?」
結局、先輩がしてくれた話を下らないと言って切り捨てることは出来ず、僕は話した。
晴香の肉親が現れたこと。迷っていたこと。その本質を暴いたこと。裏切られたこと。
僕の持っていた金時計の意味も、ついでに話しておいた。
「――だから、後悔してるんですよ。金時計を手放してしまって、そのせいで僕は今……」
「そうか。よく話してくれたな」
目を瞑ったまま、先輩はゆっくりと首肯した。
「……確かに、そうだな。行ってしまったこと、いやそれ以前に迷う時点でお前を裏切ったと言えなくもない、かもしれないな」
「そうです。でも、やっぱり僕はダメですね。あの金時計が無いと、二人を見捨ててここから出ていくことも出来ない」
「けど、本当に家族ごっこだったのかねえ?」
「どういうことです?」
「俺には、本当に心が通じているように見えるな」
「それは先輩がよく知らないからですよ」
「そうかなぁ。俺には、家族が現れた嬉しさのあまり、お前に言った言葉すらも忘れてしまって、それを指摘されたのがショックで家出したようにも見えるが」
「凄い推論ですね」
「ま、あくまでも仮定だからな。でも、ちょっとした根拠はあるんだぜ?」
「その根拠ってなんです?」
「最低でも、お前に対しては絆があるという点かな」
「何言ってんです?」
「俺そろそろ帰るわ」
唐突に立ち上がって先輩は帰り支度を始めた。
「突然ですね」
「酒は晴香さんと飲んでくんな」
「今頃はもう外国ですよ」
「それはどうかな?」
鞄を肩に掛けると不敵に笑った。
「そうそう。これをお前の家族から預かってた。ちょっと遅くなったが、返すぜ」
ポケットから取り出したそれは、僕にとって、あまりにも意外すぎる物だった。
「な……ん、で――?」
先輩はその経緯を説明してくれた。そして、最後に問うた。
「さて、どっちだ?」
その答えは、すぐに出た。
「僕ですね」
「かもな」
「そうだ。僕だ」
口の中で呟いてその事実を頭に叩き込む。
この手の中にある物が、ここにある理由。
そしてそれが持つ意味。
裏切ったのは、僕の方だ――
あばよ、と残して去ろうとする先輩を引き止めた。
「……先輩、まだもう少し、話を聞かせて下さい」
「ああ、いいぜ。俺、結構頼りになるだろ?」
僕は聞きたいことをすべて、先輩に一つずつ訊ねていった――
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