戻る 目次へ 作品インデックスへ TOP 次へ


≪SUMMER OF MAGICIANS≫




 
肆 夏夢神社
 
 
 
「で、お前どこでイリアと待ち合わせなんだ?」
 次の日の昼頃、敬一がやって来て訊いた。
「神社だよ、縁日が開かれる」
「いつだ?」
「夕方くらいじゃない。縁日なんてそんなもんでしょ」
「いや、そうじゃなくて、いつ待ち合わせなんだ?」
「あ、それは決めてないや」
 敬一はあのな、とため息を吐いて頭を掻いた。
「でも、イリアが涼子と会うのは、まだまずいと思うんだ。だから出来れば――」
「OK。じゃ、俺が先にイリアと会って神社から離れるとする」
「ありがとう」
「んじゃ、適当に時間潰してから行くとするか……」
 背を向ける敬一を、ちょっと待った、と呼び止める。なんだ? と敬一は振り返った。
「もし出来たら、ワイズマンと会える機会を作ってくれるように頼んでくれないかな?」
「ワイズマンって組織のボスだろ? なんでまた」
「会って、本気で人類淘汰なんてことを考えているのか聞いてみたいんだ。それに、なんでこんな事を考えるようになってしまったのか、直接話を聞きたい」
「そういうことか。分かった、頼むだけ頼んでみよう」
 納得した様子で敬一は承諾してくれた。
「うん。頼むよ」
「OKだ」
 敬一は、敬礼の様な角度と高さに右手を上げ、部屋から出て行った。
 一人部屋に残る僕。
 座布団を枕代わりにして寝っ転がる。
 そろそろ、考えなければならないかな。組織に対しての事や、これからの事。
 今まで僕たちが気楽でいられたのは、交渉に来た人物がイリアという友好的な人物だったからだろう。もし、もっと別な人物が来ていたなら、きっとただじゃ済まなかったと思う。
 イリアが僕らを力尽くで組織へ連れて行くなんて事はないと思いたいけど、何かあった時のための用心くらいはしておかないといけない。
 やっぱり、逆魔法でどれくらいのことが出来るかくらいは把握しておいた方がいいと思う。
 一昨日、逆魔法の実験に使ったカミソリを持ってきた。紙を切ろうとしてみたが、切れ味はなくなったままだった。
 僕はカミソリに対し、念じる。
 結合力、消えろ。
 瞬間、カミソリに触れているという感覚が消え去る。カミソリは霧のように四散した。
 分子や原子の結合力を消し去る。つまり、物質を崩壊させる。
(本当に、出来ちゃったな……)
 この後いろいろと試して見た。消し去った物を元に戻すことは、ある程度は自分の意志で出来るらしい事が分かり、他にも、痛覚や触覚、聴覚など人体の感覚や、火の熱、氷の冷気も消せることが分かった。
 あまり長くは維持できなかったけれど、重力も消すことが出来た。
 応用を利かせれば、色んな事が出来る。
 けど、やっぱり僕には大きすぎる力だと思う。
 シガンは、僕なら力に溺れないだろうと思ったと言っていた。確かに、僕には怖くてこんな力を常用することなど出来ない。
 けど、やっぱり何を考えて僕に継承したのか分からない。僕に継承させた理由は幾つかあるようだったけど、あの人の事だからまた大した理由でもないような気がする。結局わからないけど。
 少し暑いので窓を開ける。風にカーテンがたなびく。
 僕は再び座布団を枕にして横になり、しばらくそうしている事にした。あまり深く考えても仕方がない。
 窓から見える空は青い。当たり前なのだけど、青々としてて、見てるとやっぱり清々しい。風も入ってきて心地いいくらいに涼しさがでてきた。気持ちいい。
 この平穏、壊されないように、壊さないようにしなくちゃならない。このまま何事もなく済めば一番いいのだけど、多分、そうもいかないだろう。
 右手を目の前にかざしてみる。
 逆魔法。
 僕には過ぎたこの力を使わなければならない時も、いつか訪れてしまうのだろうか。僕のもう一つの力は、今は何の気配も感じてくれない。争いは避けたいけれど、必要なら、戦わなければならない。
 かざしていた手を重力に任せて床に落とす。右腕は真っ直ぐに身体に対してほぼ垂直に伸びた。
 目を瞑る。
 やっぱり、考えても仕方のないことばかりだ。僕なりに、その時その時で精一杯にやるしかないのだろう。
「政樹、いる?」
 扉が開き、そこから涼子が顔を出した。
「いるよ。入って。どうかしたの?」
 起き上がり座布団を尻の下に敷き、涼子の方に向き直る。涼子は部屋に入ってきた。
「暇だから何か話でもしたいな、って」
 僕の目の前に座る。機嫌は良さそうだ。特に嫌な気配も感じない。
「そうだね。縁日は夕方くらいからだろうし。暇だよね」
 ふと、涼子が首を捻り不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「え、何が?」
「なんだか、不安そうっていうか、悩みがあるような顔してる」
 言われて僕は少し驚いた。
「そうかな。そんな風に見える?」
「見える。政樹、結構思ってること顔に出るよ」
 そうなの? と、左手で自分の顔に触れてみる。しかしこんな行為で分かることでもなかった。
「僕の顔見て考えていることとか分かるのは涼子か敬一くらいだよ」
「そう? それより何をそんなに考えてたのよ?」
 身体を乗り出して顔を近づけてくる。涼子の顔が目の前に来て、少し照れて身をちょっと退く。
「組織のことを考えていたんだ。どうやって事を解決しようかってさ」
「そう……。その事ね……」
 涼子はやや不安げに顔を曇らせる。昔、組織に酷い目に遭わされた事があると言っていたことから、僕なんかよりもずっと組織に対して恐怖感があるのだろう。
 涼子に比べれば、僕は組織の恐ろしさの何も知らないに違いない。
「政樹は、どうするつもりなの? 本当に何の考えもなく温泉旅行に来たの?」
「ここに来る時は本当に何も考えていなかったよ――」
 涼子は一瞬、ムッと不機嫌な顔になる。馬鹿っ、と怒鳴られる前に、慌てて素早く言葉を繋げた。
「――けど今は、少しは組織の恐ろしさを認識してる。君ほどじゃないだろうけど……。組織とは、何とか折り合いつけて争わずに済めばいいと思ってる。あんな馬鹿な事を止めさせたいとも、ね」
 涼子は少し呆れたような顔をする。
「無茶なこと言うんだね」
「うん、無茶だと思う。話し合いで解決できないなら、最後は力と力がぶつかると思う。けど、それは最後の手段だからさ」
「……うん。無茶だけど、政樹らしいね」
 言って、涼子は微笑みを見せる。
「涼子は、何か考えはあるの?」
「え、私? ……何も、考えてないかな」
「なんだ。人のこと怒れるような立場じゃなかったわけだね」
「そうだね」
 涼子はまた笑った。けど、その時の涼子の笑みに、偽りのようなものを僕は感じた。まるで何かを隠しているような、そんな笑みにも見えた。気になって訊こうとする。
「ねえ――」
 が、涼子が先に口を開いたので僕は何も訊けなかった。
「――私たちが初めて会った時のこと、覚えてる?」
「えっ。ああ、うん。よく覚えてるよ。中学一年生の時だね。初めて会ったのは夏休みの頃だったっけ」
「うん、そう。二学期はまだ始まってなかったね」
 ちなみに、初めて敬一と会ったのは中学二年生に上がってすぐだった。進級した時に同じクラスになったのだ。
 当時を思い出すと懐かしい限りである。俺が僕に変わっていった期間。いつも、涼子と一緒だったような気がする。
「懐かしいね」
 涼子は微笑む。今度は偽りの無い、涼子の本当の笑みだった。それを見て少し安心したけど、それだけに、さっきの笑みが気になった。
 僕の気のせいだろうか……。
「うん。懐かしいけど、涼子、どうして急に昔の話なんて?」
「ん? 別に。なんとなくだよ。私は、暇潰しにお話ししに来たの。あんまり辛気くさい話なんてしたくないの」
「そう……」
 なんだか、無理に話を変えようとしているようにも見える。けど、僕は敢えて追求しないことにした。今日の夕方に縁日へ行くのだ。僕だって、あまり暗い雰囲気で遊びに行きたくない。
 それに、涼子が言いたくなくて隠している事があるなら、僕は彼女が話してくれるまでは、それを聞くべきじゃない。
「そうだね、あんまり暗くなるのも嫌だね」
 僕はわざと明るめの声を出す。それほど遠くはない記憶を掘り出し、思い出に心を馳せる。
「やっぱり、懐かしいや……」
 瞼の裏に当時の自分を見た気がして呟く。
 あの頃の僕は、まだ俺で、シガンが死んだ事の意味を、僕なりに掴もうとしていた。死んだシガンの言葉からか、あの日の出来事があまりに非日常的すぎたからか、僕の心は平和や平穏を求めるようになっていた。
 あまりにも急に主義が変わった。まだ頭の中の理屈や理論は矛盾だらけ。どうすれば平和や平穏が保てるのかもよく分からなかった。それでもただ、僕は日常だけを望んだ。
 涼子と出会ったのはそんな頃。前に住んでいた町から引っ越してきたその日だった。
 特に変わった出会い方じゃなかったと思う。
 引っ越しの片づけの途中、気分転換に散歩に出た。迷子になりそうな気配はあったが、敢えてそれに飛び込んだ。結果、見事に迷子になって、家に帰れず街を汗だくで彷徨う羽目になった。歩き疲れてどこかの公園のベンチで休憩していたら、不思議そうな顔をした涼子に話しかけられた。
 君、やけにくたびれてるみたいだけど、どうかしたの? と。
 気恥ずかしく思いながらも僕は事情を説明した。引っ越してきたばかりで道が分からず迷子になった事を。
 呆れた様子で、道もろくに分からないのに散歩なんてしないの、と注意された。散歩もしないで地理に明るくなるなんて無理だと反論したかったけれど疲れていたからやめた。
 少し休んだ後、僕が分かる道まで涼子が案内してくれた。お互いの名前を知ったのはその時。夕日のオレンジ色に染まっていく街の中、僕の前を歩いていく涼子の長い髪が風になびいている様子は今でも目に焼き付いている。
 快活そうで感じのいい女の子というのが僕の第一印象だった。
 その次の日、お礼を言うためにその公園へ行った。引っ越してきたばかりで友人もなく、シガンを亡くしたばかりで寂しかったのかもしれない。礼を言うためというのは口実で、ただ涼子に会いたかった。
 運良くまた公園で涼子に会う事ができ、僕は礼を言う事ができた。涼子も僕が会いに来て嬉しがっているように見えた。
 その次に会えたのは、夏休みが明けた二学期の始業式だった。偶然にもその学校、僕が編入されたクラスに涼子はいた。
 涼子は意外にもクラスの中でも特に目立たない存在だった。
 おとなしくて物静かで、口調も柔らかかった。第一印象とはあまりにかけ離れていた。
 何か嫌な事があって沈んでいるのかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。学校の中に限らず、涼子は僕以外の誰かがいる場では静かでおとなしかった。
 僕と二人きりの時だけ、涼子は初めてあった時のように明るかった。当然、不思議に思った僕はその理由を尋ねた。
 涼子はその度に誤魔化した。僕もあまり深くは追求しなかった。誤魔化す時の涼子は、どこか、悲しげな雰囲気があったから。
 そんなある日、涼子からそれについて切り出してきた事があった。初めて会った公園で他に誰もいない時にだった。
 僕はただ正直に涼子の質問に答え、思うままを口にした。何と言ったかはよく覚えていない。
 それからだった。
 少しずつ、涼子は僕以外の相手にも明るさを見せるようになっていった。
 僕が言った言葉がきっかけになったかは定かではない。けど、涼子の変化のきっかけの心当たりは、僕には未だにこの出来事しかない。
「確か、その頃だよね。君が僕に、俺っていう一人称が似合わないって言ったの」
 思い出を懐かしみながら口にした。
「そんなこともあったね。でも、本当に似合ってなかったよ。俺って感じじゃないよ、政樹は」
「そうかな。俺にはよく分からないや」
 わざと俺と言ってみる。
「うん、やっぱり変な感じ」
 僕らは笑いあう。
 穏やかな時間。いつまでも続かせていく日常の欠片。開けっ放しの窓から吹き込む風。好きな相手と過ごす午後。
 思い出というアルバムに今この時間を貼り付けていく。
「本当の自分で過ごさない毎日はきっと日常とは言えないものだよ、かぁ……」
 涼子が両手で身体を支え、天井を仰ぎ独り言のように言った。どこか、聞き覚えのあるような台詞だった。
「なに? それ。誰か友達が言ってたっけ?」
 涼子は顔をこちらに向け直し、笑顔でため息を吐いた。
「忘れちゃってるの? 自分で言った言葉なのに?」
「僕、いつそんなこと言ったっけ?」
 言って、思い出そうとする。聞き覚えがある。思い出せそうな予感。しばらくそうしてると、ふと、その台詞が脳の回線から飛び出してきた。
「ああ……。思い出した」
「忘れてるっていうのは私にはとても遺憾なことだよ?」
「ごめん。あの時だよね?」
「うん、公園でね。私にとっては凄く大切な言葉なんだよ。政樹がそう言ってくれたから今の私がいるって言っても過言じゃないかも」
「それは少し大袈裟じゃないかな」
 涼子が口にした言葉は、あの時に僕が言った言葉だった。
 本当に涼子の変化のきっかけになったのはあの日の出来事だったらしい。もちろん、きっかけになっただけで涼子も色々考え実行したから今の涼子がいるのだろう。
「そういえばさ、政樹って何か夢とか無いの?」
「夢?」
 話題を変えられ思考の流れをそちらに変えるのに一瞬時間を要した。こくん、と頷き、涼子は笑った。
「政樹ってそういう話って全然しないじゃない? 何か無いのかなって思ってさ」
 言われて、ちょっと考えてみる。思い付かない。
「う〜ん。特にないかな。将来とかも僕まだ全然考えてないし」
「別に将来の夢だけが夢じゃないよ。何か、やってみたいこととか、こうだったらいいなー、ってこととか。そういうのも夢でしょ」
「そう。そうだね。それなら、あるかな」
 カレーを三日三晩食べ続けるとか、一人暮らしをするとか。思い浮かぶには思い浮かんだが、ちょっとささやか過ぎるかもしれない。
「……あ〜、つまんない事ばっかりしか思い浮かばないや」
「つまんない事?」
「うん、まあ。好きな食べ物を三日三晩食べるくらいのことくらいしか、思い浮かばなかった」
「政樹らしいといえば、政樹らしいね」
 苦笑い気味に言われてしまう。正直言ってちょっと悲しい。
「涼子はどうなの? 何かあるの?」
 切り返してみると、涼子は両手で身体を支えながら天井を仰いで一言、空、と呟いた。
「空?」
 聞き返すと、元の姿勢に戻って、うん、と微笑んだ。
空、飛びたいな。海を空から見下ろしてみたり、色んな国で色んな人と出会ったり。風の向くまま気の向くまま、遠くへ行ってみたい
「素敵だね、そういうの」
「そうでしょ?」
 どこか嬉しそうに涼子は答える。もしかして、僕に聞いて欲しくて、僕の夢を訊いてきたのではないだろうか。そうだとしたら、ちょっと子供っぽいかもしれない。
 けど、そういうロマンがある夢っていいなと思う。いつか叶えれあげられたらいい。一緒に、空の旅というのも楽しそうだ。
「なあに? にやけちゃって」
「いや、なんでもないよ」
 追求から逃げるように壁に掛かった時計を見上げると、もう午後の六時を過ぎていた。外はまだ明るさを残しているが、直に暗くなるだろう。
「そろそろ行こうか」
 立ち上がりながら言うと、涼子もうん、と頷いて立ち上がった。
 僕は財布と携帯電話をズボンの左右のポケットに収める。涼子も一旦部屋に戻った。部屋を出て廊下で待っていると涼子が来た。服装が少し変わっていた。
 旅館を出る途中、女将さんにどこへ行くのかと笑顔で訊ねられた。縁日へ行く旨を伝え、食事は外で済ませるかもしれないと言うと、少し残念そうな顔をした。
 のんびり歩いて神社へ向かう。道には何人も人がいて、浴衣を着ている人も少なくはなかった。それを見て、涼子が浴衣を着てくれば良かったとぼやいていた。
 石段へ続く道に露店が陳列しているのが見える。中にはおいちゃんのたこ焼き屋の姿もあった。
 まず最初においちゃんに挨拶してたこ焼きを二箱買う。涼子の姿を見て僕を冷やかすおいちゃんだったが、結局料金を少しまけてくれた。
 適当なところに座って、人の往来を見ながらたこ焼きを頬張る。縁日は嫌いではなく、むしろ好きな方だがカレー屋が無いのはいただけない。
 のんびりと時間が流れていく。
 色々な露店を回っているといつの間にか空は、完全に月と星に支配されていた。提灯に明かりが点けられ、いよいよ縁日も本番という雰囲気だった。
「平和だなぁ」
 また適当なところに座って人の往来を眺めて言った。
「うん。ホント、いい雰囲気……」
 涼子も相槌を打ってくれる。
 不意に敬一の事が気にかかった。イリアとはうまく会えただろうか。ちゃんと、説得できるだろうか……。
 ふと空を見上げると、晴れていたのがだんだん曇ってきている。一雨来るかも来るかもしれない。そう思ったけど雨の気配はない。その代わり小さな気配に気付き、携帯電話を手に取る。
 着信音が鳴るのとほぼ同時に通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「政樹か。いま何処だ?」
 電話の相手は敬一だった。落ち着いた様子だった。イリアとの事はどうなっただろう。
「ああ、いまお祭りに来てるよ。石段の前の道あたり」
「そうか。じゃあ、俺も今からそっち行くよ。待っててくれ」
 OK。と返すと、じゃ、と敬一は電話を切った。
「敬一、もうすぐこっちに来るってさ」
 涼子に言う。けど、涼子は何の反応もしなかった。縁日の、露店の間を行き交う人混みの中の一点を凝視していた。あるはずの無いものを見つけたような顔をして。
「涼子?」
 返事もせず、ふらりと立ち上がり走り出した。慌てて僕も立ち上がる。涼子が向かう先に目を凝らす。一人。一人だけ、どこか雰囲気の違う人がいた。外国人の男。白髪かと思ったがおそらくは銀髪。涼子はその人に向かって行くように見える。
 銀髪の男は、涼子に気付いたからかは分からないが、慌てる様子も見せないままその場を離れた。
 震えが来る。
 嫌な気配。涼子が行ってしまったから、もう感じられなくなってしまったけれど、ひどく嫌な事が近づいてきているのが分かる。
 涼子に、なにかが起こる。
 僕は全力で涼子を追う。
 走りながらメールを打つ。敬一に場所を移動するという文面を送り、涼子を追った。
 人の波も途切れた辺り、月の明かりも雲に覆われている。夜の闇に包まれろく視界が利かない。
 あっという間に二人の姿は闇に消えてしまった。
 二人の姿はもとより気配もない。一度足を止め、歩く。肩で息をしながら、もう一度、周りを見渡す。僅かに虫と風の音がするくらいで、他になにもなかった。
 そんなに体力があるという自信はないけれど、全力で追って、こんなにも早く見失うなんて、おかしい。
 そういえば、前に僕を襲ったコートの男は異常な速度で移動したりしていた。ということは、魔法を使った、のだろうか。
 涼子が魔法を使っても追いつけないのなら、相手もまた魔法使いである可能性が高い。
 嫌な予感がする。
 涼子は以前、組織に酷い目に遭わされたと聞いた。組織にやけに詳しかったことからも考えて、涼子と組織になにか因縁があることは間違いないと、そう認識していた。
 あの銀髪の男は組織の人間と見て間違いない……。
 拳を握りしめる。
 もっと逆魔法を使いこなせているなら、とっさに何かして涼子を引き留めることも、追いつくことも出来たかも知れないのに。
 僕は、考えても、逆魔法をどう使えばこの状況を招かなくて済んだか思い付かなかった。
 それが悔しく、涼子が心配で。なのにこうして何も出来ない。
 涼子に辛い思いなどさせたくない。ただ僕と日常を生きて欲しい。
 なのに、組織は……。
 少し休んで静かになっていた心臓の鼓動が、またよく聞こえるようになる。今度は息切れからではなく、感情の動きから。
 その感情が、焦燥だと、自分でもよく分かった。
 また携帯の着信音が鳴った。小さすぎてその気配を見逃していたらしい。足を止め、通話ボタンを押す。
「移動するって、何かあったのか?」
「敬一……」
 爆発しそうな感情を抑えながら、組織の者と思わしき人物を追って涼子が行ってしまったことと、僕も追ったけれど見失ったことを伝えた。
「約束を破るつもりか? イリアの指示ではないだろうが……」
「いや、約束は一応、まだ守られてる。僕らは手出しされたわけじゃない。けど、涼子を誘き出す為に現れたとしか思えない。約束が反故にされるのも時間の問題かも知れない」
「合流しよう。一人でいるのは危険だ。神社まで戻ってくれ」
「嫌だ。僕はこのまま涼子を探す。何か、嫌な予感がするんだ」
「ダメだ。罠かも知れない」
「じゃあ涼子を見捨てろって言うのっ? さっき、気配も感じたんだ。涼子に何かされるのは、ほとんど間違いないんだ」
 焦りからイライラが募っていく。だんだん声も荒くなっているだろう。それでも敬一は冷静だった。
「だからといってお前一人でどうするって言うんだよ」
 そんな敬一に腹が立った。けど、言うべき事を言わずにいた罪悪感から少し勢いが削れる。
「僕はっ――僕は、君にも涼子にも黙ってたけど、シガンだ。逆魔法も、まだ有効的には使えないとは思うけど、使えるようになった。一人でも、なんとかする……よ」
 携帯電話ごしに、敬一が息をのむのが分かる。
「政樹……。分かった。行ってくれ」
「ごめん」
「ただ、ワイズマンがこの辺りに来ているそうだ。気を付けてくれ」
「……ワイズマンが?」
「ああ。イリアから聞いた。会えるように頼む必要はなかったわけだ。もっとも、話し合いが目的かは分からんがな」
「イリアは、説得できたんだね?」
「さあ、な。俺の言うことも、分かってくれたとは思うが……」
 自信なさげに答える。それは少し残念だけど、今はイリアのことなど気にしてはいられない。早々に頭を切り換える。
「敬一はどうするの?」
「……お前、いま神社からどっちの方向にいる?」
「神社の鳥居に向かって右の方向。どの辺りかはよく分からないな。これから移動もするけど……」
「分かった。とりあえず俺もこれからそっちの方へ行く。何かあったら連絡をくれ」
 ここで電話は切られる。
 正面遠くに街の光。あっちが駅の方だろう。組織の人ならあまり人のいる場所には行かないと思う。僕は脇道に入り、神社のある山の裏手の方へ進んでいった。
 しばらく歩いていると、空が晴れ、星空が姿を現す。
 月。
 月明かり。
 明るかった。今までが暗かっただけに、周りの様子も多少は分かるようになる。
 星も都会で見るよりずっと多くて、素直に綺麗な夜空だった。こんな状況でさえなければ、縁日の後、涼子とこの空をのんびり眺めていただろうに。
 涼子……。どこに行っちゃったんだ……。
 歩く。握りしめた拳が痛い。相変わらず鼓動は高鳴っている。焦りからかいつの間にか早歩きになっていた。
 虫の鳴き声に気付く。ずっと鳴いていただろう。
 聞こえているのに認識できていなかった。
 鳴いているのは何という虫だろう。
 僕は、よほど落ち着きを無くしているらしい。はやる気持ちを抑え付けて足を止める。深呼吸。
 その時に、ようやく僕は自分以外の足音に気付いた。
 何の気配だろう。よく分からないが何事かの気配があった。
 足音を警戒する。
 背後から近づいてくる。
 息を止め、素早く振り向く。
 誰も、いない。
 そんな馬鹿な。そう思った時、背後から肩を叩かれた。
「誰だ!」
 叫んで振り返る。
 男だった。銀髪の、五十代くらいの外国人。涼子が追っていった組織の構成員と思わしき人物。口の端をやや緩ませていた。その顔が、僕の感情をさらに高ぶらせた。
「組織の人だな……。涼子をどうしたんだ」
 気配に気を配り、逆魔法をいつでも発動できるよう身構える。男は僕の足下のやや右側に、ちらりと目を向けた。
 そちらに目を向ける。
「涼子……?」
 そこには涼子が横たわっていた。
 すぐ屈み込んで様子を見る。意識は失っているが、外傷も異常も見当たらない。
 暗くてよくは分からなかったが、先程まではいなかったはずだ。この、銀髪の男が連れてきた。この男は、魔法使いだ。間違いない。
 立ち上がり、再び男を睨む。
「涼子に何をした」
「催眠をかけ、少し眠ってもらった。君と話がしたかったのだが邪魔をするようだったのでね。それ以外には何もしていない」
 どこか発音におかしさがあるが男の日本語は流暢だった。
「僕と話を? 組織に入れという話なら間に合ってますよ」
「まあ、そう言わずに聞いてくれ」
 道の端に腰を下ろし、男は遠くの街の光を見つめた。僕はその様子を見続ける。嫌な気配は、感じない。少なくとも、ここから数分間は危険はないとみていい。
「君も座ったらどうだね」
 もう一度、涼子の様子を見、僕は男から少し離れた場所に座った。警戒は怠ってはいない。男はどこか気楽そうに笑みを浮かべていた。
「君はシガンだね」
「違います」
「隠すことはない」
「僕がシガンだという証拠でも掴んでいるんですか?」
 男は、フッ、と笑った。
「証拠がないと確信してはいけないかね?」
「別に。確信していても、違うものは違いますけどね」
「イリアから連絡は受けているよ。先代と継承の儀式を行ったそうじゃないか?」
 僕は何も言い返せず、押し黙った。
「正直、イリアでは君の説得は無理だと思っていたのだよ。彼女は優秀だが少し脆いところがある。例え強行策をとったとしても君には敵わなかったろうしね」
 何者だろう。組織の人間には間違いだろうけど、ただの構成員とは思えない。どこか、格が違う。
「いや、僕じゃイリアには敵わないですよ」
「君は自分の力を過小評価している。私は、隼人が逆魔法を使うところを何度も見てきている。あの力は、偉大だ」
(この人、シガンの本名を知っている……?)
 僕は、その事から一つの気配を感じ、この人が誰なのか、大方の見当がついた。鼓動が高鳴る。
「あなた、何者ですか」
「ワイズマンと名乗らせてもらっているよ。もっとも、同志がそう呼ぶからそう名乗っているだけだがね」
 冷や汗が一気に吹き出る。警戒をさらに強める。依然、危険の気配がないのが不思議だった。しかし、危険があるとしても、僕は話さなければならない。
「シガン。新しいシガンよ。我々と共に来て欲しい」
 少し考えて、僕は口を開く。
「条件次第でなら、構いません」
 僕は心底そう思った上で発言した。
「条件? イリアには言わなかったのかね?」
「イリアに言っても、できる事ではないと思いましたから」
 なるほど、とワイズマンは口の端を緩ませた。
「組織を統べる人間にしかできないことを条件にするつもりだね」
「まあ、そうですね。言ったら、あなたが悩むことになるかもしれませんが」
「構わない。言ってみたまえ」
「その前に訊きたいことがあります」
「ん、なんだね?」
 僕は深呼吸してから口を開いた。
「なぜ、人類淘汰なんですか? 魔法使いが平穏に暮らすために、どうしてもしなくてはならないんですか?」
「そのあたりは、イリアから聞いているのではないかな?」
「僕は、あなたの口から聞きたいんです」
 ふむ。とワイズマンは顎に手をやった。
「君はまだなのだろうが、魔法使いの多くは、その力を恐れる者達から迫害を受けている。イリアなどは、家族に捨てられもした」
「イリアが?」
「そうだ」
 そうなのか、と僕は口の中で呟いた。彼女が、あんな事を言っていたのは、自分がそうだったからだったのか。敬一、鋭いな……。
「人類は元々、自分たちと違うものは排除しようとする生き物だ。自らが強者と勘違いし、また、自らと違う者を恐れる。時には戦争を起こす。一方的な迫害もする。私は、何度もそういったものを見てきた。我が同志らの涙も……」
 声は震えていた。鼓膜を叩くその声は、怒りや哀しみの色に染まっている。ワイズマンの顔も、ほとんど表情は変わっていないはずなのに、今にも泣いてしまいそうに見えた。
「我々の平穏のためにはそういった要素を排除しなければならない。人類は、淘汰しなければならない」
「そのためなら、まだ何も知らない子供も、ただ幸せに暮らしているだけの人も、殺すんですか」
 ワイズマンの様子を見ても、やはり僕は彼の言葉に怒りを覚えずにはいられなかった。
「……そうだ。心苦しいことだが、私は、その方法しか思い付かなかった」
「受け入れてくれる人だっているかもしれないとは、思わないんですか……?」
「思ったさ。私だって、最初は思った」
 僕は口を閉じ、視線を落とした。草が生えている。風に揺れている。虫の鳴き声も絶えず聞こえ、やや涼しい。夏の夜としては理想的だった。
「シガン。私たちと来て欲しい。君に苦しい思いはして欲しくはない」
「……いいでしょう」
「そうか、来てくれるか」
 ワイズマンはひどく嬉しそうな顔をして僕の肩を叩いた。
「あなたが、人類淘汰以外の手段で、魔法使いの平穏を求めるというなら、僕は喜んで力を貸します。それが条件です」
 ワイズマンは僕の言葉を聞き、その表情のまま固まった。
 危険の気配がだんだんと濃くなっていくのが分かる。それでも僕は、止めない。これだけは言わなければならないと思った。
「僕は、今、自分に何かされるより、自分の手で友達や家族を殺さなければならないことの方が、苦しいことです」
 そうか、とワイズマンが呟いた。瞬間、恐ろしいほどの勢いで僕は、首を掴まれた。
「なら、いい人ごっこはもう終わりだな」
 ワイズマンの表情が、怒気と邪気を孕むものに変わっていく様がやけにゆっくりと見て取れた。
 そうか。やっぱりこの人は……。
(あまり信用できる人じゃなかったのか)
 まずい。このままではまずい。僕だけじゃない。涼子まで、危ない。逆魔法。逆魔法で……何か、しないと。
 何をされたのか。急に、意識が、遠のいていく。
 消え去らないうちに、なんとか、しないと。
「シガン。別に、お前という人格が必要なわけではないのだよ。必要なのはお前の力だけだ」
 くぅぅ、と呻く。
 はやく、はやく……。
 眠っている涼子に視線を送る。手を、伸ばす。
 催眠の効果よ、消、え……ろ。
 涼子が目覚めるように念じ、それとほぼ同時に僕は、意識を失った。
 
 
 意識を失ったというのは、間違いだった。
 いや、失っていたという実感がなかっただけで実際は失っていたのかもしれない。
 でも、それも違う気がする。
「ここ、どこだろう」
 僕は見覚えのある所に立っていた。何があったのだろう。
 記憶を掘り起こそうと唸ってみる。周りでは、同じ服装の同年代の人間達が、目の前の建物から次々と出てくる。談笑していたり、やけにブルーな表情だったり、走っていたり。その姿はさまざまだ。
「ああ。そうか、学校か」
 手をポンと叩き納得する。腕時計を見ると既に放課後の時間。僕は、今、何をしているんだろう。生徒らの波が校庭の外へ流れる様子を見ながら、思い出してみる。
 夏休みが始まる頃、魔法使いの組織に襲われて。休みが始まってすぐ、温泉旅行へ行った先で、僕は、僕らは……。
「そうだ。僕らは、ワイズマンに、勝ったんだ……っけ」
「おい、待たせたな」
 気が付くと、敬一が目の前にいた。
「ああ、敬一。こんばんは」
「まだその挨拶には早いだろ」
「あれ? 夜だったような気がするんだけど……」
「嫌味か? 徹夜になったのは謝ってるだろ」
「あ、いや。そういうつもりじゃないよ」
「涼子はまだ来てないのか?」
「ああ、うん」
 敬一は校舎へ顔を向けて腕を組んだ。
 思い出してみると、確かに、昨日は寝てない。敬一と涼子の宿題を手伝って、結局、今年も始業式前日は徹夜になってしまった。そんな記憶はある。
「ごめん。待った?」
 少し待っていると涼子が現れた。どこか眠そうである。
「ん、いや大して待ってはないよ」
「そう。じゃあ、行こ」
 僕の手を引いて歩き出す涼子。引かれるまま、少しよろけつつ歩いていく。
「どこ行くの?」
「遊びに繰り出すんだろ。本気で寝ぼけてるのか?」
 ポケットに手を突っ込んで、僕と涼子の隣を敬一が歩く。
「ああ、そういえば、そうだった気もするね」
「お前なんかさっきから変だな」
 僕は足を止める。それに気付き涼子も足を止めた。敬一も一歩遅れて歩みを止める。
「そうなんだ。なんか、変なんだ」
 僕はさっきから感じている妙な感覚を打ち明けることにした。
「何て言うのかな。僕、ついさっきまでワイズマンと話をしていたような気がするんだ」
「……え? どういうこと、政樹?」
 よく分からないといった顔で涼子が聞き返してくる。敬一も腕を組んで似たような表情を見せた。
「ちゃんと、旅行の後の記憶も、あるのに。なんていうか、感覚的に、僕はまだ、ワイズマンと話をしていた時からあまり時間が経ってないような気がするんだ」
「あの戦いが、まるで昨日の事のように……。ってやつか?」
 敬一が気楽そうに言う。僕は即座に、違う、と首を振って否定の言葉を口にした。
「違うんだ。言葉では何て言えばいいのか分からないけど、とにかく違うんだ」
「よく分かんねえな……」
 敬一は首を傾げる。
「ん〜、よく分かんないけど。政樹、それってそんなに気にすること?」
「え?」
 頬に手をやり、涼子は僅かに笑みを見せた。
「ワイズマンはもうやっつけたんだよ。私たちの日常が壊されるなんてことは、もう、絶対に、有り得ないんだから……」
 言われて、なにか、ひどい違和感を感じた。
「だから、ね。そんなに気にすることじゃないの。あんまり振り返らないようにしようよ」
 涼子は笑っている。敬一も微笑している。やっぱり、どこかおかしい気がする。
「ワイズマンは、誰が倒したんだっけ……?」
「政樹だよ。説得できなかったから、逆魔法で改心させたじゃない」
 涼子の表情は変わらない。
「ああ、そうだった……か。うん、確かに覚えがある」
 最良とは言えないけれど、あの状況ではそれしかなかった。
「逆魔法で邪心を取り除いたんだったよね……」
 でも、それでも腑に落ちない。僕の今の、状況が。
 あったはずの危機感も、戦いの恐怖も、逆魔法という手段を使うしかなかった悲しみも、日常を守りきった嬉しさも。
 その時その時の映像は脳裏に浮かぶというのに、その時の感情は何一つ思い出せない。
 これが違和感の正体か。
 まるで、自分が演じる映画を脳の中で上映しているような感覚。
 本当にこの記憶は、僕の体験したことなのだろうか。
 違う。
 僕の中の何かが言う。
「……ち、がう」
 右手をこめかみにあて軽く頭を左右に振りながら、頭に浮かんだ単語を口にする。
「こんなの、違う……」
「気にしない気にしない。結果オーライよ」
「そうそう。気にすんなよ、政樹。ワイズマンのことは少し残念だったが、お前は俺たちの日常を守り抜いたんだ。それで良しとしようぜ」
 涼子も敬一も気にするなと言う。
 違う。違う。違う。
 僕はそんなことを気にしているんじゃない。
「君たち……」
 本当に、涼子と敬一か……?
 背筋が震えるような嫌な感覚。疑ってしまった僕の嫌らしさより、半ば確信している事に寒気を感じた。
「そうだな。確かに、お前の思っている通りかもしれないな」
「敬一、違うよ。僕はワイズマンのことを気にしてるわけじゃ……」
「ああ、分かってるよ。さっきから心で叫んでるじゃないか」
 僕の言葉を遮った敬一の言葉の意味がよく分からず、えっ、と洩らした。敬一も涼子も、表情一つ変わっていない。それが、ひどく不気味だった。
「なに、言ってるの、敬一?」
「だからお前が思っている通り、俺や涼子は本物じゃないかもしれないってことだ」
 震えがきた。僕は一歩、二人から退いた。危険の気配は、ない。
「二人とも……。何だって言うんだ?」
 涼子が両手を後ろに回し、一歩僕に近づいた。顔を近づけ囁く。
「夢なの。幻覚みたいな感じの」
「夢? 幻覚?」
 地面を見下げ眉をひそめる。
(ああ、そうか。そうだったのか)
 暗闇の中に明かりが灯る。
 ようやく今のこの状況を理解する。これは夢。僕の記憶は、ワイズマンと会話した辺りまでが本物で、以降のものは偽物なのだ。そして、現実の僕は、今も夏休みにいる。
「気付くの、早かったね。政樹」
 涼子が少し残念そうに言う。僕の知っている涼子と、寸分違わない偽物。僕は、幻覚というものが消えてしまうよう、逆魔法で念じようとした。
 が、それと同時にひどい気配を感じ、逆魔法の発動を止めた。喪失感が溢れたかと思ったら、目尻から熱いものが零れた。
 これは、なんだ。なぜ、ここまで悲しくなるのか。
 こんなことは初めてだ。いや、これに似た気配を一度だけ感じたことがある。でも今回はそれとも種類が違う。唯一わかるのは、僕が今、逆魔法で幻覚を消し去って現実に戻ったら、今まで出会ったことのない程に悲しい出来事を体験することになるということだった。
「政樹、やめておけよ。お前はずっと夢の中で暮らした方が幸せだ」
 敬一が腕を組んで目を細めて言った。
「大丈夫。今気付いたことはすぐに忘れさせてあげるから。政樹はずっとここで私たちと日常を過ごせるんだよ」
 言って、涼子は僕にキスをした。よく知っている相手の唇。でも、それはやはり、受け入れることなど出来ない。
 すぐに僕は涼子を引き剥がした。
 もう一度、逆魔法を発動させるよう精神を集中させる。気配を感じる。分かってる。悲しいことが、あるのだろう。誰かを、失うことになるのだろう。
 迷いはある。ここでずっと、理想的な生活を過ごすのもいいと思う。僕が求めるもの全てがここにはあるだろう。
「政樹、待ってよ。なんで? どうして? なんでそうまでして、現実に戻ろうとするの?」
 必死に涼子が叫ぶ。まったく。幻覚だと分かっているのに、邪険に出来ない。無視は出来ず、僕は答える。
「ここにずっといたら、本物の涼子が、悲しむだろうから、さ」
 答えを口にして、さらに現実へ戻りたい気持ちが高まっていく。
 僕の持っている能力は予知じゃない。今、最も起こりうる確率の高い出来事の気配を感じてるだけ。変える気になれば、いくらでも変えられる……はず。
「僕は誰も悲しませたくないし、誰も失いたくない。だから現実には帰る。そして気配の元は……断つ」
 一言一言、自分の口から出ていく度に迷いが薄れていく。
 それとは逆に、気配は濃くなっていく。いつかのように、どうしようもなくて変えられないかもしれない。今ここで決断したことを後悔する日が来るかもしれない。
「本当に……、政樹、本当にそれでいいの? 絶対、悲しむよ。今までの日常が壊れてしまうよ。それでも、いいの?」
 不安につけ込むように涼子が問いかける。彼女を見ないよう、僕は目を瞑った。
「それでも――」
 それでも、いい。
 ここに残るような僕なら、それは本当の僕じゃない。
 まやかしの日常など必要ない。
「政樹……」
 涼子と敬一の声が同時に聞こえた。いや、正確には二人は涼子でも敬一でもない。幻覚の作り出した、よく似てる人たちだ。
「――いいんだ」
 目を開け、僕は逆魔法を発動させた。
 校庭をまばらに歩いていた生徒達がまず消えた。四方に見える風景も消える。空も消え、次に大地も消えた。
 最後に残った、目の前の二人。
 何故だか、二人が少しだけ嬉しそうに笑ったように見えた。
 自分以外が全て消え無の世界になった。そう思った時、眠っているような感覚に包まれる。
 もうすぐ目覚めると自覚している時間。新たなことが始まりそうな予感。悲しい気配。何か、とてつもなく大切なモノを失う気配。
 そんな中途半端な感覚の中、僕は少しだけシガンの気持ちが分かった気がした。
 スリルと冒険は望むものじゃないと言っていたあの人が、危険の中に身を置いていた理由。危険に飛び込んでいった理由。
 きっと、今の僕と同じだったんじゃないか……。
 彼と同じということが、ほんの少しだけ嬉しく、大いに嫌だった。
 
 
 目覚めた時、真っ先に瞳に飛び込んできたのは涼子の顔だった。
「政樹! 良かった。目が覚めたんだ」
 どこかのベンチの上で膝枕されていたらしい。僕は身体を起こして辺りを見渡す。今日、縁日が行われた神社の境内だった。すでに遅いらしく、露店などは片付けられ、人影はない。月は綺麗だ。
「涼子も、無事だったんだ……」
 夢を見る直前の出来事を思い出し、安心する。風が吹いて涼子の髪がわずかになびいた。
 あの悲しい気配は、今はまだ感じられない。夢の中という、殆ど精神だけで構成されている世界だから感じられたのかもしれない。
 出来れば僕の能力の誤作動だったと思いたいが、残念ながら今までそういうことは一度もない。
「政樹……。本当に良かった」
「ああ、うん。今の状況が知りたいんだけど」
 訊くと、涼子は答えてくれた。僕が見ていた夢はワイズマンが魔法と魔術で作り出したもので、人格を夢の中に封印し、司令塔を無くした肉体を操るというものだったらしい。その間は、魔法すら、外部の命令で発動させることが出来るようになる。
 ただ今回は、涼子が僕を連れて逃げてくれたお陰で、操られることだけは避けられたらしい。夢の中で夢に気付けたのも、逆魔法を使えたのもそのお陰だろう。
「っていっても政樹のお陰だよ。私の意識、戻してくれたでしょ?」
「うん、まあ」
 僕は立ち上がって、もう一度辺りを見渡す。
「敬一は?」
 涼子も立ち上がる。やや緩んでいた顔も引き締まって、真剣な表情で答える。
「私たちが逃げられたのは、敬一のお陰なの。あのとき丁度、敬一が来てくれたから……」
「じゃあ、敬一は?」
 不安になって訊いた。まさか、あの気配の正体は、敬一の……。
「ワイズマンの足止めをしてくれてる。私も心配だから、今から戻ろうと思うんだけど」
「分かった。僕も、行くよ」
 歩いていこうとすると、涼子は僕を止めた。
「ダメよ。気配が読めるだけじゃ。戦いなんだよ? 政樹じゃ、悪いけど足手まといになっちゃう、だろうし」
 言われて一瞬、意気が削がれるが、僕は大丈夫だと言った。それにやや送れて、僕は頭を下げた。
「ごめん。黙ってたけど僕、最近、逆魔法が使えるようになったんだ」
 瞬間、涼子は固まった。そして凄い勢いで僕の両肩を掴む。
「じ、じゃあ政樹が本当にシガンだったの!?」
 勢いに気押されながらも、こくんと頷く。
「だって、儀式してないって言ったじゃない」
「ごめん。でも、どんなものが儀式か分からなかったからさ。イリアに詳しく訊いたら、僕、継承の儀式やってたみたいなんだ」
「いつ? いつ覚醒したの? なんで黙ってたのよー!」
 涼子に身体を揺さぶられ、頭が前後にかくんかくん揺れる。
 とりあえず揺さぶるのを止めてもらう。
「つい最近。旅館に来てからだよ。初めてはいつだがよく分からないけど、先代のシガンが夢枕に立って教えてくれたんだ」
「そう。そうなの」
 涼子はある程度は落ち着いた様子で軽く頷く。
「教えなかったのは、っていうか、話す機会が無かったんだ。ごめん。すぐ言っておくべきだった」
 僕はもう一度頭を下げた。
「うん。……分かった。じゃあ一緒に来て。ある程度は、使えるんだよね?」
「さっきのワイズマンの夢を消したのも、逆魔法だよ。他にも色々、ある程度と言えるくらいは何が出来るか把握してる」
 涼子は頷くと、じゃあ急ぎましょう、と言った。
 二人で石段まで走る。敬一の身が心配だというのは二人共通だが、僕はあの気配を感じていたため、ひどく不安だった。本当に、敬一が死んでしまうような気がして怖かった。
 石段を下りようと一歩踏み出す。危険の気配。とっさにバックステップを踏んだ。
 瞬間、石段の一部が弾け、破片が飛んだ。砂埃が煙のように辺りを漂う。
 涼子も僕と同じように躱していた。
「涼子、これは……」
「組織の襲撃、ね」
 境内の中央付近にまで警戒しながら移動すると、四方八方からコートを着込んだ人達がぞろぞろと現れた。
 危険の気配をビシビシ感じる。けど、気配の強さは過去三回襲ってきたコートの男の放つモノよりずっと弱かった。最低でも、生き残ることは出来る。
 しかし、敬一が心配だというのに、こんなことになるなんて。
 焦りが憤りに変わっていく。不安が鼓動を速める。
 気配の臨界まで時間があるようだったので落ち着いて、見える範囲の相手の数を数えてみる。十一人。
 説得……は、出来ないだろう。不本意だが、一気にケリを付けて敬一の援護に行かなければならない。
 涼子と僕。お互いに背中を合わせて、いつでも動けるように構える。少し首を回して背後の涼子に話しかける。
「敬一、なんか言ってた?」
「大丈夫、俺に任せておけ。って言ってた」
「そう。それなら……きっと大丈夫だ」
 なんとかして不安を打ち消そうと口にする。実際、彼が大丈夫だと言う時は大抵は大丈夫なのだ。気休めにしかならないことだ、が。
「本当に、大丈夫なの?」
「敬一はね、あれで意外と弱虫なんだ。色んなことを怖がったりしてる――」
 それのどこが大丈夫なの。と聞き返される前に言葉を繋げる。
「――けどね、意地っ張りでもあるんだ。いつも強がって、強い振りして。でも、それで本当に強くなって、何でも克服していく……。
 本当に頼りになるんだ、敬一は」
 僕は思う。強くなろうとして本当に強くなれる。彼の持つそういう力こそ、魔法と呼ぶに相応しいのではないかと。超能力的なモノを操れる人ではなく、彼のような人間こそ、魔法使いなんじゃないか、と。
 僕の言葉を聞いてか、涼子は少し笑ったようだった。
「なんだか、少し妬けちゃうな」
 呟きが聞こえた瞬間、危険の気配がぐっと濃くなる。涼子もそれが分かったのか、声の調子が少し変わる。
「なんとか、やれそう?」
「そんなに怖い気配は感じないよ」
 刹那、ついに気配が臨界に達する。僕と涼子はほぼ同時にその場から飛び出していた。背後で爆発音が響き、身体に少しなにかの破片が当たった。大した痛みはない。
 前方に三人。腕を僕に向け構えている。遅いじゃないか。あのコートの男なら、もうとっくに魔法を放っている。
 気配を感じ、左に踏み切る。閃光が三本、右をすり抜ける。三人のうち、中心の人物に向かって突進する。次の攻撃が来る前にタックルを食らわした。同時に、逆魔法を発動させ意識を奪う。勢い余って相手と共に前に倒れてしまう。
 また気配。魔法じゃない。おそらく踏みつけられる。普通に起きあがっては間に合わないと判断し、逆魔法のターゲットを二人の足にセットし、足の持つ能力の一つ『踏む』を消し去る。二人の足が頭と背に触れた。痛くもかゆくもない。すぐ二人の足を掴み、意識が消えるよう念じる。二人はそのまま卒倒した。
 別の気配が濃くなる。起き上がり、辺りをざっと見渡す。左側、コートの巨漢が岩を浮かせている。そう認識した次の瞬間には僕の方へ向かって岩が飛んできた。避けられない。
 とっさに左手を突き出す。運動エネルギー、消えろ。岩は目の前で慣性もなく止まり地に落ちた。すぐ別のモノ――重さを消し去り持ち上げ、巨漢の方へ投げ飛ばす。命中する瞬間、逆魔法を解除する。直撃し、見事に巨漢はのびた。
 はあ、とため息を吐く。危険の気配が感じられなくなった。不思議に思って周りを見渡すと、こちらに向かって涼子が駆け寄ってきた。少し息が上がっているようだったが、傷らしきものは見当たらない。
「大丈夫、政樹?」
「ああ、うん。僕は大丈夫だけど、他の組織の人達は?」
 境内を見渡してみる。僕が倒した四人以外にも、倒れている人がちらほら。数えてみると、十一人より二、三人多かった。
 無傷の涼子。その様子から、いつか敬一から聞いた話を思い出す。
「そっか。涼子、強いんだったよね」
「そういう言い方ってないんじゃない?」
 不満そうに口を尖らせる。理由がよく分からず、なんで? と訊いてみた。
「私、これでもか弱い女の子なんですからね」
 その言い方に、つい笑いがこぼれる。
「なによ?」
「なんでもないよ。分かった。君はか弱い女の子」
「じゃあ私のこと守ってくれる?」
「OK。君のことは僕が守るよ、お姫様」
「うん。よろしく、王子様」
「約束するよ」
 さて、と石段の方へ向かう。敬一は、まだ無事、だろうか。
 お互いふざけるのはこれ以上よして急いで石段を駆け下りる。ワイズマンがいると思われる方向へ走り出そうとすると、目の前から誰かが走ってきた。
「お前ら、無事か!?」
「敬一?」
 現れたのは敬一だった。肩で息はしているが大した傷は見当たらない。無事が分かって安心する。
 でも、敬一が無事だったなら、僕は何を、誰を失うことになるというのだろうか。ほんの一瞬だけ考えたが、脳裏にきらめいた答えが、僕にとってあまりにも恐ろしいものだったので、その思考は無かったことにした。
 嫌な思考を封じて現実に帰ってくると、丁度、涼子がやや慌てた様子で敬一に疑問を投げかけるところだった。
「敬一、ワイズマンはどうしたの?」
「ああ。イリアが来てくれた。戦ってはいないだろうが時間は稼いでくれるだろう。それよりお前ら、まだ襲撃はされてないのか?」
「襲撃なら、さっきあったよ。なんとか切り抜けたけど」
 言うと、敬一は安心したように肩を落とした。
「そうか、良かった。いや、イリアがな。お前らが襲撃されるから急いで助けに行けって言うもんだからよ。心配したぜ」
「そう、そうなんだ。じゃあ、結局、イリアは……」
 敬一は頷く。
「こちら側につくとまで行かないだろうが、ワイズマンのやり方に疑問は持つようになったらしいな」
「どういうこと?」
 涼子だけ、よく把握できてないようだった。
 敬一が簡単に、イリアを説得したということを説明し始めた。理由も一応、伝える。同時に、僕らの方も何があったかを敬一に伝えておく。
 その間、僕らは場所を移動する。組織の人達が目覚めても困るし、ワイズマンから少しでも離れておきたかった。
 その途中。僕は気になっていたことを思い出す。
 互いに話すことを話し、それぞれがそれぞれに対し意見を言い終えた辺りで切り出す。神社からも街からも旅館からも離れた、あまり見覚えのない道に来ていた。
「涼子、訊いてもいい?」
「うん。なに?」
「さっきはどうして、ワイズマンを追いかけて行っちゃったの? 涼子は組織に対しては慎重だと思ってたけど……」
「あ、そのこと……」
 涼子は足を止めた。それに合わせて僕も敬一も足を止める。道端で僕らは三角形の頂点になった。涼子は俯いていた。
 そよ風が涼子の髪を揺らす。満天の星。明るい月。静かな――組織やワイズマンが僕らを狙ってきていることなど忘れてしまいそうなくらい静かな、本当に静かな夜だった。
 やがて静寂は破られる。月明かりのあるこの場所に、陰りのある空気が浸透していくようだった。
「私、ワイズマンを殺すつもりだったの――」
 あまり大きな声では無かったはずなのに、涼子の声はやけに大きく耳に響いた。
 驚きで声を失う。彼女がワイズマンを殺す……。言われてみれば、驚くことでもなかったかもしれない。彼女は過去に組織に酷い目に遭わされたと言っていた。殺意を持っていても、不思議なことなんてない。だけど、涼子が殺人という行為に踏み切ったことが、ひどく悲しかった。ワイズマンがいなくなっていれば良かったかもしれないけど、未遂に終わったことが嬉しかった。
「――ごめんね。私、政樹に嘘ついた」
 涼子は目を細め、僕に申し訳なさそうな視線を送った。そんな目しないでよ、と声を掛け肩を叩いてあげたかった。けど、何故だかそれははばかれた。
「組織のこと、なにも考えてないって言ったけど、私、本当は旅行に来る前からずっと、ワイズマンを殺す気だったの。ワイズマンは、政樹がいるところにいつか絶対に現れると思ったから、政樹から離れるわけにはいかなかったの」
 でも、と僕は口を開いた。出来るだけ明るい声を出す。
「涼子さ、結構楽しんでたよね。ワイズマンを殺す目的だけで一緒に来たわけじゃないよね」
「それは、そう。私、政樹のこと好きだし。温泉にだって入りたかったし。いろいろ、チャンスだと思ったし……」
 また俯いて涼子は言う。
「せめてこの旅行中は、ワイズマンに会いたくなかったな……」
「そうだね……」
 敬一も黙ったまま小さく二度頷く。重苦しい空気があたりに漂い始めた。本当に、涼子の言う通り、せめてこの旅行中くらいは、何事もなく平穏に過ごしたかった。
「私がワイズマンを殺せば、組織のことはなんとかなるだろうと思ったし、二人も今まで通り普通に暮らせるんじゃないかって……」
 涼子は目を閉じた。泣いてはいないが、そこには悲哀の感情が見え隠れしている。
「いや。その予想は正しくないな、涼子」
 敬一が口を開く。涼子は目を開けた。
「今までずっと魔法使いだった政樹はともかく、俺は今まで通り普通に暮らせるかは分からない。お前は今まで平気だったから、俺も平気かもしれないが、あんまり、自信は無いんだ」
 言ってやや下を向いて視線を左に逸らした。敬一も、色々と悩んでいたのだろうか。きっとそうだろう。僕のような目立たない能力じゃない。イリアの言っていた、近くの人から迫害を受ける可能性は、僕なんかよりずっと高いはずなのだ。
「そう。そうだね。今のはきっと建前。本当は私怨。私は、仇を討ちたかったの」
「仇? 一体誰の……」
 涼子はゆっくりと顔を上げる。
「言わなくちゃならなくなっちゃった、な……」
 自嘲気味に言葉を紡ぎ、一呼吸おいて涼子は続けた。
「ワイズマンは、もう一人の私の仇なの」
 僕は、彼女がなにを言っているのか、よく理解できなかった。
 
 




戻る次へ


SUMMER OF MAGICIANS

作品インデックスへ

TOP