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猪俣高校一年D組わけありクラス
‐ゆうきとゆき‐






第五章 ゆうきとゆき




 次の日。西条のお屋敷へと足を運んだ。バイト先の二件へ数日の休みを申請しに行ったその足でだ。
 久しぶりとさえ感じる雰囲気。たしかに感じる雪の気配。ここで作った思い出が、強く雪を思い起こさせる。
 とおされた応接間で僕はふたたび執事と対峙した。
「那須さん。僕は雪に用があって来ました」
「そのご様子……。もう、私どもがなにも言わなくてもよさそうですね。けっこうです。お会いになってくださいませ」
 ただし――。加えて執事はつづける。瞬間、緊張した。
「――紅茶を切らしておりますので、用意できますのはコーヒーしかございません」
「えっと、じゃあカフェオレとかにしていただけませんか?」
 一瞬、執事は顔を曇らせたがまばたきの間にいつもの表情に戻っていた。カフェオレは邪道なのだろうか。
「それでは、そのように。お部屋までご案内いたします」
「雪は、ここまで来られないほど悪くなっているんですか?」
 雪の自室へ案内された覚えのない僕には、案内されるということが不思議でならない。いいえ、と執事は微笑した。
「ちょっとしたドッキリです。たまにはお嬢様にも刺激が必要でございましょう」
 いつも雪が現れる扉を開けて、そこから廊下へ。執事は僕に先だって歩き、数十秒したところで立ち止まった。ちょうど扉の前だった。お飲み物はのちほどお運びいたします。そう言ってから、執事はノックをした。中から雪の声が返ってきた。
「丈二ね? なにか用?」
「お客様がお見えになっております」
「お客? どなたがいらっしゃったの?」
「お嬢様にとても会いたがっていた方です」
 すこしの間。
「お部屋にお入れしてもよろしいでしょうか」
「叔父さまかしら? いいわ。鍵はかけてないから」
 執事がどうぞ、と扉を開けた。うなずいて、部屋に足を踏み入れる。瞬間、ばふっ、となにか柔らかいものが顔面に激突して視界が真っ暗になった。
「叔父さま、私はあなたには会いたくないとあれほど――あ、ら?」
 意外そうな声が聞こえた。えびぞり状態になった姿勢を通常に戻すと、顔面を覆っていたなにかが落ちた。かすかに雪の匂いが残った。
「……や、やあ。元気?」
 軽く手を上げて挨拶してみる。部屋の中央近くにいた雪は、にわかに慌てた。
「あ、え? 勇樹? ご、ごめんなさい。その、私、叔父さまだと思って……」
「叔父さんにはいつもこんなことしてるの?」
「いえ、その……」
 かがんで、飛んできたものを拾う。まくらだった。雪に手渡した。
「ごめんなさい」
「いいよ。それより、久しぶりだね」
 照れて笑みが洩れる。雪はそれからようやく気づいたようだった。
「どうして、ゆう――相川さんがここにいるの。私、たしかにさようならって言ったのに」
「僕は嘘つきなんだ。昔から嘘つくのが得意なんだ。だから、だれかの嘘も見破れることが多いよ」
「私がいつ嘘を言ったというの?」
「僕には、友達でいたくないって言葉は嘘にしか聞こえなかったよ」
「嘘じゃないわ」
 雪はこちらから視線を外した。
「あなたなんて、私……」
「嘘をつくときは、本当のことを言うくらい堂々としてなくちゃいけないよ。それに嘘だとバレる証拠があるときは、ついちゃダメだ」
「証拠? 証拠なんて……あるの?」
 僕はうん、とうなずいた。
「短かったけど、君が学校に来ている間に見せていた笑顔は、友達に対してするものだったよ」
「そんなの、嘘の証拠にはならないわ」
「なるさ。君は思ってることや考えてることが顔に出やすいんだ」
「……でも――」
 僕は一枚写真を取り出した。屋敷の門の前、ふたり。僕と雪。雪が僕の腕に絡んで笑顔を向けている写真。いつか商店街へ行った日に執事に撮ってもらった写真。それを見ると、雪はうつむいた。
「……座るよ」
 右側にあったちいさなテーブル。その備え付けの椅子の片方に腰かけた。雪も手に持っていたまくらをベッドに戻すと、もう片方の椅子に座った。
「訊きたかったことがあるんだ。いいかな?」
「質問によるわ」
「どうして猪俣高校だったの? たぶん、なにか理由があるんだと思うんだけど……」
「それは、前にも言ったでしょう。研究の――」
「嘘はつかないで欲しいな」
 雪の声が途切れる。目が逸らされる。
「……どうして、そんなこと聞くの」
「聞きたいからだよ。僕は、聞きたいときに聞きたい相手に聞くよ。君とはそういうことができる関係だと、思ってる」
 雪は目を細めた。こちらから視線を外したままで口を開く。
「私が幼い頃から体が弱かったことは、知っているわね?」
「うん、桜ちゃんや那須さんから聞いてるよ」
「だから昔から外へ行くことはすくなかったの。友達もすくなかったわ。いえ、あなたが定義する意味での友達は、いなかった」
 趣味といえば読書だった。学術書の類も好きだったそうだが、一番なのは小説だったという。自分にはできないこと、経験したことのないこと。そんな世界に思いを馳せて、憧れて、そして現実に失望して。また虚構の世界に逃げる。
 いつしか、小説で読むような恋愛に憧れるようにもなったという。そして当時健在だった両親に訊いたそうだ。ふたりがどのように出会って、結婚へはどのような過程を経たのかを。
 女の子らしい関心だったろう。両親は照れた様子を見せつつも、答えたそうだ。
 出会いは猪俣高校。当時の跡取りだった雪の父は特に理由もなく、単純な興味だけで普通を絵に描いたような猪俣高校へ入学したという。そこで出会ったのが、雪の母だったそうだ。
 初対面の印象は最低で。会うたびに喧嘩もしていた。けれどちょっとした出来事で仲良くなったそうである。双方ともに恋に落ちていたそうだ。
 様々なエピソードがあった。雪はそんな話を聞くのが好きだった。憧れがあった。高校への受験を考えたとき、猪俣高校へ行ってみたいと打ち明けると両親は快く認めたという。
 西条家の前当主はわりと庶民的な人間だったらしい。
 話の途中で執事が持ってきた飲み物も、すでに飲み干してしまっていた。執事は部屋の外へ出ていってからかなり経つ。
 雪はやや顔を紅くして、相変わらずこちらを見ないようにそっぽを向いている。たまに様子を窺うように、ちらちらと瞳を向けられるけれど。
「意外かもしれないけれど、私だって女だもの。そういうものに憧れる権利くらいは……あるわ」
「……でも、君は学校へは来てなかった」
「つらかったの。あの頃は、学校へ行くとお父さまやお母さまのことをどうしても思い出してしまうもの……」
 雪の両親が亡くなったのは、受験が終わってからだった。
「そっか。そうだったんだ……」
 雪の話を頭の中で再生する。彼女の憧れの対象を、思う。
 夏祭りの夜。体育祭のフォークダンス。文化祭準備の騒々しい共同作業。ささやかなクリスマスプレゼント。バレンタインデーとホワイトデー。修学旅行。ふたりきりのテスト勉強。など、など……。
 僕は立ち上がった。
「ねえ、雪。一緒に外へ行かない?」
「え? 急に、どうして?」
「急に行きたくなったんだ。君と一緒に、外へ行きたい」
 手を差し出した。雪はそれを見て逡巡を見せたが、やがてその手を取って立ち上がった。笑みを見せる。
「強引ね」
 執事に断りを入れる。雪は着替えてくる、と部屋へ戻った。僕は表に止めてあった自転車を押して門へ。そこで雪を待った。
 勝手口から雪が出てきた。咳を数回。苦しそうに顔を歪めたが、僕を認めると無理に笑う。
「大丈夫?」
「こんなのなんでもないわ。でも、ちょっと待って。すこし、休ませて」
 塀に手をついて、何度も深呼吸。冷や汗が浮かぶのが見えた。やはり学校で倒れて以来、調子が悪いようである。思っている以上に蝕まれているのかもしれない。
 やがてふう、とおおきく息をついて雪は塀から手を離した。
「すこし長話したから疲れてしまったみたい」
「じゃああんまり歩かせるわけにはいかないね」
 僕は自転車にまたがると、乗って、と言った。一瞬、きょとんとした表情を見せたが、すぐに雪はうなずいた。
 憧れのひとつが、いま叶う。
「……私、好きな人と一緒に自転車に乗ってみたかった」
「僕なんかと一緒じゃ満足できないだろうけど、今日のところは我慢して」
「ええ、いいわ。せっかくだからあなたで我慢してあげる」
 ……バカ。ひとこと呟いたのが聞こえた。くすり、と笑う。
 荷台に乗ったらしく、自転車の重心がすこしずれる。腰に手を回された。密着されて体温がじんわりと伝わってくる。鼓動もかすかに伝わってくる。いい匂いだな、と思った。
 一度振り返る。雪は椅子に座るみたいに荷台に腰かけて、両足を右側にぶら下げていた。その姿勢で僕の腰に手を回しているものだから左胸が背中にあたっている。柔らかかったのはそのためか。
「行くよ。しっかり掴まってて」
 ええ、という返事を聞いてから正面に向きなおり、僕はペダルをこぎ出した。下り坂を一気に抜けて街へと飛び出していく。
「どこまで行くの?」
「さあ。どこかな」
「内緒なの?」
「そんなところだよ」
 温かい体温を感じながら、僕はそのままペダルをこぎつづけた。雪の吐息と鼓動。静かに満たされていく気持ちがそこにはあった。
「……ねえ、どうして?」
 数キロメートルほど走ったところで雪が声をかけてきた。
「なにが?」
「どうしてあなたは、私が嘘をついていた理由を訊かないの?」
「知ってるからだよ」
「え?」
「知ってるんだ、僕は」
「だれから、聞いたの?」
「那須さんと桜ちゃんから」
「いつ……?」
「君が学校で倒れた日に、ね」
「そう……。なら、どうして私なんかと一緒いるの。同情のつもりなの? 私あのときに、忘れてって言ったじゃない……」
「僕はたしかに同情してたよ。君がいなくなってしまうのは、悲しいし、病気ひとつで僕の不幸よりずっと不幸だって思ったから」
 でも、でもね――。自転車の速度を上げる。
「――いま君とこうしているのはそれが理由じゃないよ。君は……雪は自分のこと忘れてって言ったけど。君のほうはどうなの。僕のこと、忘れられる?」
「……」
 沈黙が雄弁に語るときがあるのを僕は知っている。
「僕だって、君と同じだよ」
「……私、両親を亡くしたときは悲しかった。いまも胸の片隅で残ってる。あれ以来、色んなことが変わってしまったのよ。あなただってそうでしょう? ご両親を亡くして、色んなことが変わってしまったでしょう?」
 私は……! 声がおおきくなるのを自制したように、急にトーンが落ちた。
「私は、あなたにもうそんな思いはして欲しくないの」
 住宅街に入って、目的地が見えたことを知る。数秒ののちに辿り着いて、自転車を停めた。
「ついたよ」
 そこはなんの変哲もない一軒家である。表札は『白河』とある。知らない名前である。それもそうであろう。
「ここ、は?」
「僕の生まれた家だよ」
 えっ? と驚いた表情を向けられる。
「ちいさい頃はここに住んでたんだ。父さんは、もっとべつの地方に住みたいって夢があったみたいで、それで実行したのが僕が小学三年生くらいの頃かな。引っ越した先で父さんも母さんも死んじゃって……。あっちの小学校で真希と、中学校で雅彦と知り合ったんだ」
 ここまで古い話は那須さんも調べてなかったんじゃないかな。言って、懐かしいたたずまいを見上げた。
「僕が猪俣高校を選んだ理由はほかにもいくつもあったけど……。いまわかったよ、やっぱり僕は帰ってきたかったんだ。楽しかった思い出がある場所に。できるだけ近くに……」
 これが僕の『わけ』だ。たしかにわけありクラスだ……。
「……勇樹は、どうして私をここに?」
「見てもらいたかっただけ、かな。いや、君と一緒に見たかったのかもしれない。たいした理由じゃないね」
 ちいさく笑う。雪はその家を見上げていた。

 帰り道でも、自転車でふたり乗りを敢行した。夕暮れの近づく空は、青の絵の具に赤色を混ぜたようなグラデーションを見せていた。
「ねえ雪。僕はたまに、人は絵の具みたいな存在なんじゃないかって思うんだ」
 絵の具? 雪は聞き返してきた。
「そう、それぞれに色を持っていてさ。会った人たちからすこしずつ色をもらって、混ざって、そうやってすこしずつ変化していくんだと思う。
 僕は父さんや母さんからも、色をもらったよ。僕の一部になってる。その部分を見るとたしかにつらい気持ちにもなるけど、そうやってだれかをずっと覚えていられることって嬉しいと思わない?」
「……」
「僕は君からも色をもらったよ。そこが、いま一番好きな色なんだ。だから、心配はしないで。僕は悲しい思いをしてしまっても、受け入れられる」
「……私がいなくなっても、そう思えるの?」
 僕はすこし笑った。
「そう言われると、ちょっと自信ないけどさ……」
「バカ……」
「でも大丈夫だよ」
 今日渡るのは二度目の橋の上で、自転車を停めて降りた。
「君は、死なない」
 雪の瞳を見て言った。
「嘘つきは泥棒のはじまり、なのよ?」
「その泥棒は君に心を奪われたよ」
 くすり、と雪は笑った。
「でも私の心を盗んだじゃない」
 橋の下を流れるおおきな川のせせらぎがよく聞こえた。照れ隠しに西の空へ顔を向ける。そのままふたりで太陽を地平線の向こうに見送る。
 雪はもうひとこと加えた。
「正直なところ、私は勇樹とは友達ではいたくないの」
 そして気づいたとき、雪の白い顔が目の前にあった。僕は応じようとした。けれど雪は倒れるように僕に寄りかかってきて、唇と唇が触れ合うことはなかった。抱きとめた僕は、異常に気づく。
 雪は頬を真っ赤に染めていた。それは、夕日の色とも羞恥の色ともちがう。
 額に手をやると熱があった。咳をして、また苦しそうに雪はおおきく息を何度も何度も繰り返した。
 なんとか介抱しようとする僕だったが、たいしたことはできない。無力さを呪いながら、自転車を放置し、雪を背負って道を往くことしかできなかった。








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