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猪俣高校一年D組わけありクラス
‐ゆうきとゆき‐






第二章 友達の条件




 それから数日経ったある日。
 いつもどおり屋敷へ行くと、門には執事ではなく、見覚えのある少女が立っていた。雪に似ているけれど別人。髪は短く、その艶のある黒は雪と同じ。顔立ちは雪よりやや幼く、それでも実年齢よりは上に見える雰囲気。活動的なのか健康的に日に焼けた肌。
 西条家の次女。雪の妹。屋敷の中で何度か会ったことがある、西条桜だった。
「あれ、桜ちゃん。那須さんは?」
 桜は重たく口を開いた。
「丈二は、いま姉についています」
 その雰囲気に、なにかあったのだとすぐ理解する。
「なにかあったの?」
「姉が倒れたのです」
「倒れ、た?」
 瞬間。ひどく心が揺れた。大切なところを隠して、騙して。嘘で塗り固めてきたはずの彼女との関係だったが、やはりここ最近は僕の中で雪の存在はおおきくなってきているらしい。いつ崩れるかもわからない関係だというのに。
「お見舞いさせては、もらえない、かな?」
「私もそうしていただければと思ったのですけど、姉は、どうしても相川さんには会いたくないと……」
「僕に、会いたくない……?」
「強がってますけど、本当は寝込んでしまっている姿を見られたくないだけなのだと思います」
「そう。そっか……」
 胸に湧き上がってきたのは素直に残念に思う感情だった。
 その感情に気づいて、かえりみる。どちらだろう、と。
 今日のバイト代がもらえないことか、単純に雪に会えないことか。どちらを残念に思ったのか。
「あの、相川さん」
 答えが出る前に、桜が口を開いた。
「聞いてください。姉のことです」
「西条さんの、こと?」
「はい。相川さんには知っておいていただきたいのです」
 桜は語った。
 生まれつき体が弱かった雪だったが、治療や生活習慣などに気を配ることで、平均的な丈夫さは持つようになっていた。しかしそこで両親の事故死。精神にひどい打撃を受けて寝込んだあとは、以前のように虚弱な体になってしまった。現在もかかりつけの医者にしっかり診てもらって薬を飲ませたりもしているが、現状はこのとおりである、と。
 体が弱いことは執事から聞いてはいた。聞いて知っていたけれど、理解していたわけではなかったのだと痛感した。桜が薬を飲ませる場面も数度見たことがあった。ときおり咳きこんだり、ぼうっとしてしまったりするのも見たことがあった。けれど僕はそれをたいして気にしていなかったのだ。
「姉は、相川さんに会うようになってから、気持ちは前みたいに元気になってきたのですけど、その……身体がついてこないようなんです」
「……もしかして、僕が、無理をさせてしまっている……のかな」
「いえ。それとこれとは……」
 もしかしたら、学校へ来ないのも本当はこのあたりに理由があるのではないだろうか。いまは置いておく。
「とにかくは、今日は、会えないんだね……」
「はい。すみません」
 桜は深々と頭を下げた。
「謝るべきは僕のほうかもしれないよ」
「そんなことは、ありません」
「それじゃあ」
「あの、相川さん」
 呼びかけに、一度向けた背を戻す。
「うん?」
「姉とは、ずっと仲良くしていてください、ね」
「そうだね。一応は、そのつもりだよ」
 そして僕は帰寮する。
 いつもとちがう時間に下る坂は、やはりいつもとは、ちがった。

 寮の自室には、同居人の三条賢治がいた。寮ではふたり一組でひとつの部屋が割り当てられる。安物の絨毯の上にちゃぶ台ひとつ。部屋の端に二段ベッド。各々の私物は押入の中。
 賢治はちゃぶ台の上にノートパソコンを置いてなにかの作業をしていた。ケーブルが部屋の端にまで伸びている。どうやらインターネットに接続もしているらしい。
 着替えていないのか制服姿のままである。僕と同じだ。僕が帰ってきたことに気づいて、こちらに目を向ける。
「あれ? はやいな」
「うん、ちょっとあってね」
「なにかあったのか。ついに俺の出番か?」
 メガネのズレを直す際、照明の明かりを反射してきらりとレンズが光る。バイトをはじめるかどうかの相談は彼にもした。やってみてもいいんじゃないか、という回答のあと、彼がつづけた言葉は次のとおりである。
 ヤバイ仕事を無理矢理やらされて、しかも逃げられないようだったら、いつでも俺に言え。いくら西条家が相手だとしても法廷は公正だ。証拠集めの手助けくらいならいつでもしてやる。
 冗談なのか本気なのかわからない発言が多く、しかし冗談だと思っていたことも実行していたりする高校生らしからぬ友人である。その知識量や行動力は素直に尊敬に値する。
「いいや――」
 ちゃぶ台を挟んだ向かいに座る。
「――べつにたいしたことがあったわけじゃないよ」
「そうか。そりゃよかった。こちらもちょっと仕事があってなぁ。西条家を相手にするには時間が足りない」
「いやいや。西条さんとこ、感じいいよ。すくなくともあの屋敷にいる人に悪い人はいないと思う」
「そうか、な? ああいう色々とでかい家には権力争いってのがあるのが常だ。当主の代理がなにやってるのかもわからんし、連中が腹の底でなに考えてるかもわからんもんだろ。俺たちの知らない世界の住民だしな」
「すくなくとも君が思っているような家ではないよ」
「まあお前がそう言うなら、そうなんだろうけど」
 作業がすんだのか、賢治はパソコンを仕舞いはじめた。ちゃぶ台は共有スペースであるため使い終わったら上になにも置かないルールにしている。
 賢治は天井近くの壁にかけられた時計を見上げて呟いた。
「そろそろかな」
「なにが?」
 そのとき廊下で人の足音が聞こえた。
「いや、ちょうどいまらしい」
 扉が開かれる。部屋の出入り口にやってきたのは、ほかならぬ平田雅彦であった。学校から直行したのか彼もまた制服のままである。おいーっす、と声をあげて右手を軽く上げる。
「あれ? 勇樹もいたのか珍しいな」
「ああ、どうやらちょっとなにかあったらしい」
 賢治が受け答える。へえ、とうなずく。
「なんか暗い顔してるな。嫌われて辞めさせられたってオチか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「わけを聞かせろよ」
 特に隠すことでもない。ため息をつきつつも、僕が今日すぐに帰ってきた理由を簡単に話した。雅彦は笑った。
「なんだよお前。なんだかんだ言ってたわりには、ずいぶんと入れ込んでるじゃないか」
「……そりゃあ、毎日会ってればすこしはね」
 そのことについては、なぜだか素直に認められなかった。
「それより雅彦」
 そこに賢治が口を出す。
「君が来たってことは、祥子も来てるってことだろ」
「ああ、外で待ってる。行こうぜ」
 ふたり揃って立ち上がる。
「なに? 三人でどこか行く予定だったの?」
 ああ、と雅彦が答える。
「ちょいと遊びに繰り出すだけさ。俺と祥子はちょいと学校に用事があってな。賢治には待っててもらってわけだ」
「ま、せっかく勇樹もはやくに戻ってきたんだ。たまには一緒に行かないか」
 賢治の誘いには素直に従うことにした。久しぶりに取れた暇な時間だ。こうやって使うのも悪くない。
 寮の外には真希と村木祥子が一緒にいた。祥子が手を振って位置を知らせる。
「遅いぞー。って相川? バイトはどうしたの?」
「うん、それが――」
「結局、辞めたらしい」
「ちがうよ!」
 すかさず雅彦にツッコミを入れる。ケタケタと笑った。
「それより、南も一緒だったとは」
 賢治が冷静に真希の存在を指摘する。祥子がうなずく。
「うん。さっき会ってさ。私が誘ったの。まずかった?」
「いや。こっちも勇樹連れてきたしな」
「それより――」
 真希が口を出す。これこそが本題であるとばかりに。
「――ホントに、勇樹はバイトどうしたの?」
 駅前への道すがら、僕は真希と祥子にも軽く説明した。
 ふうん、と祥子が洩らす。
「そういうことがあったんだ」
「まあ、ね」
「だからそんな辛気くさい顔してるわけね。もしかして好きになっちゃった?」
「祥子、それは飛躍しすぎだよ。せいぜい友達ってところ」
「へーえ。いい子なんだ、西条さんって。前はあんまりいい印象はないみたいなこと言ってたくせに」
「いいじゃないか、べつに」
 真希がなにか言いたげに視線を向けてくる。なんだろうと思って口を開きかけたが、雅彦が話題を転換してしまったので流れた。
「好きとか嫌いとかといえば、賢治。お前、今日はあの子は来ないのか?」
「な、いきなりなんだよ」
 珍しく賢治がうろたえる。よくわからなくて首をかしげる。
「あの子? あの子って?」
「ああ、勇樹は知らないんだよな。放課後によく賢治んとこに来る女の子がいるんだよ」
「バカ、雅彦。なに言ってんだ」
「クラスメイトのぉー、如月ぃ――」
「ちょっ、待て雅彦! お前なにか勘違いしてないか」
「あー? そうか?」
「俺と如月は、お前が思ってるような関係じゃない」
「べつに俺はお前らの関係なんかなにも言ってないだろ。それともあれか? なんか想像したか?」
「……ッ」
 全員から顔を逸らす賢治。どうやら照れてしまったらしい。
 つい、笑ってしまう。学校の外で、こんな風に友人と一緒に笑っていられるのは久しぶりだった。そのときふと連想する。出てきたのは、雪の笑顔だった。
 彼女も、久しぶりだったのだろうか。
 雪が見せるようになった楽しそうな笑顔が浮かぶ。
 こうやって町を友達と歩きつつ笑い合える時間の楽しさを、彼女は知っているのだろうか。執事は、仲のいい友達がいないようなことを言っていた……。
 真希、雅彦、賢治、祥子。この地での僕の友人はここに全員揃った。揃ったと思ったが、ひとり足りない……。
 頃合いを見て、僕は切り出した。
「今度、機会があったらさ――」
 この五人に、もうひとりが加えられる日を思い描き、口にする。
「――西条さんも、一緒に連れてきていいかな」
 快く答えてくれた友人らに僕は感謝した。

 次の日の雪は、まるで昨日のことのなどなかったかのように元気だった。身体は大丈夫かと聞いてみると。
「あんなのなんでもないわ。丈二や桜が大袈裟なだけよ」
 強がった風に言った。実際、健康そうに見える。けれど、その日に焼けてない白い肌と細い身体を見るとすこし不安にもなる。
「そうなのかな。本当に大丈夫?」
「ん? それは心配して言ってくれているの? それとも、私の言うことが信用できないの?」
「そりゃ、心配してるに決まってるじゃないか」
「そう……」
 ちいさく、瞳を下に向ける。口元がかすかにゆるんだ。
「ありがとう」
「友達なら当然だよ」
「あら、私は相川さんのこと友達だなんて言ったことはないわよ」
 雪は微妙に目を逸らして言っていた。
 けっこう、わかりやすい。
 その日は、わりとはやめに切り上げて寮へ戻った。


 それはいまにも泣き出しそうな曇り空だった。中間テストも数日後に迫っているが、それでもやはり向かう先は西条のお屋敷である。
 成績が悪かったりするとシャレにならない事態にもなりうるので、勉強はいつも必要なだけきちんとしてある。
 いつもどおり自転車で屋敷へ向かう途中、とおりかかる公園の砂場で遊んでいる子供が目についた。男の子と女の子のふたりで、男の子のほうが砂の山を作って、女の子のほうがてっぺんから水を流して遊んでいる。肌も服も泥に汚れている。ふたりともいまは楽しそうだが、あとで親に怒られはしないだろうか。そんなに汚れてしまうまで砂山を作らなくてもいいのに。どうせ崩れてしまうのだから。
 屋敷で雪と会う。今日の話題は、ふたたびクラスのことになった。担任教師のことにはじまり、僕と親しいクラスメイトのことへ。先日、彼らと一緒に遊びに行った話もした。
 雪は興味を示した。
「ふうん。商店街って、あの駅前の近くの?」
「そうだよ」
「買い物するのに何人も連れ立っていくの?」
「べつに買い物するだけが目的じゃないよ。一緒に喫茶店に入ったり、商品見ながら会話したり……。実際に買ったりもするけど、基本的には遊んでるんだ」
「そういうのは私、したことないからよくわからないわ。相川さんはいつも友達と一緒なのね」
「いや、この前は偶然時間があったから一緒に行けたんだ。僕が買い物するときはだいたいひとりだよ。ちょっと寂しいけどね。まあ仕方ないさ」
「そう……」
 そのまま口を閉じて数秒。なぜか徐々に顔が赤らんでくる。息を止めているのかと思ったが、ちがうということはすぐに知れた。
「……私が、一緒に行ってあげてもいいわよ?」
 一瞬、疑問符が頭に飛ぶ。
「一緒に行きたいの?」
「ちがいます」
 ぷい、と顔を背ける。
「ひとりで行くのは寂しいのでしょう。ならそこにひとり加えればいいの。相川さんがどうしてもと頼むのなら、私が付き合ってあげてもいいと言っているのよ」
「あ、そうなの」
「そうよ。だいたい、私はわざわざそんな場所で買うものなんてないわ。だいたいのものは揃ってるし、必要なものは注文すればすぐ来るし。行く必要なんてないし、行きたくなる理由もないのよ」
 右手が顎下までいったところで優雅に軽く握られる。
「けど、頼まれて断れるほど狭い心は持ち合わせていないわ。当主たるものは器量がなければならないもの」
「そう? でも、そんなの悪いから。ひとりで平気だよ」
「あら? あらあらあら?」
 こちらに向きなおって目を細める。
「せっかくの人の厚意なのに。いらないって言うの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 身を乗り出し、妙な迫力を持って言葉を突きつけてくる。
「ハッキリしないわね。いいこと? 人からの親切を無視することは、相手の気持ちを踏みにじることにもなるのよ。私はべつにそれくらいいいけど、人と人との関係を円滑にするには、ときには相手の厚意にすがることも必要になってくると思わなくて?」
 僕はついに笑いを表面に出してしまった。もう堪えきれない。要するに、彼女はどうしても僕と一緒に商店街へ行きたいらしい。
「私は冗談を言ったつもりはありません」
「いや、うん。よくわかったよ。買い物、一緒に行こう」
 すると雪はどこか嬉しそうに、しかし素っ気なくため息をつく。
「相川さん、人にお願いするときは――」
 言い終わる前に、僕は合掌した。
「お願い。僕の買い物に付き合ってください」
 伏し目がちになって、雪は顔を赤らめた。
「……いいわ。そこまで言うなら、付き合ってあげる」
 僕はやはり笑いを堪えることができずに、くすくすと笑った。
「笑うところじゃないでしょう」
「あははは。ごめん。じゃあ、いつにしようか」
「私はいつでもいいわ」
「それじゃあ。今週はテスト前だから……テスト明け――そう、来週の土曜日でいいかな」
「ええ。じゃあ十一時頃に門のところで待ち合わせましょう」
「うん? 来たら呼んでもらうから、わざわざ外にいなくてもいいと思うけど?」
 言うと、真正面からじっと見つめられる。怒っているとも照れているともつかない、よくわからない表情である。雪は強硬に繰り返した。
「待ち合わせましょう」
「……ああ、うん。わかった」
 もしかしたら僕は流されやすいのかもしれない。よくわからないけれど、従うしかないと思ってしまった。
 その後、帰ろうとした頃。雨が降り始めていた。
 雪や執事にしばらく雨がやむまで待てばいいと言われ、その言葉に甘えて応接間で時間を潰していた。執事は学校へ傘を持っていかなかった桜を迎えに行った。
 ふたりきりになって、雪との会話は途切れていた。話題がなくなって、それきり。重苦しい雰囲気ではない。雪はにこにこしていて、僕自身、しばらく雪と一緒にいられるのは嬉しく思える。
 窓の外に降る雨を眺めていると、ふとこちらに来るときに見かけた公園で遊ぶ子供たちを思い出した。雨も降ったことだし、もう帰っただろうか。
 雨はしつこい。そろそろ判別もつく。この雨は長くなる。
 ふと、雪が口にした。
「悪くないわね、こういう雰囲気も。静かで、落ちつく」
 そうだね、と答える。それは僕にとって、雅彦や真希たちと一緒にいるときに感じるものと同等のものだろう。それを口にすることをはやめておいた。友達だなんて言ってない、思ってない。と、そんな風に照れて強がる雪も好きだが、こうやって落ちついている彼女の姿も絵になる。それを壊したくない。
「ねえ相川さん。さっきからなにか考えているでしょう?」
「え、ああ、うん」
「なにを考えているの?」
「べつにたいしたことじゃないよ。テストが、本当に近いな、って」
 嘘をついた。本当はべつのことを考えている。
 はじめの一週間はよかった。僕は雪に対し悪い印象を持っていて、仕事だから付き合っていると考えていられた。その対価としてお金をもらうことになんの抵抗もなかった。
 けれど、いまはちがう。
 もうお金なんてもらえない。けど、それを辞めたら収入が早朝のバイトのみになってしまう。それでは、困る。しかし重ねて思う。これ以上は友達同士であることの対価はもらえない。
 何度か迷ってきたことだが、やはり以前のバイトに戻るべきだろう。こちらにもう毎日来られなくなることは、すこし残念だけれど僕が取るべき選択肢の中では一番のものだろう。
 そして、事を荒げる必要はない。執事と僕がしていたことは、雪に知らせる必要はない。僕は言う。バイトをはじめるから毎日は来れなくなると。きっと雪はうなずく。それなら仕方ないと。
 そして僕のバイトは終わる。雪にとっては、僕の厚意からはじまった友情以外のなにものでもない関係がつづく。僕にとっては、お金の上に成り立っていた嫌な関係が終わる。正しい意味で友人として付き合っていける。
 そう、決めた。
 彼女が一緒に遊びに行こうと提案した今日が、いい頃合いであるように思える。
 玄関のほうで人の気配を感じた。桜が帰ってきたのだろう。執事も帰還したはずである。
「やみそうにないから、僕そろそろ帰るよ」
 言って席を立った。雪はすこし残念そうだったが、引き止めはしなかった。
「そう……。なら傘を貸すわ。持ってくるからここで待ってて」
 雪も席を立って小走りに玄関先のほうへ駆けていった。僕は荷物を肩にかける。入れ違いに執事がやってきた。タイミングがいい。雪が戻ってくる時間差で充分に話せるはずだ。
「もう、お帰りですか」
「ええ。長居してしまいました」
「それでは、これは今日の分です」
 いつものように懐から封筒を取り出す。中の金額は予想がつく。まともなバイトなら十時間以上働かないと手に入らない額のはずだ。惜しい気持ちはあるが、これは、もうもらってはいけない金である。
「那須さん。それは、もういただけません」
 執事が疑問の表情を見せる。すぐに不安げなものに転換された。
「もしや、お嬢様がまたなにか?」
「いえ。西条さんが嫌いでバイトを辞めるというわけじゃありません。むしろその逆です」
「では……」
「……そりゃ、はじめは印象悪かったですけど。いまは僕、西条さんのこと友達だと思ってます。一緒にいることの対価なんて、もうもらえるような関係じゃない」
 執事は安心したようにちいさく息をついた。
「わかりました」
「毎日は無理ですけど、これからも来ていいですよね?」
「はい。もちろんでございます」
 けれど執事は封筒を仕舞わなかった。
「それでは契約はただいまより打ち切りますが、今日まで私の都合で働いていただいたことに変わりはありません。けじめです。今日の分はお受け取りください」
「那須さんも、律儀ですね」
 仕方ないなと思いつつも、受け取るべく手を伸ばした。そのときだった。
「……丈二、それは……なに?」
 雪の声が、聞こえた。ふたり揃って声のしたほうへ向く。そこには傘を持った雪がいた。ありえないものを見たかのような表情だった。
 一気に体温が下がり、背筋が総毛立つ。やってしまった。思ったよりも、ずっとはやく雪は戻ってきてしまった。彼女が僕のために走ったらしいことが一番の計算外だ。執事もそうだったろう。でなければ封筒など出すわけがない。
「……西条さん。いつから、聞いていたの?」
「途中からよ。対価がどうとか言ってたわね」
 雪が執事に向きなおる。執事はおそるおそる声をかけようとする。
「お嬢様……これは」
「丈二。その封筒を見せなさい」
「いえ、その……」
「見せなさい!」
 するどい剣幕で執事を威圧し、封筒を奪い取った雪は中身を見た。
「これは、なに? このお金は、なんなの? 今日の分って、どういうこと。相川さん、あなた……丈二からお金を受け取るのははじめてじゃないわね?」
 雪は傘をその場に放り捨てた。鈍い音が届いた。なにかが、壊れた音だった。
「……お嬢様、これは私が相川さまに頼んだことで……」
「そう……。そう。いいわ、もういい。もうわかったわ。危なかったわ。そうなのね、相川さん。あなた……丈二に頼まれて私の相手をして、それでお金をもらっていたのね!」
 崩れた。崩れ落ちた。
 いままで築いてきた彼女との関係が……。隠して騙して嘘をついて。そうやって泥を塗り固めた山が崩れた。ざあざあと流れる雨に流されて、もう平地には戻れない。
「……西条さん、僕は……、僕は……」
 言葉はつづかない。つづけられるわけがない。
 手段が嘘でも、その目的は正しいものだと思っていた。けれど実際は、露呈すればそれだけでひとりの女の子が激しく傷つく。考えればすぐわかるはずだった。いや、わかっていたはずなのに……。
 奧歯を、噛みしめる。
「お嬢様、どうか、相川さまを責めないでくださいませ。私は……」
「丈二! あなたは黙って!」
 気圧されて、執事は言葉を失う。
 金をもらうのは今日で終わりだ。そう喉から出そうになって、抑えこむ。今日で終わりだとしても、やっていたことに変わりはない。
 雪は必死に声を張り上げる。
「どうなの相川さん。なにか……、なにか、弁明してよ!」
 言い逃れるための嘘はとっくに思いついていた。嘘をつくのは得意だ。逃れるのも不可能ではないと見立てられた。しかし、それをする気にはなれない。もう雪に嘘はつけない。つきたくない。だから、ひたすら同じ言葉を繰り返すしかない。
「……ごめん」
「それじゃわからないわ!」
「ごめん」
 きつく睨みつけてから、雪は納得したように荒げていた声を落ちつけた。
「もう、いいわ。わかった。あなたは、お小遣い稼ぎに私を利用してた。そうね? そうなのね?」
 返す言葉もない。
「そうよね。西条家だもの。丈二に雇われて、いいお給料もらって、それで……それで……!」
 また気持ちが高ぶる。掴みかかって、ぐいぐいと襟首を引いてくる。
「人の心をもてあそんで、それでお金を稼いで! 卑しいわ! どうしてあなたのような人が存在するの! 血の繋がった家族がいないと、そんな風に育つの 答えてよ!」
 声は悲痛だった。胸には激痛が走った。
 そこから先はよく覚えていない。
 ひどく傷つく言葉を何度も叩きつけられた。そのたび心に痛みが走ったけれど、それ以上の痛みを雪に与えてしまったのは僕だ。なにも言うことなどできなかった。
 気づけば、雪はひどく咳きこんでしまって。執事がその介抱にあたって。桜が薬を飲ませて。そして僕は、傘もささずに自転車を押して帰っていた。
 とおりがかった公園で、街灯の照らす明かりの端。
 砂場に目がいく。
 昼間に見た、子供たちが作っていた砂の山は、泥にまみれて影も形もなく崩れ去っていた。


 次の朝。目覚めたときは頭骨の中で痛みの虫が暴れ回っていた。
 素直に学校を休むことにして、担任教師への連絡は賢治に任せた。ひとり部屋に残る。週に一度の配達の休みが今日で運がよかったと思える。
 寮の食堂のおばちゃんが作って持ってきてくれたお粥を感謝しつついただく。窓の外からはいまだ雨音が響いてくる。
 布団に入って眠る。目覚めるたびに寝汗をふき取りきちんと下着を取り替え、風邪をひいたときに取るべき正しい行為をしていく。
 熱が下がってきて、多少は動くのが楽になってきた頃。
 雪を思う。後悔が重たくのしかかってくる。
 僕は、彼女を傷つけた。
 それはそうだ。心許した相手が、実は会うたびに金をもらっていたなんて知ればだれだって怒るし、悲しくもなる。
 でも、でも――
 すくなくとも僕は、彼女を傷つけようとも、傷つけていいとも思ってはなかった。僕は、たしかに雪と一緒に商店街を歩いてみたいと思ったのだ。友達として……。
 この、およそ二週間で稼いだお金は、普通にバイトした場合の月給以上になった。これだけでもだいぶ助かる。けれどこんな仕事を引き受けなければよかったとさえいまは思う。
 ああ……でも、引き受けなければ雪には会えなかった……。
 ならもっと早くに金の受け取りを辞退していれば……。
 いまとなっては、もう後の祭りである。
 できれば謝りたいけれど、会おうとなんてしてくれないだろう。そもそも許されることでもない……。
 どうすれば、いいのだろう。
 何度も何度も思考は巡る。同じところをぐるぐると。堂々巡り。
 気づけば放課の時刻。
 まくらの上にさらに腕まくら。いまだ答えの出ない自問を繰り返していた頃。
 急に部屋の扉が開かれた。賢治かと思って気にしないつもりで目をつむったが、聞こえてきたのは慌ただしい足音と女の声だった。
「勇樹? 風邪ひいたって聞いたけどっ?」
「真希!? ちょっ、女子禁制だよ!」
 つい起きあがる。入ってきたのは真希で、その後ろに賢治、雅彦、祥子とつづいていた。特に気にした様子もなく賢治はひとことで説明した。
「見舞いだってさ」
「いやいやいや。見つかったらまずいって。ここ男子寮。女子禁制」
「心配するな。もう見つかってる」
「お見舞いしたいって頼んだら、普通に入れてくれたよ」
 真希が自分の鞄を漁りながら言う。管理人がどれだけ寛容――もとい杜撰なのかが窺える。ため息ひとつ。
 ノートを数冊取り出し、真希は差し出してくれた。
「今日の分のノート。テスト前なんだから風邪なんかひかないでよ」
「あ、ごめん。すぐ写して返すよ」
「あー、その前にちょっといいか勇樹」
 なぜか部屋にあがらずにいた雅彦がそこで口を挟む。
「実はみんなで集まってテスト勉強しようって話になって、一応、ここがいいと思ってたんだが、広さ的に無理だよな?」
 部屋を見渡した。全員入ることくらいはできるが、勉強するだけのスペースがあるかというとそうでもない。せいぜい四人が限度である。それでもかなり窮屈になるだろう。
 だから無理だって言っただろう。賢治が告げる。雅彦はうなずく。それでな、と言葉をつづけた。
「勇樹は病み上がりだから部屋にいたほうがいい。で、真希はノートが返ってくるまで身動きできないわけだ」
「うん、そうなっちゃうね」
「というわけで、残った三人は俺の家へゴーだ。仲間はずれにするみたいで悪いが、ここに全員が入れないんじゃ仕方ない」
「ああ……。うん、なんか唐突な話だけど、いいんじゃないかな」
「元気そうでなによりだったぜ、勇樹。じゃあな」
 颯爽と雅彦が姿を消す。
「夕飯までには帰るから」
 つづいて賢治。のんびりと部屋から出ていく。それに祥子もつづいた。
「騒々しくってごめんね。それじゃ。相川、お大事に」
 ぱたん、と音を立てて扉が閉まる。部屋の中が急に静まり返る。とりあえず僕は、横にどけてあったちゃぶ台を中央に移した。ノートなどの勉強道具も用意する。
「ごめん。すぐ写しちゃうから」
「あ……、うん。無理して急がなくてもいいから」
 向かい側に正座して、落ちつかなそうに真希はあっちこっちに視線を飛ばす。ノートを写す作業を開始した僕だったが、気になって手を止めた。
「そんなに、珍しいかな?」
「う、うん? べ、べつにそんなことないよ。勇樹の部屋なら前にも来たことあるし」
「そうだよね。こっちに越してくる前は、遊びに来てくれたりしてたよね」
 それきり、真希は黙ってしまう。まだ落ちつけてない様子だった。ややしてから今度は彼女のほうから口を開いた。
「私も、勉強してて平気かな?」
「うん。けっこう時間かかりそうだし、そうしてて」
 真希も勉強道具を鞄から取り出し、ちゃぶ台に教科書やノートを広げて勉強を開始した。こちらもノートへ視線を戻し、作業を再開する。
 ノートを見せてもらう、か。そのとき僕は連想した。
 雪と僕がはじめて会ったときも、ノートが絡んでいたっけ。あの頃の雪は、だいぶきつい性格に感じられたっけ……。
 シャーペンを持つ手の動きを止めてしまう。
 僕のせいで、雪はまた笑えなくなってしまうのだろうか。
 どうすれば、いいだろう。
 みんなが来る前に陥っていた思考の迷宮に戻ってきてしまった。
「勇樹? どうしたの?」
 真希に話しかけられたのは、最後に時計を見てから一時間も経っていた頃だった。慌てて顔を上げる。
「え? べつに、どうもしてないよ」
 すると真希は顎を引いて、心配そうに眉をひそめた。
「どうもしてなくないでしょ。さっきから手が動いてないよ」
「あ。そ、そうだね」
「それに表情も暗い。絶対なにかある。それ、悩んでる顔だよ」
 目を逸らす。逸らした先の自分の鞄。中にある雪の写真を連想してため息をついた。
「悩みごとがあるなら、相談に乗るよ。付き合い長いんだし」
「そうだね……」
「アルバイトのことかな? 昨日はずぶ濡れで帰ってきたって三条くんが言ってたし。なにかあったの?」
 話しづらいことながら、僕は真希への信頼もあって昨日あったことを話した。懺悔するかのように口にした言葉たちは、刃物みたいに胸のうちを傷つけながら外へ出て消えていった。
「勇樹と執事さんが悪い」
 話を聞いたあとの真希の第一声は、直球だった。
「わかってる……」
「う〜ん。でも謝っただけですむ問題でもないかぁ……」
 腕組みして考えるように視線を上げる。
「勇樹は、やっぱりその、西条さんとは友達なんだよね?」
「僕はそう思ってるよ」
「それで、西条さんはそういう気持ちが裏切られたって思ってるわけでしょ」
「……たぶん、ね。でも僕がなにを言っても、嘘に聞こえてしまいそうに思える……」
「そこは誠心誠意を込めてなんとかするの。どうすればいいかまでは、私だってわかんないよ。西条さんには会ったことないもん」
 言ってから真希はにこりと笑った。
「でも勇樹なら大丈夫だと思う」
「どうして」
「だって、執事さんと一緒に嘘ついて騙していたのは事実だけど、西条さんのためにやってたってことも事実でしょ」
「それは途中からだよ。はじめは僕は……」
「それでも、初日でバイト辞めなかったのは、執事さんが西条さんのこと思ってるって知ったからでしょ」
「それも……あるけど」
「それにもう辞めようって思ってたんでしょ。なら大丈夫。きっと大丈夫だよ。わかってもらえる」
 確信したように、うんうんとうなずく。そんなに上手くはいかないだろう。不安はまだたくさん残っている。けれども、いまは真希のお陰ですこしは心が軽くなった。気休めだけれども感謝する。
「ありがとう。やっぱり頼りになるな、真希は……」
 えへへと照れ隠しに笑って、真希はシャーペンを持った。
「さ、勉強勉強。テストは近いぞー」
 僕も真希にならって、ノートを写す作業を再開した。

 テスト期間がはじまった。
 僕は西条のお屋敷には何度も足を運んでいたが、雪には会えなかった。謝るにしても、どうやって、なにを言えばいいのかわからなくて、どうしても呼び鈴を鳴らすことができなかった。
 テストも残すところあと二日。
 毎日午前中だけで終わるので楽と言えば楽だと賢治は言っていたが、その空いた時間で勉強しなきゃならないから大変だと雅彦が返していた。
 そんな下校の風景。ふたりに合わせて歩いていると、背後から僕の名を呼ぶ真希の声が聞こえた。足を止めて振り返る。
「ああ、真希も帰りなんだ」
「うん」
 雅彦と賢治は、僕と同じく足を止めていたがすぐ歩き出した。その際に雅彦が言う。
「真希は勇樹に用事らしいな。俺たちは先に帰ってるぜ」
「ああ、うん」
 ふたりは軽く手を上げて、それを挨拶代わりに去っていった。真希と僕ふたりきりになる。どんな用事なのかと真希に問いかけた。
「たいしたことじゃ、ないんだけどさ」
 すこし照れたように真希は口にする。
「お昼まだでしょ? 一緒にどうかなって」
「僕、寮で食べようと思ってたけど……」
「久しぶりに外で食べるのもいいでしょ?」
「それはいいけど、まだテスト残ってるよ。勉強は?」
「帰ったらするよ。べつに一日付き合ってもらうわけじゃないから」
 そこで僕はうん、とうなずいた。真希は嬉しそうな表情を見せた。
 真希は一歩先を歩いて、僕を先導した。てっきり駅前へ行くものだと思っていたのだが、途中からその道から逸れた。やがて辿り着いたのは中央公園だった。入学したての頃、僕と真希、雅彦の三人で周辺の地理を把握するために歩き回ったときにはじめて足を踏み入れ、それ以来は来ていなかった場所である。噴水や並木道、池もあるおおきな公園で、噂によるとうちの高校のカップルの数割はここで誕生したそうだ。たしかに、気持ちのいい爽やかな雰囲気がある。あまり興味はないけれど。
 テスト期間中ということもあってか、制服姿の人間は僕と真希しか見あたらない。噴水のある広場のベンチに腰かけると、真希は手招きした。
 促されるままに隣に座った。
「ここは喫茶店じゃないね」
「公園だね」
「レストランでもない」
「噴水はあるよ。お水はセルフサービスとなっておりまーす」
 あはは、と笑って真希は鞄から布切れに包まれた箱をふたつ取り出した。見覚えのある柄がふたつ。いつも彼女の弁当箱を包んでいるものである。僕と彼女の中間に置かれた。
「お弁当?」
「うん、作ってきたの」
「どうしたの? なんで、わざわざ……」
「なんだか元気ないみたいだから。今日はゆっくりと私に付き合って元気になってもらいますっ」
「え、そうなの?」
「うん。そうなの」
 と、答えが返ってきたかと思ったら、あっ、と洩らして急に不安そうな表情を見せた。
「もしかして迷惑、だった? 私、お節介……かな」
 顔を伏せてしまう。瞳だけを動かしてちらりとこちらの様子を窺う。僕は息をついてから、首を横に振った。
「いや。ありがとう。助かるよ」
 雅彦や賢治、祥子も、僕の様子がおかしいということは、知られていた。なにかあったのかと訊ねられたときは次のテストが不安だとか、今回の出来が悪かったと答えたけれど、真希だけは三人とはちがって理由を知っている。それが、痛い記憶であることも。僕自身がどうにかしなければならないということも。
 雪の名前を、彼女が口にしないことは、ありがたいことだった。
 一時的に、僕は雪のことを考えるのをやめようと思った。あまり心配はかけられない。真希と――みんなと一緒にいるときくらいは元気な姿を見せておかなければなるまい。
「それじゃ、食べよ。お腹空いてるでしょ?」
「うん。じゃあ遠慮なくいただきます」
 プラスチック製の箸を手に、合掌してから食べはじめる。
「美味しい?」
 気づくと真希は箸を止めていて、こちらを見つめていた。
「美味しいよ、すごく」
 正直に答えた。真希を花嫁にもらう男は、美味しい食事に困ることは一生なくなるだろうと思う。幼い頃から仲のいい女の子が、知らない男の妻となるのを想像するとすこし変な気持ちになる。いい人であったらそれでいい。
 真希は嬉しそうに笑った。僕もつられて笑った。テスト期間中になにをしているのだろう僕たちは。
「なんだか懐かしいね。こうやって一緒に、ふたりきりでお弁当食べるのって」
 感慨深げに真希が言う。僕もその記憶が掘り返された。懐かしい映像が蘇って脳のスクリーンに映し出される。
「うん……、懐かしい。あの頃はまだ料理下手だったよね。そんな昔のことでもないのに、ずっと前のことみたいに思えるよ」
 そう、僕と真希は過去にも一度だけ今日と同じようなことをしたことがある。ときは昼下がり。天気は雨。季節は春。胸に残るあの日の情景が、記憶の風に乗って鼻腔をくすぐっていった。

 僕が中学校にあがったばかりの頃。
 それはすなわち両親が事故死してから数ヶ月のことだ。中学――いや小学校高学年からであろうか、それだけの年齢になってくるとクラスの中で周りを仕切る者が出てくる。いつも周りに人がいて中心になっている者だ。たいていクラスの絶対権力者となる。
 こういった者は、僕が見てきた限りタイプがふたつある。好人物ゆえに好かれて周りに人が集まって、クラスの中心となる者。好人物の仮面をかぶり、その裏で気に入らない相手をターゲットにして遊ぶ者。
 どちらもいないクラスもあるが、後者がいる場合が多い。彼らはだいたい、話題を盛り上げているようで実は自分だけが喋っていて、ウケを取るときはだれかの悪口である場合が多い。そしてなぜか周りはそいつについていく。ターゲットにされたくないから、仲間はずれにされたくないから、という理由の者もいるかもしれない。
 僕のクラスには、それがいた。どこで聞きつけてきたのか、そいつは、僕の両親がいないことを知った。なぜだかはわからないけれど、それはターゲットにするには充分な理由になるらしかった。
 周りはそいつに話を合わせる。そしてやがて楽しくなってくるのか、排除されたのか、そいつを批判する者もやがて消えていく。彼らは僕を目の前にしても堂々としている。陰に隠れて聞こえないようにしていて、反撃の恐れがないと思っていたからだろうか。
 でも、僕は知っていた。彼らが僕をなんと言っていたかくらい知っていた。どんな目で見ているのも知っていた。
 だからチャンスを窺っていた。言い逃れできないような報復の理由を見つけて、そいつを校舎裏で殴り伏せてやろうと考えていたのだ。
 その気が失せたのは、小学校の頃から仲のよかった友達が何人もそいつに従っていることに気づいたときだった。平気で僕を悪く言う。それが、耐えられなかった。
 堪忍袋の緒が切れる前に、僕の中にあった大切ななにかが砕けて消えた。
 そいつに従っていなかった友達とも、すっぱり縁を切ることにした。友情とは脆いもの。信頼とは儚いもの。真希との関係も、僕は切ることにした。
 小学生の頃と幾分も変わらぬ態度で接してきた真希を、その日、僕は無視した。そのときの真希の顔は、覚えていない。
 そうなってからは、もうたいしたことはない。なにをされても痛くもかゆくもない。外部からなにを言われても、僕自身の価値は損なわれるものではない。
 やっていられないのはむしろ家庭環境だった。両親が逝ってから数ヶ月、家に帰るとつらいことが待っている日々であった。
 血の繋がった家族はいない。叔父一家がいる。僕を邪魔者扱いした。それはすなわち、なにか理由を見つけては、躾という名の暴力を振るうことと同義だった。痛いのは、つらい。
 なにかの理由を見つけさせないために、僕は嘘をつくことを身に着けていた。相手がどんな反応をするかも予測し、どの程度にどこで嘘をつけばいいかを知った。突きとおせない嘘はつかない。とにかく被害を最小限に抑える。僕は、特に家庭で嘘つきになった。それも、嘘のバレない嘘つきに。
 友達もいない。両親もいない。けれどそういった環境に、上手く折り合いをつけたつもりだった。
 入学からおよそ一ヶ月半。学校でなにを言われても、なにをされても痛くもかゆくもなくなった僕を、つまらないと思ったらしい。さらに困らせておとしめるために、そいつは行動したようだった。
 僕たちの中学では、銀行振り込みにすればいいものを、わざわざ封筒を配って、給食費をそこに入れさせて持ってこさせるという形式をいまだに取っていた。
 そしてひとりのクラスメイトの給食費が消えてなくなった。わざと聞こえるように言う陰口がうるさかった。
 相川だ。あいつが盗ったんだ。両親がいないから、ちゃんと育てる人がいなくて人格が曲がるんだ。
 この頃の僕の人格はたしかに曲がっていただろう。けれど彼らの人格は曲がり曲がって円を作った上で、天を向いていたはずだ。
 たちが悪いことに、この件は担任教師が僕を職員室に呼び出す事態にまで発展した。
「正直に言って欲しい。相川、お前が盗ったのか?」
「どうやって正直に言っているかどうかを見分けるんです? 僕がなんと答えても意味がないですよね。僕を犯人にしたいんでしょう」
「そんなことはない。ただ、クラスのみんなが、な」
 おおきくため息をついてやった。
「僕は犯人じゃありませんよ。でもなくなった分は僕が払います」
 そのとき教師は心底ほっとした顔をしたのだ。その鼻頭に拳を叩きつけたくなったが我慢して、僕は言葉をつづけた。
「そういうことで、僕は僕の分は払いません」
 給食の時間、僕は教室から抜け出て屋上でひとりでいることにした。昼食抜きだ。これは意地だ。家からなにか持ち出してくれば、叔父や叔母になにか言われて殴られる理由になる。小遣いもなかった。意地をとおすには、空腹に耐えるしかなかった。
 給食費の消えたその日から実行した。はじめて無視した日からずっと関係の絶えていた真希が、午後の授業中ひどく心配そうに見ていた。
 次の日も屋上でひとりでいると、真希もやってきた。監視するつもりかと思った。構わず、無視しつづけた。真希が話しかけてくることはなかった。
 その次の日も、そのまた次の日も。真希は黙ったまま、僕と屋上で一緒にいた。昼休みや放課後になにかを食べている様子はない。給食の前になにか食べた様子もなかった。真希が僕と同じように、給食を食べることを拒否していることに気づいたのは、一週間近く経過した頃だった。
 ついに無視できなくなって僕は訊いた。真希のお腹からぐぅ、と音が出たときだった。
「お腹空いてるんだろ。給食食べてくればいいじゃないか。なんで僕なんかに付き合うんだ」
「……私、あのクラス嫌い」
「そっか。僕も嫌いだ」
「おんなじだね」
「……そう、だね」
 ちょうどそのとき、僕のお腹もぐぅ、と鳴った。
 ぷっ、と真希は吹きだし笑いをした。なぜだかおかしくて僕も同じく笑った。久しぶりに出てきた笑みだった。
「意地っぱり」
「お互い様」
 また笑う。そのとき僕は、なにかを取り戻しかけていた。
 次の日。雨の日。屋上へ出ることはできないが、とりあえずは踊り場に陣取るつもりで階段を登っていった僕を待っていたのは、レジャーシートの上に置かれたふたつの弁当箱と真希だった。
「やっぱりお昼は食べないと大変だよ、うん」
「……ずいぶん食べる気なんだね。弁当箱がふたつも」
「なに言ってるの。ひとつは勇樹のだよ」
 蓋を開けられた弁当箱の中には、形の崩れた卵焼きや、不格好なタコさんウィンナーなどがあった。真希の指のあちこちに、絆創膏が貼られていることに気づいた。
 するどく、なにかが胸を貫いた感覚を覚えている。
「どうして僕なんかのために」
「だって……友達だもん」
 友達。文字にすれば二文字、声に出せば四音。そんな短い単語の中にある、本当の意味を知ったような気がした。
 弁当を食べながら、僕は真希に謝った。
「無視してて、ごめん。僕は……」
「いいよ。わかってる。私もクラス嫌いだもん」
「知らないうちに、友達がたくさんいなくなってた……」
「もともと友達なんかじゃなかったんだよ、そういう人は」
「……」
 僕の中で友達の定義が変わった瞬間だった。
 裏切らない。第三者の干渉なんかで関係を切ったりしない。
 こんな状況の中で、真希が僕に対して持っていてくれた感情こそが友情と呼ぶにふさわしいと、そんな風に思った。
 感謝と歓喜と。砕けて消えていった大切なものが、僕の中で新しい形で再生した。ありがとうを繰り返す僕に、真希はよほどお腹が空いてたんだね、ととぼけた返事をした。
 そして教室へ戻ったとき。異変に気づいた。外へ行ったりべつのクラスへ行ったりして、教室の中に人が残っているなんて滅多にないことであったはずなのに。その日は、そいつを中心としたメンツが教室に残っていた。
 黒板におおきく『欠陥者は欠陥者に恋をする』と書かれていた。
 僕と真希が教室に足を踏み入れた瞬間、嘲笑としか思えない声がいくつもあがった。黒板に書かれていることは僕と真希のことだとすぐ理解した。
 真希――南真希は数年前までは柏原真希だった。両親が離婚。母方に引き取られたのち、母親が再婚して名字が変わったという経緯がある。
 彼らの理論に基づくと、どんな事情であれ血の繋がった両親を持たない者は、欠陥者であるらしい。人格などに問題が出て、泥棒など社会不適合者になるのだと。
 そして彼らは、そんな僕たちがくっついたように思えたらしく、それがよほど面白かったらしかった。
 痛くもかゆくもない。それは、数十分前までのことだ。そのときの僕に怒り以外の感情はなかった。つかつかとそいつに歩み寄る。握り拳をたずさえて。
 嘲笑の中、その拳を振り上げようとしたとき。べつの人物が僕以上の速度でそいつに接近して胸ぐらを掴み上げた。
 それが、雅彦だった。
「なんだよ平っち。俺がなにかしたのかよ」
「給食費返せこのやろう」
 雅彦は本当に怒った顔をしていた。
「俺じゃない、俺じゃない。証拠あるのかよ」
「お前、証拠があって相川のこと犯人扱いしてたのか?」
「いや。だってあいつ両親いないんだぜ。小遣いももらってないっていうし、ほかにそんなことするやついないだろ」
「そんなことが犯人扱いする理由になるなら、俺のほうにも理由があるんだぜ」
 胸ぐらから手を離すと、拳を握り締め、おおきく振りかぶった。
「てめえが気にくわねえ!」
 そいつは顔面に拳を受けて勢いよく仰向けに倒れた。
 平田雅彦。クラスの中では特別だれかとつるんでいるところは見たことがなかった。もちろんそいつに従うわけでもない。ターゲットにされる対象ではあったものの、クラスに僕がいたことと、彼自身が女子に人気があって、そのうえ叩かれる部分がなかったため、なにかされた様子はなかった。そいつにとっては目の上のタンコブみたいな存在であっただろう。
 給食費を盗んだのはそいつ本人ではなくても、その指示であることは明白であった。僕を陥れるために給食費を盗む。ではだれから盗むのか。目の上のタンコブから、という話である。
 それに気づいていた雅彦は、そいつを殴った。けれど、給食費のことを恨んでやった行動ではなかったらしい。
 騒動が治まったのち、雅彦は僕と真希に笑いかけた。
「悪いな、お前が俺の給食費肩代わりしてくれたんだろ? それでいつも食わないでいたんだろ。いい根性してる」
 そののち、給食費を盗んだ実行犯が自首。だれに命令されたのかを暴露したために、そいつはクラス全体の信用を失った。もう、僕になにかするようなことはなくなった。
 それからというもの、雅彦は僕と仲良くしてくれている。真希ともだ。中学生になってはじめた訪れた幸運は、真希との関係が強固なったことと、雅彦との間に友情が芽生えたことだったろう。
 その日食べた真希の弁当の味も、僕の代わりに拳を振るった雅彦の勇姿も、忘れることはない。ずっと持ちつづけてきた思い出のひとつである。

 弁当を食べ終えたあとはふたりで公園を散歩しながら、そんな昔話に花を咲かせていた。雪をかつての自分に重ねて、自分をかつての裏切り者に重ねて。
 ひどい後悔を生むと同時に、真希と雅彦が僕に教えてくれたことを思う。
「……そっか」
 なんとなくわかって、呟きが洩れた。うん? と真希が首をかしげた。僕は微笑んだ。
「なんとなく、わかったんだ」
「なにが?」
「それは秘密」
 並木道の木々は、入学したての頃とはちがってもう花を咲かせてはいない。ずっと前に散ってしまった。けれど代わりに、青々しい葉を生き生きと茂らせて輝いている。


 雪に自分の気持ちをどう伝えればいいか。真希の言葉もあわせて考え、さらに思い出を見つめて、そして結論に至った。こんな方法しか思いつかない自分はバカなのだとあらためて思う。反面、テストの出来は上々だった。
 テスト明けの土曜日。
 その日は曇り空だった。そろそろ梅雨も近い。
 午前十時を前に、寮を出て屋敷へ。けれど、今日はただ門で待つだけ。だれにも気づかれない。執事も呼び鈴を押さねば気づくまい。
 それでいい。そういう約束をした。
 今日は、あの日あのときに約束した日なのだ。一緒に買い物に行くと。雪は、門のところで待ち合わせようと言った。なぜだかはわからないけれど、待ち合わせにこだわっていた。
 そんな約束も、彼女は覚えていないかもしれない。覚えてても、もう来ないかもしれない。
 でも。たとえそうでも、僕のほうから約束は破れない。
 思い出の中、真希はずっと僕のそばにいてくれた。雅彦は僕のために行動してくれた。そして僕は、雪が望んでいたことを……約束したことを放棄しない。僕自身も雪と一緒にいたいと望むからこそ。
 約束の十一時まではまだ三十分以上あった。
 空気が流れて頬を撫でていく。おおきな柵状の門の隙間から屋敷の様子が見える。そのすぐ隣の塀に寄りかかった姿勢で首を回し、屋敷を見上げた。
 しばらくそうしてから、視線を坂の下に見える町並みへ向けた。住宅街の休日がある。その先には駅がかすかに見える。その近くの商店街は、今頃は休日を楽しむ人たちでいっぱいだろう。
 目をつむると、雪と一緒にその一部になったヴィジョンが見えた気がした。僕の希望そのものだった。
 約束の時間から二時間がすぎて、やがて雨が降り出した。
 僕は帰らなかった。傘もないまま待ちつづけた。なにかを流してくれるような感覚は、あの日に降られた雨とはちがう。気持ちいいとすら思える。
 けれど実際は、雨は冷たくて、体温はどんどん失われていく。
 また見上げてみると、屋敷の窓でだれかの影が見えた。
 雪か、執事か、桜か。それとも気のせいか。
 瞳を閉じて願う。
 とにかく、まずは謝りたい。
 そのあとで、僕は言いたい。聞いて欲しい言葉がある。そのうえで許され、認められたなら……、一緒に遊びに行きたい……。
 あらゆるものを水浸しにしていく雲の悪戯はいつまでも止まることなく、どこか気持ちのいい音を響かせながら、灰色のフィルタをかけたように街を染め上げていた。
 気づいたとき、手先の感覚が薄くなっていた。風が強くなっているためか、震えてしまうことが何度もあった。
 窓の向こうに雪が見えた気がして、息をつく。先ほどよりもずっと寒く感じる。なのに身体の内側は燃えているように熱い。視界も、どこか定まりにくくなった気がする。脈を打つたびに頭に響く疼痛もかなり増してきている気がする。
 ああ……、せめて傘を持ってくればよかった……。
 空は先ほどより暗くなり、街灯もともっている。安物のデジタル腕時計は濡れて壊れてしまったのか時刻を表示していない。
 身体全身が重くなってきて、ほかはともかく頭痛に耐えきれなくなって、塀に背をつけてその場に腰を下ろした。足を投げ出す。うなだれて、そのままでいる。濡れた前髪から雫がぽたりぽたりと、きりがなく落ちていく。当たり前だが楽にはならない。
 不意に、視界が明るくなった。車の音があった。だれかが降りてくる気配も感じられた。
 顔を上げると、真っ黒い高級車がライトで僕を照らしていた。
「相川、さん……!?」
 傘をさした雪。つづけて運転席から執事。桜も出てきた。
 三人とも驚きを隠せずにいる様子だったが、その中でも特に雪は目を見開き、身動きひとつしない。よほどの衝撃だったのだろうか。
 執事が慌てて寄ってきた。
「相川さま、なにをなさっているのです。さあ、はやく中へ」
 立たせようとしてくれるのを、僕は拒否した。
「すみません那須さん。僕、雪と話がしたくて……」
「中でもできましょう」
「いや、ここじゃないと、ダメなんです」
 すると雪がようやく一歩前へ。
「丈二、はやく車を中へ。桜も中へ戻りなさい」
「しかし、お嬢様……」
「お願い」
 言われて、執事は一瞬の逡巡ののち従った。車に乗り込む前に、せめてこれを、と僕に傘を渡してくれた。桜も心配そうな顔をしながらも雪の言うとおりに屋敷へ消えた。
 ふたりきりに、なった。
 執事から受け取った傘をささないまま、僕はその場に座ったままでいた。雪が正面に来てくれて、そこからこちらを見下ろした。
「……出かけてたんだね」
 話の口火を切ったのは僕だった。
「そうよ。叔父の家に呼ばれてたの」
 なんでもないように答えてから、雪はつらそうに目を細めた。
「話ってなに……? いえ、その前にどうしてここじゃないとダメなのか教えて」
「今日が約束の日で、君がここで待ち合わせようって言ったから」
 雪が言葉を返してきたのは息を一瞬つまらせてからだった。
「……あなたは、だから私が来るとでも思ってたの? そんな約束なんて、もう――!」
「わかってたよ」
 僕はさえぎってつづけた。
「でも、約束だったから。僕は……破りたくなかった。友達として」
「……」
「僕は謝りたかったんだ。君に」
「今更よ、そんなの……」
「でも、ごめん。僕は君に、ひどいことをした……。嘘もたくさんついた。これから全部、正直に話すよ。聞いて欲しい」
 返答がないのを了解と取ってつづける。
「僕は、お金が欲しかった。那須さんに声をかけられたとき引き受けたのは、それだけが理由だったんだ。僕に両親がいないってことは前に話したと思うけど、そのつづきは、話してなかったよね」
 雪はちいさくうなずいた。
「引き取られた先は、父さん側の親戚だったんだけど――」
「知ってるわ」
 話そうとした僕の言葉を、雪の声はさえぎっていた。
「丈二からみんな聞いたわ。わけもなく嫌われて、中学出てからは追い出されて。それでも奨学金とアルバイトで高校へ行くことにして、いままで……。それで、すこしでも多くお金が欲しかったんでしょう」
 雪の言うとおりだった。
 朝は新聞と牛乳配達。そして放課後はスーパーでバイト。学費は奨学金でまかなっていた。本当は寮費も奨学金でなんとかしたかったが、学費と寮費の両方を得るには、学年トップ五位くらいの学力を必要として、僕にはさすがに無理な相談だった。
 受験期に、いくつか考えていた寮のある高校のうち、この猪俣高校にはメリットがあった。比較的寮費が安かったのと、それほど高いレベルではなかったため奨学金を得やすいということ。友人がふたり受験すると言っていたのも選んだ理由のひとつだった。もうひとつの理由も含めたすべての事情でわけありと言えるなら、僕はたしかに『わけありクラス』の一端であろう。
「なのに……なのに、どうしてあなたは、あのとき言い訳のひとつもしなかったの」
「だって僕がやったことに、変わりはないでしょ。僕の身の上なんて理由にはならない。知って欲しくはあったけど、さ……」
 見上げる。雪と視線が交わった。ちいさく目を逸らされた。
「お金がもらえなかったら、私に会いになんて来なかったのね」
「そうだね……。はじめは、そうだった。君の性格もすごくきつく感じたし、バカにされてるみたいで嫌だった。お金をもらう仕事じゃなかったら、とっくに辞めてたと思う……」
 短い沈黙ののちに言葉をつづける。
「でも、那須さんが君のことを話してくれたから、僕は辞めなかった。そのうち僕は、君と会っている間は仕事だってことを忘れることも多くなっていったんだ。たぶん僕は、お金じゃなくて君が目的になってたんだと思う。そういうときはいつも……那須さんからお金をもらうときは違和感があって……。それでも返したりは、できなかったけど……」
「それは、いつから?」
「君が僕に、好きな食べ物を教えてくれたときから。そのあとは、いつもだったかもしれない」
「あのとき……」
 思い出したのか、噛みしめるように口にする。
「……でも、どうして」
「君が、はじめて友人として接してくれたからかな。ホットケーキを嬉しそうに食べてるのも、かわいかった……」
 また沈黙が訪れた。頭が痛い。寒気がする。視界が揺らぐ。舌も上手く回ってないかもしれない。言うことが雪に伝わってさえいればいいと思う。
 迷った様子を見せてから、雪は決意したように口にした。
「そんなにお金を欲しがってたのに、どうしてこの仕事を辞めようなんて思ったの。これ以上のアルバイトなんて、そうないでしょうに……」
「それは僕が君を友達だと思ったからだよ。友達と付き合って、どうしてそのことの対価をもらえるかな」
「……そうね。そう……あなたの、言うとおりだわ」
 うなずいて、雪は不意にかがんだ。僕の額に手をやる。
「熱があるわ。丈二! いるんでしょう。はやく相川さんを中へ運んで!」
 間髪空けずに勝手口から出てくる執事。抱えられて、すぐさま屋敷のほうへ連れていかれる。雪もついてくる。
 目をつむる。限界に近かった意識が、緊張の糸が切れたためかやけにすんなり闇へ溶けていく。その様子を感じながら、僕は雪の声を聞いた。
「無茶をしすぎよ、相川さん。私たちが今日帰ってこなかったらそのまま死んでたかもしれないわっ」
「そうだね……ごめん」
 そして、ありがとう。言おうとしたけれど、声には出なかった。そのときはもう、僕の意識は完全に暗闇の中だった。


 目が覚めたとき、まず視界に目に飛び込んできたのは、やたら高くて、高級感の漂っている天井だった。見渡してみれば高級そうなのは天井だけではない。絵画や剥製のかけられた壁も、装飾の多い家具も、風に揺れるカーテンも。そして自分が寝ているベッド。
 ベッドの隣で、椅子に座ったまま眠っている雪の姿があった。
 ああ、そっか……。
 ようやく理解する。ここは、西条家の一室なのだ。
「お目覚めですか」
 扉が開かれたかと思うと、執事が姿を現した。上半身を起こしてみる。額から濡れタオルが落ちた。自分のものではない寝巻を着せられていることに気づく。
「あの……那須さん……僕は」
「昨日のことは覚えておいででしょう。あのあと相川さまは気を失ってしまいましてな。私どもが介抱した次第にございます」
 昨日のことを思い出す。無茶なことをしたものだ。
「すみません……」
「いいえ、お気になさらず。それより、お体の具合はいかがでしょうか。以前にもお風邪を召されましたでしょう。ぶり返してしまったようで……」
「えっと、すこしだるいですけど、特に問題はなさそうです」
「そうですか。それはよかった」
 そのとき、そよ風と話し声に反応したのか、雪がうぅん、と呻いた。やがて目を開けると、こちらを一瞥。瞬間、完全に覚醒したのかバッと姿勢を正して執事のほうへ顔を向けた。
「お、おはよう丈二」
「おはようございます、お嬢様。いまはもう昼にございます」
「おはよう」
 僕も挨拶してみるが、返事はない。代わりに、音が出そうなくらいゆっくりと首が動いて顔がこちらに向けられた。ため息ひとつ。
「大丈夫そうね? だいぶうなされてたみたいだけれど……」
「あはは、ごめん。心配させちゃったかな?」
「ええ。当然でしょう、ともだ――」
 出そうになった言葉を止めて、言い直す。
「――じゃなくて、当然、私があなたの心配なんてするはずないじゃない。バカね」
「そうだね、ごめん。でも僕は……君に会えて、よかった」
 声がつまったのか、一瞬、間が空く。
「……相川さん。私はあなたに謝らなければならないわ」
 そしてなぜか雪は頭を下げた。
「え?」
「私、本当は知ってたの。あの日、相川さんがもうお金をもらうのを辞めるって言い出したこと。友達だって言ってくれたこと。全部聞いていたのに、たくさんひどいことを言ってしまったわ」
 ごめんなさい、と付け足す。
「どうしても許せなかったの。あなたがやってきたことは、どうしても……。それに、あなたの事情も知らなかったから……」
「いいよ、僕は気にしてない。僕のほうこそ、謝らないといけない」
 ええ。と雪はうなずいた。
「昨日のことで、あなたの気持ちはとてもよくわかったわ。けれど、正直なところ、私は相川さんとは友達ではいたくないの」
「そう、だよね」
 仕方ないとは思いつつも、暗い気分になる。けれど雪は、どこか浮ついた様子で、それでいて照れているように言った。
「そ、そうよ。だから私はもう謝らないわ。これでも私……あのときはショックだったのよ。丈二からあなたの事情を教わって、冷静になるまで私がどれだけ悩んだか、わかる? 怒りもあって、でもどうすべきかもわからなくて……。いつも来てる人が来ないっていうのも、なんだか変な感じがしたし……」
 こちらから顔を背けて、雪は僕に非があることないことを次々に並べていった。
「イライラしてついお気に入りのカップを割ってしまったわ。新聞も読める気分じゃなくなってしまったし、色んな仕事にだって手がつかなくなって、勉強する気にもなれなかった。それに、目の前を黒猫に横切られたわ」
 最後のはさすがに僕のせいではない。
「だから、とにかく。その責任を取ってもらわないと……許すことはできないわ」
「どうすれば、いいの?」
 すると、徐々に顔が紅くなっていく。言いづらそうに、目をちいさくキョロキョロと動かしたり、まばたきを何度もしたり。そしてようやく口にする。
「ひとつ、私のために骨を折って、欲しいの」
「うん。なにをすればいい?」
「その……、私ちょっと買い物があって……。たいしたものじゃないんだけど、社会勉強というか、やっぱり自分の足で買い物するのも重要だと思うの。でも、いまいち慣れてないから……その、付き合ってくれる人がいたら、ありがたいなって……」
 ちらりとこちらを見てから、また目を逸らす。
「それで、だれか紹介して欲しいの……。あっ、もちろん自薦しても、いいのよ? 私は、だれでもいいから……」
 なんとなく、僕は理解できた。
 ……素直じゃない。けど、彼女のそのいつもどおりな様子は、僕にとっては充分なほどありがたい。僕たちの関係は、まだ切れてはいない……。
 迷うことなくうなずいた。
「じゃあ僕でよかったら、一緒に、どうかな?」
「えっと、ええ。いいわ。お願い」
 やっぱり照れた様子で、こくんとうなずく。
「今度の土曜日で、いいね?」
「ええ。十一時に門のところで待ち合わせましょう」
 そこでタイミングよく執事が口を出す。表情には明るいものが宿っていた。
「さて、そろそろご昼食にいたしましょう。相川さんの分もございます。お召し物はそちらにおいてありますので、お着替えがすみましたら食堂のほうへいらっしゃってください」
 執事が示した方向にはソファがあって、その上には昨日僕が着ていた衣類が綺麗にたたまれて置かれていた。
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
「では。とびきりのコーヒーも淹れましょう」
 そこで、あっ、と声を出す。出ていこうとした執事は、足を止めてふり向いた。
「どうかいたしましたか?」
「あの、実は前々からだったんですけど……」
「はい」
「僕、実はコーヒーって苦手なので、べつのものがあれば……」
 執事の顔が曇った気がしたが、一瞬ののちにはもとに戻っていた。
「かしこまりました。では代わりに紅茶を淹れましょう」
「はい。お願いします」
 そして執事は部屋を去った。
 執事がいなくなってすぐ雪に言われる。
「丈二は、あれでもコーヒーには自信があったのよ」
「え、そうなの。僕、苦いのって苦手だから、味とかよくわからなかったんだけど……」
「あの反応は、ショックだったみたいね」
 僕は苦笑した。

 昼食は、雪と桜と一緒だった。特に変わり映えはしないが、普通すぎるくらいに普通だったかもしれない。白飯にみそ汁、焼き魚と漬け物。ストレートな和食と、屋敷の洋の雰囲気のギャップに笑みが浮かんだ。執事は脇に立っているだけで一緒には食べないらしい。いつ食べるのだろう。
 昼食のあとで、配達の仕事を休んでしまったことに気づくが、執事が前日のうちに連絡してくれていたらしく問題はないとのことであった。
 食後は居間で雪と桜の会話に参加することになって、彼女らの叔父のことについて聞かされた。
 いまの西条家当主の代理を務めていて、ふたりの面倒もよく見てくれているという。周りからも好かれる好人物で、雪の身体のために医者を紹介してくれたのも、その叔父だという。桜が叔父を好いているのは、話すときの様子でわかった。
 けれど雪は叔父をあまり快く思っていないように見えた。口にはしていないけれど……。
 談笑ののち、僕はするべきことを思い立って帰ることにした。帰り際の玄関先で雪は訊いた。
「相川さんは、これからどうするの?」
「べつにどうもしないよ。用事をすませたら、寮に帰ってのんびりするよ」
「あ、そうじゃなくて。アルバイトとかのこと。なんなら、私がどこかに口利いてあげてもいいわよ?」
「いや、気持ちは嬉しいけど間に合ってるよ。一応、前にやってたバイトがあるから」
「スーパーマーケットのアルバイトのことね?」
「うん、そう。なんかあったらいつでも戻ってこいって店長がね。これから会って、戻らせてもらうことにするんだ」
 そう……。と雪は寂しそうに視線を下げた。
「それじゃあ、もう本当に毎日は無理ね。でも空いた日があったら、いつでも遊びに来てもいいのよ。私が許すわ。覚えておいて」
 僕にはなんだか、空いた日があったら遊びに来て、と言っているように聞こえた。微笑する。
「君が学校に来れば、毎日会えるのになぁ」
 すると雪は目を丸くした。その言葉は意外だったらしい。
「な、なんで私があなたに会うために毎日学校へなんて行かなければならないの」
「そうだね。じゃあ、僕は帰るよ。また今度ね。桜ちゃんも元気で。那須さん、お世話になりました」
 三人に言って、僕は自転車にまたがった。
 青々とした空から降りそそぐ日光が、やたら眩しくて気持ちよかった。今日は曇りでも雨でもなくてよかったと思う。
 太陽を隠す雲はやがて雨を降らせる。隠し事や嘘は、やがて涙を誘う。雨もときには必要だけど、やっぱり僕は晴れがいい。晴れのほうが好きだ。それは、太陽が好きだからだ。
 自転車のペダルを踏みしめながら、僕は雪を思った。








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猪俣高校一年D組わけありクラス ‐ゆうきとゆき‐

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