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猪俣高校一年D組わけありクラス
‐ゆうきとゆき‐






第三章 わけありクラスメイト




 次の日。登校してみると異様な光景があった。校門に運転手付きの真っ黒い高級車が停まっていたのだ。なにごとかと驚きつつも、ひとまずは校門をくぐろうと車の前を横切ろうとする。すると扉が開けられて中から制服の少女が出てきた。
「おはよう、相川さん」
 雪だった。夏用のセーラー服がよく似合っている。
「え? さ、西条さん? あれ、どうして?」
「私はここの生徒よ。なにかおかしいことでもある?」
「……あ。もしかして、学校に来れば毎日会えるから……?」
 昨日言ったことを思い出して口にした。雪は即答する。
「べつに。私はただ、そろそろ出席日数を稼がなければと思ったから来たまでよ。あなたのためになんかじゃないわ」
 どこか不機嫌そうに言って、ぷいと顔を背ける。
「ああ……そうなんだ」
「それで……相川さん。えっと、私のクラスは……どこ?」
 ははっ、と苦笑が洩れる。
「……オーケイ。僕が案内するよ」
 高級車で送り届けられた女生徒を、エスコートして校舎に入っていく様子は異様なものであっただろう。実際、その場周辺にいた生徒たちからは注目されて、ひそひそと噂話をされているようだった。
 教室につくと、見慣れぬ生徒の入室にどよめきが起こった。しかも雪は容姿端麗でもあったから、やはり一緒に来た僕も注目されるわけである。
 雪が席についたとき、いままで登校拒否していた生徒なのだと合点がいったらしい。一部のクラスメイトが寄ってきて、僕との関係を訊いてきた。答えようとしたら、雪に先に答えられた。
「相川さんは私の大事な人よ?」
「えええ!」
 周囲がいままで以上に活気づく。近くにいた雅彦が寄ってきて、最高の笑みを浮かべて親指を立てた。無言で叩き落とし、弁明しようとする。
「ちょっ、待って。えっと? え? 西条さん、大事な人って?」
 いまいち頭が回らなくて自ら雪に問いただす。
「だって、今度買い物行くのにあなたがいなかったら困るわ」
「いや、そりゃそうかもしれないけど。それじゃ勘違いされちゃうじゃないか」
「勘違い……? ……あっ」
 気づいたのか、急に頬を紅く染める。
「た、たしかにそれは困るわ。えっと」
 僕らの関係を訊いてきたクラスメイトに向けて雪が弁明する。
「その、さっきのは間違いよ。相川さんとはなんでもないの」
 慌てた様子だったのが必死に見えたのか、逆に煽る結果になってしまった。客観的に見ればたしかに、つい口にしてしまった本音を隠そうとしているように見えなくもない。
「……なんの騒ぎ?」
 そこに賢治がやってくる。いつも僕より早くに寮を出るくせに、僕より登校が遅い。とにかくは助け船になってくれそうな人物ではある。一緒だったのか、真希の姿もあった。
 ふたりに事情を話し、ついでに雪には黙ってもらって、事態の収拾に努めた。簡単な嘘を作って、それで僕と雪がなんでもないということをわかってもらう。一部は絶対にまだ誤解しているだろうが、なんとか、朝のちいさな珍騒動は収まった。
 特に、自分のことでもないのに必死で働いてくれた真希には感謝の言葉もない。
 クラスの中で雪がどこか浮いてしまっているのは仕方がない。これからすこしずつ馴染ませていけばいい。僕だけでなく、真希や雅彦もいる。賢治や祥子だって協力してくれるはずである。
 ちょっとした騒ぎはあったが、おおむねはいつもどおりに昼休みとなった。昼食のあと、いつもなら校庭を眺めているはずの僕だが、今日は雪のそばにいて、話し相手になっていた。女の子同士なら友達になりやすいと思って、真希や祥子らにも同席してもらっていた。 そして、昼休み終了間際になって思い出す。
「そういえば西条さん、薬は飲んだ?」
「あっ、いけない。忘れてたわ」
「じゃあ、はい」
 制服のポケットからピルケースを取り出して、カプセル剤をひとつ雪に手渡した。真希や祥子にも雪が体が弱くて毎食後に薬を飲んでいることを教える。雪はおそらく、学校という慣れない場所にあったゆえ、習慣にしていた行為を失念してしまったのだろう。
 雪は不思議そうにピルケースを見つめた。
「どうして相川さんがそれを持っているの?」
「頼まれたんだ」
 実は今朝、登校中の道で意外な人物と出会った。桜である。
 そわそわした様子のまま、やや早口で用件を伝えてきた。登校中の時間に、この用事のため学校とは別方向に来てしまったらしかった。
 桜の用件はピルケースを僕に預けることだった。私の代わりにお願いします、とだけ告げると慌てた様子で走り去ってしまったのだ。
 雪が登校したことを知って、桜の言いたかったことを理解した。雪が薬を飲むときにその薬を渡すのはいつも桜だった。理由はわからないが、そういう役目なのだろう。おそらく昼食時には執事が代役を務めているはず。登校するようになっては、桜も執事も雪に薬は渡せない。
 そういうわけで、僕にその役目を預けたというわけだ。なぜ雪自身に薬を持たせないのかは疑問ではある、が。いまは気にしないでおく。
「今日からは僕が、桜ちゃんや那須さんの代わりってことだね」
 水筒も一緒に渡して、飲むように促す。
「そうね……。ありがとう」
 そのあとの五時間目の途中で、雪は体調を崩して保健室へ行くことになった。六時間目前に帰ってきたときには平気そうだった。
 六時間目の歴史の時間では、だれも気づかないような教師の間違いを、手紙でこっそりと僕にだけ教えて微笑した。その悪戯っぽい笑みが僕だけに向けられていたと思うと、なぜだか急に照れくさくなった。ひとまずは、元気であることがわかって安心である。
 放課後、雪は屋敷からの迎えが来るのを校門で待っていた。バイトまでの時間にすこしだが余裕があった僕は、彼女に付き合ってそこにいた。
 談笑しながら帰っていく生徒。ひとりで足早に帰る者。下駄箱からグラウンドへ直行する者。そんな放課後の様子を眺め、たまに見かける顔見知りとは挨拶を交わす。雅彦とも挨拶を交わして別れたのち。彼との会話の中で気づいたのか、思い出したのか、雪が口にした。
「そういえば相川さんの名前って、私の名前と似てるわね」
「僕の名前? 相川勇樹?」
「そう。ゆうきとゆき。私の名前の音に一文字足せば、あなたの名前になるの」
「そういえばそうだね」
 楽しそうに雪は笑った。それからべつの話題に移した。
「平田さんや南さんは、あなたのこと名前で呼んでいるのね」
「うん。賢治も僕のことは名前で呼んでるね」
「仲がいいのね」
「まあね。賢治とは寮で同室だし。雅彦と真希とは中学が同じだったし。祥子とも仲はいいんだけど、彼女はだれでも名字で呼ぶんだ」
「ふうん……。ところで相川さん。うちの妹のことは、なんて呼んでたかしら?」
「え? ああ、桜ちゃんって呼んでるけど……」
「どうして?」
「え? そりゃ、君の妹なんだし。同じように西条さんって呼んだんじゃどちらか区別つかないでしょ」
「……不平等だわ」
 急に真剣な声でそんなことを言う。
「は?」
「私のことは名字で呼んでいるのに、妹は名前。これは扱いが平等ではないと思うわ」
「そ、そうかな?」
 僕は首をかしげた。雪は肯定した。
「そうよ。西条さんって呼んだら、屋敷の中では私か桜か、どちらを呼んでいるのかわからないじゃないの。区別をつけるなら両方を名前で呼ぶのが正当でしょう。……まあ、いまは叔父さまが代理を引き受けてくれているとはいえ当主は私なのだから、それで正しいという見方もできなくもないけれど」
「いや、僕はそういうことは考えてなかったな……」
「なら、どうして私を名字で呼ぶの? 片方を名字、もう片方を名前で、という区別の仕方をするなら、より仲のいいほうを名前で呼ぶのでなくて?」
「……」
 考えが読めた。
 おそらくは、仲のよい者同士が名前で呼び合うのを見て、自分もそれをやってみたいと思っているのだ。雪はやはり、わかりやすい。まわりくどく理由をつけようとしているようなので、そこを飛ばしてストレートに話を進めてみる。
「じゃあ、これからは君のこと雪って呼べばいいのかな?」
「えっ」
 過程を飛ばされたためか、雪は戸惑った様子を見せた。
「……あ、ええ、それでいいわ。でも」
「でもそうなると、雪が僕のこと名字で呼ぶのは不公平になるから、僕のことは勇樹って呼んで欲しいな」
 先読みして口にすると、こくんと顎を引いてそのままうつむいた。
 すこしの間が空いたあと、頬を紅く染めた雪が背伸びして僕の頭をぽかりと叩いた。痛くはない、が。
「いきなりなにすんの」
「……なぜだかわからないけど、腹が立ったの」
 その理由もすぐわかった。悔しかったのだろう。微笑する。
「私は冗談を言ったつもりはないわ」
 やがて迎えが来て、雪は黒い高級車で帰っていった。僕は見送った。そして気づく。雪に対して僕は、すこしばかりほかの友人とはちがった感情を持っているらしい。
 笑って、それは胸にしまい込む。とにかくは、これからもずっと彼女と一緒に過ごしていける。先週のことを思い、ここまで関係を修復できたことが素直に嬉しかった。
 ついでに、現在時刻が確実にバイトに間に合わない時間であることに気づいて、本気で走らなければならなくなったことが、素直に悲しかった。

 約束の土曜日がやってきた。はやめに寮を出て、門のところで待つつもりだったのだが、少々誤算があったようだった。
 そこにはすでに雪がいて、こちらに気づくやいなや不平を言ってきたのである。
「遅いじゃないの、勇樹」
「えっと……、まだ十時半前なんだけど……」
「それでも私は三十分は待った。待ちくたびれたわよ」
「それって、約束の時間より一時間以上はやくから待ってたってことだよね? どうしてそんなはやくから……」
「たいした理由なんてないわ。ただ、待たせるのは悪いと思ってはやめに待つことにしただけよ」
「体、そんなに丈夫じゃないんだからそんな無理しなくてもいいのに……」
「いいじゃない。待ちたかったんだから」
 足下に目を移してしまう。
「じゃあ遅いとか文句は言わないで欲しいなぁ……」
「つべこべ言ってないで、そろそろ行きましょう。予定よりはやく集合できたなら好都合じゃない」
 くすり、と僕は笑った。
「はいはい。じゃあ行きましょうか、お嬢様」
「もう。なによ、そのにやけた顔は。冗談なんて言ってないのにいつもそんな顔して……」
「君といるといつも楽しいからだよ」
 駅前までは歩くとそれなりに遠いので、バスに乗って駅まで移動した。そこからは徒歩で商店街へ足を踏み入れる。
 雪は、物珍しそうに瞳を動かしたり、僕のそばを離れなかったりと、物珍しさとわずかな怯えもあるようだった。それを落ち着き払った様子を装って隠そうとするのが、僕にはかわいらしく見える。
 何軒かの店を巡り、喫茶店で休憩しているところだった。
「意外と人が多いのね」
「休日だからだよ」
「思った以上だったわ。……ところで、あのお店は何屋さん?」
 不思議そうに窓の外に目を向けている。雪の視線の先。通りを挟んだその先にあるのは。
「ゲームセンターだけど……知らない?」
「ゲーム? ああ、カジノね。それくらい私だって知ってるわ」
「いや、カジノとはちがうよ。う〜んと、あとで行ってみようか」
「カジノではないのね……。ええ、それなら興味があるわ。行ってみましょう」
 勘定をすませたのちに、まっすぐゲームセンターへ。簡単にどういう場所なのかを説明して、どんな種類のゲームがあるかを実際に見せてみる。メダルゲームに興味が惹かれたようだった。これは予想どおり。
 店を貫通してもうひとつの出入り口から外へ出たところで、雪の視線が外に置かれたふたつの機械に向けられた。交互に見渡す。ひとつはUFOキャッチャー。もうひとつは。
「ああ、それはプリクラってやつ。写真を撮ってシールにしてくれるんだ」
「……それは、証明写真のこと? ずいぶんと手の込んだデザインをしているのね。流行ってわからないわ」
「いや。証明写真ではなくてね。こう――」
 それがどういったものであるかを簡潔に説明した。
「つまり、装飾をした上で写真を撮ってシールにするのね?」
「そう。そういうこと。やってみる?」
「いいえ。興味がないわ。でも記念写真は欲しいわね。あとで丈二に撮ってもらいましょう。それより……」
「うん?」
 雪はUFOキャッチャーに張りついて、物珍しそうに中の様子を覗いた。
「私はこっちの機械のほうが興味あるわ。これが噂に名高いUFOキャッチャーでしょう? そうでしょう?」
 景品のぬいぐるみを眺めるその姿は、いつものお嬢様然としたものではなく、一般的な女の子のそれに見えた。
「そうだよ。やってみる?」
 目を輝かせた雪は、活き活きと返事をした。
「ええ、是非。一回百円。でも五百円なら六回……。聞いていたとおりだわ」
 雪はさっそく財布を取り出して五百円玉を放った。真剣な様子でクレーンを操作する。どうやら狙いは丸っこい猫のぬいぐるみであるらしい。挑戦は三度失敗した。
「なるほど。噂どおりだわ。たしかに難しい。でもそれでこそ燃えるというものよ」
「雪、すっごく楽しそうだね」
「ええ。こんなに楽しいのは久しぶり」
 こちらは見てて楽しい。
 四度目にしてようやく、ぬいぐるみがクレーンに引っかかった。ぶら下がり、おおきく揺れ、徐々に下方へ滑ってきている。手に汗握りながらそれを見つめる雪。
 そして、もう一歩でゴール地点というところでクレーンからこぼれ落ちてしまった。
「あぁん、もうすこしだったのに……」
 本気で悔しがっている。その後も失敗は重なり、結局は雪の惨敗となった。しかし雪はわりと清々しい顔をしていた。
「楽しかったわ。取れなかったのは残念だけれど」
「もう挑戦しないの?」
「ええ、こういうのは引き際が肝心だそうだから」
「うん。その判断は正しいね。取れるまでやろうとするといつの間にか大金が消えてたりするし」
 と、そんなところに、聞き覚えのある声が届いた。
「だれかと思ったら相川。それに西条さんじゃない」
 祥子だった。真希も一緒だ。挨拶を交わしたところで祥子が首をかしげる。
「デート?」
 慌てた。
「いや、ちがうよ。買い物に付き合ってるだけ」
「ふうん。それってデートとどうちがうの?」
「えっと、デートっていうのは、好きあってる男女がふたりっきりで遊びに行ったりしたりすること……だと思う、けど」
 雪がきょとんとした様子で顎に手をやった。
「辞書に載っている意味なら、これはデートだと思うけど」
 するとそれを受けてか、真希がなにか言いたげにこちらを見つめる。なんと言ったらいいか、わからない。
「ええっと……」
「祥子、行こう。邪魔しちゃ悪いよ」
 こちらから視線を外して真希は言った。
「そうね、行きましょうか。じゃあねー」
 真希と祥子は去っていった。どうも真希の様子がおかしかった気がする。最後にはこちらを睨んでたようにも見えた。
「南さん、ちょっと不機嫌だったみたいね」
「そう……みたいだね」
「南さんとは付き合いが長いのよね?」
「うん。前にも言ったと思うけど、小学中学って、学校が一緒だったんだ」
「相川さんが前にいた地方って、ここから遠いのでしょう? 平田さんもそうだけど、よく同じ高校になったわね」
「雅彦は、家がこっちに引っ越しになったからね。たしか真希は、寮生活をやってみたいって言ってたっけ。それで僕も寮のある学校探してたから、よく一緒に調べたりしてたんだ」
「ふうん、そうなの」
 なにか合点がいった様子でうんうん、とうなずく。
「さて。それじゃあそろそろ帰りましょうか」
「え? もう帰るの?」
「ええ。用事はあらかたすんだでしょう。それにあまりあなたを独り占めしていたら恨まれるわ」
「……だれに?」
「さあ? それは自分で考えなさいな」
 う〜ん、と唸って考えてみるが、どうもよくわからない。
「いいから行きましょう。帰ったら丈二に写真も撮ってもらうからそのつもりで」
「え、本気で撮る気だったの」
「当たり前よ」
 こうして僕たちは屋敷へ戻り、今日の記念という写真を執事に撮ってもらった。その際に、さり気なく雪が腕に絡んできたことは印象深かった。


 雪はクラスに馴染んできたようだった。
 不安がる様子もなくなり、浮くようなこともない。僕との噂をたまに耳にするが、もうキリがないでこれは放っておいた。
 仲良くなった相手もいるようで、よく話すようにもなっている。祥子や真希らと談笑する姿を見ていると、安心する。
 いいことだな、と思う反面、僕と接する時間が減ってしまって、そのことにどこか胸に引っかかる感情を覚えた。
 そして、雪の身体のことが心配だった。桜がいつか言ったように、彼女の気持ちに身体がついてこないのか、保健室で休むこともすくなくはなかった。僕はそんなときはいつも、できるだけそばにいたかったけれど、そう上手くはいかなかった。
 そろそろ気温も高くなってきて、暑い日も多くなった頃。
 期末テストが近くなって「ここはテストに出すぞ」という発言が複数の教師から何度も聞けるようになっていた。
 その日の昼休み。珍しく雅彦や賢治に誘われて、三人で屋上で昼食を摂った。金網のフェンス越しに校庭を見下ろすと、サッカーやらなにやらで遊んでいる生徒たちが見えた。
「さてさて。勇樹、お前はどっちを選ぶつもりなんだ?」
 いきなり雅彦がわけのわからない問いを投げかけてきた。
「どっちって、なにが?」
「西条さんと真希のことだよ。みんなが知ってる西条家のお嬢様、西条雪。容姿は端麗、学業万能。一方、家庭的で優しい幼馴染み南真希。男子の中では根強い人気だ」
「……なにが言いたいのかよくわからないんだけど」
 そこで賢治が口を挟んでくる。
「両手に花な状況ってこと。お前、自覚ないのか?」
 言われて、急に顔の内側が熱くなった。
「ち、ちがうって。君たち勘違いしてるよ。雪も真希も、僕にとっては友達だよ。そんな関係じゃないって……」
「ふーん」
「ほぉー」
「なんだよ、その信用してないような反応はっ」
 ふっ、と雅彦が笑う。賢治も口の端をゆるめた。
「まあいいんだけどな」
「そうだな。だからといってべつになにかあるわけでもない」
「ただな――」
 雅彦が指を一本立てて突きつけるようにこちらに向けた。
「羨ましいぞこのやろう羨ましいぞこのやろう」
 いきなり両手でヘッドロックされる。
「うわっ、なに? なに?」
「賢治ー、やれー!」
 逃げようとするが完璧に決まっていて外せない。そうこうしているうちに賢治が正面に来た。
「知ってるか? 人体の急所は、縦の中心線に固まってるんだ。有名なところで鳥兎、人中、牙顎、秘中、水月、丹田、金的……とね」
 ごく自然な動きで賢治はなにか拳法の構えを取った。
「ちょっ、待っ……。賢治、目が本気だよ!」
 じたばたと暴れるが逃げられない。
 そのとき、助けとばかりに背後でおおきな音がした。屋上の出入り口の扉が勢いよく開けられたことで発生した音だとわかる。
「相川! 平田! 三条!」
 祥子の声だ。ひどく慌てている。なにごとかとふり向く。賢治はすでに構えを解いていて、雅彦もヘッドロックをやめていた。駆けてきた祥子に訊ねる。
「どうかしたの? そんなに慌てて」
「西条さんが倒れたの」
「えっ!」
「それで、相川たちにも伝えたほうがいいと思って、私」
「いま雪は!?」
 つい祥子の肩を揺さぶってしまう。
「保健室。南さんがついてるよ。行ってあげて」
 返事もせずに僕は駆け出す。薬のことを思った。
 薬を飲ませたあとは、いつも一時的に具合が悪くなる。副作用のようなものだろう。だいたいが五時間目がはじまってからそうなるようだったが、まだ昼休みのなかばだ。いつもよりはやい。そして倒れるようなことなどいままでなかった。
 いつか桜から聞いた言葉が脳裏をよぎる。
(姉は、相川さんに会うようになってから、気持ちは前みたいに元気になってきたのですけど、その……身体がついてこないようなんです)
 もしかしたら雪は無理をしていたんじゃないか。僕が戯れに言ったことを実践して、それで体を壊したんじゃ元も子もないじゃないか。
 保健室には真希がいた。保健室つきの教師もいた。雪の姿はない。薄いカーテンで仕切られたその中のベッドに寝かされていることはすぐわかる。遅れて雅彦たちも到着する。
 真希に一瞥してすぐ保健室の榎本先生に訊いた。雪が大丈夫かどうかを。ひどく慌てていて声がおおきくなっていたらしい。榎本先生の返答は、注意という形でなされた。
「その西条さんが寝ているのよ、静かになさい」
「あ……、すみません」
 意識して声のトーンを落とす。
「倒れたときから意識がないみたいなの。さっき家の人に電話したからすぐ迎えが来るはずよ。あなたたちは心配しなくてもいいわ」
 僕は雪の寝ているベッドのほうへ目を向けた。言われたとおりにすることはできなかった。その場に突っ立ったまま、うつむいた。
「そうね、相川くん。心配するなというもの無理ね。西条さんになにかあったときは、だいたいあなたがついてあげてたものね」
「……迎えが来るまでいても……いいですか?」
「いいわ。でも予鈴が鳴ったら教室へ戻るのよ。サボりはダメ」
 保健室の椅子を借りて、僕たちはじっと待った。迎えが来ることを待っていたのか、雪が目覚めて元気な姿を見せることを待っていたのか。
 僕以外のみんなも、心配そうに視線を落としていた。こういうことには、だれだって慣れてはいない。
 では慣れている者はどのような反応をするのだろう。
 雪は、屋敷でもたびたび具合を悪くしていたのだろうか。以前にも倒れたことはあった。それ以前にも何度もあったとは聞いている。そんなとき、桜や執事はどうしていたのだろう。
 なにもできないということが、ひどく悔しかった。

 やがて執事が迎えに来て、雪は早退した。最後まで目を覚まさなかった。
 僕たちは放課後、すぐさま西条家へ向かうことにした。雅彦から携帯電話を借りて、今日のバイトを休ませてくれるようにと店長と交渉する。
「急だってことは、なにかわけありなんだろう。いいよ、今日のところは大目に見てやる」
 かすかに笑う声が聞こえた。
「日頃の行いがいいから許すんだぞ。真面目に生きてりゃいいことがあるってこった」
「ありがとうございます」
 以前、雪が倒れたときは屋敷に入れてもらえなかった。それは雪が僕を意識してのことだった。今回はどうなるだろう。彼女に意識は戻っているだろうか。
 訪ねてみると、勝手口から出てきた執事はおおきくお辞儀をした。今日こそは見舞わせてくれるものだと思っていたが、その予想ははずれた。
「みなさま、お嬢様の来ていただいて本当にありがとうございます。しかし……お嬢様はいまだ目を覚ましておりません。今日のところはお引き取りください」
 仕方がない。僕たちはその場で解散の流れとなった。しかし、みんなとの別れ際、執事はもう一度口を開いた。
「申しわけありませんが、相川さまには少々お話があります。残っていただけますか」
 あとで寮の近くの公園で会うことを約束して、僕はみんなと別れた。執事の案内で応接間へとおされる。僕だけには特別に雪と会わせてくれるのだろうか。その場で待っていると、やがて執事が連れてきたのは雪――ではなく、妹の桜のほうだった。
 挨拶もほどほどに。桜は重々しく口を開いた。
「まず、相川さん。以前に嘘をついたことを謝ります。ごめんなさい……」
 頭を下げる。僕にはなんのことだかわからない。
「嘘?」
「はい。以前にお話ししました。姉は体が弱いと」
「それが嘘? そんなわけないよね」
「ええ。そうです。ですが、私は体が弱いだけ、というようにお話ししました。事実はそれとはちがうということなのです」
 姉は病気なのです、と桜は言った。
 雪は、両親が亡くなった精神的ショックで、一度は持つようになった平均的な丈夫さを失った。そこまでは聞いた話だった。そこからが、ちがう。
 両親が死んだ理由、それは事故だ。ちょっとした油断でこじらせた風邪。娘第一だった両親は、スケジュールを空けて雪に付き合った。平均的になったとはいえ幼い頃は長くは生きられないかもしれないとまで言われた体である。心配することは当然であった。
 事故が起きたのは、雪が問題なく快復したのち、ふたたび仕事先へ向かうその途中だったという。彼らの乗る自動車は、信号無視の車に横からぶつけられた。
 もし自分が風邪なんてこじらせなければ、両親が帰ってくるのはもっと先のことだった。自分のせいで、両親が死んだ。雪はそう思うようになっていったという。
 雪の受けた精神的負担はおおきかった。寝込み、その中でさらに落ちていった。自分がいなければ、両親は死ななかった。自分の体が弱くなければ。自分がもっとはやくに死んでいれば……。
 病は気から、という。もしかしたら雪は死にたがっていたのかもしれない。雪の体調はだんだんと悪くなっていった。
 桜は当主代理を務める叔父を頼り、紹介された名医に雪のかかりつけとなってもらった。以前のように虚弱にはなって欲しくはなかった。処方された薬も、雪は飲みたがらないことが多かったため、桜や執事が彼女に手渡して飲むようにきつく言うようになった。その役目はいま僕も預かっている。
 やがて病気であることが判明した。病名は、不明だった。
 精神的なものかもしれないし、未知のものかもしれない。検査を繰り返し、いくつもの治療を試みたが成果はあがらない。
 唯一の手段として、進行を遅くする程度にしか効果のない薬をいつも飲ませているのが現状である。精神的なものであるならばと、執事が僕を雇うことですこしでも雪の心を救おうとしたのは最近のことだ。
 長い話が終わって、桜は息をついた。
 衝撃だった。指先が震えているのがわかる。心臓が焦って鼓動のリズムを間違えている。大量のつばを飲み込んで、僕は訊くことにした。
「それで……いま雪は。雪は……どうなんです」
 桜も、執事も、目を背けた。それが答えであるようだった。やっとのことで執事が答えてくれる。
「それほど長くないと、聞かされております」
「なぜです……。どうして原因がわからないんです。現代医学はその程度だったんですか。西条家の総力をあげても、治療は無理だって言うんですか!」
「……」
「僕が、いても……。なんにも……ならなかったってことですか」
「……遅かったのです。相川さま……すべて、遅かったのですよ」
 がくん、と体中の力が抜けた。糸が切れた操り人形を連想する。僕にとっての糸は、雪という存在だったかもしれない。
 自然とうつむき、目が閉じられる。
「雪が……。雪が、死ぬ?」
 ためらうような間のあと、はい、と返ってきた。
「本当に……本当に……?」
「申しわけありません。私が相川さまを選んだばかりに、つらい思いをさせてしまいます」
 執事が頭を下げたのがわかった。
「賭けたかったのです。どうしても、雪お嬢様には生き続けていただきたかった。それが亡くなられたご両親の願いであり、私どもの願いでした」
「……僕じゃ、ダメだったんですね」
「いいえ。相川さまに落ち度はありません。負けてから賭けた私たちがいけなかった」
「雪……」
「ありがとうございます相川さま。あなたさまのお陰で、雪お嬢様も明るさを取り戻しました。それだけは、幸いなことです。ありがとうございます……」
 僕はなにも答えられなかった。
 それから静寂が訪れた。僕も執事も桜も、周囲の空気までもが身動きひとつせずにいた。唯一、壁にかけられた古めかしい時計の振り子だけが、ゆらゆらと揺れるのみだった。ゆっくりと、いつ止まるかもしれない運動は、まるでいつ途切れるかしれない生命のようだった。振り子が止まったとき、雪の命も途切れる……。
 しばらくののち、僕はようやくこの言葉を口にすることができた。
「……雪に会わせてください。いつまででも待ちます。雪に、会わせてください」
「会ってどうするおつもりですか」
 執事は訊いてきた。こちらが答える前に僕の考えを見透かしたかのようにつづけた。
「会って、愛しているとでも伝えるおつもりですか?」
 僕は真剣に見返した。
 僕とは比べものにならないくらい恵まれた環境に生まれながら、長くは生きられない体を持ち、そして僕と同じように両親を失った。雪は、僕自身が受けてきた不幸などとは比べられないくらいの不幸を背負っている。
 だからこそ、せめて、すこしの間だけでも彼女を幸せにしたいと思った。支えて、優しく包むことができたらいいと思ったのだ。
 執事の問いにはハッキリと、はい、と答えた。
「そうですか……」
 執事はうなずくと、どこか悲しそうに目を細めた。
「相川さま、今日はお帰りください」
 その言葉は僕の行為を認めないという意思表示だった。
「なぜですか」
「相川さまのそのお気持ちは本物でございましょう。本来ならお嬢様もきっと受け入れるでしょう」
 ですが――。執事がするどく僕を見据えた。
「――いまの相川さまはお嬢様に同情して言っておられる。同情は愛でありましょうか?」
 息がつまった。僕は答えられなかった。
「同情とは、自分より不幸と思われる者にするものです。同情するほうはいい。けれどされるほうの気持ちは……、わかるはずです。お嬢様は、不幸などではないと……ただすこし運が悪かっただけだとご両親に言い聞かせられてきました。同情されることを嫌っておられます」
「……ッ」
 なにも、言い返せない。
「お嬢様は、相川さまの負担にはなりたくないと仰っておりました。いずれ別れを告げるつもりだとも……。相川さまがなにも知らないうちに自分ですべて決着をつけるつもりだと言っておられました」
「……なら、どうして僕に教えたんです」
 執事と桜はわずかに目を合わせた。
「私たちがどちらも正解ではないと思うからです」
「どういう、ことですか……!」
「当事者たちには見えないこともあるということです。とにかく、今日はお帰りください。いまのあなたを、お嬢様に会わせるわけにはまいりません」
 僕は、なかば追い出される形で屋敷から出ることになった。雪のことを思い、とぼとぼと坂を下っていく。悔しさ。悲しさ。憐れみ。そして焼けるような胸のうずき。また大切な人を、亡くしてしまう。
 両親を亡くしたときの悲しさを思い出し、そして雪がいなくなってしまった未来を想像してしまう。
 雨は降っていないけれど頬は濡れ、視界はぼやけた。どうすればいいのか、わからない。ただひとつ見つけ出した答えすらも否定されて、僕にはもうどうすればいいのかわからない。
 公園が視界に入った。寮の近くの、公園というよりは空き地といえる場所。真希、雅彦、賢治、祥子。四人が待っているのが見えて、僕は涙を拭いた。感情を中に抑えこもうと必死で制御する。
 みんなのもとに辿り着いたとき、僕は平静を装うことくらいはできていたはずだった。
「あの執事さん、勇樹になんのようだったんだ? けっこう長かったみたいだが」
 雅彦の問いに答えるときは、なんでもない振りをした。
「ああ……、ちょっとね。簡単な作業の手伝いを頼まれたんだ。バイト代はずんでくれたよ。西条さんも、いつの間にか気づいたみたいで、思ってたよりもずっと元気そうだったよ」
「へえ、なら安心だな」
 嘘をつくことは、得意で慣れている。
 けれど、上手くいかないときだってある。
「って、安心できるわけないだろ……。お前、どうしたんだよ。なにがあったんだ? 目、赤いぜ」
 隠し通すことは、できなかった……。

 雪について、覚えている限りすべてを口に出した。雪のことが好きとか同情してるとか、そのあたりは伏せて話した。星空の下で五人。街灯に照らされたまま僕たちはいた。話し終えたとき、最初に呟いたのは雅彦だった。
「……あの西条さんが、か」
 それ以後、だれも口を利かなかった。利けなかった。
 ほとんど会話のないまま解散。寮の自室に戻ってきたところで、ようやく賢治は口を開いた。ちゃぶ台を挟んで正面同士。いつも僕と彼が話をするときのポジションだった。
「すこし話を、しよう」
「うん……。なんの話?」
「わけありクラス」
「わけありクラス……か。雪は、学校の七不思議と同レベルの噂話だって言ったっけ……」
「そうでもないさ。実際、お前だって一年D組はわけありクラスだって思ってるだろう?」
「うん、そうだね」
 わざと僕の気持ちが逸れるように話をしている。賢治は僕に、気をつかってくれている……。
「この噂がなくならないのは、クラスの連中みんなに、わけありの心当たりがあるからだと思うんだ。それはみんなになにかしらのわけがあることを示している。つまり、一年D組は本当にわけありクラスだと言えるんじゃないか」
「それを言ったら、べつのクラスでも通用しそうだけど」
「まあな。ところで、ずっと前にも猪俣高校にわけありクラスがあったって話は知ってるか?」
 いいや、と答えた。初耳である。
「十九年前……くらいか。そこから三年間。二年生のクラスにはわけありクラスと呼ばれる組があったそうだ」
「二年生?」
「そう、二年生にだけだ。一年が進級したら、わけあり連中が集まってわけありクラスができる。二年が進級するとわけありクラスはクラス替えで解散、とね」
「ふうん。じゃあ昔にもそういうのがあったから先生たちの間で噂になったのかな」
「かもな。それと面白いのが、わけありクラスが最後に存在した年――十六年前は、俺たちが生まれた年度だ」
「……どういうこと?」
 賢治はメガネのズレを直した。
「さあな。でも、ここから先はSFだが、だれかが俺たちの運命を操っていたとしたらどうかな。この学校へ来るまでの『わけ』を、それぞれに決めて」
 わけ……。それを聞いてふと思う。いままで疑問に思わなかったわけではないが、本気で訊ねたことはなかった。西条家ような名家のお嬢様である雪が、どうして猪俣高校のようなレベルの低い高校へ入学したのか。いつか言っていた研究のためというのは、彼女の嘘だといまは思う。
 彼女も本当は『わけあり』だったのではないだろうか……。
「もしも、俺たちの人生の一部がだれかに決められたものだったとしたら、お前はどうする?」
 それは、僕の経験してきた様々なつらいことなどの原因すらも、そのだれかにあることになるのだろうか。だとしたら、もしそうなら、雪の病すらもだれかに決めれたものかもしれない……。
 空想の話でこんな風に思うのは、変かもしれない。けれど。
「僕は、認めない。そして、許さない」
 真剣に僕は答えた。すると賢治も真剣にうなずいて答えた。
「なら……抗ってみようじゃないか」
「え? どういう、こと?」
「俺も『わけあり』ってことさ。西条さんが使ってる薬、お前持ってたよな? ひとつよこせ」
 手を開いて差し出してくる。制服のポケットからピルケースを取り出して、中のカプセル剤をひとつ賢治に渡した。
「なにをする気なの?」
 賢治は目を細めた。
「……俺は、雅彦や南みたいにお前と付き合いが長いわけじゃない。村木みたいに物事を客観視しての判断も上手くない。言葉で助けてやることはできないんだ。それでも、なんとか力になってやろうと思ってな」
「賢治……」
「この薬で病気の進行をすこしくらいは抑えられるんなら、成分を分析すればそれがどんな病気かわかるかもしれない。もっといい薬がどこかにあるかもしれない。探してみる。俺にできるのは、このくらいだけど、な」
「あ、ありがとう……」
 僕はその場で深く頭を下げた。
「よせよ。俺が全部やるわけじゃない。そういうコネがいるだけなんだ」
「それでも、ありがとう」
「気休めくらいにしか、ならないと思うぞ」
「充分、だよ」

 夜は寝つけなかった。賢治の気休めのお陰で一時は心が軽くなったような気もしたが、すぐに現実を思い出して沈んでいった。何度も寝返りを打っていることに気づいたのか、上から賢治が声をかけてきた。二段ベッドの上の段が賢治の寝床である。
「勇樹、眠れないんだろ。俺もだ。でも、お前は俺よりひどいだろうな……。散歩でもしてこい」
「……どうにもならないよ」
「動いてりゃ眠くなるさ。お前には配達のバイトだってあるんだ。十一時すぎれば夜更かしだろう。すこしは自分の体のことにも気を回せ」
「そう、だね。すこし風にあたってくるよ」
 起きあがり、寝巻から普段着に着替える。バレないように静かに廊下を歩いて寮から抜け出した。初夏の夜の風は涼しい。
 アテもなくふらふらと歩く。散歩というよりは放浪に近い。どこへ向かっているのだろう。どこへ向かえばいいのだろう。答えは出ないくせに足は動いて、やがて西条のお屋敷への道を僕は歩いていた。
 その途中にある公園。いつか見た砂場。街灯。ジャングルジム、シーソー、ブランコ。外枠近くにはベンチがいくつも並んんでいる。
 ベンチにだれかが座ってこちらを見ていることに気づいた。
「よお、来たか」
 雅彦の声だった。
「どうして、こんなところにいるんだ、君は……」
「散歩さ。来るかなって思ってたら本当に来やがったな、お前は」
 まあ座れよ、とベンチの空いているスペースを手で叩いた。言われたとおりにそこに座る。両膝に両肘をついて指を組む。雅彦も同じ姿勢を取った。ふたりとも無言でそのままでいた。
 やがて頃合いと見たのか、雅彦は静かに切り出した。
「なあ。本当は、西条さんが不治の病だって聞いて、それだけで帰ってきたわけじゃないんだろう?」
「……どうして、そう思うの」
「お前、西条さんのこと好きなんだろう。お前がしそうなことくらいわかる。たぶん、会えなかったんじゃなくて、会わせてもらえなかったんじゃないか」
「……」
 沈黙が雄弁に肯定を示してしまった。
「図星、か。やっぱりな」
「……僕は、雪のこと同情しているだけかもしれないよ。好きってわけじゃ……ないかもしれない」
「それで会わせてもらえなかったのか。まあ……いまは、そうだろうな。でも、お前は前から――」
「――かもしれない。けど、僕はわからない。どこまでが同情で、どこまでが好意なのか……僕には、わからない。どうすればいいのかも、わからないんだ」
 ふう、と雅彦がちいさく息をついておおきく空を仰いだ。
「耐えに耐え忍ぶも恋の至極……か」
「……え? なに?」
「いや、すまん。こっちの話だ。俺も結局はわけありクラスの一員らしい。それより、ひとついいか?」
 僕は無言でうなずいた。
「嫌な話だけどよ――」
 口にするのをためらうように、雅彦は視線を落とした。
「――西条さんは、その……残念だけど、死んでしまう。これは俺たちの力じゃどうしようもない。同情するなって言うほうが難しいよな……。でもそれを理由に、好きだと言うのは……なにかちがってるだろ」
「……」
 なにも言えない。ただ僕は、目を逸らしてうつむくことくらいしかできなかった。雅彦は苦しそうに首を横におおきく振った。
「なにが言いたいんだろうな、俺は……。こんなところで待ってて、ろくに相談に乗ってやることもできないとはな」
「その気持ちだけで、嬉しいよ」
「すまん……」
「いや」
 それきり、黙り込んでしまう。互いに、沈黙。動くものも、街灯の明かりにたかる虫たち以外には見あたらなかった。しばらくして、ようやく口が利けるようになった。
 けれどこれ以上は話をする気分でもなかった。もともと、ただひとりで歩くつもりだったのだ。
「僕は、そろそろ帰るよ」
 立ち上がると、雅彦もこちらにならって腰を上げた。
「……なにかあれば、いつでも言ってくれていいぜ」
「ありがとう……」
 そのまま軽い挨拶を交わして別れた。
 寮へ戻ると、賢治は寝ついていた。僕もベッドに横になる。いつか来る雪の死という現実を中心に、今日あった様々なこと……その中でも執事や雅彦との会話が勝手に反芻されつづけた。そしていつしか意識は混濁。記憶も曖昧にとろけ、感覚は無に。
 夢を見はじめたときには、自分が寝ていることすら忘れていた。








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猪俣高校一年D組わけありクラス ‐ゆうきとゆき‐

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