戻る 目次へ 作品インデックスへ TOP 次へ


猪俣高校一年D組わけありクラス
‐ゆうきとゆき‐






第一章 誠実な嘘つきと人見知りお嬢様




 新聞と牛乳を配達する最後の一軒。坂の上のおおきな屋敷。
 今日は不思議なことに、そこの執事と思わしき人が柵状のおおきな門の隣にある通用口から出てきて僕に話しかけてきた。物腰の丁寧な、長身の初老だった。
「相川勇樹さま、ですね?」
 名前を知られているのは意外だった。
「はい、そうですけど」
「私は西条家に仕える那須丈二と申します。少々お願いしたいことがございます。お時間はよろしいでしょうか」
 僕は首をかしげた。しかし乗ったままで話すのは失礼だと思い、自転車から降りた。時刻を確認する。学校がはじまるまでは、だいぶ余裕がある。すこしくらい話し込んでもなんら問題はない。
 僕は、いいですよ、と答えた。
 執事は礼を言うと話をはじめた。
 簡潔にいえば、アルバイトをしないか、という話であった。魅力的な時給と不思議な仕事内容。あやしげな予感と、濡れ手に粟の期待。仮にやるようになったら、放課後に来てもらいたいとのことだった。
 スーパーマーケットのアルバイトとかぶってしまう。すこし思案して、すぐに答えは出せないという結論に達する。考える旨を告げると、執事は翌日の朝、同じ時間に待っていると言ってくれた。
 人付き合いの狭い僕であったが、幸いなことに、狭い中で深く付き合ってくれる友人はあり、相談に乗ってもらうことはできた。そして結局、僕はこのアルバイトを引き受けることにしたのだ。
 時給二千五百円の破壊力は、やはりおおきかった。


 坂の上のお屋敷は、そこに住まう西条家の存在を見ながらにして認識させられるものである。
 西条家については、こちらに引っ越してきた頃からちらほらと噂は聞いていた。この地方の名家で、その当主はいくつかの企業の社長やら会長やらをやっているとか。親類の中には国会議員もいるらしい。この地の権力者というわけだ。
 それだけを聞くと遠い世界の話に思えるが、意外と身近なところに西条の名はあった。
 我がクラス、一年D組の出席番号女子八番。西条雪。
 彼女こそが僕のアルバイトの中心となる人物であった。
 執事から頼まれたのは、彼女と友人として付き合うというものであった。一度も会ったことのない、入学式以来登校していないクラスメイトと友達になって欲しい。訪ねてきて、友人として時を過ごして欲しい。それが仕事の内容である。
 その初日。
 学校が終わると僕はすぐに寮へ戻った。そこから自転車に乗って坂の上の屋敷へ行く。執事は門の前で待っていた。
 丁寧な物腰は相変わらずで、深々とお辞儀をする。
「お待ちしておりました」
「こんにちは、那須さん」
 執事は勝手口を開けて僕を敷地内へと招き入れた。一本につづく道の先へは屋敷の玄関。庭は広く、芝生は多い。木々も植えられて、緑に満ちた風景だった。庭というよりは公園のように思える。
 やたらとおおきい玄関を執事が開く。映画の『風と友に去りぬ』で見たような屋内が奧に見えて、あまりに場違いに思えて緊張してきた。
 踏み入る一歩手前で立ち止まる。執事の顔を見上げる。
「どうか、いたしましたか?」
「いえ……。その、那須さん。訊いてもいいですか」
「はい。なんでございましょう」
「なぜ僕なんですか。こういう役目なら、だれにでも頼めますよね」
 先日からずっと気になっていた。執事は即答した。
「はい。相川さまはお嬢様の境遇を知っていらっしゃいますね?」
 知っている。西条雪は今年の一月だか二月だかに、両親を亡くしている。事故死で、友人によると一度だけニュースがテレビで流れたらしい。西条家の当主の座は長女の雪へと転がったが、現在は彼女の叔父が代行しているそうである。
 執事の問いに、ええ、とうなずく。すると表情も変えずにこう返してきた。
「相川さまも似た境遇でいらっしゃいましょう」
 僕はすこし息を止めた。
「……調べたんですか?」
「失礼ながら。近辺に住むクラスメイトの方々のことはすべて」
「そうですか」
「そんな相川さまならば、お嬢様のお心を癒していただけるかと思いまして……」
「僕にそんなことができると思うのですか」
「はい。相川さまは、それでも明るく過ごしていらっしゃいます。その明るさをお嬢様にわけていただきたいのです」
 僕は一旦うつむいた。
「……努力してみます」
 そして一歩踏み出す。玄関をくぐり、西条家へ足を踏み入れた。靴は脱がなくていいらしい。
 まず開けたロビー。二階へつづく階段。床には高そうな絨毯が敷かれていて、壁や照明の飾りもたいしたものだった。左右にはそれぞれ通路が見え、屋敷が奥深いことがわかる。執事が左側へ案内してくれる。その間に、僕はふたたび口を開いた。
「それで……僕はどうすればいいんです?」
 執事はわずかに眉を動かした。
「どう、とは?」
「クラスメイトとはいえ、いきなり見も知らぬ相手が訪ねてきたんじゃ、あやしまれますよね」
 執事の言から、僕を雇うのはお嬢さんの意志ではないことがわかる。おそらくは執事の独断だろう。それなら、僕が雇われたことはお嬢さんには伝えられていないはず。僕が自分の意志で会いに来たものだと思うだろう。
 ならば、なにかしら理由の捏造が必要だ。雇われたから来た、なんていう理由では彼女の心を癒すことなどできまい。
 執事はうなずいた。
「……それはこれからご相談に乗っていただくつもりでした」
 応接間と思わしき部屋にとおされ、テーブルに座らされる。執事はコーヒーを淹れてくれた。
「お察しのとおり、雪お嬢様にはこのことはお知らせしておりません。あくまでも、クラスメイトの厚意。そしてそこから発展する友情ということにしておきたいのです」
「けれど、そんな都合のいい出来事が起こるわけもないから、僕を雇うのですね」
「はい。そのとおりでございます。お嬢様はご両親を亡くされてからというもの外へは出たがらず、体も、もともとなのですが、最近はさらに弱くなりがちです。ひとりのご友人に恵まれるだけでも、だいぶよくなるかと存じます。
 ですので相川さまも、そのように振る舞ってくださいませ。くれぐれも私に頼まれてこのようなことをするとは知られないよう、お願いいたします」
 コーヒーに口をつける。苦い。コーヒー好きには美味しく感じる味なのかもしれないが、もともと僕はコーヒーは好かない。紅茶のほうが好きだ。しかし出されたからには最後まで飲むべきだろう。
 カップを置いた。
「わかりました。雇われた以上は従います」
 このコーヒーみたいな仕事だな、と思った。騙すような気がして嫌だが、雇われたからには従うべきなのだ。
 どのように風に振る舞うかを考えて、それを執事に話した。うなずいて、それではお嬢様をお連れいたします、と部屋を出ていった。
 ため息をひとつ。手持ち無沙汰だった。なんとなく鞄の中から一枚の写真を取り出す。こうして眺めるのは何回目だろう。十回に達してはいまい。
 そこに写っているのは肌の白さと髪の黒さが印象的な女の子である。おとなしそうな雰囲気でどこか憂いがある。顔はよく整っていて、陳腐だが、素直にかわいいと思えた。
 この写真を受け取ったときのことを思い浮かべる。

 先日、このバイトに関する相談に乗ってもらった友人のひとり、平田雅彦は言った。
「俺はやってみていいと思うね。お前にとってもメリットがある。お嬢様に近づいておいて損はないからな」
 そう? 僕はすぐ聞き返した。
「そうだとも。まあ筋を示すとこうだ。バイト、口説く、メロメロ、逆玉の輿。どうだ。イッツ、パーフェクト。やってみろ」
「なんか、その……。口説くって部分とメロメロって部分の間に、なにか足りものがあるように思うんだけど」
「手込め、だろ? あえて伏せたんだ。言わせるなよな、まったく」
 一緒に相談に乗ってもらっていた友人らの失笑を買いつつも、パーフェクトの和訳を知らないらしい雅彦は、写真を取り出して僕にくれた。それがいま僕が眺めている写真である。
 彼女がお前の将来の伴侶ってわけだ。雅彦はにやけた顔で言った。
「いい加減しつこいね、君も。こんなのどこで手に入れたの?」
「俺が撮ったんだ」
「いつ? どうして?」
「入学式のとき。かわいかったから」
「ああ……、そう」
 入学式の日に彼女が来ていたことは初耳だが、彼がカメラを持ってきていたことも初耳であった。すくなくとも僕は、雅彦がカメラらしき荷物を持っていた覚えはない。
 どうやって撮ったの? とも訊きたかったが、そこは修羅の道っぽいのでやめておいた。
「とりあえず、先に顔くらいは覚えとけ。あそこの家には娘がふたりいるらしいから。いきなり間違えたりしたら心証が悪いぞ」

 彼が最後に言っていた言葉こそが、彼なりの配慮である。中学校の頃からの友人である雅彦はいつも女の子の尻を追いかけて、よく三枚目を演じている。中学生の頃はそれなりにモテていたようだが高校に来てからそうなってしまっている。僕は彼が深いところで真面目で誠実であることを知っているから信用もするし、忠告などは素直に従う。そういった面を隠さずにいればもっとモテるだろうに、と言ったことがあるが彼の回答は「いや、いまのこの状態がいいのさ」だった。
 今回は執事が本人を連れてきてくれるようなので、雅彦が危惧したようなことは起こりえない。しかし、最初の心証が大切だというのはわかる。
 写真の中のお嬢様は僕にどんな印象を持つだろうか。
 普段は見た目から人を判断するようなことはしないが、今回は彼女がしとやかな、絵に描いたような乙女であるように思える。そんな想像が膨らんでしまっている。
 もしそうなら、なおさら失礼がないようにしないといけない。肝に銘じて写真を仕舞う。
 やがて戻ってきた執事が部屋の扉を開けると、その子は入ってきた。緊張感が音を立ててさらに張りつめる。写真どおり――いや、姿形はそのままであったが、なにかがちがった。
 雰囲気だろうか。と考えたが、結論が出る前に声が届いた。
「はじめまして相川さん。私が西条雪。よくいらっしゃったわ」
「あ、ええ。はじめまして。相川勇樹です」
 つい慌てて立ち上がってしまう。僕よりやや背が低くて細い。写真にあった憂いの表情はなく、白い肌と黒くて長い髪はより鮮明だった。整ったその顔は、凛としていてとても同い年とは思えない。
「座って」
 優雅な様子で椅子に座る。こちらも座って向き合った。
「それで。クラスメイトの相川さんがどのような御用?」
「ええっと」
 一瞬ちらりと執事に目をやる。
「その、西条さん、いままで学校来てなかったでしょ。そろそろ中間テストの時期だし。勉強とか、大丈夫かなって」
「それを心配してわざわざ?」
「うん、まあ。気にかけてる先生もいるみたいだしね。僕が取ったノートでよければ見せられるから」
「そう。でもせっかくだけど、私にそんな必要はないの」
「それは、テストを受ける気がないってこと? テスト期間にも学校へ来る気はないの?」
 雪は首を横に振った。
「学校へ行かなくてもテストを受ける方法はあるわ。どうにでもできることよ」
「そうなんだ? じゃあどうして必要ないの。結局テストは受けるんでしょ」
「相川さん。見くびらないで欲しいわ。私はこれでも西条家の当主なの。そうための教育も受けてきてるわ。一般の高校で習うような学問は、もうとっくに習い終えてるの。テストごときで心配される必要なんて私にはなかったの」
「へえ……。じゃあどうしてうちの学校に? 西条さんほどの人が」
「研究のためよ。私はあなたたちの上に立たなければならないの。どんなことを考えてるかくらい知っておかないといけないわ。つまらなくてすぐ飽きたけれど」
「そ、そうなんだ」
 ええ、そうなの。答えると、執事が会話中に淹れたコーヒーに口をつける。映画でしか見られないような、お手本のような飲み方だった。
 僕は内心、ひどく困っていた。そして後悔と憤りを感じていた。
 写真を見たとき、僕は期待した。しとやかとか、絵に描いたような乙女だとか。
 たしかに、しとやかとは言えるかもしれないが、これは高飛車を絵に描いたようなものと思う。言葉づかいは僕に合わせているのか、対等ではある。しかし、どうもバカにされている気がする。
 抗議はするまい。これはお仕事。時給二千五百円。僕は雇われの身。もともとはこれ以上につらい仕事ではないかとも想像していた。
 だが、やはり僕ひとりでは荷が重すぎる。視線で執事にサインを送った。ほんのわずかに執事はうなずく。
「しかしお嬢様。せっかくのご厚意です。無にすることはないかと」
 執事のいる方向にほんのすこし視線を向けて雪は答える。
「わかってるわ、丈二。他人様の厚意を無視はしません。お父さまから言われてますもの。それに、猪俣高校がどの程度の授業をしているのかも気になるわ」
 僕に向きなおる。
「相川さん。ノートを見せていただくわ。書斎へ行きましょう」
「ああ、うん……」
 雪が席を立つ。こちらもそれにならった。執事が静かに扉を開ける。書斎までは雪が案内してくれた。一応は客人として扱ってくれているらしい。
 書斎のテーブルにつくと、僕は鞄からノートと教科書を取り出した。今日の授業で使ったものばかりである。どうやら先ほどの言葉は建前ではないらしく、雪は開いたノートや教科書へは興味を示した。
 数学、物理、日本史、現代国語。今日は体育が一時間あったため、学問といえる授業は四時間分しかなかった。雪はそれぞれのノートへ目をとおしたが、しかし、すぐ飽きたようだった。
「教科書に書いてあることを写して、問題演習をしているだけなのね。教師独自の考えを聞けないんじゃ、授業として面白くないでしょう?」
「そう、かな。知らないことを教えてもらえるのは、けっこう楽しいけど」
「その楽しみは、教師がいなくても味わえるわ。本を読めばいいもの。学問の本当の楽しさはそのあと。自分以外の、先達の意見を聞いて、より自分の見解を深め、学友と磨きあうことや、新たな事実を自らの力で発見することにあるのではないかしら」
 言われて、すこし考える。たしかにそうかもしれない。けれど、それを一般の高校生にしろというのは無理があるだろう。
「まあ、高校とかってそういうことをするための基礎を学ぶための場所だろうから、さ」
「そうね。たしかに一般的にはそう考えられてるみたい。でもそれは本来なら義務教育ですませておくべきよね」
 ふう、と雪は息をついた。
「でも高校や大学でも基礎だけ――いいえ、基礎すらろくに身に着けずに出ていく人が多いみたいね」
「そうだね。実際、勉強がしたくて学校へ行く人のほうがすくないんじゃないかな」
「意義がないわね」
「いや意義はある、と思う」
 すこしだけ雪は目を丸くした。
「そうかしら」
「同年代の人間と交流できる場でもあるし。高卒、大卒って印は、社会に出たあとで役に立つみたいだからね」
「相川さんも、そういう目的で学校へ?」
 僕は正直にうなずいた。
「友達は大切だし。大卒の印も欲しいから、まず大学へ行くための勉強をするために高校生になったんだ」
「それが一般的な高校生なのかしら」
「意志の強弱はあるけど、わりと一般的だと思うな」
 雪はうなずいた。
「そう。でもやっぱり学校としての意義はないわ」
 話が切れたそのタイミングで、いつの間にか来ていた執事がコーヒーとお菓子を出してくる。
「丈二。相川さんの用事はもうすんだのよ。引き止めるようなことはおよしなさい」
「失礼いたしました」
「あなたはよく気がつく優秀な執事ですけど、たまにこうやって癖みたいにお茶を淹れるから困るわ。まったく。相川さん。もったいないから、一杯分付き合っていただけます?」
「うん、僕は構わない」
 執事はほんのすこしだけ笑みを作った。意図的にやったらしい。正直、僕はすぐにでもこの高飛車なお嬢さんの目の前から立ち去りたかったが、仕事なのである。その目的を考えれば、執事のタイミングはこれ以上なく有効だった。仲良くならなければ、目的は果たせない。
 しかし、彼女を癒す必要などあるのだろうか。
 両親の死に多大な衝撃を受けているわけでもなく、見方によっては立派に立ち直っているように見える。
 彼女との会話は流れて、クラスのことに移った。雪は一応は自分のクラスのことには関心があるようだった。
 僕たちのクラス、一年D組に変なあだ名がついていることを話すと、雪はオウム返しに聞き返してきた。
「わけありクラス?」
「そう、わけありクラス」
 すこし不思議な話だ。大小はあれど、全員がそれぞれなにかしらの事情がもとで入学した。そんなわけありの生徒のみで構成されたクラスなのだと聞いている。
 全員がわけありだというのは、あくまで噂に過ぎない。だが、そういった生徒が目立つことはたしかである。教師間で囁かれていた呼び名がいつの間にか生徒にも伝わり、一年D組は校内での通称が『わけありクラス』となった。
 そう説明した。
「変なあだ名ね。実際になにかしらの事情があるのはせいぜい二、三人でしょうに。高校生の噂話なんてその程度でしょう」
「そうかもしれないね。でもなんだか僕には、ただの噂ってわけでもないと思えるんだ。何人かそういう友達がいるから」
「それこそ錯覚じゃないかしら」
 つまらないわ。学校の七不思議と同レベルよ。雪はすぐ興味をなくしたようだった。
 そして二時間。そのやたらと人を見下したように聞こえる声に、はじめてぶつかってから二時間が経って、ようやく解放された。
 またいらっしゃいな、暇潰しくらいにはなったわ。と言った雪に愛想よく別れを告げたのち、門の前で僕はため息をついた。
 夕暮れどき。坂の上であるここからはオレンジ色の町並みが見渡せた。かすかな風が吹く。バイトあがりはいつも開放的な気分にひたれるはずだったが、今日はちがった。
「申しわけありません」
 声にふり向くと、執事が頭を下げていた。
「なぜ謝るんです」
「お嬢様が失礼を……」
「……いつもああなんですか」
「いえ。その……。あれは、よそ様向けのものです」
「よそ様向け?」
「はい。お嬢様は、お客様にはおおよそあのように振る舞うのです」
「……僕はバカにされている気がしましたけど」
「悪気はないかと思われます。一線を引いておられるのと、その、少々戸惑っておられたためにあのような言葉づかいになったかと」
 僕はすこしだけ首をかしげた。
「戸惑っていたんですか」
「私にはそのように感じました。いくらお嬢様でも、初対面のお相手にあそこまでの態度を取られるのは、いままでにないことです」
 そうですか、と答えて僕は口を閉じる。しかしすぐ質問したいことができた。言葉に出す。
「普段は……那須さんが知ってる普段のお嬢さんは、どんな感じなんですか」
「世間については少々不勉強なところがございますが、基本的には自由奔放な性格で、明るく無邪気な方でした。本当は堅苦しい言葉づかいも嫌いだとも仰っておりました」
 執事の顔はほとんど変化がなかった。けれど彼が、彼の知っている雪を話したこのときは、わずかに真面目な表情がゆるんで穏やかなものが見えた気がした。
 そして、その言葉が過去形だったことにも気づいた。
 そのための僕なのだろう。
 手段として嘘を使ってしまっているが、執事の雪を想う心は本物だと思った。そういうのは嫌いではない。
「相川さま。その……お気持ちはお察ししますが、どうか、二度と来ないとは仰らないでくださいませ」
「心配はいりませんよ那須さん。僕は解雇されるまではやめるつもりはありません。すくなくともいまは」
「ありがとうございます。では、またお越しいただけるのですね」
「明日で、いいんですか?」
「はい。よろしくお願いします」
 こうして新しいバイトの初日は幕を閉じた。


 猪俣高校の全教室の窓際には扉があり、表に野ざらしにされた狭い空間に繋がっている。ひさしはなく、胸の高さくらいの塀があってかろうじて屋内と屋外を仕切っていた。なんのためにこの空間を設けているのかは知らない。けれど僕は、そこから校庭を眺めるのが好きだった。それだけで充分、存在意義がある。
 この高校に入学してから、一ヶ月とちょっとしか経っていない。
 その短い間にできた習慣のひとつだった。昼休みには、仲のよい者たちと昼食がてらに談笑して、そのあとひとりでぼうっと校庭の様子を眺める。塀の上に肘を乗せて、今日もそうしていた。
 ふと背後から声が届いた。何年も聞いてきた、馴染みのある声だった。
「ねえ勇樹。祥子から聞いたけど、新しいバイト、けっこう大変そうだね」
 南真希。僕とは小学生の頃から付き合いがあって、雅彦より付き合いが長いが、この地方では珍しい友人という点ではふたりとも同じである。彼女が口にした祥子というのは共通の友人である村木祥子のこと。バイトをはじめる際には、真希にも祥子にも相談した。そしてその経過は真希より先に祥子に話してある。
 ふり向いて、いやそうでもないよ、と答える。
「あれだけ時給が高いと、相手の人格のことで文句は言えないよ。合わせるのは大変だけど同じ額を同じ時間で稼ぐともっと大変だろうから」
「そっか。じゃあ、とにかく前よりは時間空くようになるんだね」
「その日にもよるけど、まあ時間的にはだいぶ楽になったかな」
 それなら。真希は教室を見渡した。
「もうすこし、みんなと遊べるよね」
 僕は、誘われても滅多に一緒に遊びに行けない。その理由もバイトであることがほとんどのため、ケチで付き合いの悪いやつだと一部のクラスメイトに思われているようなのだ。ときどきそういう声が聞こえてくる。微笑んで返す。
「心配してくれるのはありがたいけど、その辺は大丈夫だよ。雅彦たちもいるし」
「でも、でもさ、余裕ができたんなら……」
「いつまたもとのバイトに戻るかわからないしさ。それに、べつになにかされて困ってるわけでもないよ」
「それでも、みんなに悪く言われたりするのは聞いてられないよ。みんな、なにも知らないくせに……」
 表情が曇る。真希はいつも気にかけてくれる。長い付き合いというのもあるけれど、たぶん、それだけが理由ではないだろう。生まれついて持っている優しさが、彼女をそう動かすのだと僕は思う。
 そのことに感謝しつつ、僕はまた軽く笑った。
「なにか困ったことがあったら、そのときは相談するよ。真希は、頼りになるからさ」
「うん。そういうことならいつでも、二十四時間受け付けるからね」
 真希は、クラスの中で映えるほうではない。全体的に地味な印象がある。祥子とは同じ女子のグループに属しているようだが、その中でもひかえめな存在のようである。
 顔のパーツひとつひとつの作りは特別綺麗というわけではないが、どれも標準的でバランスよく配置されているため、見た目の印象はいい。けれど髪型も趣味も落ちついているためか、やはり目立たない。性格的なところもあるか。
 いつもだれかを陰で支えている、そんな印象を持つようになったのは、いつのことだろう。表に出て目立つ者より、ずっと必要とされる種類の人間だと常々思う。
 話題は流れて、近くに迫った中間テストへの対策に関することになった。僕が教える形である。彼女は以前から勉強はそれほど得意ではなかった。
 放課後。ひとあし先に寮へ帰る真希ともうひとりの友人、三条賢治らと別れて西条のお屋敷への道を行く。門の前には執事が待っていて、昨日と同じように雪と会うことになった。
「あら、相川さん。本当にまたいらしたの」
「うん。昨日は持ってこなかった教科のノートもあるから、一応ね」
「ほかにすることはないの? けっこう暇なのね」
 一日で態度が変わるわけもなく、彼女は相変わらずだった。
 話題を考えたり場を保たせたりするのは大変だったけれど、これであの時給なら、まあ安いものだと思う。昨日の執事の言葉があってか、ストレスはそれほどたまらなかった。あるいは、想像していた人物とはちがうという身勝手な理由が、昨日のストレスの原因だったかもしれない。あくまでも、かもしれない、という範囲だが。
 執事が言う、明るくて無邪気な雪はまだ見えない。
 日当の入った封筒をそのまま財布にねじ込んで僕は帰宅する。正確には帰寮といったところか。僕にはもう帰る家はない。

 そうしてちょうど一週間が経つ頃。特に変化を感じた覚えはなかったが、雪はだいぶ僕に慣れたようだと執事は言った。
 その日もいつもどおり。精一杯に話題を振って、執事と協力して場を保たせて。そろそろ話題も執事の小細工も尽きて、今日のお仕事終了とばかりに帰ろうとしたとき。
 僕は、はじめて雪の変化を知った。
「……もう帰るのよね?」
「うん、そのつもりだけど」
「そう……」
 いままでにない反応だなと思いつつ、じゃあまた、と別れの挨拶を口にしたが、雪からの返事はなかった。代わりに雪は、あっ、と声をあげた。
「え、どうかした?」
 一瞬だけ気弱そうな表情が見えたが、すぐいつもどおりになった。
「いえ、その。……相川さん、ひとつ訊いてもいいかしら?」
「うん。どうぞ」
「いつも……いつも、ほとんど毎日会いに来てくれてるでしょう? それはどうして? なにか、本当はべつにおおきな理由があるのではなくて?」
 勘づかれたかと思い内心ヒヤッとするが、表情には出さずに聞き返す。
「どうしてそう思うの?」
「うちに来るときは毎回なにかしら理由をつけてるでしょう? 一度や二度なら、こういうこともあるでしょうけど。でも毎回というのは、そうそうないわ。偶然と考えられるほど私は純真ではないもの。裏になにかあるって勘ぐりもするわ」
 どうなの、と一歩踏み込んで訊いてくる。こちらは一歩退いて、執事に視線で助けを求める。手が思いつかないのか、執事はちいさく首を振るった。
 仕方ない。
「わかった。話すよ。たしかに君の言うとおり。いままで来てた理由には嘘も含まれてる。そういうのとはべつに、おおきな理由があるのも、事実だよ」
 決意して雪の瞳を正面から見据える。雪はおおきくうなずいた。
「その理由は?」
 執事が覚悟したように目をつむる。ややして口が開かれる。
「お嬢様。それは――」
 僕はそれを言葉でさえぎった。
「那須さん。いいんです、もう隠せません。僕から言いますよ」
「しかし……」
「いえ。僕が言わないで欲しいって頼んだことですから」
 ぴくり、と執事の眉が動く。ね? と念を押す。
「わかりました」
 これからすることを理解してくれたらしい。一方、雪が腕を組んでジト目で執事を睨む。
「丈二、あなたは知ってて教えてくれなかったのね」
「申しわけありません」
「まあ、いいわ。口止めされてたなら仕方ないもの」
 こちらに向きなおる。
「それで。話してくれるのよね?」
「うん、話すよ」
 また嘘をつく。彼女に嘘をつく。
 罪悪感を殺しながら、僕はこう説明した。
 最近になって西条家の前当主とその妻が亡くなったことを知り、雪が登校拒否しているのはそれが理由なのではないかと考えて、勉強のことなどのほかの心配事あったので、そのついでに様子を見に来た。そのときに執事から色々と聞いて、どうやら精神的に本調子じゃないのだと確信して以後も通うようになった。
 ここまで説明したところで雪は質問してきた。
「でも……その、動機がよくわからないわ。相川さんは、うちとはなんの関係もないでしょう。それが、どうして気になったりなんか……」
「ああ、それは……」
 軽く笑う。
「環境はちがうだろうけど、境遇は近いからかな。僕も両親いないんだ。それで、なんとなく気になっちゃってさ。友達がいれば元気が出るかなって……。勝手な思い込みかもしれないけど」
 面食らったらしく、雪は目を見開いたのちに逸らした。
「ご両親が……?」
「うん。まあ、それが認識できるくらいの頃にね」
「……でも、それなら義理でも、ご両親はいる……でしょう。私とはちがうわ」
「そうだね。でも、気持ちは沈むし、そういう人が代わりになれるとは限らないよ。君にとっての那須さんや妹さんも、ご両親とはちょっとちがう、でしょ?」
「……ごめんなさい。そうね、私……。悪いことを、聞いたわ」
 うつむいてしまう雪に、僕はあんまり気にしないでと声をかけた。実際、気にされたほうが対処に困る。
「でも、知られたくないから丈二に口止めしていたのでしょ」
「そうだね。話したらこんな風になるって気がしてたから」
 すこしだけ顔を上げてこちらに視線を送ってくる。
「相川さんは、どうしてそんなに明るくしていられるの?」
「友達がいたからだよ。それと、時間が経ったからかな」
「……そう」
 そのまま雪は押し黙った。
 嘘をつくコツは、その嘘の中に本当を混ぜること。いつの間にか身に着けていた。嘘をついてもいい相手には、ためらったりはしない。が、最終的には彼女のためとはいえ、本来は必要のないはずだった嘘をつくのは心痛い。
「それじゃあ、僕はそろそろ」
 帰ろうと思って声をかける。雪は返事をせずに視線を上げたのみだった。
「あれ? どうかした?」
「……あの、相川さん」
 やっと口を利く。
「お時間、もうすこしいいかしら?」
「え。うん、べつにいいけど。どうかしたの?」
 するとこちらの問いには答えず、執事に向かってコーヒーを淹れてくるように指示した。彼女の案内でいつもの応接間へ。
 向かい合って座ると、雪はいきなり切り出した。
「相川さん。私についてなにか知りたいことはない?」
「え?」
「そのつもりがなかったとはいえ、私は相川さんのプライベートなことを聞いてしまったわ。これでは一方的すぎるでしょう?」
「べつに聞かれて困るわけじゃないし、気にするほどのことでもないと……」
 そこにタイミングよく執事がやってくる。目の前にコーヒーが置かれるそのときに、執事は微笑して言う。
「お嬢様は相川さまと対等でありたいのですよ」
「え、なんですそれ。どういうことですか」
「つまり――」
「丈二!」
 雪が口を尖らせてさえぎる。勢いあまったらしく、テーブルに手をついて立ち上がっていた。
「余計なことは言わないの。私は西条家の娘として、借りは作ったままにしたくないだけよ」
 僕は思わず笑ってしまった。この屋敷の中で、作り笑いではない笑みを表に出したのははじめてだった。
「な、なにを笑っているの。冗談を言ったつもりはないわ」
 抗議するように矛先をこちらに向ける。
「いや、でも。なんていうかさ。律儀っていうのかな、そういうのがちょっと意外で」
 本当はなにかを誤魔化そうとする雪の様子がどこかかわいらしくて、それでいて、いままで見てきた彼女の様子とのギャップがおかしかったからだ。
 これが執事が言っていた、明るくて無邪気な彼女の一端だと思う。
 雪はようやく立ち上がってしまっていることに気づいて、慌てた様子で腰を下ろした。こほんと咳払い。
「それで相川さん、なにかないの? チャンスよ。いまならなんでも答えてあげると言っているの」
「そうだね、それじゃあ――」
 雅彦だったらきっととんでもないことを迷わず訊いてしまうんだろうな、と思いつつ口にした。
「――せっかくだから教えてもらおうかな。好きな食べ物とか」
 えっ、と意外そうに洩らす。
「そんなことを?」
「そんなことって言うけど、これもプライベートなことだよ」
「でも……」
「他に訊きたいことはないこともないけど、なんていうか、そういうのは、聞いちゃったからこちらも話すとかじゃなくて。話したいときに話したい相手に話して、聞きたいときに聞きたい相手に聞くものだと思うんだ」
「そういう、ものなの?」
 不思議そうに口にする。
「僕はそう思う。それが当たり前にできるのがきっと友達って関係なんだ。貸し借りにしても、いつでも借りて返せる」
「そう……そうなの。そういうのって、いいわね……」
 なぜだか、また視線を落としてしまう。そのままにはしておけない。話題を戻す。
「それよりも。話してくれると嬉しいんだけどな、君の好物」
 一週間もかかったけれど、僕はようやく彼女に対して好意的な感情を持つことができたようだった。自然に、それこそ友達と話すときのように笑うことができる。
「うん、わかった」
 彼女も顔を上げて、いままでとはちがった笑みで答えてくれた。
 思っていたとおりだった。人は好きなものを話すときは明るくなったり雄弁になったりする。何度か咳きこんでしまうのはすこし心配だったが、雪はいままでよりずっと楽しそうで口数が多かった。
 好きなのは、ホットケーキやクレープなど。わりと庶民的なものだったり、松茸や寿司などやけに高級感漂うものであったり。洋風のお屋敷に住んでいても、好物は和洋どちらかに偏ることはないのだなと、当たり前かもしれないが、そう思った。
 好物のどこが好きかを語るときの雪は表情豊かで、ついにはふたり分のホットケーキを執事に焼かせるまでに至った。それを頬張る彼女は、満面の笑みで一緒に食べる僕に語りかけた。
「ね、美味しいでしょう」
 那須さんが淹れてくれる苦手なコーヒーも、このときはわりとすんなりと飲み干すことができた。
 途中で帰ってきた雪の妹までまじえて、いつもよりずっと長く雪との会話を過ごしたのち、僕はついに帰ることになった。雪が玄関まで送ってくれて、そこからはいつもどおり執事が門まで同行した。
「那須さんの、言うとおりでしたね」
「はい。あんなに楽しそうなお嬢様は久しぶりに見ました」
 執事も嬉しそうに口の端がゆるんでいる。
「ちょっと、意外でしたよ。玄関まで送ってくれたこともはじめてでしたけど、また来てってあんなに期待されて言われるのは」
「どうやらお嬢様は、相川さまのことを気に入られたようです。相川さまの機転が功を奏したようですな」
「……ですか」
 ええ、とうなずく。
「お嬢様は友達同士は対等でなければならないと考えているのです。借り貸しなしが正しいと」
「それでいきなりあんなこと言い出したんですね。そういう考えは嫌いじゃないですけど、ちょっとちがう気がします」
「そうかもしれません」
「……でも西条さんは僕と、友達になりたいって思ってくれたんですね」
「はい。そのようです」
「すこし、嬉しいです」
 そして僕はそのまま帰ろうとして、執事に引き止められた。
「相川さま、こちらが今日の分になります。お持ちください」
「……あ。はい。ありがとう、ございます」
 差し出された封筒に、一気に現実に引きもどされた。
 雪の相手をしていたのはあくまでも仕事だから。その仕事のために本当のことは隠して、騙したままにしている……。
 封筒の中に入れられた日当は、いつもと比べてずっと増えていた。
 見上げた夜空は、星ひとつなくて真っ黒だった。








戻る 次へ


猪俣高校一年D組わけありクラス ‐ゆうきとゆき‐

作品インデックスへ

TOP