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≪SUMMER OF MAGICIANS≫




 
参 穏戦旅行
 
 
 
 予想外だった。
 長くても暗くなる頃には終わると思っていた。
 イリアの話は、まあ、さすが説得と言うべきか、むしろお説教と言った方がいいのか、とにかく長かった。気配の正体はきっとこれだったのだろうと思う。
 内容はそれなりに分かりやすかったが、その長さにダウンした。始めにいた喫茶店は閉店の時間を迎えてしまい、近くのファミレスに梯子することになってしまった。
 その内容は、組織の起源や目的、魔法や魔術の歴史など、僕を説得するにはあまり関係ないように思えることも含まれ、結局、開放されたのは午後十時過ぎだった。
 一応は彼女の言うことは理解できた。だが、理解したために余計に組織への参加は嫌になった。それを知ってか知らずか、イリアは、まだまだ聴いて欲しいことは沢山あるんですよ、と言っていた。
 近いうちにまた会いに来るに違いない。
 組織の思想というものを僕なりに簡単にまとめてみた。
 魔法を使える、または使えるようになる可能性を秘めた人物を、進化した人類、つまり新人類と称しているという。その目的も、新人類の平穏な暮らしを求めるというものだった。それだけなら別に構わない。なんの文句もない。
 問題なのは、その手段や行動。古い人類を淘汰する。そのために仲間を増やす。イリアはあまり話したがらなかったが、仲間を増やすためには様々な悪事を行い、古い人類を殺すことも厭わないらしい。
 馬鹿げてる。なんでそう簡単に人類淘汰に踏み切れるのか。あまりにも短絡的な思考に思える。
 だが、これを考えた人物は本気なのだろう。その人なりの言い分があるだろうし、実際に人が集まったのだから、考えた本人に訊けば納得できる回答が得られるのかもしれない。本当のところは、もっと個人的な理由を大義名分で飾り付けているだけかもしれない。
 とにかく、このことに関しては考えるのは保留にしておいた。組織のトップに会う機会でもあれば訊いてみることにする。
 一夜明けた今日。僕は、敬一と涼子を呼び出した。
 自室のベッドに寝転がり、どうでもいい空想を楽しんでいると、呼び鈴が鳴った。まず涼子が到着し、その数分後に敬一が現れた。
 座布団を三枚敷き、ジュースを載せた盆を中心に円のように三人で座る。
 まず僕は、昨日イリアと会ったことと、これから十日前後は平和に過ごせるということを二人に伝えた。
 それを聞いて涼子は怒っているような仕草を見せ、また、後で彼女に怒られそうな気配もあったが、ひとまず両方とも無視して僕は言う。
「――というわけで、僕はここで提案する……」
 二人の顔を交互に見て間を取る。涼子は重大発表があると予想してか表情に緊張が見える。敬一も真面目に頷く。
「いざ、温泉旅行へ!」
「よっし、そうこなっくっちゃ!」
 はあ? と呆れている涼子を差し置き、敬一は一瞬で破顔すると声に合わせて右腕を高く振り上げた。
「ち、ちょっと、二人とも何考えてるの! そういう場合じゃないでしょ」
 人差し指を立て、僕に突きつけるように涼子が迫る。
「いや、だって、僕、これでもずっと楽しみにしてたんだよ?」
「そういう問題じゃないの。どうしてこんな状況で旅行に行こうなんて発想が出来るの!?」
「まあ、十日前後は平気らしいし、旅行くらいいいんじゃ――」
 意見する敬一に涼子が睨みを利かせる。敬一は黙って目を逸らした。
「まあまあ、涼子、まずは落ち着いてよ」
「私は落ち着いてます!」
「ものの見事に落ち着いてないな……」
 再び呟く敬一だが、今度は涼子に睨まれる前に目を逸らしていた。
「とにかく座ってよ。落ち着いて話し合おうよ」
 と、いつのまにか立ち上がっている涼子を強引に座布団の上に座らせる。
 ふう、と一息つく。
「まあ、大丈夫だって。イリアにも旅行に行くことは話してあるから」
「それ、全然大丈夫じゃない……。何考えてるのよ、ホント」
 涼子はまだ不機嫌だ。
「さっき話したでしょ。悪い人ではないって。少なくとも、これから数日は僕たちに危害を加えたりはしないよ」
「政樹、ちょっと人を信用し過ぎじゃない? 相手は組織の人間なんだよ」
「駄目だよ、涼子。まともに話もしてない人を素性だけで判断するのは」
「でも……」
 そこに、まあ待てよ、と敬一が加わる。
「涼子、政樹が何の考えも無しにこんなこと言い出すと思うか?」
「え?」
「何か考えがあるのさ。そうだろ、政樹?」
「いや、全然」
「あ、やっぱり」
 正直に答えてから、嘘でも考えがあると言っておけば丸く収まったかな、と後悔した。
「……」
 黙ってジィ、っと敬一を見つめる涼子。敬一は苦笑いしながら言葉を紡ぎ出す。
「まあ、あれだ。人生には余裕が必要。困難な状況の時にこそ余裕! 余裕を持つには温泉旅行が一番!」
「二人とも凄く余裕しゃくしゃくね……」
「まあ、涼子、考えてもみなよ」
 僕は諭すように言う。
「温泉だよ、温泉。涼子なら僕の気持ち分かるでしょ? 温泉なんだよ」
「――温、泉……?」
 僅かに呟く。
 涼子は自分の分のジュースを手に取ると、一気に飲み干した。少し黙ったあと、再び口を開く。
「……三人目ってまだ決まってなかったんだよね?」
 僕と涼子、二人の視線が敬一に集まる形になる。
「ああ。お前が行きたいって言うなら別にいいぜ。誘おうと思ってたし」
「うん、ありがと。でも、女の子は倫理的な問題があるから誘わないんじゃないの?」
「誰がそんなこと言ったんだ? そりゃ勘違いだよ」
 涼子が僕をちらりと見やる。苦笑いして頬を掻いた。
「じゃあ、なんで今まで誘ってくれなかったの?」
「いや、いつでも誘えるって思ってたら時は流れて早幾年」
 ふ〜ん、と洩らして以後は黙る涼子。
 結局、涼子は、じゃあ行く、と決断した。
「いいの? 何か問題でもあったんじゃないの」
「いいの。よく考えたら、大丈夫っぽいし。それより、宿泊費はどれくらいになるの?」
「雑費込みで一万くらいか。交通費その他は除く」
「OK。じゃあ出発は?」
「明日」
「明日ぁ?」
 頷く僕と敬一。あからさまに狼狽えた様子を見せる涼子。
「え、え? 荷物とか、準備は?」
「僕はもう終わってるよ」
「俺も」
「ひどい。なんでもっと早く誘ってくれなかったの?」
「って言われてもなぁ……」
 僕と敬一は顔を見合わせた。
「私、帰んなきゃ」
「うん。そうしなよ」
 慌てて鞄を持って出て行く涼子を玄関まで見送る。
「待ち合わせは明日の九時に駅だよ」
「分かった。ありがと。おじゃましましたっ」
 涼子が出て行き、僕は自室に戻る。
「で、暇になったわけだ」
 敬一はジュースを飲みながらくつろいでいる。
「久しぶりに何かゲームでもしようか?」
「じゃ、モータルコンバットで」
「僕そんなマニアックなの持ってないよ」
「実はさっき買ってきた」
「ごめん、スーファミいま動かないんだ」
「それじゃ仕方ない。無難に三国無双でもやるか」
「そうだね」
 ゲーム機にソフトを入れる。
「……嬉しそうだな」
「そう見える?」
「涼子が一緒なのがそんなに嬉しいか」
「どうだろ。なんか知らないけど嬉しいだけだよ」
「そうか」
 ゲーム機がデータを読み込み、ゲームは正常にスタートした。
 
 
 午前九時十分前。
 少し大きめなリュックを持って待っていると、涼子がやって来た。やけに大きな荷物を抱えて。
「おはよう」
「おはよう。敬一はまだ来てないの?」
「うん。まあ、のんびり待とう。それより凄い荷物だね」
「え? 普通でしょ? 政樹の方こそ少なくない?」
「いや、僕の方こそ普通だと思うけど。何をそんなに持ってきてるの?」
「着替えとかだけど。無駄なものは持ってきてないつもりだよ」
「そう。ま、いいか」
 まあ、女の子だから、かな。
 しばらく待っていると、九時を少し過ぎてから敬一が現れた。
「やあ。三分遅刻だよ」
「そうか。じゃあお前の時計は俺のより三分早いんだな」
 敬一は涼子とも挨拶を交わす。
「っていうか、涼子。予想通りといえば予想通りだが、荷物多いな」
 敬一の荷物の量は僕と同じくらいだ。先日買った土産も忘れず持ってきている。
「なによ予想通りって」
「いや、まあ、お前は女だからな。一応」
「一応ってなに?」
「俺が今まで見てきた様子では旅行の時、女性は男性より荷物が多くなる傾向があるようなんだ」
「そうじゃなくて、一応、ってなに?」
「さて、行くぞ。電車に乗り遅れたんじゃ洒落にならないからな」
 と、とっとと改札口に歩いていってしまう。楽しんでいる顔だった。
 もう、と洩らし涼子も追いかけていく。大きい荷物を持っているためか、動きがやや鈍い。リュックを背中から降ろし、代わりに涼子の鞄を持ってあげる。
「ありがとう」
 言って、涼子は僕のリュックを持ってくれた。
 その後、電車に揺られて一、二時間。バスに揺られて十数分。旅館のすぐ近くまで到着した。ここからは歩き。ここから旅館は見えにくいが、まあ、十五分くらいで着くはずだ。
 日射しが熱い。汗も出てくるが、広がる青空と緑色に着飾った木々を見ていると自然に爽やかな気分になる。が、
「あ〜つ〜い〜」
 という、突然の、いかにも暑そうな声のために僕の爽やかな気分はぶち壊された。
「うるさいよ、涼子」
「だってぇ、暑いんだもん。政樹も敬一も平気なの?」
「まあ、暑いとは思うが我慢できないほどじゃない」
 先を歩く敬一が振り向かずに言う。
 四方から蝉の鳴き声が響いてくる。
「こんなに暑いのになんで平気でいられるのかなぁ」
 麦わら帽子を被り直してぼやく涼子。そんな彼女を見て、僕はふう、とため息をついた。
「夏は好きなのに暑いのが苦手って、やっぱり変だと思うよ。涼子」
「う〜ん。夏の雰囲気は凄く好きなんだけどなぁ」
「まあ、いいけどさ、人が暑さも含めて夏を満喫してるところに奇妙な声を出さないで欲しいな」
「ごめん。でも暑いんだもん」
「何かを好きになるっていうのは、嫌いな部分も含めて好きと言えることを言うんじゃないかな」
「暑いのが嫌いってわけじゃないけど……」
「じゃ、我慢できるでしょ」
「むぅ。分かったわよ」
 それきり、涼子は何も口に出さなくなる。
 機嫌を悪くしたかな、と不安になってしまう。夏の空気を満喫するどころの気分ではなくなってしまった。
 何か言おうかと思ったが、なんとなく気まずくて何も言えなかった。
 目的地に近付くにつれ、まわりに旅館やホテルが目立つようになってくる。ここはそういう土地だ。自然も多く、景色も綺麗だ。観光するに値する。その恩恵を受けて商売をする人が多く住んでいる。これも自然の恵みの一種だな、と思う。
「……本当に一万円でいいの……? 敬一」
 僕たちが泊まる旅館を目にした涼子の一言目はこれだった。まあ、当然の反応だと思う。今まで四、五回は似たようなセリフを聞いている。僕も一度言ったことのあるセリフだ。
「毎年一回のサービスだそうだ。俺が甥っ子だからだろうけど」
「でも、本当にいいのかな?」
「いいんだ。相手の好意は素直に受け取れ。人の善意を無視する奴は一生苦しむぞ、ってな」
 僕の脳裏に白い流星の姿が煌めいた。いや、それは置いておく。
 敬一の母の実家でもあるこの旅館は、本来なら僕らのような高校生の財力では一泊するのも難しい。ここの女将さんは敬一の叔母さんである。まあ、敬一の家の方で色々あるようだが、敬一は女将さんに気に入られている。そのためか、敬一は毎年、友達を連れて遊びにおいでと言われるそうである。
 初めて来た時なんかは宿泊料なんかいらないと言われた。今でも女将さんはそう思っているに違いない。けれど、それに甘えては申し訳ないと僕と敬一は精一杯の金額を支払っている。とても本来の金額には達しはしないけど、誠意を見せることが大事だと思っている。
「じゃ、入るか」
 言って敬一はとっとと旅館の入り口に向かっていく。
「ほら、涼子。行くよ」
 肩を叩き、先を促す。
「う、うん。ちょっと緊張するなぁ」
「高級旅館だからね。でもじきに慣れると思うよ」
「そう、かな?」
 疑問そうに言いながら後をついてくる。
 入り口をくぐると和服姿の女将さんが出迎える。
「あら。敬ちゃん、政樹くん。それに……敬ちゃんの彼女ね。いらっしゃい」
「お久しぶり、叔母さん」
「こんにちは、女将さん」
「あ。こ、こんにちは。三上涼子と申します」
 丁寧にお辞儀をする女将さんに、丁寧にお辞儀をして自己紹介をする。
「あの、女将さん。涼子は敬一の彼女ではないですよ」
「俺の彼女は白川聖美っていうメガネっ娘です」
「あら、そうなの。じゃあ、涼子ちゃんは政樹くんの彼女ね?」
「え?」
 言われた瞬間、ボッと顔が熱くなる。
「お、女将さん。違いますよ。僕と涼子はそんなんじゃ……」
「そ、そうなんです。私たち、まだ、友達です!」
 涼子も慌てて弁明する。女将さんはそういう僕たちを見て、にこりと笑った。
「そう。まだ、友達なのね」
「え?」
「それより叔母さん。これ、お土産です」
 助け船を出すようなタイミングで、敬一は紙袋を女将さんに手渡す。女将さんは僅かに首を傾げる。
「こんな気を遣わなくてもいいのに。あら、お酒も。みんなで飲みましょうね」
「いや、叔母さん、俺たち未成年ですけど」
「気にしないの。おつまみも用意しておきますからね」
 にこりと微笑む。ちなみに、女将さんは年齢不詳だ。外見からでは二十代後半から三十代前半くらいにしか見えない。それはともかく、やはりお酒をお土産に選んだのはまずかったかもしれない。
「あ、そろそろお部屋にご案内しなくちゃね」
 手をぽんと叩く。
「涼子ちゃんは、政樹くんと同じ部屋がいい?」
 瞬間、かあ、と顔が熱くなる。
「なに言ってるんですかっ。部屋はいつも通りでお願いします!」
「あら? 政樹くんは別々がいいの?」
 涼子も慌てた様子だが今度は何も言えない。見かねたのか、敬一が女将さんを止めてくれる。
「叔母さん、あんまりからかわないでやって下さいよ。面白いのは分かるけど……。こいつら純情なんですから」
 分かるのか。面白いのか。そうなのか。
 敬一からどういう目で見られていたか少し分かった。
「そうね、ちょっとおふざけが過ぎたみたい」
 女将さんは少し舌を出して頭を軽く叩いた。そしてすぐ、ほとんど変化は見てとれないが、ふざける時の顔から仕事をする時の顔に変わった。
「それじゃあ、敬ちゃん。電話で伝えた通り、三部屋空いてるから、好きに使って。くれぐれも他のお客様に迷惑かけちゃダメよ。外国の方も来ているんですからね」
 と、女将さんは敬一に三つ鍵を渡した。そして、奥に声を掛け、香織ちゃんを呼んだ。
 香織ちゃんはすぐにやってきた。
「あ、政樹さん! それにお兄ちゃん!」
 こちらを見るやいなや駆けてくる。僕と敬一は軽く挨拶した。涼子は不思議そうな顔で、お兄ちゃん? と呟く。
「香織、みなさんをお部屋にお連れして」
 はい、と返事をして香織ちゃんは僕たちを先導して歩き出す。
「何かありましたら、備え付けに電話からお申し付け下さいね」
 女将さんは例年通りの言葉で僕らを見送った。
「えっと、お兄ちゃんってことは……妹さん?」
 少し歩いて、やはり疑問に思ったらしく涼子は敬一に訊く。
「従な妹ってところかな」
「え。知らなかった。敬一、妹さんがいたんだ」
 そこに口を挟む。
「多分、従と妹の漢字をあわせて従妹だって言いたいんだと思うよ」
「そう、その通り」
「じゃあ何でお兄ちゃんって呼ばれてるの?」
「香織は、何年か前に、うちで預かってた時があるんだ。その時に、俺の方が年上だったからかな、お兄ちゃんって呼び出してな。香織が家に帰ってからも呼ばれ続けて今に至る」
「そうなんだ。少し紛らわしいね」
「ふふ。萌え萌えだろ?」
 涼子は溜息と一緒に、なにそれ、と洩らした。
 頃合いをみて、僕は先導してくれている香織ちゃんを適当な所で呼び止める。
「香織ちゃん、紹介しておくね。こちら、友達の三上涼子さん」
 涼子のことを紹介した。
「初めまして。よろしくね」
 軽く頭を下げる。
「この子は、女将さんの娘さん――つまり敬一の従妹の……」
「檜川香織です。初めまして」
 礼儀正しくお辞儀をした。相変わらず行儀いい。旅館の女将さんの娘だということもあって仕草や物腰がとても日本的に見える。後ろに結った髪は黒く艶やか。こういう言い方はあまりしないが、正直に美少女だと思う。性格も問題ない。きっと学校ではモテているだろう。もしかしたらもう彼氏もいるかもしれない。
 初めて会った時以来、僕に懐いてくれているみたいで、可愛い妹がいたらきっとこんな感じなのだろうと思っている。夏休みの度に家の仕事を手伝っているらしく、僕たちを部屋へ案内してくれているのはいつも彼女だ。
 一通り自己紹介が済み、香織ちゃんは再び僕たちを先導して行く。
 部屋に着くと、また後で、と香織ちゃんは満面の笑みで来た道を引き返していった。到着したのは東側の一番端。向かい合った二部屋とその片方の隣にある部屋が僕たちが今回泊まる部屋だ。一人部屋が三つである。非常口も近い。
「香織ちゃんって、可愛い娘ね」
 香織ちゃんが去っていった後に涼子が言った。
「涼子も可愛いと思うけど?」
 敬一から部屋の鍵を受け取りながら言う。
「お世辞なんて言わなくていいよ」
「いや、お世辞じゃないよ。涼子の、その長い髪も綺麗だし、顔も整ってる」
 僕は好きだけどな。
 言いかけて、一言は飲み込む。僕は一体何を言っているのか。時々とんでもないことを口走ってしまう。いま出てしまった言葉、出来るなら無かったことにしたい。
「口説いてるつもり?」
 わずかに笑みを浮かべ訊いてくる。
「あ、……あ〜。そういえば、敬一。香織ちゃん、そろそろ彼氏とか出来たんじゃないの? 学校の子とか、放っとかないでしょ」
 話題を変え、敬一に振った。
「さあ? そういう話は聞かないな。まあ、付き合っている相手は九割九分九厘いないだろうよ」
「なんで?」
「お前の所為だろ」
「え? なんで僕の所為なの?」
「分からないのかよ」
 その一言で、涼子は分かったらしく難しそうな顔をしたが、僕にはさっぱり分からない。
「鈍感な奴だよ、お前は。じゃあ、また後でな」
 言うが早いか、敬一は自分の部屋へ入っていってしまった。鈍感とはどういう意味だろう。これでも僕は気配察知の力もあり、敏感なつもりなのだが。
「もうちょっと気を配ってもいいと思うよ、政樹」
 と、苦笑いしながら涼子も部屋に入っていく。取り残され、二人が何を言いたいのか考えてみたが、分からなかった。
 まあ、いいか。と呟いて僕も部屋に入り、くつろぐことにした。
 二つ折りにした座布団を枕代わりに、畳の上で大の字になる。
 ぼう、と朝からのことを思い出してみる。ふと、とんでもない事に気付いた。
「あれ? スカート、だった……?」
 そういえば、僕は今まで、制服以外で涼子がスカートを履いているのを見たことがなかった。が、今日はスカートを履いていた。
 よくよく涼子の姿を思い出してみると、なんだか照れてくる。
 涼子は容姿もいいし、性格だっていい感じだと思う。
 彼女と話していると不思議と落ち着くし、なにか心安まるものも感じる。時たま凄く会いたくなって凄く寂しい気分になったりもする。
 なんでだろうと考えて、何度も出てくる答えは、好きなのだろうというものだった。
 それを一度たりとも認めたことはない。だって、そうだろう。認めるための要素が不確定すぎるのだから。
 好きという気持ちがどういうものか、分かりさえすれば、否定するのも肯定するのも簡単なはずだ。でも僕には判断材料もない。だからこうやって答えの出ない自問自答を繰り返している。
 そこでふと敬一のことに思考が飛ぶ。
 敬一には聖美さんという彼女がいる。彼は聖美さんのことが好きなはずだ。いや、それは絶対だろう。なら、敬一に訊けば好きという気持ちがどういうものか分かるのではないだろうか。
 今まで気付かなかったのが馬鹿馬鹿しい。
 あとで相談してみよう。
 ……でも、もし僕が涼子のことを本当に好きだという事が分かったら、僕は、どうすればいいのだろう。
 今まで通りには、いかないだろうか……?
 そのことは考えたくなくて、僕は思考を意図的に別方向へ向けた。
 時計を見ればそろそろお昼時である。
 お腹が、空いた。
 今日こそはカレーを食べたいところだが、旅館にいる限り僕が食事のメニューを決める機会はない。かといって外に食べに行っては女将さんらに失礼なような気がする。
 取り敢えず、カレーを祈ることにした。
「おお、カレー。カレーよ出でよ〜。カレ〜」
「今度は何だ?」
 見ると、いつの間にか部屋の入り口に敬一が立っていた。
「見て分からない?」
「見た目で判断できるのは、寝っ転がりながらカレー、カレーと唸っていることくらいだ。変な宗教にでも捕まったのか?」
「要するに今日こそカレーが食べたいってことだよ」
「そういえば、今日の夕飯はお前の好物を作るって叔母さんが言ってたぞ」
「本当?」
 がば、と起きあがる。ああ、と敬一は答えた。
 ワレ、カレー、ヲ、エタリ。
 ガッツポーズを決める。
「カレーかどうかは知らないがな」
「それより何か用?」
 座布団を敷き、あぐらを掻いて座る。敬一も、部屋に入ってきて僕の目の前に座った。
「お前に届け物だ。本当はもっと早くに渡すべきだったんだが、忘れてた」
 白い封筒を手渡される。そこには確かに藤堂政樹へと書かれていた。字の感じからして女の子からだろうか。
「政樹、いる?」
 誰から送られたものか訊こうとしたが、そこに涼子が現れたので流れる。
「ああ、いるよ。敬一も一緒」
「丁度良かった。涼子、来てくれ。お前にも届け物だ」
「届け物?」
 首を傾げ、部屋に入ってきて座った。敬一は似たような封筒を涼子にも渡した。
「なに? 誰から?」
「知らない奴に頼まれたんだ。お前と政樹に渡してくれってな。多分、お前らのどちらかは知ってる相手だと思うが」
「ふ〜ん。僕と涼子二人に同時に手紙を……。なんだろう」
 封筒を開けて、中身を確認する。手紙はない。代わりに金属が見つかった。それがメッセージだろう。
「って、カミソリじゃん、これ……」
「私のは手紙だ」
 封筒から取り出して、便箋に目を走らせる。一通り読むと、丁寧に封筒に戻す。
「無かったことにしましょうか」
「何が書かれてたの?」
 涼子は答えない。
「ちなみに、依頼主は女。おかっぱの髪で、学年は俺たちと同じ。やたらと明るかったな」
 送り主の情報から、誰なのか特定したのか涼子は身震いを一つした。
「ま、お前ら二人には例の噂があるからな。こういうことする奴もいるだろう」
「なんで私の方にラブレターが来るの……」
「愛の形には色々あるんだろうさ」
 僕は絶句して、世界の広さを思い知った。こういう事が一度だけではなく二度もあるとは思いもよらなかった。三度目はいつだろう。
「敬一、お塩ある?」
「ああ、香織に言って借りてこよう。ついでにマッチも貰ってきてやるよ」
 敬一は立ち上がり、部屋から出ていった。
 この後、涼子は塩をまいて手紙を燃やした。そこまでする必要があるかは知らないけど、涼子は嫌そうだった。カミソリは燃えないので後で処理しようと部屋に残した。
 ちなみに、昼食は焼き魚の定食で、とても美味しかった。
 
 
 香織ちゃんが部屋に来てトランプを一緒にやったこと以外は、特に変わったこともなく夕食も済んだ。
 カレーでなかったことは残念だったが、鍋料理だったので良しとする。敬一の部屋で、香織ちゃんを含む四人で食べた。みんなでワイワイやりながら食べるのはいいな、と思いつつ、女将さんが勧めてきたお酒は断った。どうせまた後で勧められるだろうけど。
 その後、のんびりと布団に寝っ転がっていた。そろそろ風呂に入ろうかと準備をし始めた頃、突然、電流が走ったように不快感が身体中を突き抜けていった。
 こんな気配を、一つの人生の内に三回も感じることになろうとは。
 コートの男を目の前にした時に感じた気配。死の気配。
 全神経をそこに集中させる。
 冷や汗が全身から滲み出る。
 僕自身に降りかかる危険と死には変わりないが、このままここにいては旅館に迷惑がかかってしまいそうである。
 僕は駆け足で旅館から出た。途中、よく知った顔に出会わなかったのは幸いだと思う。誰も、とばっちりを受ける必要なんて無い。
 旅館から離れた、大きな川の上に架かる橋の上で待ち受ける。時刻はもう遅い。この時間にこの場所へ来る人があまりいないということは毎年来ていたから分かっている。橋の先にはろくに建物もなく、見るような物もないのだ。
 しかし、僕はこんなところへ一人で来て一体どうするつもりなのか。同じような気配を感じた時は、その度に何も出来ず、死にかけてきたというのに。
 今更ながら震えてきた。
 ただ、冷静になった今でも、旅館から離れたことは好判断だったと思える。涼子や敬一、それに香織ちゃんや女将さんを始めとする関係のない人達を巻き込まなくて済むのだ。
 こんな気配を感じるということは、誰かが僕の生命を狙っているからに他ならない。イリアは約束を守ってくれないのか。いや、僕は彼女を信用できると判断した。その可能性は考慮しない。それに、僕を組織に入れようとしているのに殺そうとするのは変だ。
 なら、何者か。
 思い付くのは、コートの男のみ。僕の生命を狙う理由がある人間は、あの男以外に考えられない。でも、確か、あの男はイリアに倒されて何処かに連れて行かれた筈だ。
 緊張し、身体を振るわせながら思考を巡らす。気配はだんだん濃くなってきている。
 近くに街灯はない。月明かりだけ。他の光源が必要ないくらいに明るかった。
 月明かりの中、目の前に駆け寄ってくる人物が一人。
 イリアだった。気配はまだ臨界に達してはいない。
「シガン! ここは危険です!」
 息を切らせ、イリアは言う。
「どういうこと?」
 あくまで冷静に僕は訊いた。何故こんなところに彼女がいるのかも気になったが、今はそんなことどうでもいい。
「西口泰成です。護送中に、逃げられてしまったんです」
「西口?」
「先日、あなたを襲った……」
「あのコートの男、なのか……」
 動悸が苦しくなるのを感じた。気配が濃くなる。震えて歯が鳴るのを、食いしばって必死に抑える。前の時とは違い、イリアがいても危険の気配は消えない。
「シガン、早くここから――」
 きんっ、という高い音。途端、イリアが倒れ込む。慌てて支える。意識を失っていた。そして、気配も臨界を突破していた。
 低い、笑い声が響いてくる。
 イリアを抱え移動し、彼女を橋の外に寝かせる。再び、橋の中心にまで戻った。
 ぜいぜい、と雑音が聞こえる。自分の呼吸音だった。脈もどんどん速くなっていく。
 わずかな足音を響かせて、男は現れた。ボロボロのコートが風にはためく。血走った目に狂気を感じる。
 膝がガクガク笑っている。男は冷たく笑っている。
 魔法使い。
 さながら死神のように、惜しげもなく近付いてくる。
 吐き気をもよおす。歯を食いしばる。
「やあ、こんばんは」
 ゾッとした。男の声から生気というものが感じられなかった。ロボットだって、まだマシな声を出す。
 生きて再び涼子たちに会えることを想像することすら出来ない。
「今日は月もキレイだねぇ」
 腕が突き出される。
 気配。
 左に踏み切る。
 閃光。
 橋の上を転がり、すぐ立ち上がる。
 呼吸を、した。
 男は、楽しげに笑みを浮かべた。全身が震える。
「相変わらず見事なものだね、シガン」
「僕は……、逆魔法なんて、使ったことは無い……。それでも……僕が、シガンだって言う、のか」
 乱れた呼吸で言葉が途切れ途切れになる。
「いいんだよ。君はシガンなんだ。シガンなんだよ。仲間の仇なんだ。なのに非道いんだ。せっかく殺してやろうというのに、仲間が私の邪魔をするんだ」
 くっくっく、と心底おかしそうに笑う。
「殺してやらなきゃなぁ。悪い子には罰を与えなきゃいけないものなぁ。殺してやらなきゃぁなぁ」
 ふらふらと千鳥足で近付いてくる。
「でも! まずは君が死ぬべきなんだ!」
 気配が一気に濃くなる。
 一瞬で男の周囲に目を走らせる。変化は無い。
 バックステップを踏み、その場から離れる。
 刹那、さきほどまで立っていた場所のコンクリートが円形にめり込んだ。重力だ。この前はこれで殺されそうになった。
 僕はただひたすら冷静になれ、と頭に命令していた。そして、どうやってこの状況を切り抜けるかを考えていた。
 そのお陰か、前よりは上手く動けていると思う。だが、前より神経をすり減らしてもいるだろう。
「往生際が悪いと天国にいけないよ」
 男は、間合いを詰めてくる。僕は、うまく動いてくれない足で無理矢理後退する。だんだん距離は縮まっている。
 途端、男の腕が突き出される。気配。
 く、と唸って左足で踏み切ろうとする。動かない。潰れないまでも、身体が鉛のように重くなっていた。
 それでも無理矢理身体を捻る。左肩に衝撃。足が地を離れる。視界が何回転もする。体に衝撃。地面が目の前にあった。
 燃えるような痛みが左半身を舐め回す。何が起こったのか把握できなかった。中腰になって左肩に触れようとした瞬間、地面に引き寄せられ、勢いよく顔面がぶつかる。ぬめりとした液体の感触があった。
 そのまま動けなくなるほどに身体が重たくなっていく。どこかで、みしみしと音が鳴っている。肺から空気が無くなっていく。潰される痛みが全身を駆け巡る。
 呼吸すらままならない。視界も限られ、ほとんど何も見えない。正常な思考が消えていく。
 気配。脇腹に鈍痛。続いて背、顔、脚、腹、左肩。
 痛みが走る度、声にならない叫び声を上げる。視界が男の脚を捉える。蹴られ、踏まれている。
 口の中で鉄の味がした。わずかな視界が涙で滲む。
 やめてくれ。もう、やめて。
 声は出ない。
 身体の感覚が無くなってきた。
 断続的に続いた衝撃が途切れる。超重力からも解放される。だが動けず、すすり泣くように呼吸することしか出来ない。
「そろそろ殺すか……」
 冷たい呟き。
 気配。死の気配。
 何かが迫っている。
 何かが振り下ろされている。
 それで、死ぬ。
 死ぬ?
 死ぬって、なんだ。
 どうして、僕なんだ。
 殺される理由なんて無い。
 無いのに。
 そうだ、無い。
 死ぬ理由だって無い。
 まだ生きていたい。
 涼子と話をしたい。
 敬一とゲームがしたい。
 涼子と買い物に行きたい。
 香織ちゃんとトランプがしたい。
 涼子とずっと生きていきたい。
 カレーだって食べたいんだ。
 狂ってる。
 そうだ、狂ってる。
 正常じゃないから殺されるのだ。
 狂っている。狂気だ。
 そんなものは消えてしまえ。
 消えてしまえ。消えてしまえ!
 消してしまえ。消してしまえ!
 消えろ。消えろ。消えろ。消えろ!
「うああああああぁぁぁぁーーーー!!」
 それは、僕の声だったか。男の声だったか。
 獣じみた咆吼が激しく鼓膜を振るわせる。
 思考も感覚も無に包まれ消えていき、
 意識は、白く深い闇に呑み込まれていった。
 
 
 水の流れる音が聞こえる。わずかに鳴く虫の鳴き声が聞こえる。
 夢を見ているような感覚。
 風が頬を撫でていく。
 しなくちゃいけないことがあったような気がする。
 やりたいことがあったような気がする。
 それはもう出来ないことだと思いながら、それでも目覚めようと努力する。
 瞼よ、開け。
 すると、不思議なことに、あっさりと視界が開けた。
 僕は死ななかったのか。それとも、死後の世界にでもいるのだろうか。頭が痛い。かなりの疲労感があった。
 まず見えたのは綺麗な星空。屋外だ。横になっている。
 視線をやや右に向けると、イリアが木にもたれ目を瞑っているのが見えた。眠っているように見える。
 起きあがって、辺りを見渡す。見覚えのある、橋の前にいた。
「生きて、る……?」
 ようやく、生きていることに気が付いた。
 たまらなく嬉しくなって涙が溢れてくる。
 でも、どうして。
 記憶を辿る。分からない。誰かが助けてくれたのだろうか。イリアだろうか。それとも……。
 前にも、死んだと思ったのに生きていたことがあった。悪運だけは強いのだろうか。生きているだけマシだが、出来ればこういう経験は二度としたくない。
 ふと、身体に痛みが無いのに気付いた。
 おかしい。動けなくなるまで蹴られたりしていたというのに。
 さっきまでの事は、夢だったのだろうか。
 そう思えてしまうくらい不可思議だった。
 コートの男も見当たらない。今のところ大した気配も感じない。
 イリアに訊けば何か分かるだろうか。
 よく眠っているのに起こすのはちょっと可哀想だが、仕方ない。
 起こす前に涙を拭っておく。
 名前を連呼しながらイリアの肩を揺さぶる。ゆっくりと目を開けたかと思うと、とろんとした目つきで、英語で何かを言われる。
 えっと、と洩らし、どうしようか考えた。とりあえず、こちらも英語で話しかけてみることにする。
「あ、アンニョンハシムニカ?」
 それは韓国語だ。いざ英会話をしようとすると頭が真っ白になってしまう。だからといって韓国語で会話しようというつもりではない。
 狼狽していると、ようやく本当に覚醒したのか、イリアの目がぱっちり開く。
「あ、シガン。気が付いたのですね」
「おはよう」
「お体の方は大丈夫ですか?」
「身体中、凄く疲れてる」
 腰を下ろし、イリアと視線を合わせる。
「何処も痛くありませんか?」
「うん、一応」
 良かった、とイリアは安心したように笑みを見せた。
「イリアの方こそ、大丈夫なの?」
 さっき唐突に倒れた事を思い出し、訊いた。
「はい。不覚を取りましたが幸い、大した怪我はありませんでした」
「そう、良かった」
 夢ではなかったらしい。次に、僕は何があったのかを訊いた。
「私が目覚めた時には、シガンは重傷で倒れていて、それで急いで治療したんです」
「治療? それって魔法?」
「はい。人体の再生能力を一時的に促進させるんです。長い時間やらないと効果がないので、終わったあとは疲れて、眠ってしまいました」
「そうだったんだ。ありがとう、生命の恩人、かな?」
「いえ、気にしないで下さい。こちらの不祥事が招いたことですから……」
 詳しく聞くと、僕の怪我はかなりのものだったらしい。左肩からの出血もひどく、骨も全身で四、五本折れていたそうだ。ひどく疲れているのは、治療の際の副作用で、休めば問題ないとのこと。
「あのコートの男は、どうなったの?」
「私の部下に連れて行かせました」
「また逃げたりしない?」
「おそらく、大丈夫です。前は精神が不安定だったのですが、さっき見た限りでは安定していました。私を起こしてくれたのもあの人ですし、シガンの治療も手伝ってくれました。もう逃げたりはしないと思います」
 何か、腑に落ちない。
「あのなんというか、一線を越えちゃってた人が? 僕を殺そうとまでしていたのに、僕を治療してくれたの?」
 正直、僕はコートの男は狂っていると思っていた。それがイリアに手を貸し、僕を助けたなんて信じがたい。
「はい。よくは分かりませんけど、憑き物が落ちたような感じでした。あなたにしたことを後悔していたように見えましたし」
「……そう」
 僕は立ち上がり、橋の中央付近にまで歩いていく。イリアもついてきた。
 暗くて見づらいが、血痕がかなり広がっていた。僕の血だろう。これだけの量の出血でも人は生きていられるのか。
 コートの男に何が起きたのか。
 考えてみても答えは出ない。
 相変わらず疲れている。休みたい気分だった。このことを考えるのは、後回しにしてもいいだろう。答えがどうしても知りたいわけでもない。
 とにかく、僕は助かったのだ。それだけで、充分だ。
「僕は、これから旅館に戻るよ」
 振り返ってイリアに言う。
「私は、これから帰ってお仕事です。西口さんの事がありますし」
「大変だね」
「いえ、それほどでもありませんよ。それでは、今日はこれで」
「うん、またね」
 手を振ってイリアを見送る。遠く見えなくなったところで、振っていた手を降ろし、見つめた。
「またね、か……」
 こういう言葉を気楽に言えるのはいつまでだろう。交渉期間とやらが過ぎた時、イリアはどんな顔を見せるだろう。
 今更ながら少し不安になった。
 ふと時計を見ると、午前零時を回っていた。
 となると、今日も含めてあと九日間。
 平和的に解決できる手段を考えておかないといけない、かな。
 
 
 旅館に戻ってきた。
 部屋の鍵は掛けてきてある。涼子も敬一も、それで僕が寝ていると思ってくれていて欲しい。心配はかけさせたくない。
 廊下など、あまりに人がいないので不気味に見えた。一直線に自分の部屋へ向かう。部屋に戻るまで気が付かなかったが、服は所々破けていて、血で黒っぽく染まっていた。それに、携帯電話も部屋に置きっぱなしだった。
 僕は準備をして、風呂へ向かった。
 この時間、大浴場の方はもう閉まっているが、露天風呂の方は常に開いているので問題ない。
 色々あって身体中、汗やらなにやらで、気持ち悪いし、疲れを癒すのには温泉が一番だろう。これに睡眠と続ければ、合わせ技一本と言ったところだ。
 お湯につかって空を見上げる。星と月の空。いい眺めである。
 湯船の中央付近にある岩に、入り口に背を向けて寄り掛かる。
 時刻が時刻だから湯船につかっているのは僕一人。なんとなく、借り切りみたいで気分がいい。
「はぁ、生き返るなぁ」
 さっき死にかけた自分が言うとなかなか感慨深い。
 お湯で顔を洗う。
 涼子や敬一は、まだ起きているだろうか。風呂から上がったら会いに行ってみよう。
 そんなことを考えていると、とある気配がだんだん濃くなってきていることに気付いた。それは、嬉しいようで、且つ、恥ずかしく、出来れば避けた方がいい出来事の気配だった。
(って、それってどんな出来事だよ……)
 自分の能力ながら、さきほどの一件で誤作動を起こしているのではないかと思う。一笑に付した。
 入り口が開かれる音がした。それに伴い、気配も濃くなる。
 岩陰からそっと見てみると、誰かが入ってきたことが分かった。見覚えが……ある。
 大浴場は男女別々だが、この露天風呂だけは混浴となっている。
 入ってきたのは、涼子だった。
 漫画とかで考えればお約束なのだろうが、現実でこういうことがあると非常に困る。どうするべきか模索しながら、取り敢えず、寄り掛かっていた岩の陰に隠れる。
 あらかじめ混浴だと分かっていたのだから、こういうことが起こることだってあることくらい承知していた。こういう時のマナーとかも知ってはいるが、相手が知り合いで、しかもそれが涼子だとなると、もう、どうすりゃいいのか。
「ん〜、気持ちいい〜」
 声が真後ろから聞こえた。よりによって、涼子は同じ岩の、僕がいる反対側に陣取ったようだ。
「思った通り。この時間なら人がいないもんねー」
 機嫌が良さそうな明るい声。
 すみません、僕がいます。
 すっかり誰もいないと思い込んでいる涼子は、上機嫌に歌を歌い出した。うん、涼子は結構歌が上手い。
 それはさておき、これからどうしよう。
 一、堂々と前に出ていく。
 二、隙を見て脱出。
 三、涼子が出ていくのを隠れたまま待つ。
 四、襲っちゃう。
 ……と、色々な選択肢が思い浮かんでいく。とりあえず、選択肢その四は無条件で切り捨てておこう。その二が理想的か。
 目を瞑って、考える。
 僕としては涼子の裸を見ておきた……いやいや、何を考えているんだ。
 とにかく、他の人はどうだか知らないけど、僕にとっては、なんだか、とても恥ずかしいような感じの状況なのだ。だって、涼子の肢体がすぐ、後ろに、あるのだから……。
 声を出さずに唸っていると、わずかにお湯がうねる音が聞こえた。
「ま、政樹!?」
 突然の声。驚いて目を開ける。
「り、りりり、涼子!?」
 こちら側に移動してきたらしい涼子の姿。あまりの事態に、お互いに硬直したまま見つめ合う。
 ……気まずい。
 だんだん視線が下がっていく。視線の先には一糸纏わぬ涼子の肢体。ぼん、きゅっ、どーん。
「……」
 鼻血、出そう。
 あんまりこうしてると本当にまずい事に気付き、僕は慌てて涼子に背を向けた。涼子も同じく行動したのか、背中の方でもお湯が跳ねる音がした。
 長い沈黙。
 わずかに虫の鳴く声が聞こえてくる。夜空には沢山の星座。何故か僕は正座。湯気がゆらゆら立ち上っていくのが見える。
 ……なにか、言った方がいいかな。
 思い立ち、口を開く。
「え、えっと、涼子?」
「な、何?」
 取り敢えず、頭に浮かんだことを口に出す。
「涼子って、着痩せするタイプなんだね……」
「……」
 返事は無い。
 なにか、とてもまずい事を言ってしまったような気がする。
 重苦しい沈黙。
 このまま夜が明けてしまうのではないか、そう思った時。
「えと……、私、そろそろ出るね」
 涼子の声に、慌てて、うん、と答える。
「ふ、振り向かないでよ」
「わ、分かってるよ」
 背中を向けたまま答えた。やがて、湯船から出ていくのが音で分かり、その少し後に出入り口の扉が開け閉めされる音が聞こえた。
 正座を崩し、岩に寄り掛かって深く溜息を吐く。
 そろそろ僕も出よう。
 脱衣所で、着替え用に持ってきた方の服を着る。破れて血の痕の残る服は、後で処分するつもりだったが、このまま出たら涼子に見つかってしまうかもしれない。
 あんなことがあったのだ。事後とは言え、心配するに違いない。あまり心配はさせたくないのだが、今回は仕方ない。訊かれたら正直に話すことにして、僕はボロボロの服を畳んで脱衣所を出た。
 廊下では涼子が待っていた。壁に寄り掛かっていて、何かを持っている。
 一瞬、見とれてしまう。湿った髪、火照って赤らんだ顔、浴衣姿。どれをとっても凄く、なんというか、……凄く、涼子だった。
 目の前まで行くが、湯船の中で見た涼子の姿が目に浮かんでしまい、何も言えない。
 涼子が、はい、と手に持っていた何かを手渡してくれる。冷たい。見れば、それは缶ジュースだった。炭酸飲料。
「ありがとう」
「コーヒー牛乳は無いみたい」
 涼子の隣で、壁に背を付けた。
「あれは大浴場の方で売ってるよ。今は閉まってるけどね」
 ジュースに口をつける。
 しばらく、二人でそうして黙ったままいた。
 廊下には僕らの他に誰もいない。始めは不気味に思ったけれど、それは撤回する。この廊下を二人の貸し切りにしてくれた地球の自転に感謝したくなった。
 なんとなく、涼子の様子がいつもと違うように見える。モジモジしているというか、チャンスを伺っているというか。
 何かの気配がだんだん濃くなってきているのは分かる。けど、避けるべきだという感じは無い。受け入れてもいいくらいの出来事だ。
 飲み干したジュースの缶を、涼子のも一緒にゴミ箱に捨てる。元の場所に戻ってきて、僕は謝る決心をした。
「涼子?」
「ん、なに?」
「その……、ごめん!」
 出来る限り頭を下げる。
「え?」
 驚いたように涼子が声を上げる。
「さっき、……その、そんなつもりは全然無かったんだけど……」
 躊躇いを振り切って、言う。
「……見ちゃったんだ」
 顔を上げる。
 涼子は、あっ、と洩らし、一度は引いた赤を再び顔に宿らせた。
「ホントに、見ようと思って見たわけじゃないんだ。その……」
 言葉が続かなくなる。顔が、熱い。涼子から視線を逸らす。床の方を見た。
「いいよ……。それは不問にしとく」
「え?」
 ゆっくり、視線を涼子に戻す。
「ただし、条件付きね」
「条件?」
「うん。……目を瞑って」
 言われた通り目を瞑る。
「私がこれからすることに対して、何も言わないこと。それでさっきのことは不問にしてあげる」
「うん、分かった」
 さっきから濃くなってきている気配はこれのことなのだろう。きっと、涼子の他愛もない遊びで終わるに違いない。そういうのは僕も、嫌いじゃない。
 何が起こるかな、と少し楽しみに待つ。が、ややしても何もしてこない。
 目を開ける。
「どうしたの?」
「わわわっ、まだ目、開けないでよっ」
 僕が目を開けたのを見てやけに慌ててしまっている。見れば顔を真っ赤にしていた。
「ああ、ごめん。でも何する気なの?」
「……」
 涼子は何も言わず上目遣いにジッと僕を見つめる。少し、照れる。
「……目、瞑っててよ」
「あ。うん。分かったよ」
 言われるままにもう一度目を瞑る。
 ほんの少しの間。
 顔の近くの空気がわずかに揺れるのを感じた。気配の……臨界。
 唇に、なにか柔らかいものが当たる。
 驚いて目を開けると、涼子の顔がすぐ側にあった。
 何が起こっているか、理解する。
 手に持っていた衣類が、床に落ちた。
 鼓動が、雷のように大きく轟く。体温が急上昇していく。
 涼子の息遣い。僕の息遣い。
 伝わってくる涼子の体温。
 驚きで緊張していた身体も、じきにこの行為を受け入れていった。
 初めての、キス。
 ファースト、キス。
 頭がぼやっとしてくる。
 思考は薄れ、その感覚に酔った。
 涼子の身体が離れる。
 目が合う。
 僕は、きっと、ゆでダコみたいに真っ赤になっているに違いない。今なら美味しく頂けます。
「えへへ。政樹、おやすみ」
 照れを隠すように微笑むと、涼子は顔を赤らめたまま廊下を走っていった。僕は、そんな涼子の後ろ姿をぼうっとしたまま眺めていた。胸のドキドキは、ずっと止まらなかった。
 
 
 なかなか眠れなかったけれど、時間が過ぎていくにつれ眠気は増していき、やがて、僕の意識は夢の中へ落ちていった。
 夢にはシガンが出てきた。四年前と変わらない姿だった。
「よお、久しぶり」
「いきなり何の用があって出てくるんですか、あなたは」
 夢を見ていることを自覚していた。明晰夢というものだ。
「祝辞を言いに来た」
「はぁ。僕としては祝いの言葉を貰うより、熟睡させてくれる方が嬉しいんですが」
「お前、変わってないな」
「そうですか?」
「ああ。大分変わったところもあるが、根本は変わってないな」
「そうですか。で、祝辞って?」
「ああ、二つほど祝ってやろうと思ってな」
 シガンは指を二本立てて見せる。
「まず一つ」
 指を降ろした。
「祝、ファーストキ――」
 言い終わる前に、僕の右拳はシガンの顔面に命中していた。
「何で知ってるのか知りませんけど、そのことに触れたら僕のスナップの利いたフックが飛びますよ。恥ずかしいんですからね」
「へへ、いいパンチしてるじゃねぇか」
 既にフックが飛んでいる事にツッコミは入れないらしい。
「で、もう一つは何です?」
「ああ。それはな――」
 小さく息を吐き出すと、口の端を緩めた。
「おめでとう。これで、これからはお前がシガンだ」
「何言ってんです?」
「以後、俺のことをシガンと呼ばないこと。結城隼人。これが俺の本名だ。覚えておけ」
「いや、知ってますよ。っていうか、僕がシガンだって、どういうことですか」
「俺がシガンじゃなくなるってことだよ。お前は逆魔法使いとして覚醒した。さっき使っただろう」
「何の事です?」
 逆魔法を使った覚えなどない。
 返ってきたのは、ふふふ、という含み笑いだけだった。教える気など毛頭ないらしい。あとで自分で調べ、考えるしかなさそうだ。
「それより、僕は、なんで僕に逆魔法を継承させたのか訊きたいんですけど」
「ああ、それはな、簡単な理由だ」
「近くにいたからだとか言ったらぶっ飛ばしますからね」
「いや、それもあるが。それだけじゃない。お前なら、力に溺れることはないだろうと思ったからさ」
「なんでそう思ったんです?」
「さあ、な」
 肩を竦める。やっぱり答える気はないらしい。
「他にもあるが、ま、いいや。出来るなら俺の期待を裏切らないでくれ」
「勝手ですね」
「まあな。だが、勝手を言うのもこれが最後さ」
 僕に背を向ける。
「何処へ行くんです?」
「そうだな……。まずは、桜でも見に行くとするよ」
 遠くに見える光の扉に向かって歩いていく。僕の足は、そこに近付こうとしても全く動かない。
「もう会えないんですね」
「俺のことより、別のことを考えろよ」
 振り返る。何のことだか分からないでいると、彼は続けた。
「涼子って娘の裸とかな」
「な……」
 脳裏に浮かんで、一瞬で顔が熱くなる。
「ふふふ……はっはっはっはっはっはっ……」
 再び僕に背を向けると、大声で笑った。
「ぶっ飛ばしますよ、シガン!」
「シガンはお前だよ」
 彼が光の扉に辿り着いた時、そこから光が溢れ、視界を包み、思考までも飲み込んでいった。
 気が付くと、旅館の天井を眺めていた。
 上半身を起こす。
「まったく……。あの調子じゃ、あの世に行ってもお嫁さん貰えないだろうな」
 僕は一人、声を殺して笑った。なんだか、泣けてきた。
 落ち着いたところで、そういえば、と気付く。
 僕が、あの人のために泣いたのは、これが、初めてだ。
 横になると、僕の意識はスイッチを切り替えるくらい速く熟睡モードに移った。
 
 
 次の朝。僕は一番に敬一の部屋に乗り込んだ。
「で、相談って何だ?」
 自分の鞄の中身をチェックしながら、敬一は訊く。顔はこちらを向いていない。
「ああ、うん。その……」
「なんだよ。出来れば早くしてくれないか。俺、今日は用事があるんだ」
「ああ、ごめん。相談っていうか、訊きたいことなんだけど……」
「なんだ? 言ってみろよ」
「好きって、どういう気持ち?」
 敬一はゆっくりと、間接が錆びたロボットみたいな動きで、こちらに顔を向けた。
「で、相談って何だ?」
「今日は用事があるから急いでるんじゃなかったの? とっとと質問に答えた方がお互いのためだよ」
 敬一は神妙な顔で目の前にやって来る。
「聞きたいのか?」
「聞きたくないことは訊かないよ」
「なんでこんな質問をするんだ?」
 視線を落として、敬一を視界から追い出す。
「いや、まあ、実は、とある人と一緒にいると、不思議な気持ちになったり、会えないでいると急に寂しくなったり、するんだ」
 敬一は腕組みをし黙って聞いている。
「僕の結論としては、その人が好きなんだろうと思うんだけど。確証がないというか、判断材料がなくて。どうなのかな、ってさ」
「ふむ。相手は涼子か」
 言われて、鼓動の音が一際大きく轟いた。
「ななななな? なに勝手に想像してるんだよっ」
「慌て具合と、否定する単語が無いところから、図星だな?」
 至って冷静に分析されてしまった。観念し、頷く。
「……うん、実はそうなんだ」
「好きだってことを認めたくない理由でもあるのか?」
「無いよ。でも、確証が無いから……」
「違うんじゃないか?」
「え?」
 いきなりの否定の言葉に、声はわずかしか出なかった。
 何故違うと言われるのか分からない。知ってか知らずか、敬一は真面目な顔で続けた。
「単に、今までの関係を壊したくないだけで、確証がないってのはただの言い訳じゃないのか? お前と涼子は特に仲の良い友達らしいからな。今まで通り付き合っていけなくなるのが怖いだけなんじゃないのか?」
「……」
 僕は何も答えない。答えられなかった。口を開いても何も言葉が出てこない。
 そうなのかもしれない、と思えた。今まで気付かなかったが、言われてみると、僕は、今まで意図的に、考えないようにしていたような気がする。
「あんま難しく考えんな」
 敬一が肩を叩く。僕は何も言わない。
「付き合いだしたって、そんなに変わらないと思うぞ。お前らは既にカップルのようなものだったからな」
「……涼子は、僕のこと好きなんだよな」
「一目瞭然だよ」
「敬一、見てて分かるんだ。凄いな。僕、昨日初めて気付いたのに」
 ああ? と敬一は呆れた顔を見せる。が、すぐ納得したように頷いた。
「そりゃそうだな。香織のことも気付かないくらいだからな」
「香織ちゃんがどうかしたの?」
「いや、香織の話は置いとけ。で、昨日気付いたってことは、何かあったのか?」
「う、ん。まあ……。その……。キス、されたんだ」
 照れながらも事実を口にする。
「ほう。それはそれは」
 敬一は驚きを見せない。
「……嫌だったか?」
「いや、むしろ凄く嬉しいくらいだよ。自然に受け入れちゃってた」
 肩の力を抜き、敬一は顔をほころばせた。
「なら疑いようもなく、お前は涼子が好きなんだろうさ」
「そうか。そうだね……。僕は涼子が好きだ」
 僕はついに、そのことを認めた。
「どうすれば、いいかな?」
 さてね。と、敬一は肩を竦めた。
「そこまでは面倒見れないな。ま、お前が怖れてる結果にだけはならないことは、俺が保証してやるよ」
「ありがとう」
 僕は頭を下げた。敬一にはこうやって、今までも何度も相談に乗ってもらってきた。
「礼はいいから、部屋から出てけ。俺もう出るぞ」
 見れば小さめの鞄を肩に引っ掛けていて、すでに出発の準備は万端だった。
「ああ、分かった」
 僕は部屋から出る。敬一も出てきて鍵を閉めた。
「ありがとう」
 僕はもう一度礼を言った。
「ま、気にすんな。大した事じゃないだろう」
「いや、大した事だよ」
「そうか? まあ、どっちでもいいさ。じゃあ、俺は行くぜ」
「ああ、行ってらっしゃい」
 敬一は軽く右手を上げて廊下を歩いていった。用事ってなんだろう、とは思ったが、別に訊くほどのことでもない。
 見送ったあと、僕は自分の部屋に戻った。
 一時間後。朝食をお腹一杯食べ、物思いに耽る僕がいた。
 やはり、涼子に僕の想いを伝えておくべきだろうか。伝えたらどうなるだろう。どうやって伝えようか。何も、変わらないのだろうか……。
 考えて、気恥ずかしくて思考を無理矢理に別方向へ持っていく。
 夢にシガンが出てきたことを思い出す。彼は、もう僕がシガンだから自分はシガンではないと言っていた。
 じゃあ、これから何と呼べばいいだろうと考える。結城さんか、隼人さんか。2号や4号を呼んでるみたいでしっくり来ない。
 シガンのままでいいや。口に出す時だけ先代とでも言っておこう。
 それはさておき、気になるのは、僕が逆魔法を使ったと言っていたことだ。夢のことでいまいち信憑性がなさそうな話なのだが、僕は、なんらかの方法でシガンが僕にメッセージを伝えに来たような気がしている。
 僕が、逆魔法を使った……。それは、一体いつだろう。
 そういえば昨日、不可解なことが起こったことを覚えている。
 それは、殺されかかった僕が無事だったこと。コートの男が、人が変わったようになったということ。
 あの時、だろうか。他に心当たりがない。
 死ぬ、殺される。そう感じた時、僕は、何をしたのだろう。
 よく、思い出せない。記憶に鍵を掛けられているような感じ。走馬燈を見たような気がするけど、それ以外に思い出せることがない。
 思い出せないなら、そこを考えても仕方ない。ひとまず、僕が本当に逆魔法使いで、シガンなのかを確かめることにした。
 昨日、封筒に入って届けられたカミソリを持ってきた。
 涼子に聞いた話では、正魔法は、モノに新たな性質や能力を付加させることが出来るらしい。逆魔法はその逆。モノの持つ性質や、能力を消し去ることが出来るらしい。
 試してみることにする。
 まず、紙を持ってきて、それにカミソリの刃を立てて一気に引く。紙は見事に切れた。
 次に、自分で気配を感じようとする時みたいに精神を集中させ、切れ味消えろ、と念じてみた。
 もう一度、紙を切ろうとする。一直線に跡がついただけで、紙は切れなかった。
 何度やっても、結果は同じだった。僕はカミソリから切れ味を奪うことが出来たらしい。
 お茶を淹れて、香りが消えるように念じてみる。飲んでみると、ただのお湯のように感じられた。
 どうやら、本当に僕は逆魔法使いらしい。シガンという称号は、確かに僕に継承されているようだ。
 溜息を吐く。
 こんな力を僕にくれて、シガンはどうしろというのだろう。
 多分、聞いていた通り、物質を崩壊させることも出来る。眼から『視る』という能力を消すことも出来るだろう。確かめてみたいけど、本当に出来ちゃったら怖いので試すのは止めておく。
 散歩にでも行こうかと思い立って、出入り口の方へ顔を向ける。それとほぼ同じタイミングで扉が開かれた。
「あ、政樹いた」
「り、涼子……」
 涼子の顔を見た瞬間、今までの思考が吹っ飛び、昨日キスされた時のことを思い出して声が出なくなる。涼子を見つめたまま動けない。
「ん? どうしたの?」
「い、いや。何でもないよ。それより、なにか用?」
 涼子は、まるで何事も無かったかのような態度だった。
「うん。暇だから、一緒に外に行かない?」
「ああ……、そうだね。行こうか」
 断る理由もなかったので一緒に行くことにした。ちょっと、恥ずかしい。
 僕らは、お土産屋さんが沢山並んでいる通りへ行った。
 家族や友達に買って帰ろうと、色々と店を回る。何軒か回っていると、女物の小物を売ってるお店に行き着いた。僕の買い物はもう終わっている。涼子の買い物だった。
「あ、これ可愛い」
 小さなブローチを見つけ、涼子は目を輝かせる。作りはシンプルで、それ故に悪くないデザイン。値段はそれほどでもない。
「うん、良さそうだね」
「政樹もそう思う?」
「うん、思う。すみません、これ下さい」
 僕は店員を呼んだ。
「え? 政樹?」
 驚く涼子を差し置いて、僕は会計を済ませた。
 はい、と買った品物を涼子に手渡す。キョトンとした様子で涼子は僕の顔と品物を交互に見つめた。
「いいの?」
「いいから受け取ってよ。僕がこういうのプレゼントする相手なんて、涼子しか、いないんだから」
 照れてしまい、最後の方はボソボソ声になってしまう。
「ありがとう」
 言って、涼子は胸元にブローチを付けて微笑んだ。その笑顔に痺れてしまう。
「うん、似合ってるよ」
 こういうのも、悪くないかな、と思う。敬一は、大丈夫だと言ってくれた。信じられる。一歩、前に進んでもいいかもしれない。
 歩きながら、僕は涼子の横顔を見つめた。素直に素敵だなと思える。涼子が僕を好いてくれていることが、今更ながら、たまらなく嬉しい。
「政樹さ――」
 見惚れていると、涼子が声を上げた。顔はこちらに向けず、前を向いている。
「前に、私たちはデートしてるのかって訊いてきたことあったよね」
「ああ……、うん。覚えてたんだ」
「私はね、いつだってデートのつもりだったんだよ」
 こちらに顔を向け、にこりと微笑む。
「ごめん。ずっと気が付かなくて」
「別にいいよ。政樹が鈍感だってことくらい、ずっと前から知ってたし」
「僕、そんなに鈍感かな?」
「鈍感だよ」
「納得できないなぁ」
「自分のことも気付かないくらい、鈍感だよ」
「どういう意味、それ?」
 ふふっ、と涼子は笑った。
「さ・あ・ね」
 一歩先を行き、くるりと回って僕と向かい合う。僕が足を止めると、涼子もこちらに視線を向けたまま立ち止まった。
「僕、涼子のこと好きだよ」
「……言うの、遅いよ」
「ごめん」
「私だって、政樹のこと大好きだからね」
「ありがとう」
 言って、互いに照れ隠しに笑いあう。
「嬉しいよ、すごく」
「前に一緒についた嘘、本当になっちゃったね」
「それも、いいと思うよ」
「政樹、顔が赤いよ」
「涼子も、ね」
 お互いに頬を紅潮させたまま、僕らは昼食に間に合うように旅館に帰った。
 
 
 次の日。昼食の後、僕は一人で外出した。毎年この土地に来る度に足を運んでいる場所がある。いつもそこで考え事をしたり、何もせずぼうっとしたりする。
 バス停から旅館へ行くのと同じくらいの距離を、バス停から駅の方向へ歩くと神社がある。高い石段の上に境内があり、社の奥には林がある。そこで僕は今年も賽銭箱の前に座って境内を見渡し、ぼうっとしていた。
 敬一は前日の夜に帰ってきた。不機嫌そうだったが、昨晩はずっと涼子と一緒だったので理由は聞いていない。
 今日、僕がこうしているのは、毎年こうしているからでもあるが、一つ大きいような小さいような理由がある。気配だ。以前、似たような気配を感じていたので分かる。誰かが僕に会いに来る。危険は無い。
 まあ、むしろ昨日来なかった方が不思議なくらいだけど。とにかく、僕は会いに来るであろう人物をこうして一人で待っているのだ。涼子や敬一に会わせたらまたトラブルが起こりそうであるし。
 こうして待ちつづけてもう午後も三時過ぎ。
 なんとなく口が寂しくなってきて石段を下りる。毎年この時期に縁日がある。それ以外の日にはほとんど全くと言っていいくらい人は現れない。縁日の近く、一足先にやって来るたこ焼き屋さんの屋台と、僕だけは例外。
「たこ焼き一箱下さい」
「おう。やっぱり買いに来たな」
 相変わらず、たこ焼き屋さんのおいちゃんは元気だ。
「ちょっと待っててくんな。今から焼くからよ」
「作り置きはないんですか?」
「客が来ないのに作り置きしても仕方がないって気付かせてくれたのは兄ちゃんだぜ」
「そういえばそうでしたね」
 去年そんなこともあった。
「お陰で退屈してるんだがな。それよか、今年はちょっと雰囲気が違うなぁ」
「はぁ?」
「兄ちゃん、彼女ができたんだろ?」
 手は休めず、おいちゃんはたこ焼きを焼いていく。
「……うわぁ、さすが職人ですね。凄い技だ」
 次々にひっくり返されるたこ焼きを見ながら、感想を言う。
「こらこら誤魔化すな」
「……僕に彼女が出来たこと、なんで分かるんです?」
「これでも何百何千人と客を相手に商売してきたからな」
「恐れ入ります」
「……っと、出来たぜ」
 焼きあがったたこ焼きを箱に入れ、ソースや青のりをかける。おいちゃんは二箱も僕に手渡す。
「あれ? 僕、一箱って言いましたよ」
「サービスだ。お代もいらね」
「いいんですか?」
「ああ、いいとも。どうせ明日はガッポガポだ」
「そう言えば縁日は明日でしたね。あんまり縁がないから忘れてました」
「兄ちゃん、彼女が出来たんなら一緒に来るってのも一興とは思わんかね」
「それも、いいですね」
「明日はサービスできないぞ」
「明日はこのお店はスルーしますから平気ですよ」
「なんだいスルーって?」
「気にしないで下さい。冗談ですから」
「兄ちゃん、冗談のセンスねぇな」
「それは分かってます。言わないで下さい」
 僕はたこ焼き二箱を手に再び石段を昇り、賽銭箱の前に腰掛けた。この神社は、初めてシガンに会った場所に雰囲気が似てて好きだ。
 さっそくたこ焼きの一箱目を食べ始める。おいしい。伊達に三十年もたこ焼き屋をやってはいないということなのだろう。屋台ではないちゃんとした店を持てば行列が出来てもおかしくない。尊敬に値する。
「何を食べてらっしゃるんですか?」
 いつの間に現れたのか、イリアが僕のすぐそばに立っていた。気配はすでに臨界を突破している。予想通り、僕に会いに来たのは彼女だった。
「たこ焼き。美味しいよ」
「たこ焼きですか。私、まだ食べたことないんですよ」
「なら、食べなよ。もう一箱あるからさ」
 イリアにまだ開けていないもう一箱を手渡す。
「いいんですか?」
 嬉しそうに目を輝かせる。
「いいよ。貰ったものだしね」
「はい。それでは、いただきますっ」
 僕の隣に座って、イリアはたこ焼きの箱を開け食べ始める。
 相変わらず夏らしく日射しが厳しいが、お社の影のお陰で幾分かは暑さがしのげている。蝉の合唱や、風に揺れざわめく木々の音。賽銭箱の前に座ってたこ焼きを頬張る二人。
 ちょっと妙な絵かもしれない。青春っていいなぁ、と思う。
 イリアは、美味しい美味しいとたこ焼きを食べていた。こうして見ると普通の女の子で、とても殺人をも行う組織の一員とは思えない。
「イリア……。君は、どうして組織にいるの?」
 食べ終えた時に、僕は訊いた。
「私は、ワイズマン――組織の指導者のことですけど……彼を信じているんです。だからついていくんです」
「信じている、か。その人が、魔法使いが世界を動かすべきだって考えているんだよね?」
「ええ、そうです。あなたや敬一さんは違うのでしょうけど、魔法使いの多くは、その力を恐れた人によって迫害されています。家族に捨てられた人も、いるんです――」
 一瞬だけイリアの顔が曇った。
「――だからワイズマンは、そういうことが無くなるようにと活動を続けているんです。けど人類は元々、自分たちと違うものを排除しようとする生き物です。私たち魔法使いが平穏に暮らすためには、人類を淘汰する必要があるんです」
「そのためには、人も殺すんだね。例え、家族でも……」
 やや視線を下げて言うと、イリアは、はい、とハッキリとした声で答えた。
「魔法使いとしての素質がない場合は、必要ならそうします。けど、人類なんて、どちらにしても滅んでいいじゃないですか。人種だとか国だとか宗教だとか。下らない事にこだわって、差別して、他人を傷つけて」
 イリアは視線を逸らし、目を細めて言った。
「私たちは、差別なんてしないんですよ。魔法使いの私たちは。だから、新人類なんです」
「そんなの、全然新しい人類なんかじゃないよ」
 僕は、感情を極力抑えて言う。声が少し怒気で震えていたと思う。イリアの言っている事は、とても、腹立たしい。
「例え一つの組織の中だけであっても、差別無くみんなが平等に過ごせるというのは、とても素晴らしいことだけど……。自分たちと違う、魔法が使えない人たちは死んで滅びてもいいなんて考えは、なんか違うじゃないか。そんなの、君が言う下らない事にこだわって、差別して、他人を傷つける人類そのものじゃないか」
 辛そうな顔をして、イリアは俯いた。
「でも、親が子を捨てたりもするんですよ。魔法使いになってしまって、友達からも怖がられて、街を歩けば嫌な顔されて、嫌がらせされて、辛いのは子供なのに、一番親しかった人が、その子供を捨てて逃げ出したんですよ。その子はずっと親が帰ってくるのを待っていたのに帰ってこなかった。それが、人類のすることじゃないですか」
 声は、どこか震えているようだった。声だけでない。身体をわずかに振るわせていて、怒りだか悲しみだか分からない感情が言葉にこもっていた。
 けど、僕はそれを否定する。
「そうかもしれない。けど、それだけが人類じゃない。その子は確かに気の毒だけど、そんな親ばかりじゃない。魔法使いであっても受けて入れてくれる人だって沢山いるはずだよ」
「そんなこと、あるわけないですよ……」
 イリアは首を振って否定した。
「そうだとしても――」
 僕は立ち上がった。それに気付いてイリアは顔を上げる。
「――僕は、納得できない。人類を淘汰するなんて馬鹿げてる。すべての可能性を否定するなんて間違ってる」
 左右に首を大きく振り、イリアに視線を送った。
「それに……、いくら魔法使いでも全人類を淘汰するなんて、無理だよ」
 イリアも立ち上がった。
「いいえ、無理ではありません。シガン、あなたの協力があれば、無理ではないんです」
「……逆魔法を使って何かをするんだね?」
「はい。ワイズマンから聞きました。あなたの持つその力で人類を淘汰するんです」
 イリア至極真面目な顔で答えた。
「それなら尚更、協力は出来ないよ」
「どうして、分かってくれないのですか」
「僕はね、人が好きなんだ。それだけで、君の言うことが理解できないわけじゃないよ」
「そんなに、いいものですか。人類は」
「君が絶望しすぎてるだけだよ。それに、さっき言った通り、君も人類の一員なんだ。魔法使いは別に特別でもなんでもないと思うよ」
 僕は石段に向かって歩き出す。イリアはついて来る。途中、たこ焼きの箱をごみ箱に捨てた。
「僕は、何かを好きになるっていうのは嫌いな部分も含めて好きと言えることだと思ってるんだ。だから、君がいくら人の嫌な部分を話してくれても僕は人を好きなままでいると思うよ」
「いつかあなたも、近くの人から迫害を受けますよ」
「もしそうなったら、そうなった時にどうするか考えるよ」
 わずかにイリアの顔がほころぶ。
「その言葉、敬一さんにも言われました」
「敬一に? 会ったの?」
「ええ、昨日会って話をしました。怒らせてしまいましたけど」
 僕の方も心の中でくすぶっていた苛立ちが少し和らぐ。
「そりゃ、敬一ならさっきみたいな話をされたら怒鳴ったりするかもね」
「はい、怒鳴られました」
 昨日、帰ってきた敬一が不機嫌だったのはイリアに会っていたかららしい。
 石段に来たことで、正面が上下に広く見渡せる。素直に良い景色だと思える。けど、苛立っている時に見ると感動も半減してしまう。
 ふと下を見ると、珍しくおいちゃんのたこ焼き屋にお客さんが来ていた。二人連れの姉妹らしく、仲が良さそうに笑っていた。
「イリア。下の二人、見える?」
「え。あ、はい。見えます」
「あの二人ね、家族旅行でこっちに来たんだ。お父さんとお母さんには内緒で出てきて、これからお土産を買いに行くんだ」
 イリアは目を丸くする。
「お知り合い、ですか?」
「いや、今のはただの想像。でもね、想像するだけでも分かるんじゃないかな。ただ擦れ違うだけの人にも人生があって、平和で平凡で楽しい日常があるってことがさ」
 下の二人は、たこ焼きを買った後、バス停の方へ向かっていった。本当にお土産を買いに行くのかもしれない。
「新人類が平穏に暮らすために人類を淘汰する……。それって、沢山の人が犠牲になるんだろうね。あの子達二人の、平和で楽しい日常も奪われてしまう。僕たち自身と同じくらい大切なものを、沢山、数え切れないくらい奪ってしまうことなんだよね」
 イリアは、何も答えなかった。ただ、下を向いて二人の女の子らの姿を目で追っている。
「明日、この話にはケリをつけよう。それで君も僕も気持ちも変わらなかったなら、力尽くでも僕を組織に連れて行くといい」
「シガン……」
 僕は石段を下り始める。イリアがついてくる気配はない。
「じゃあ、また明日。ここで」
 僕は軽く右手を上げて、神社を後にした。
 
 
 旅館に帰って、僕はまず敬一に会いに行った。
「昨日の用事って、イリアに会うことだったんだね」
 一夜明けて機嫌も直った様子だった。敬一の部屋で、向かい合って座っている。背の低いテーブルの上には緑茶が二つ。敬一が淹れてくれた。
「イリアと会ったのはついでだよ。会ってたのには違いないがな」
「そう。なんで?」
「それよりお前、一昨日また殺されかけたんだって?」
 うっ、と小さく声が洩れる。
「どっか行っちまうから心配したんだぞ」
 腕組みして、敬一は苦笑いした。
「敬一、気付いてたんだ?」
「ああ、まあな。涼子がな、お前がいないって凄く心配してたんだぞ。安心させるのに骨が折れた」
「そっか、君がフォローしててくれたんだ。ありがとう」
「眠ってたことにしておいたからな」
「ああ、ありがとう」
 敬一はお茶を飲み、んで、と続けた。
「涼子をなだめた後、お前を探しに行ったわけだ。そこでイリアに出くわした」
「それって、僕が倒れてる時?」
「いや、その時にはもうお前は旅館に帰ったって言ってたぞ。まあ、そこで俺も勧誘を受けたわけだ。もっとちゃんと話がしたいって言うから、昨日、時間を作って会ってやったのさ」
 お茶をすする。
「僕も、さっき会ってきたよ」
「そうか。何を話した?」
「前にイリアが話してた、人類を淘汰するって話。本気だってことが分かったよ」
「ああ。少なくとも、あいつは本気だろうな……」
「敬一は? 何の話を?」
「組織に入らないかって言われたよ。蹴ったがな」
「それだけ?」
「いや、色々と組織の事も聞かせてもらった。腹を立てて怒鳴っちまったっけ……」
 敬一は言って、少し黙り込む。僕も何も言わない。時刻はもう七時近い。お茶を飲み干した。
「けど、今思うとな――」
 再び敬一が口を開く。
「――なんか、無理してたような気がするんだ」
「無理、してた?」
 僕も思い出してみるが、よく分からない。
「ああ。なんとなくそんな気がする。あと、親に対してもコンプレックスがあるような気もした」
「親?」
 そう言われると、そんな節もあったかもしれない。仲間の誰かのことだろうけど、実の子を捨てる親だっている、みたいな話をしていた。
「……僕、明日もう一度イリアに会うって約束をしたんだ」
「何のために?」
「説得するため……かな。イリアが本気で、組織の人類淘汰に協力するというなら止めさせたいし、君が言うようにイリアが無理しているなら、彼女は組織にいるべきじゃないと思うんだ」
 敬一は、そうか、と真面目な顔で言った後、微笑する。
「でもその台詞、涼子の前で言うんじゃないぞ」
「え? なんで?」
「妬かれるだろうからさ」
「そう? そんな風に聞こえる?」
「勘違いされるには十分かもな」
 ふ〜む、と唸る。
 そんな折り、部屋の扉が開かれる。
「あ、いたいた。政樹さん、お兄ちゃん、ご飯ですよ」
 顔を出したのは香織ちゃんだった。
「ん、ああ。もうそんな時間か。政樹、涼子を呼んできてくれ」
「うん、分かった」
 部屋を出る。敬一は香織ちゃんを手伝って、部屋の中に料理を運び始めた。
 部屋から涼子を連れてきて、僕たちも香織ちゃんを手伝う。今日の夕飯は、お刺身らしい。
「お刺身はお酒に合うのよ」
「……女将さん」
 前触れもなく現れた女将さんに、ややたじろぐ。僕らがお土産に送ったお酒とは違うけど、高そうな日本酒を持ってきている。
「叔母さん、どうあっても俺たちに酒を飲ませたいんですね?」
 敬一は呆れを通り越して諦めているようだった。
 女将さんはお酒を置いて、また後でね、と去っていった。ひとまず、食事が始まる。今日も僕、涼子、敬一、香織ちゃんの四人でテーブルを囲む。
 涼子や香織ちゃんが会話を弾ませるので、僕と敬一もつられて、普段より口数が多くなった。
「涼子さん、結構モテそうですよね」
「え? そう? そう見える?」
 香織ちゃんに言われ、あからさまに嬉しそうな顔を見せる。
「ああ、涼子はモテるぞ。特に一部の女子には大人気だ」
「えっ? 涼子さん、そんな趣味が……?」
「ちがうちがう。そんな趣味あるわけないでしょ。敬一! 勘違いされるようなこと言わないでよ」
 敬一はカラカラと笑う。
「もう……、政樹からも何か言ってよ」
「ええ? えっと、僕にはよく分かんないな。あ、でも、確かに一部の女の子に人気があるみたいだね……」
 香織ちゃんは、へえー、と目をパチクリさせた後、にこやかに笑った。
「でも私、人がどんな趣味持ってても差別したりしませんから」
「香織ちゃん、勘違いしないで、お願いだから」
 その様子に、思わず笑ってしまう。
「あ。そう言えば、明日この近くで縁日があるって聞いたけど?」
 思い出したように涼子が言う。
「ああ、あるよ。僕はあんまり行ったことないけどね。縁日に縁がないんだ」
 答えると、涼子と香織ちゃんの二人に求めるような目で見られる。目は口ほどにものを言う。なんとなく何が言いたいのか理解する。
「ちなみに、明日は僕、用事があるんだけど……」
「えー、行こうよ。政樹ー」
「えー、行きましょうよ。政樹さーん」
 なんだこの二人……。
 まるで駄々っ子みたいに口と手を動かす。これはこれで可愛らしさがあると思うけど、ちょっと子供っぽい。
 ふっ、と敬一が笑った。
「政樹、行ってこいよ」
「敬一……?」
 意図が分からず疑問の視線を向ける。
「お前の用事は俺が引き受ける」
「いいの?」
「ああ、いいさ」
 目を瞑って持っていたコップをゆっくりとテーブルに置く。何かを思っているような顔をして、目を開けた。
「あいつ、ちょっと前の俺に似てる感じがするんだ。だから、任せてくれよ。きっと……上手くやる」
 少し考えたけど、正直、僕にはイリアを説得できそうな見込みはない。申し出てくれた敬一に任せた方がいい結果を期待できるかもしれない。
「分かった。じゃあ、任せるよ」
「じゃあ政樹、明日は一緒に行けるのね?」
 嬉しそうに涼子が言う。
「うん。まあ、そういうことになったよ」
 ばんざーい、と涼子と香織ちゃんははしゃぐ。
「ありがとう敬一」
「お兄ちゃん最高ー」
 絶対テンションがおかしいと思うけど、敢えてツッコミは入れないでおくことにする。
「あらら? 盛り上がってるわね。なんのお話?」
 驚いて声のした方に顔を向けると、やっぱり女将さんがいた。さらにお酒を持ってきている。
「明日、政樹さん達と一緒に縁日行くの」
 香織ちゃんが答えるが、女将さんはダメよ、と即答した。
「香織。明日はお仕事手伝ってくれる約束じゃない。契約違反はダメよ」
「あ……。そうだった、っけ。うぅ、どうしてもダメ?」
「ダメ」
 上目遣いに懇願する香織ちゃんだが、女将さんは許してあげなかった。ちょっと可哀想だと思うが、仕方ないのだろう。
「ごめん、香織ちゃん。お土産は買ってくるから……」
 涼子が手を合わせて苦笑いする。
「はい。お願いします……」
「涼子と二人で楽しんでくるよ。来年は一緒に行こう」
 コクコクと本当に残念そうな顔で香織ちゃんは頷いた。
 そんなやりとりの余所、女将さんは僕らの前に座って、なんのためらいもなくお酒をコップに注ぎ始めていた。気付くと、ちょうど四人分注がれていて、僕、涼子、敬一、香織ちゃんの前に置かれてしまった。
「……」
 一同、沈黙に帰す。
「どうぞ」
 ……さて、どうやって断ろうか。
 考えていると、敬一が拒否するようにコップを女将さんの方へ戻す。首をふるふると振ってダメだと主張する。
「叔母さん、俺たちは未成年です。俺や政樹はともかく、香織がこういうことを覚えては大変です」
 そお? と残念そうに女将さんは視線を落とした。
 ホッとして胸を撫で下ろす。
「じゃあ、折角だから私が全部いただいちゃいましょ」
 それを聞いて、ビクッと身体を振るわせる香織ちゃん。
 僕も何か嫌な気配を感じ、箸を落としてしまった。
「ねえ、香織ちゃん。もしかして女将さんって……」
「はい。お母さん、あまり酒癖がいいとは言えないんです」
 小声で会話する。敬一も、これはまずいな、と洩らした。
 女将さんがお酒を飲むなんて言い出すのを見るのは、初めてだ。どう対処すればいいのか、そのヒントもない。
 女将さんは扉の近くに座っている。逃げようにも、阻止されてしまうだろう。
「三人とも、覚悟しろ。二時間もすれば酔いつぶれる。耐えるんだ」
 敬一が、本当に覚悟したような顔で小さく言う。
 僕は頷き、続けて涼子と香織ちゃんも頷く。
 大人の人と付き合うのも大変だな、と痛烈感じている最中、女将さんは呑み始めた。
 
 




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SUMMER OF MAGICIANS

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