次の日。雪は学校へは来なかった。その次の日も。そのまた次の日も。体調が悪化したまま戻っていないのだと思った。いよいよ生命が尽きかけているのか。不安な連想をかき消して、その日もまたバイト先へ向かう。いまの僕には、いままでどおりの生活をつづけるしかない。 ……いままでどおりの、生活? なにを言っているのだろう。僕のいままでの生活には、雪がいたじゃないか。 グッと歯を噛みしめる。バイト中も、そうやって爆発しそうな水風船の蓋を噛んで塞いでいた。油断したら一気に水が溢れ出して、瞳から零れていってしまうとわかっている。 休憩中のひととき。食堂兼休憩室でコーヒーを飲んでいると、店長が向かい側正面の席に座った。 「どうした青少年。悩みごとか。最近暗くて困るぞ」 「暗い、ですか?」 ああ、とおおきくうなずかれてしまう。まだ三十代前半だというのに店長をやっているのだ。洞察力に優れているのかもしれない。 「悩みは、あれかな。女絡みだろ。しかも障害のある恋と見た」 「すごいですね。百点満点です」 「ちっ、その反応はどうやら外したか」 店長も自販機でコーヒーを買ってきてまた同じ席に座った。ひとくちつける。 「ところで、さっきから従業員出入り口でずっと突っ立てる女の子がいるんだ。だれか待ってるらしいんだが、心当たりあるか?」 「なんで僕に訊くんですか」 「歳が近いからさ。ありゃ高校生だぜ。しかし、いまどきって感じじゃあないな。品がある。相川くん、付き合うならああいう子がいいぞ」 店長の並べた特徴で、僕の頭の中にはひとりの人物がイメージされた。西条雪。でも、彼女がこんなところへ来るわけがない。いくら会いたいからといって、起こりえないことを期待してはいけない。 休憩時間を終え、残り二時間の勤務時間も終えて外に出てみるといきなり声をかけられた。ひどく懐かしく感じられる声で、瞳に涙が浮かんでしまう。まばたきを素早く数回。涙を循環させてから声のしたほうへふり向いた。 「お勤めご苦労様」 期待、どおりだった。 「……雪――」 「久しぶり」 雪は照れるように笑った。僕は彼女と同じように、久しぶりと言って笑うことは、できなかった。 雪に合わせて自転車を押して歩いていく。車道側には僕。自転車を挟んだ先に雪。等間隔に置かれた街灯。寮のほうへ向かうほど街の華やかな明かりは遠ざかり、街灯と月明かりのみが頼りとなってくる。 「……あれからずっと学校休んでたから、悪いのかと思ってたよ」 「ごめんなさい。心配させてしまったかしら?」 「した、よ」 「そうね……友達だものね。心配してくれるのよね……」 ちがう、君のことが好きだからだ。 「本当はあれからすぐ良くなっていたの。でもその……学校へ行くのは、もうやめようと思って」 「どうして?」 「前に話したでしょう? 私が猪俣高校へ入学したのは、下々の生活諸々の研究のためと。再開したのはいいけれど、やっぱりつまらなくて。そろそろ私にふさわしい学校へ編入しようと思っているの」 嘘だ。わかっていても、声には出さなかった。 「そっか。それなら、それでもいいんじゃないかな」 街灯の作る光の円を何度もくぐり抜けて歩いていく。数秒後の未来には次の光の中にいる。雪と一緒に。けれど、このとき。次にあるはずの光が見えなかった。 「勇樹……いえ、相川さん。今更こういうことを言うのも、非常に悪いと思うのだけど――」 ほかより短命だったのだろう。街灯は、切れていた。 「――やっぱり私は、相川さんとは友達でいたくないわ。もう会わないでおきましょう。きっとこれからは、お互いのストレスのもとになるわ」 僕は立ち止まった。一歩先を行き、雪は足を止めてふり向いた。 「でも相川さん、あなたは……いい人だったわ。それは自信を持って。どこかで西条家と関わりを持つことがあったら、よきに計らうよう皆には言っておくわ」 あの日に執事が言っていたことを思い出す。 おおきな悲しみを与える前に、ちいさな悲しみを与えて引き離す。 これが君の決着のつけ方か、雪。無理をしているのが顔に出てるじゃないか。そんな嘘のつき方じゃ、だれも騙すことなんか、できやしないよ。 知っている僕には、つらかった。 雪が死んでいなくなってしまう悲しさが、胸の中でおおきくなっていく。そして彼女の見せる、好いているからこそ悲しませないようにする態度が、愛しさまでをも増幅させていた。 「あなたには、私がいなくてもいいお友達がたくさんいるわ。だから大丈夫。私のことは忘れてもいいの。南さんと、仲良くするのよ……」 それじゃあ、さようなら。それだけを言って去ろうとする雪。 ちょっと待ってよ。僕はそんなの嫌だ。君のことが好きなんだ。 言葉が走りそうになったとき、不用意に執事や雅彦の声が聞こえた。顔が浮かんだ。 (同情は愛でありましょうか?) (同情するなって言うほうが難しいよな……。でもそれを理由に、好きだと言うのは……なにかちがってるだろ) 追いかけようとした足が動かなくなる。喉がつまって声が出なくなる。雪はひとりで歩いていく。街灯の光のないところへ消えていく。闇の中へと消えていく。溶けていく。いなくなる。 僕はひとりだった。光の円の中に取り残されていた。 自分の感情ひとつ、理解できていなかった。 翌日。昨夜、雪に会ったことはみんなには黙っていた。 僕がいつもより沈んだ気持ちでいたことは、だれにも気づかれなかったと思う。もともと沈んでいたのだ。海底に沈んだ沈没船がさらに落ちていったとしてもだれかが気づくものでもない。 放課後のバイトは休み。寮への道を真希と一緒に歩いていた。当たり障りない会話で保たせていたが、お互いに雪のことが気にかかっているのは明白で、盛り上がりも面白味もない言葉の投げ合いでしかなかった。 それはここ最近はだれとでもそうだった。真希はそれが嫌だったのだろうか。それとも、立ち直るべきだと奮起したのか。わからないけれど、ちがう展開を見せたのは事実だった。 寄り道しよう。真希はそんな言葉で、いつか一緒に弁当を食べた公園へと導いたのだ。制服姿のカップルが何組も見えた。僕たちもそのひとつに見えてしまうのだろうか。 嫌ではないけれど、すこしだけ雪を思って悲しくなった。 緑の並木道を歩いている最中。人の気配がすくなくなったそのときに真希は問うた。 「ねえ、勇樹はどんな女の子が好きなの、かな?」 「え?」 真希が僕の気をどうにか紛らわそうと一計を案じたものだと思った。答えることにした。 「そうだね……。よくわからない、な。好きになってしまったら、それまでだと思うけど」 「そういう逃げ方はしないの。どこかですれ違って、かわいいなぁって思っちゃうような子の特徴とか。あと、理想の奥さんの条件とか。なにかあるでしょ?」 「……そりゃ、あるけど」 「じゃあそれを答えればいいの」 「うん、じゃあ……そうだね」 思い浮かべてみて、言葉にする。 「髪は長いのがいいな。茶色とか金とか染めないほうがよくて……。日焼けしてないような感じがいい。あんまりヘラヘラしないで、いつもぴっと口を閉じてて……。本当は明るいくせに人見知りするんだ。初対面のときなんかはひどいこと言ったりもするけど、仲良くなってくるとなにをしたいのか考えが読みやすくて……」 そこまで言葉にしてから、はっと口を閉じた。そのまま歯を食いしばる。頭に浮かんだイメージは、よく知っているあの女の子のものだった。 あははっ。真希は頼りなく笑った。 「やっぱり、勇樹は西条さんのこと好きなんだね」 僕は肯定も否定もしなかった。 「いいと思うよ。うん。すごくお似合いだと思う」 「……真希。雪は――」 「わかってる。付き合いはじめても、すぐ西条さんは、その……」 「死んでしまう」 あえて僕は口に出してハッキリと言った。真希は声をつまらせたが、話すのをやめたりはしなかった。 「そう、だよね。だから……その――」 真希は眉をハの字にして、気弱に、しかし目は背けずに言った。 「――私じゃ、ダメかな」 時が、止まったように思えた。 「え?」 「私……私、西条さんとは髪が黒いとこくらいしか似てないし、美人でもないけど……。私は……私なら勇樹と一緒にいられるよ。途中でいなくなったり、しないよ」 「真希、なにを……言っているの?」 「勇樹のことなら、私が一番知ってるもん。頑張り屋で、優しくて、嘘つきだけど嘘つかなくて。友達思いで責任感があって……。ずっと……ずっと好きだったんだよ」 まっすぐに見つめられる。その視線が痛くて、視線を逸らす。 「ねえ勇樹。私じゃ、ダメかな? 西条さんとは比べられない? 西条さんはいなくなっちゃうんだよ? 私の、ほうが……」 真希の手が僕の手を取った。温かいと感じたとき、同じ温かさを胸にも感じた。真希の吐息がすぐ近くで――胸の中で感じた。それは、彼女にしては珍しく強力な自己主張だった。 「私のほうが、勇樹のこと好きだもん……」 なんと言えばいいのか、わからない。知らなかった。彼女が僕に向けている好意のもとは友情だと思っていた。それが本当はちがっていた。唇を噛む。 そうか、と納得する。中学三年生の頃。雅彦が引っ越すことになって、僕も家を出ることになって。偶然同じ地方で、同じ学校を受験することになったけれど。真希にはたいした理由なんてなかった。寮生活がしたいといっても、ほかに、もっと近い場所にそんな学校はたくさんあった。猪俣高校を選んだ理由……彼女にとっての『わけ』は、僕だったのだ。 この見知らぬ土地で、頼れるのは真希と雅彦以外には多くない。もし雪と出会っていなければ、いずれ真希の気持ちに気づいて付き合うようになっていたかもしれない。真希はそれを望んでいたかもしれない。 けれどそれはもう、ありえなくなってしまった。 やはりどうあっても心の深いところにいる彼女の存在を、忘れることなんてできやしない。 「……ごめん」 真希の肩を押して、引き離した。あっ、とちいさく洩らすと真希は泣きそうな顔で右手を軽く握って胸にあてた。 「真希……。真希、ごめん。僕は、いま君とそういうことを考えることはできないよ」 「そう。そう、だよね。やっぱり、そうだよね……」 真希は顔を伏せた。 「どうしちゃったんだよ、真希。雪が死んでしまうことを武器にするなんて、君らしくないじゃないか……」 「……ごめん、ごめんなさい」 ついに泣き出してしまった。片手で口元を隠しながら、震える声でつっかえつっかえだが言葉を紡ぐ。 「私のこと、嫌いになっちゃったかな。こんなことする子、嫌……だよね。でも私……」 真希は背を向けた。ごしごしと目元を拭う。 「……真希。僕は――」 「ごめん、嘘」 僕が口にしかけたとき、無理矢理出したとしか思えない明るい声で真希は言った。 「いま言ったこと、全部嘘。忘れて。忘れちゃって……」 あははっ、と笑った。 「だから、これからも友達でいて。一緒にいさせて。それだけで、いいから……」 「真希……」 「じゃあね、バイバイ。また明日ね」 去っていくまでずっと僕に背を向けたままでいた。駆けていく背中も、振り返ることは一度もなかった。 風が吹いて木々が揺れてざわめく。 真希の去っていた方向をしばらく見つめたのち、ちいさく首を横に振った。目を細めても視界が狭まるだけだった。 「なにやってんだか」 並木の一本。影が動いたかと思ったら隠れていたらしい人物が姿を現した。怒ったような表情で、祥子が声をかけてきた。 「女の子泣かせちゃって。まったく……」 「覗き見はあまりいい趣味じゃないよ」 祥子は腕を組んだ。 「そうね、ごめん。とおりかかったから、つい。出ていくわけにもいかなくって」 「一部始終は、見てたわけだね」 「聞いてもいたわ」 「そっか。……意外だったよ、真希があんなこと言うなんて……」 「あんなこと?」 「雪のことを、持ち出した。僕にはそれが、なんというか」 「許せない?」 「それに近いかもしれない」 祥子はわざとらしくおおきくため息をついた。 「バカ。そこまで必死だったってことじゃない」 「……ッ」 「泣いてるの見たでしょ。傷ついてるのわかるでしょ。それだけあんたは想われてんの。どうして気づかないでいられたのよ。バイトとか西条さんとか、そっちにばっかり意識回して、どうして気づいてあげなかったのよ」 一気にまくし立ててから、はっとしたように祥子は口を閉じた。落ちついてから、ひとこと、ごめんと言った。 「あんたが、西条さんのことで悩んでるのはわかってる。でもね、やっぱり友達が泣かされたんじゃ黙っていられないわけよ」 「それは、わかるよ」 「私にはわからないわ。全っ然わからないことがあるわ」 「なに?」 祥子が正面から視線を向けた。いつもと変わらないはずなのに、するどく射抜かれた感じがした。 「そんなに西条さんが好きなくせに、どうしてあんたはそうやってウジウジしてるの? なんで好きだーって叫びに行かないの」 「それは僕が、雪に同情しているからだよ」 執事に言われたこと、雅彦の言葉。自分自身がよくわからないこと。簡単に話をした。 バッカみたい。祥子はそう言って返した。 「同情してても好きなものは好き。好きでも同情するときはしちゃう。当たり前じゃない。好きなんでしょう? だったら、それだけを理由に西条さんと一緒にいればそれでいいじゃない」 「そんな、ものなのかな……」 祥子はまたおおきくため息をついた。それからこちらから視線を外してあたりを見渡すように首を回した。 「相川。あんた、死体って見たことある?」 「あるよ……。父さんと母さんが死んだときに、見た」 「そう……。なら知ってるはずよね。死んだ人とは話せない。一緒にもいられないし、笑ってくれることもない。好きだったって死体に言ったって聞こえるはずもない。答えてもくれない。人の形をした、ただの肉の塊よ。糞袋よ。なにをしても、全部手遅れなの」 僕は黙って祥子の言葉を聞いた。 「でも、でもね。西条さんはまだ死んではいないわ。あんたにはできることがあるはずでしょう?」 うつむいて、目を閉じる。そうだ、そのとおりだ。 僕は……たぶん混同していた。好きだという気持ちと同情してる気持ちの区別がついていなかった。 でもいまは、雪を思う気持ちは同情ではないと素直に思える。ハッキリと自覚させられた。もし雪への気持ちが同情なら、真希を受け入れることだってあったかもしれない。好きでないのなら、昨日の雪の言葉どおり、彼女を忘れることだってできたはずだ。真希の告白はいい機会だったはずだった。 断った時点で、答えは見えていたのだ。 「ごめん。ありがとう、祥子」 ふふっ、と祥子はちいさく笑った。 「やれやれ……ね。じゃあ私は帰るわ。ちゃあんと南ちゃんにフォロー入れておくのよ」 「うん。わかってる。じゃあまた」 祥子は軽く手を上げてから背を向けた。 「モテる男はつらいね」 「そのひとことは余計だよ」 まずは真希を探すことにした。 結局その日、僕は真希を探し出すことはできなかった。仕方なく寮へ戻ると賢治はいなかった。最近、帰りが遅い気がする。 しばらくすると部屋の扉を叩くものがあった。寮の管理人であった。電話が来ているから出ろ、とのことだった。 「あまり長話はしてはいかんよ」 「わかってます」 受話器を受け取って、もしもし、と声をかけた。 「……勇樹?」 真希の声だった。 「勇樹、ごめんね」 「謝るのは、僕のほうじゃないか。その……今日はあのあとずっと探してたんだ」 「……」 「ごめん、君の気持ちに気づいてなくて……。ずっと、想ってくれてたのに気づかなくてごめん」 「……バカ」 「うん……。真希、聞いて。僕はやっぱり、雪のことが好きらしいんだ。だから……たとえどんなことが待ってても、そばにいてあげようと思う」 頼りなく笑う声が聞こえた。 「妬けちゃう、な」 「……ありがとう」 「好きでいていいの? 私、勇樹のこと好きなままでいていい?」 「……うん。だれかが口を出していいことじゃないから」 それからすこしの沈黙があって、真希は切り出した。 「電話したのはね、どうしても伝えなくちゃいけないことがあったからなの」 「言って」 「私、この前、西条さんに会ったの」 とくん、と心臓が鳴った。 「いつ?」 「おととい、かな。私のこと待ってたみたいで……」 「なにを話したの?」 「病気のこと。自分はもうそんなに長くないらしいから、勇樹と一緒にいたら迷惑かけるって。どちらにしても悲しい思いをさせてしまうかもしれないから、そのときは勇樹を支えて欲しいって……」 「……」 「好きならはやめに言っちゃいなさいって。私のことは気にしないでいいから、って。自分のことなんか忘れさせて欲しいって……」 「雪が、そんなことを……?」 「うん。でも、やっぱり私じゃ西条さんの代わりなんてできないみたい。勇樹の言うとおり、ふたりは一緒にいたほうがいいよ。それが一番だと思う」 「ありがとう」 やがて話はすべて終わり、僕は受話器を置いた。 部屋に戻ると賢治が帰ってきていた―― |
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