戻る 目次へ 作品インデックスへ TOP 次へ


≪Tales Of Orphans≫




 
Chapter 7 Bonds Of Affection
 
 
 
 三日間ほど桜井家の全総力を結集して探索に当たっていたが、未だにターゲットの確保はおろか、発見すら出来ないでいた。
 一度、携帯に電話を掛けた事があったが、出たかと思った瞬間に切られ、電源も落とされた。
 声すら聴けなかったのは惜しいが、掛かった時点で国内にいることは分かったので安心できた。前の電話ではもうそろそろ行くと言っていたのに、なぜ未だ国内にいるのかは気になる。だが、そんなことは実際どうでもいいのだ。些細なことなのだ。
 近くにいると踏んで手分けして探すも、見つからない。
 駅前の時計台。
 人の行き来の激しいその場所でも、晴香は見つからなかった。近くには公衆電話。ベンチに座って休んでいれば、いつしか噴水が動き、メロディが流れ始める。
 晴香は、ここの公衆電話から僕に掛けてきたのだろう。
 今頃探しても、その姿は影も形もない。
 その日の捜索は打ち切り、僕たちは家に戻った。よほど疲れたのか美也はすぐ眠ってしまう。美里は疲れとは違うもののために、元気が無かった。
「お姉ちゃん……帰ってきますよね?」
 三日目にして、美里は初めて弱音を吐いた。畳の上で体育座りして、膝小僧に額をこすりつける。
 ただ待っているだけならいい。だけど、実際に捜し回って見つからないという事実は、精神的に落ち込ませるものだったのだろう。
「そう不安がることもないよ」
 ちゃぶ台でお茶を一服し、明るめに答えた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるんです? もう帰ってこないかもしれないって言ってたのに」
「あれは撤回するよ」
 膝を抱えたまま顔を上げる。
「撤回……ですか?」
「うん、撤回。帰ってこないつもりなら、引っ張ってでも家に連れてくればいい」
「でも見つからないと何も……」
「見つけるまで探すさ」
「見つけても、どうしても嫌って言われたら?」
「絶対に言わせるもんか」
「それでもやっぱりお母さんたちの方がいいって言われたら?」
「卵焼きをエサにして釣る」
「あははっ」
 ようやく美里は笑顔を見せた。体育座りを止め、ちゃぶ台の方へ来る。僕の隣に座った。すっ、とこれ以上なく自然に、美里は肩に寄り掛かる。
 じわり、と体温が伝わってきた。
「……私のお父さんとお母さん、事故で亡くなっちゃったんです」
 耳のすぐそばで美里は静かに言った。
「いきなりいなくなってて、遅いなって思ったら、交通事故だって。急だったんですよ。すごく急にいなくなって、帰ってこなかったんです」
「そっか……。そうだったんだね」
「でも、でもお姉ちゃんは、違いますよね。ちゃんと帰ってきますよね。嫌だって言われても、敬介さんが絶対に、連れ戻してくれるんですよね……?」
「うん。任せておいて。絶対に、もう、掴んだら離さない」
 にこり、と美里は笑顔を見せた。
「お姉ちゃんのこと、本当に好きなんですね」
「……ごめんね。どうやら、そうらしい」
 小さく首を振る。
「いいんです。でも、その代わり今日からお兄ちゃん、ですよ?」
「うん……。許可」
「あははっ。お兄ちゃん」
 肩から背中へ体温が移る。美里は、背後から抱きついていた。今までよりずっときつく抱きしめられていた。震えている。掛ける言葉はない。何も言わず、そっとしておいてあげる。
 やがて美里は離れた。振り向いて見ると、ちょっとだけ瞳が潤んでいた。二度目のごめんは飲み込み、聞こえないよう心で言った。
「寝ますっ」
 明るく、笑顔で就寝を宣言する。
「うん、おやすみ」
「はい。お兄ちゃんも、あんまり夜更かししちゃダメですよ」
「分かってる」
「じゃあ、おやすみなさい」
 階段を上っていくその足音は、枷を断ち切ったように軽く、明るいリズムを生み出していった。
 湯飲みの中身を飲み干す。
 我が愛すべき妹は、強い子だ。自慢できる。そして、見習わなければならない。
 湯飲みを流し台に置き、その足で僕も自室へ向かった。
 ベッドに横になると一日の疲れがどっと眠気になって襲いかかってきた。その奔流に身を任せながら、晴香のことを思う。
 今頃どうしているのか。
 会えたなら、何を言おうか。
 とにかく礼を言わないといけない。
 それに、謝らないと――
 思考の船は波に呑まれ、ぐらつき、睡眠の大海に沈んだ。
 
 夢を見た。
 幼い頃の夢。白い部屋。病院。病室。
 父が寝ていた。
 それは、僕が父と最後に話した日の夢。
 ずっと忘れていた言葉たち。
 渡された金時計。
 今も時を刻み続ける古びた時計。
 夢は途中で切り替わる。
 晴香が怪我をして帰ってきた日の夢。
 手当。金時計。安らぎ。希望と承諾。感謝の言葉。
 戒めの金時計など要らないと言って、そして孤独が終わった日。
 ずっと一緒にいたいと言った。
 そして、ずっと一緒にいたいと言ってくれた。
 また見ている夢が切り替わる。
 いつか、僕が桜井家を出ようとした日の夢。
 土手。夕暮れ。水面の光。曇り。雨。
 自分の身の上を語って、逃げようとして。
 それでも晴香は引き止めた――
 
 そこで目が覚めた。
 まだ眠くて仕方ないというのに、何かに呼ばれたように身体が勝手に目覚めてしまった。起きあがって頭を掻く。窓からは明かりが漏れていた。愛用の時計は早朝と言える時刻を針で指している。
 時計を手に取ろうとする際、窓の外の景色が見えた。それは桜井家の玄関。塀の外。町には朝靄が立ちこめ、白く柔らかい空気が流れている。
 僕は一人の人物がいるのを見た。
 荷物は無く、身一つ。
 顔もろくに見えないのに誰だか分かった。どんな表情かだって、まるで見えるように分かる。
 家を見上げ、辛そうに視線を落とす。一歩踏み込もうとするも、躊躇い、泣きそうな顔で首を振って、足を戻した。
 僕には、彼女がその行為を何度も繰り返してきたような、そんな気がした。
 ふらふらと、何度も振り返りながら朝靄に紛れて歩いていく。
 服を着替え時計を身に着け、念のため財布と携帯を用意し顔を洗う。これらの動作を三分未満に済まし、彼女が去っていった方角へ足を進めた。
 いつか散歩で通った道。逃げようとして歩いた道。
 この先には十字路があって、信号がないから事故が多くて。
 もっと先に行けば土手がある。下れば川遊びも出来る。そこからちょっと歩けば対岸へ渡る橋もある。
 まだ大多数の人が寝ている町は本当に静かだった。
 歩いていくうちに今すぐ声が聴きたくなって、晴香の携帯に電話を掛けてみた。電源を落としたきりなのか、繋がらず無機質な声の案内が流れるだけだった。
 土手の近くに来たところで足音を消す。
 そこから進んで視線を落とすと、やはり彼女はそこにいた。いつかの誰かさんのように、少し降りたところで腰を落としていた。
 物憂げに、寂しげに。彼女はため息をついた。
「ため息を一つ吐く度に幸せが一つ逃げていくんだってね」
 驚いた表情で、こちらを見上げる。
「それとも、幸せをなくしちゃったからため息が出るんだっけ?」
 土手を下って、隣に立つ。視線は逸らされた。
「座るよ」
 断りを入れ、答える前に腰を下ろした。
「なにを……しに来たの」
 晴香は初めて口を開く。ひどく懐かしく感じる声だった。
「連れ戻しに」
「なんで? 私、裏切り者だよ。敬介くんが言う通り、私は、みんなを道具みたいに思ってたの。きっとそうなの。だから、もう、戻れないよ」
 ただ川の流れだけを見ている。風で髪がなびく。草も揺れる。
「美也は、君が帰ってくることを疑いもしてないよ」
 反応がないのでそのまま続ける。
「美里だって、帰ってくるって信じてる。帰ってきて欲しいって本気で思ってるんだ。あの二人、君のことを、本当に姉だって認めてるんだよ」
「……どうして連れ戻しに来たの? 二人が帰ってきて欲しいって言うから? 違うよね。それだけじゃないよね」
「帰ってきて欲しいって思ってるのが、もう一人いるからさ」
 俯き、泣きそうな顔になる。
「私、分かんないよ」
 小さく、蚊の鳴くような声で言った。それでも強く鼓膜を叩く。
「敬介くんに否定されて、本当に裏切り者だって思って。心の奥じゃ大切にしてなかったんだなって思って。お母さんたちのところ行ったけど、いざ出発しようとしたら、足が動かなくなっちゃって」
 またため息をつき、自嘲気味に笑った。
「私、浮かれてたんだね。お母さんが来てくれて、おかしくなっちゃってたんだね。お父さんの遺産の話とかよく訊かれたし、冷静になってみたら、分かったんだ。表面的には優しいけど、やっぱり、伯父さんたちと同じ目をしてたの。
 通帳とか全部人にあげてきたって言ったら、手の平返されちゃった。それで、私はいま一人です。お母さんたちは国へ帰りましたとさ」
 その時、僕は初めて気が付いた。
 晴香の身体の線がやけに細くなっていることに。痩せたというよりやつれた印象がある。
 晴香はろくに金なんか持っていかなかったに違いない。
 母親たちと別れてからの数日間をどう過ごしてきたか、想像しただけで胸が詰まる。
 それは、僕のせいだ。
「――ねえ、敬介くん。家族ってなんなのかな? 血が繋がっててもお母さんと私は家族じゃないし、心が繋がってるって思えたのも結局は気のせいらしいし。
 私、もう分かんないよ」
 僕の瞳を見据え、すがるように言葉を放った。メガネの奧の瞳の中には、本当の裏切り者がいる。
「僕が君に言ったことをすべて撤回したい」
 わずかに目を見開くと、小さく口を開けた。
「裏切り者は君じゃない。君の気持ちも知らずに、自分勝手なことベラベラ並べて君を追い込んだ、僕の方こそ裏切り者なんだ。気持ちが揺れてしまってる時に、信じようともしないで――」
 一度開かれた口はなかなか閉じない。懺悔室で神父を前にした人の気持ちに似ているかもしれない。僕は、自分の罪を、すべて告白する。
「僕は、嫉妬してたんだ。君の家族に。だからあんなこと言ったし。辛くも当たった。君を……、僕たちの家族を、誰かに取られるのが嫌だったんだ」
「……分かんないよ。分かんない。やっぱり分からないよ。家族って、なんなの……?」
 頭を下げて首を振る。
「君がいつも言ってたじゃないか。心が繋がってるから自分は美里と美也のお姉さんなんだって」
「でも、それは――」
「僕は分かってなかっただけなんだ。君は、紛れもなくあの子たちの姉だよ。行かなかったことも、家に帰ろうとしてくれたことも、その証拠じゃないか」
 言葉を句切ると僕はポケットから、出る時に持ってきた時計を取り出した。それは懐中時計で、金で出来ている。僕の祖父の代からずっと時を刻み続けてきた金時計。
「これがここにあるのも、そうじゃないの?」
「それ……、どうして……?」
「先輩が返してくれたよ。僕がもう一人になろうとしないようにって、君が預けておいてくれたんだよね」
 ありがとう、と僕は言った。
「知ってたんだよね。僕がこれを手放した理由も。大切にしてることも。だから取り返しに行ってくれたんだよね。会うのも嫌がってた親戚のところへ行って、罵られ殴られても、取り返してくれたんだよね――」
 それを知った時、この金時計はもう戒めや古き決意の象徴ではなくなった。別の、もっと強く、それでいて優しいものへと変わった。
「――分かってなかったのは僕だけだったんだ。君が、どんな思いでこれを取り戻してくれて、どれだけ僕を大切に思ってくれてたか」
「敬介くん……」
「ありがとう……」
 朝靄はだんだんと薄くなってきていた。見通しもよくなり、空もより明るくなっていく。
 晴香はもう鬱いだ顔はしていない。
 高ぶっていく心を抑えることなく僕は続ける。
「父さんの夢を見たんだ――」
「お父さんの?」
「――うん。この金時計をくれた時のこと。それが僕が会った最後だったんだけど、父さんが、最後になんて言ってたか、やっと、思い出したんだ……」
 ――それだけしか遺してやれなくてごめん。
 ――本当はもっともっと、幸せをあげたかった。
 ――幸せはお金じゃ買えないんだから。
 それは、ずっと忘れていた言葉たち。嬉しく思う反面、ずっと忘れていたことを哀しく思う。
 父さんの遺産は、すべて借金の返済に充てられることになっていた。それでも足りなくて、金時計もその一部になるはずだったのを、父さんは周りに秘密で僕に渡してくれた。
 他のなにも、形見にあげられないから、せめて自分が大切にしていた金時計を……と。自分との繋がりを……と。
「父さんのことは、ほとんど覚えてなくて、どんな人だったのかも記憶からじゃ判断できないけど――」
 そうやって、何かを遺してくれたこと。
 桜井家と同等の大きさの家を構えていたこと。
 アオヤマの人達に今でも尊敬されていること。
 そのお陰でいつも誰かが僕を支えてきてくれたこと。
 借金も、失業した従業員らのために自ら背負ったということ。
 それらすべてで、判断できる。
「――父さんは、尊敬できる人なんだ。君が、この金時計を取り戻してくれたから分かったんだ。思い出せたんだ。君のお陰なんだ」
 そう。
 これで、僕は、やっと――
「やっと、父さんを恨まなくてもいい。それが嬉しくて、嬉しくてたまらない……」
 金時計を目の前で握り締め、天に掲げる。
「これは父さんと僕の絆で、僕と君の絆なんだ」
 正面から晴香の瞳を捉える。
「だから晴香、帰ってきてよ。お願いだ。一緒に――」
 瞬間、無言で抱きしめられた。不意のことでバランスが崩れ、そのまま背中から倒れてしまう。
 晴香の重みと体温を全身で感じたかと思ったら、そのまま横に転がって二人で大の字の形になった。
 草の香りが届く。僕の右手と晴香の左手が繋がっている。二人の手の平には金時計があった。
 朝靄が完全に晴れた。日も昇り、優しい風が頬を撫でていく。
「僕はもう一度契約する」
「私もする」
 金時計を挟んだまま、強く手を握る。
「僕はずっと、永遠に君から離れない」
「私もずっと、永遠に君から離れない」
「裏切らない」
「絶対に」
「富める時も貧しい時も」
「病める時も健やかなる時も」
 僕は右手を、晴香は左手を高く空にかざす。
「例え死の災いが降りかかっても」
「例えどんな隔たりに引き裂かれても」
「僕は――」
「私は――」
 ――あなたと共にあることを誓う。
 それは愛の契約。
 誓いの言葉と共に口づけをした。長く長く口づけをした。
 この瞬間、僕たちは本当の家族になれた。
 もう離さない。もう逃げない。もう、無くさない。
 気付けば、僕は泣いていた。ぽろぽろと涙が零れていた。
 初めて。
 そう、僕は初めて嬉しくて泣くことが出来た。
 握った金時計が時を刻む。それは父の言葉を伝えていた。
 ああ、そうか。そうなんだ。
 これが、幸せなんだ――
 
 




戻る次へ


Tales Of Orphans

作品インデックスへ

TOP