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≪SUMMER OF MAGICIANS≫




 
伍 星現懐古
 
 
 
「……いいんだぜ。言いたくないことなら、黙ってても。言ってることはよく分からないが、今ならまだ、話さなくても済む」
 敬一は言った。僕も言おうとした言葉だ。それだけ、涼子は辛そうに見えた。しかし涼子は、うぅん、と首を横に振る。
「いいの。話す。話させて」
 決意したような涼子に、もう確認の言葉をかける必要は無いように思えた。頷き、僕と敬一は黙って彼女が話すのを待つ。
 涼子はゆっくりと静かに言葉を紡いでいく。
「政樹が転校してくる少し前だったかな。中学一年の夏休みが始まってすぐ、私の家族はヨーロッパに旅行に行ったの。その時……。その時、私ね。組織にさらわれちゃったの。たまたま……本当にたまたま、一人でバスに乗った時に」
 もちろん、そのバスは最近僕らの街で襲われたバスと同様に、魔法の素養のある人間を探すために襲われた。素養のある人間は組織への参入を求められる。そして、それ以外の者は、魔法や魔術の実験体に使われる。そのほとんどは死ぬ。組織の目的から考えれば、一石二鳥と言える行為でもあるのだろう。
 涼子がさらわれた時は、魔法の素養がある人間はいなかったそうだ。涼子も、含めて。
「じゃあ、涼子。君は一体どうなったのっ? 無事だったというのは、見れば分かるけど……」
 すると涼子は首を横に振った。
「私は死んだよ。正確には……死んだのは私じゃないけど、三上涼子は一度、あの時、死んだの」
 やっぱり、僕にはいまいちよく分からない。一度死んだなら今生きているわけがない。なにかの比喩なのだろうか。
 敬一も、何かを考えているような顔をして黙ってる。
 すると涼子は突然、魔法についての話をし始めた。多少面食らながらも、僕らはそれを聞く。
 生物も含めた物質の全ては、それが生まれた時、作られた時に精神面に様々なモノを持つ。刃物の『斬る』という能力や、足の『歩く』という能力という感じに。生命や心、それらは総じて魂と言い換えることも出来るが、それも同じように産まれたとき精神面に生まれる。転生という形で外部から付加されるときもある。
 正魔法は、物に様々なモノを付加することが出来るが、魂でさえも、生物の身体に付加することが出来る。作り出された魂は、その魔法を使った者の性質に似るらしい。生命を維持する器官が正常な状態で揃っている身体になら、死体にでも魂を吹き込むことが出来る。
 そういうことを、涼子は言った。それが何を意味しているのか、僕にはすぐ理解することは出来なかった。
「涼子。何を、言っているの……?」
 彼女が今、話しているのだから、四年前に涼子に起きた出来事に関連性があるのは間違いのだろう。しかし、やはりよく分からない。
 魔法で死体に魂を吹き込めるからって、それが一体なんだと――なんだと、言うん、だ……?
 しかし、すぐに思考は働き、一つの回路の欠片を形成した。それにともない、意味の欠片も見えた。
 さらに思考すると回路は段々とその輪郭を見せてくる。そしてついに、出来上がった回路にスイッチを入れたように電気が流れ、一つの情報が生成された。
(……なんだって!?)
 まさか。そうなのか。でも……。
 敬一もその事に気付いた様子だった。
「涼子、お前……。お前、まさかその魔法の実験体にされたのか?」
 涼子は静かに頷いた。
「私――いえ、最初の三上涼子は殺されて、ワイズマンが新しい生命をこの身体に吹き込んだの」
 胸に手を当て、涼子は続ける。
「記憶はあったわ。三上涼子が今まで生きてきた記憶は。でもワイズマンに吹き込まれた知識もあった。私が三上涼子と違う者だってことも……自覚してた。させられてたって言った方が正しいかな」
 涼子は僕らに背を向け二、三歩だけ歩き、視線を空に向けた。
「人の魂ってね、その人格を形成する核なの。同じ記憶や経験を持っていても、核が違えば人格は違くなる。性格だってそう。魔法が使えるかどうかも、魂に素養があるかどうかで決まるわ。ワイズマンから作られた私は、アイツの素養を受け継いでしまって、魔法使いになってしまった……」
 振り返って、涼子は僕を見据える。憂いのある顔だった。月夜を背景に、涼子は風に髪を遊ばせて僕の目の前に、いる。こんな時に彼女の姿が綺麗だと思うのは、不謹慎だろうか。
 最初の三上涼子とは別人だけど、彼女は三上涼子。だから、家族の所には戻りたかった。必死で逃げてきて、なんとか家族の元へ帰ることは出来たらしい。
 けど、そこからが彼女の苦悩の始まりだった。
「両親は、私が別人だなんて、分からないだろうけど、普通に娘として私を愛してくれるのが、凄く申し訳なくて……。騙してるような気がしてても、前の涼子の真似をしながら過ごしてた」
 彼女の話を聞きながら、僕は彼女と会った当時のことを思い出していた。僕にだけ見せていた明るい涼子と、僕以外に見せていた静かな涼子。僕のよく知っている姿が本当の彼女で、僕以外に見せていた姿は、今の涼子になる前の彼女を演じていたということなのか。
 僕だけが涼子の過去を知らなかったから、彼女は僕の前でだけ本当の自分でいられたのだろう。思えば、涼子が休まれるのは、一人の時と僕の前でだけだったのかもしれない。
「真似をして過ごしてた?」
 敬一が眉をひそめ顎に手を当てた。そういえば、彼が涼子と会う頃にはもう涼子は、誰に対しても本当の彼女だった。
「君は知らなかったね。そういう事なんだよ」
「そうだったのか。知らなかったな……」
 呟いて、また敬一は押し黙った。
「けどね――」
 一度視線を下に落とした後、涼子はまた僕を見据えた。
「――政樹が、教えてくれたの。それで私は、本当の自分で毎日を過ごしていこうって、思ったの。政樹の言う、日常が、本当に楽しそうで、絶対そういう風に生きて行こうって思ったのに……。組織の事なんか忘れて、もう一人の私のためにも、せめて私が、精一杯生きて行かなくちゃって思えるようになったのに……」
 だんだんと声は震え小さくなっていく。泣きながら話しているような……いや、彼女は泣いている。涙は姿を現してはいないが、涙を流すことだけが泣くということではない。僕を捉えて放さない涼子の瞳には涙の代わりに哀しみが満ちている。
 なんと声を掛ければいいのか分からない。なんとかして伝えたい想いはあるのに、言葉が浮かばない。けど、それを伝える手段は思いついた。ただ無言で、その思いつきを実行する。
 一歩二歩と近づき、僕は、涼子を優しく抱きしめた。
 言葉なんてものは、互いの意思を伝達するために生まれたもの。それ無しで気持ちを伝えることが出来るなら、言葉はいらない。
 そして涼子は、やっと声に出して泣いた。僕の胸の中で、泣き声で、何度もつっかえながらも必死に訴える。
「死ぬ時の記憶が、何度も夢に出てくるのっ。アイツに消されるもう一人の私の声がっ。忘れられない! 私は政樹と、敬一と、みんなと、普通に暮らしたいのに! 組織はまた私のところに来て! 今度は政樹を奪おうとして!」
 ワイズマンを殺そう。
 その気持ち、ようやく理解できた気がする。涼子も、僕と同じモノを求め、守っていきたいと切望していたんだ。
 一気にたがの外れた涼子は、僕の胸の中で泣き続けた。僕もされるがままにして、彼女を抱き続ける。
 ひどく悲しい。
 夢の中で感じた気配が、今頃になって再び僕の感覚を支配した。涼子の温もりを胸に抱いている今、それが何の気配なのか、僕にはようやく確信が持てた。
 失うであろうモノは、この温もり。この胸で泣く、最愛の人。
 それ以外のモノを失うくらいで、ここまで悲しい気配を感じるなど有り得ることではない。
 愛しい気持ちと、気配が運んできた悲しい気持ちが一緒になって僕の涼子を抱く腕に力を入れさせる。夢中で涼子の体温を、心を、全てを感じようとした。
(君のことは僕が守るよ、お姫様)
 強かったんだろう、涼子は。強すぎたのだろう。
 だから、いつも快活で感じの良い女の子でいられた。いてしまった。傷口を見せずにずっといたのに、露呈した瞬間、涙が溢れてしまった。もっと彼女が弱かったなら、僕はもっと早く力になってやれたかもしれない。いつまでも涙を耐えさせは……しなかった。
 ひとしきり泣いた後、涼子は自ら僕の身体から離れた。泣きはらして赤くなった目をこすり、すっきりしたような、恥ずかしいような笑みを浮かべた。
「ごめん。泣いてる暇なんて、なかったのにね……」
「いいよ、これくらい」
 少し照れて敬一の方を見やると、彼は僕らからは視線を逸らし、星空を眺めていた。つられて僕と涼子も空を見上げる。
 幾億幾万の星。素直に、綺麗だと言える。この光のいずれかの中には、僕らのような生命体もいるだろうか。いるとしたら、そこにもやはり日常があるのだろう。もしかしたらこの光一つ一つに人生にも似た物語があるかもしれない。
 ワイズマンが、何を望んでいるのかは分からない。本当に魔法使いの平穏を求めているのか、それとも個人的な何かなのか。
 よくは分からないけど、今感じている、この悲しい気配が知らせる出来事を、絶対に実現させはしない。
 僕は、涼子を守る。彼女に日常を贈る。
 そのために今、何をすべきか。その答えはもう出た。
「決めたよ、涼子。僕が組織とどう折り合いつけるか――」
 いつかクラスでイジメにも似たことが起きた時、僕がその首謀者の一人を嫌と言うほど叩きのめしたことがある。準魔法を使った僕には普通の相手は敵わない。彼らは結局、イジメは止めたけれどひどく後味が悪かった。
 きっと今回はそれの比ではないだろう。だけど、それすらも軽く感じてしまえるほど僕には守りたい大切な物がある。
「――僕は、ワイズマンを倒す。組織は潰せないまでも、二度と君に、近付けさせはしない」
 涼子は目を見開いた。敬一は目を瞑り、訊く。
「本気か?」
「冗談でこんなことは言わないよ」
「そうだろうな。分かってる。確認しただけだ」
 僕は二人に背を向け、来た道を戻ろうとする。すると隣に敬一が追いついてきた。見やると、口の端を緩ませ敬礼の様な角度と高さに右手を上げた。
「僕一人でいいよ」
「まあ、そう言うな。付き合わせろよ」
「ち、ちょっと二人とも!」
 涼子の声が背中を叩いた。すぐ駆けてくる音がして、涼子は僕らの目の前まで来た。
「涼子、君は待ってて。僕が――僕らが何とかするから」
「政樹……」
 涼子は首をふるふると振った。
「分かってるでしょ? 相手は組織のトップだよ? ワイズマンって称号は伊達じゃなくて、誰よりも凄い正魔法使いだって事なんだよ。さっきだって危なかったのに、また行くって言うの!?」
 頷き、それ以外の事はせず、涼子の隣をすれ違う。
「……分かった。じゃあ私も行く」
「涼子?」
 振り返り、涼子と視線を交える。
「政樹と敬一じゃ、不安……だから」
 どこか不安げな表情を見せながら、涼子は笑った。本当に僕らが頼りないのか、それともまだワイズマンを殺す気なのか。
「涼子。お前、まだワイズマンを殺す気か?」
 敬一が訊く。涼子は頷く。笑顔は消えた。
「そうだな。あいつを殺さない限り今の状況は打破できんだろうし、逆に殺ってしまえば組織の方が俺たちを恐れて近付かなくなるかもしれない……」
「ちょっと待って」
 殺る気まんまんの二人に制止の声を入れる。二人は、ほぼ同時に僕の方へ視線を集中させた。
「なにも、殺すことはないと思う。そりゃ、もう酷いことはさせないようにしなくちゃいけないけど、殺して改心のチャンスまで奪うのは、まだダメだよ」
 すると、敬一は少し怒ったように目を鋭くした。
「政樹。お前は……あいつが憎くはないのか?」
「え……」
「俺は憎い。俺だけならまだしも、聖美まで巻き込みやがった。お前や涼子にも手を出した。その上に大量虐殺まで考えてるって言うじゃねえか……。俺一人がムショに入るだけで全部守れるなら、安いくらいだぜ」
 グググと拳を握り締める。敬一の覚悟が、ありありと伝わってくる。僕は、その思いに気押されて、一瞬、言葉が詰まった。
 息を飲み、やっと口を開く。
「そりゃ、僕だって憎いさ――」
 シガンだって、思えば彼のせいで死んだようなものだ。イリアみたいな子を組織の悪事に利用もしてる。最初の三上涼子を殺したのもワイズマンだし、涼子の日常を脅かすのもそうだ。今感じている、この悲しい気配が知らせる出来事も、ワイズマンが関与しているに違いない。涼子を、失うわけにはいかない。
 殺してやりたいくらいなのは、僕だって一緒だ。自ら平穏を崩し、争いを選ぶことだって恐くはない。
「――けど、ダメだ。一人でも悲しむ人がいる以上、その人を殺してはいけない……」
 鋭かった目が瞑られる。
「イリアの事か……」
「そうさ。彼女はワイズマンを信じてるって言ってた。多分、そういう子はまだまだいると思う。そういう人達を……悲しませるような行為は出来ない」
 イリアは、確かに敬一の説得でワイズマンのやり方に疑問を持つようになったようだけど、彼を慕っているのには違いないはずだ。
 敬一は黙って、悔しそうに右拳を左掌に叩き付けた。その音が、やけに高く響いた。なんともなしに、涼子の方を見やる。
 涼子は僕らのやりとりを見詰めている。そのまま動かない。何も、言わないのだろうか。ワイズマンを殺そうとしていた彼女なら、なにかしら言うことがあるのではないかと、思っていた。
 けど、涼子はただこちらを見続けるだけで何も言わない。
「涼子?」
 どこか様子がおかしいと思って声を掛ける。瞬間、涼子は苦しそうに顔を歪め、右手で頭を抑える。それと同時に、足がふらつき倒れそうになる。
 慌てて抱きとめようとするが、涼子は自力でなんとか足を踏ん張り、僕の助けを拒んだ。
「涼子っ? どうしたの涼子?」
 肩に手をやり、慌てて聞く。涼子が僕の目を見た。顔と顔の間の幅が狭い。見つめられて少し困る。
「涼子? ねえ、どうしたの」
 敬一もすぐ後ろにまで来た。涼子の口が、わずかに動く。
「まさ、き。……ご、めん」
 消え去りそうな、蚊の鳴くような声で涼子は詫びの言葉を発した。
 あの悲しい気配が、濃く、濃くなっていく。
 気配に呼応するように涙が勝手に溢れてくる。視界が滲み、涼子の顔がまともに見れない。
 思い浮ぶワイズマンの存在。接近されている。かなり離れたと思っていたが、こんなにも早く位置を特定されてしまうなんて……。
 涼子の様子がおかしくなってしまったのは、おそらく、奴のせい。
 気配が急激に濃くなっているのも、きっと奴のせい。
 なんでいつも、いつもいつも僕の大切なモノを奪おうとするんだ。
 でも今は奴への恨み言はどうでもいい。そんな憎しみなどより、涼子を心配する気持ちの方が大きい。
「涼子? 何がごめんなんだ!? 大丈夫?」
 涼子の顔が急に接近したかと思うと、彼女の腕は僕の背中に回された。痛いくらい強く、きつく抱きしめられる。
「涼子……?」
 一瞬、悲しげに微笑んだかのように見えた。
 涼子は僕の身体から離れ、大きく目を見開いた。そして、糸が切れたように崩れ落ちていく。すんでのところで抱きとめた。
 意識を失ってしまっている。何が起こったのか、よく分からない。
 背後にいる敬一がチッと舌打ちをした。
「……来やがったぜ。ワイズマンだ」
 声にあわせて顔を上げた。闇に溶けていたその姿が徐々にその全形を現していく。ワイズマン。組織のボス。僕らの敵が確かな足取りで近付いてくる。
 涼子を道の端に寝かせ、ワイズマンの方へ向かい歩く。数歩進んだ所で互いに足を止める。ワイズマンと対峙し、出来る限りの敵意を込めて睨み付ける。
 敬一は移動してはいない。涼子の近くにいてくれている。感謝しつつ、僕は目の前の敵に集中させてもらう。
「涼子に何をした?」
 ワイズマンは無表情で肩を竦めた。
「邪魔者は消すに限るだろう。実験結果はもう充分に確認したしな」
「何をしたのか知らないけど、今すぐやめろ!」
 こうしている間にも気配はどんどん濃くなっていってる。動悸が激しくなっていく。焦燥。目の前の敵と背中の涼子。
「何をそんなに焦っているのかな、シガン?」
「うるさい! そんなことはどうでもいいだろう! やめろと言っているんだ。でないと――」
 拳を握り、精神を集中させる。戦う覚悟を決める。
「でないと、どうするのかね?」
「――でないと、痛い目を見ることになるぞ!」
 不敵にワイズマンは笑う。
「そんなことをしても意味はない。もう私の手から離れたからな」
「手から離れた? どういうことだ」
「もう私にもどうしようもないということだ。きっかけを作ったのは私だがね」
「貴様は……」
 襟首を掴み怒鳴りつける。
「貴様は! また殺すのか、涼子を!」
 嘲るような、憐れむような目で僕を見下すと、ワイズマンは僕の手を軽く払い、その憎らしい口を再び開けた。
「殺すというのは間違いだ。それに『また』というのもおかしい。実験はしたが殺した覚えはない。そして今回は、実験を終了し元に戻すだけのことだ」
 気配が、背中を押す。いま鏡を見たら、泣くのを必死で堪えるあまりにグシャグシャになった顔が見れるだろう。
 阻止しなければ。どうすればいいのかも、何も分からないけど、僕はなんとかしなければならない。
「何を言っているんだ。お前が一度三上涼子を殺し、その遺体に新しい魂を吹き込んだんだろ……。そのために涼子は自分が死ぬ記憶を持ってしまってる。苦しんでる!」
「なんと言われようとも私は殺してはいない。いや、待てよ……」
 平然と言い放ったかと思うと、何か思い付いたように顎に手を遣った。そして納得したように嫌な笑みを浮かべる。
「確かに自分が消えていく感覚は、死の感覚と誤認できるかもしれん。勘違いが起こるのも無理はなさそうだ」
「勘違い、だと?」
「私がした実験は、死んだ者の魂を別の者の身体に乗り移らせるというものだ。記憶や知識を植え付ける実験も兼ねたがね」
「な、んだって……」
「一つの身体に二つの魂だ。元々あった方が引っ込み、後から来た方が表に出る。主導権を奪われる時の感覚は死にも感じられるのだろう。そういう記憶を持たせてしまったことは、少々気の毒だったかな」
 肩を竦め鼻で笑う。
「まあ、実験も終わったことだから彼女の魂をあの身体に引き留めていた術を解除したのさ。もう私の手は離れた。私ではもう彼女が元通りになるのを止めることはできん」
 くっ、と呻く。また僕は、あの時のように、シガンが死んでしまった時のように、事前にその出来事を察知していても、回避させることが出来ないというのか。
「くそ……」
 涙が溢れそうになって顔を下げ目を瞑る。歯を食いしばって涙を堪える。
 どうすればいい。どうすればいい?
「だが、君になら今のあの娘を現世に引き留めることも出来る」
 目を見開きワイズマンを見据える。数滴、涙が零れた。
 声が詰まって何も言えずにいるとワイズマンは続けて発言した。
「逆魔法を使うがいい。彼女の身体に元々いた魂を消し去ってしまえば済むだ」
 僕はそれを聞くと、急いで涼子の元へ走った。横たわる涼子のすぐ側でしゃがみ込む。
「政樹……。やる、のか?」
「……!」
 ワイズマンの方を見据え警戒している敬一に訊かれ、僕は、いま自分がしようとしていることの意味に気付いた。
 目の前に横たわる、僕と同年代の女の子。大きな岐路にある。外見や記憶、持っている知識は全く変わらなくとも、いま僕が下す判断一つで別の人間になってしまう。
 何もしなければ、彼女は僕の知らない涼子になる。
 僕が逆魔法を使い、最初の涼子の魂を消してしまえば、僕のよく知る大切な人物はこの場に残る。
 でも、それは殺人行為ではないか。大切な人を守るためとはいえ、こんなことが許されていいのか。四年も暗闇に押し込められ、ようやく表へ出るチャンスを得た彼女の生命を奪うようなことをしてもいいのか。
 迷い。そして、臨界限界にまで濃くなったあの気配。
 焦燥。そして、下せない決断。
 二者択一。
 こんな瀬戸際に立たされるなんて思いもしなかった。
 ちょっと前までは楽しい夏休みをどう過ごすかとか、涼子に対する僕の気持ちに整理をつけるとか、そんなことを考えていて。組織が現れてからも、危険は感じてはいたけど、涼子や敬一と一緒になんとか楽しくやってた。
 やっぱり、涼子は僕にとって必要な人なのだと思う。
 それが、僕の判断一つで消えてしまう。
 なら、迷ってはいけない。
 僕は会ったことのない人のために大切な人を犠牲にすることは出来ない。それがどんなに重い十字架だろうと、どこまでだって持って行ってやる。
 気配が臨界に達する直前。僕は決断した。
 逆魔法を使う。最初の三上涼子には、消えてもらう。
 震える手を伸ばし、涼子の頬に触れる。
 虚ろに、涼子は目を開けた。
「まさき……」
「涼子、聞こえていたね? 大丈夫。すぐに、終わるよ」
 念じようとした時、涼子は僕の手を取った。
「ごめんね――」
 涼子の瞳から涙が転がるように落ちていく。
「――でも、本物の私に身体を返せるなら、返してあげなくちゃ」
「そんなこと……ないよ。僕は……僕にとっては、君以外に本物なんて――」
 涼子は力無く首を振る。
「いいの」
 わずかに笑みを見せる。その笑顔が儚げで、今にも消えてしまいそうで、僕は、涙で滲ませてその笑顔の終わりを見ないようにした。
「それよりさ、まさき。手、握っててよ。まさきに手を握られての最期なら、私、最高だと思うんだ……」
「……っ」
 声も出せず、僕は両手で涼子の手を取った。
 そして、感じていた気配はついに臨界を突破した。彼女の最期が笑顔だったかは分からない。視界は目を開けていても何も見えないような状況で、彼女の顔もろくに見れなかった。
 僕の目の前で意識を失ったままいるのは、僕のよく知る涼子と全く同じ記憶を持った別人。
 僕は、守れなかった。大切な人を守れなかった。
 約束も果たせなかった。
 ほんの小一時間前に約束した、僕が彼女を守るという約束。
 冗談のような会話の、何気ない言葉であったけれど、僕はそんな小さな約束すら守れなかった。
 とめどなく涙が流れる。滝を連想させる。上手く呼吸が出来ず、何度も喉で引っ掛かる。壊れたレコードを連想させる。
 いっそ気でも触れてしまえればどんなに楽だろう。こんな悲しい思いなどすることもないだろう。
 でも残念ながら、僕は正常だった。正常に涙を流し、正常に嗚咽を洩らし、一番大切な人を失ったことを正常に悲しんだ。
 その正常が、ひどく恨めしかった。
 あの夢の中にずっといた方がマシだったろうか。少なくとも、こんな正常な現実などなかっただろう。
 あの時言われた通り、夢の中にいた方が幸せだったかもしれない。
 けど、後悔などするものか、と思う。
 本当の自分で過ごさない毎日は日常とは言えない日々なのだから。僕が涼子に言い、彼女がその日常を望んだのだから。
 初めて公園で出会った日も、二人で歩いたオレンジ色の街も、彼女の変化の日々も、様々な事のあった高校生活も、初めてのキスも。
 すべて、夢にはない現実の中にあったものなのだから。
「お別れは、済んだかい?」
 頭上からワイズマンの声が聞こえた。僕は右腕で涙を拭い、立ち上がった。すぐ側では、目を瞑った敬一が辛そうな表情で震えている。
 三上涼子は、横になったまま依然、目を覚まさない。けど、そのうち目覚めるだろう。今まで僕らと接してきた者とは別の三上涼子が。
 ひとまずそのままにし、ワイズマンに視線を叩き付ける。
「私を恨むかね?」
「……」
 答えずにいると、代わりに敬一が言った。
「恨むさ」
「当然、かな。まあ、い――」
「僕は恨みませんよ」
 ワイズマンの台詞を遮って、僕は自分でも不思議なくらい穏やかな声で言った。
「あなたがいなければ、彼女に会うことも出来なかった。今回のことも、本来の形に戻っただけ。きっと、そんなものなんです……」
 痛むくらい拳を握る。歯を食いしばる。
「でも、恨まないのはそこまでです。涼子の生命を弄んだこと。僕の友達を危機にさらすこと。人類を淘汰すること。イリアを利用したこと。沢山の人の生命を奪ったこと。シガンの……先代シガン、結城隼人のこと――」
 深呼吸。そして、赤く腫れたであろう眼差しでワイズマンを見据える。悪意や敵意を持って睨んでいるわけじゃない。蛙を飲み込む前の蛇の目に近いものだと、自覚できた。
「――ワイズマン、僕は、あなたを殺してしまいたい」
「政樹……」
 敬一が息を飲む。一瞥し、僕はワイズマンへゆっくりと前進する。
「シガン。君のその力は、どうしても必要なのだ。私は、絶対に手に入れなければならない」
 右腕を前に突き出してくる。今まで散々見てきた魔法使いが閃光を放つ時の構え。
「なら、僕を殺してみろ。それが出来たなら、あなたに継承させてやる。あなたを次のシガンにしてやる」
 危険を通り越した死の気配が瞬間的に濃くなる。うろたえない。恐れない。
 軽く身体を右にずらす。左側すれすれを閃光が走っていった。怯まず前進を続ける。
 次々と死の気配は現れる。組織のボスらしく、今までにない凄まじいくらいの攻撃を次々と繰り出してくる。そのことごとくを僕は躱し、前進を続けた。
 ワイズマンはどんどん後退していく。なかなか思うように近付けない。けど、彼我の距離は少しずつだが縮まっている。
 もう一歩というところ。もう一歩だけ踏み込んで手を伸ばせば頭を捉えられるというところ。ワイズマンが遂に恐怖に顔を歪ませたその時。彼女は現れた。
 死に比べれば小さい出来事だったために、彼女の出現の気配は見逃していた。
「やめてください!」
 息を切らせたイリアが、ワイズマンの前で震えながら庇うように両手を広げた。ふと、我に返る。僕自身もかなり息が上がり、バクバクと心臓も激しい鼓動を響かせている。
「イリ、ア……か」
 後ろから足音。敬一も追いついてきたらしい。僕の顔を見、やや安心したように息をついた。
「政樹……。お前……?」
「なに……?」
「いや、なんでもない」
 敬一の反応が不思議だったが、ひとまず僕は目の前に立ちふさがるイリアに目を向ける。
「シガン、お願いです。やめてください」
「イリア……」
 息を整え、真っ直ぐにイリアの目を見据える。
「僕にはやっぱり分からないよ。君がどうしてワイズマンなんかについていくのか」
 イリアは黙ったまま目を伏せる。けどすぐに真っ直ぐでしっかりした眼差しを向けてくる。
「分かってます。この人のやり方は、きっと間違っています。けど、私にとっては、家族のような――いえ、家族なんです。誰よりも大切な人なんです」
 僕より少し年上くらいの女の子。彼女に守られる初老の男。
 本当に二人が親子のようにも見える。
 何も言わず、堅く握った拳の痛みを感じながら、僕はその様子を眺めていた。
 しばらくそうしていて、イリアの背後にいるワイズマンの息が整えられるのを確認し、僕は今できる精一杯の笑みでイリアに語りかける。
「心配いらないよ、イリア」
 やっぱり、僕はどうあっても殺せないのだ。
 そんな安心感に反発するような怒りもあったけれど、それをねじ伏せるように、僕は握り拳を解いた。
 けど、一つだけ頭の隅にこびりついている疑問がある。それはハッキリさせなければならない。
 彼が、魔法使い全ての平穏など眼中に無いことなど、僕にしたことや、涼子を消したことから、理解できる。
 では、何故ワイズマンはここまで必死に求めるのか。それを、なんのために使うつもりなのか。
 戦意を喪失しつつも尚、僕に視線を送り続けるワイズマン。安堵に限りなく近い表情を見せるイリアをよそに、僕は彼に問いかける。
 何故、逆魔法を手に入れようとするのか。何を為すつもりなのか。
 すぐにワイズマンは答える。
「魔法使いでない者をこの世から抹殺するため。正魔法や準魔法、魔術では出来ないことも、一瞬でやり遂げてしまうのが逆魔法だ」
「そんなこと出来るわけがない」
「出来る。一人の力では出来んだろうが、組織が創り上げた魔術とともになら、出来る」
「どうしてそんなことをしようとするんだ!」
「我々、魔法使いの平穏のた――」
「嘘は吐かないでくれ!」
 遮って、大声で僕は叫んだ。ワイズマンの隣に移動していたイリアや敬一、そして誰よりもワイズマンが驚いたような顔をした。
「あなたが本当に魔法使いのみんなの平穏を望んでいるなら、無理矢理に組織に参入させたりとか、敵だから殺そうとするとか、邪魔だから消してしまうとか、そんなことは、絶対にするはずがない。それに――」
 一度イリアに視線を向けたが、憤りが表情に出るのを抑え切れそうにもなくて別の方向へ顔を逸らす。
「――それに、あなたが間違っていると思いながらも、家族だと言って側にいてくれる人の前で嘘を重ねるようなことは、するべきじゃない」
 本当のことを言って下さい、と僕は最後に付け加えた。
 静まりかえる。その場にいる誰もが、口を開かなかった。微かな風が頬を撫でる。静寂がこんなにもうるさいと思ったことはない。
 やがて、ワイズマンは目を閉じ口を開いた。
「私は、ある人物を生き返らせたいのだ」
「生き返らせる……?」
「死んだ者の魂を適当な身体に乗り移らせる。その上で新たに記憶植え付ける。姿形は変わっても、その人物は生き返ることになる」
「……涼子を、その実験体に選んだのか」
「そうだ」
 ゆっくりと頷き、ワイズマンはまた開口する。僕は、再び拳を握りつつも次の言葉を待った。
「魂はいつまでも死者として彷徨うものではない。目的の魂は、すぐに転生という形で新たにこの世に生を受けてしまっていた。生者の魂を引き寄せることは出来ない。どこの誰になってしまったのか探す術もない。これでは、生き返りの術が完成しても目的を達成させることはできん。
 それならば、みな殺して魂だけにしてしまえばいい。それが出来れば、すぐにでも生き返らせることができる」
「……それが、人類淘汰に至った理由で、逆魔法を求めた理由ですか」
「幸い、あの子は魔法使いではなかった。魔法を使えるか否かなどは魂によって決まる。いい口実もあった。術が完成してすぐ、私は人類の淘汰を決断した」
 ワイズマンが悲しげで悔しげな表情を見せる。
「これで、隼人が組織に留まっていてくれさえいれば……、戻ってきてくれてさえすれば、四年前には、私の目的は果たされていたのだが、な」
 もともと組織の創始者の一人だったシガンは、組織から去り、組織から追われていた。なぜ組織から出て行ったのか、なぜ追われていたのか。それが、なんとなく分かった気がする。
「あなたが、その誰かを生き返すためだけに動きだして、人類淘汰なんて考えるようになったから、シガンは組織を出て行ったんじゃないんですか? そして、逆魔法がどうしても必要だから、あなたはずっと追っていた……」
 ワイズマンは、重たそうに小さく口を動かした。
「そう、だったかもしれないな。おおむね、その通りだ。殺されてしまうとは、誤算だったが……」
 そこまで聞いて、ようやく、僕の中ですべてが繋がった。
 歯を、食いしばる。
 やはりこの人に、全ての原因があったのだ。
 僕がシガンに出会ったのも、シガンが死んだのも。
 僕が逆魔法を継承したのも、狙われるようになったのも。
 僕が涼子に出会ったのも、彼女が昇天してしまったのも。
 すべてが彼によって引き起こされたことだったのだ。
 無性に、腹立たしかった。何度も苛立ち、その感情を抑えてきたけど、今度ばかりは、一発殴ってやらないと気が済まない。この人は、自分のやろうとしていることの重さも分からない。
 他人の運命を変えたという自覚がない。
 けど、僕が拳を振り下ろすより先に、僕の目の前で、僕以外の誰かがワイズマンの右頬を張っていた。
 静寂の夜に、パァン、という小高い音が昇っていった。
 驚きにかき消され、振り上げた拳はそのまま降ろしてしまう。
「イリア……」
 その声は敬一だった。僕の代わりにワイズマンを張った人物の名を洩らしていた。
 張ったものの、そのままの姿勢でイリアは顔を歪ませ、涙を数粒こぼしてしまう。
「どんなに大切な人かは知りませんけど……あなたは、死んでしまった誰か一人のためだけに、沢山の人を犠牲にしようとしていたんですか。私たちの平穏のためだというのは、本当は嘘だったって本気で言うんですか!?」
 ところどころ震えてはいるが、泣き声ではないしっかりとした声で、ワイズマンに食いついていく。
 目を細め、ワイズマンはイリアから視線を逸らした。
「娘が生きていれば、同じくらい……か」
 呟いたその一言から、理解できたもう一つのこと。
「そう、か……。生き返らせようとしていたのは、あなたの娘さんなんですね」
「それ以外の誰のために、こんなことをするものか」
 言い放つとワイズマンは右手で顔を覆い隠した。しかし隠しきれておらず、表情から感情の動きは読みとれる。苦しむような、悲しむような、そんな色を見せた。
「……あの子は魔法使いではなかった。だのに、私の娘というだけで非道い仕打ちを受けてしまった。それでもあの子は私の側にいてくれた。私の生き甲斐になってくれた。ささやかだが、素晴らしい日常だった。この私すべてを、娘は支えてくれていたのだ。
 それが、ある日突然無くなってしまった。事故とされたが、実際は事件だった」
 顔を覆っていた右手を下ろす。
「……娘は殺されてしまったのだよ!」
 再び見せた鋭い目が、声が、僕を捉えて貫くようだった。
「ワイズマン……」
 イリアが小さく呟いた声が、やけに耳に残った。
「シガン。君に、私を責める事が出来るのか。君だって、先程、自分の大切な者のために犠牲を払おうとしたではないか。君と私が、どれほど違うというのだ」
 何も、言い返せない。ワイズマンの言っていることに間違いがなく、それ以上に、彼と僕が、同じだということに気付いてしまったから。
 そうだ。何も違わない。
 求めているモノは変わらない。
 平穏で、平凡な、日常。彼にとって……その要は娘だった。
 僕にとっては、涼子が、そうだ。
 何も違わないんだ、僕と彼は。
 僕には、ワイズマンをどうこうする権利など、あるはずが――
「……だが、だからといって許されることじゃないぜ」
 下げた頭を上げて、その声の持ち主に顔を向けた。腕を組んだ姿勢で、敬一はこちらを睨むように視線を送っていた。ワイズマンにも同じ目を向ける。
「確かに、政樹とお前は似てるよ。多分、お互い同じ状況に陥ったら同じことをするだろうさ」
 だがな、と敬一は声を荒げた。
「政樹は結局、犠牲は払うことは出来なかった。だがお前は、今日まで何人犠牲にしてきた? お前が手を下したせいでお前と同じような思いをした人間が何人いると思ってやがる……」
 怒りが読みとれる表情で、踏み出していこうとする。僕は、その身体を右手を出して遮った。不服そうに、敬一は僕を睨む。なぜ止めるんだと、顔に書いてある。
 ワイズマンは黙ってこちらを見ている。
「君の言ってることはきっと正しいよ、敬一。その怒りも正当なものだと思う。でも、やっぱり僕は、この人も、間違ってはいないと思う」
 そう言った矢先、気配を感じた。そりゃそうだ、と思う。僕と同じなら、諦めないだろう。大切な人のためなら、それくらいする。
 その気配は、危険の気配。
 これが、最後になるだろう。
「ただ、人を生き返らせる方法を知ってしまったことが、不幸だったんだ。少なくとも僕はこの人を責められない。けど……!」
 目を瞑る。その瞬間、気配の臨界を感じた。目を開け身体を捻ると、すれすれのところを閃光が走っていった。そのまま右足で踏み込み、左手でワイズマンの肩に触れる。
「けど、敬一の言う通り、許されることでもないんだ……」
「裁くのか?」
 覚悟したようにワイズマンは言う。僕が振った首の向きに、イリアは、お願いします、と目を瞑って俯いた。
 償いは必要だ。でも、この人の心を救いたいとも思う。手段が間違っていたとしても、僕と同じモノを求めていた事自体は、悪いことだとは思えない。
 怒りと憐れみと、共感と反感が混在する心で、僕は決意する。
(涼子……。これでも、いいかい? いいよね……)
 最後に彼女が握っていた手を胸に当て、口を開く。
「……ワイズマン。あなたの本名と、娘さんのお名前を教えてくれませんか?」
「ベイン・ワーグナー。娘の名は、イリア・ワーグナーだ」
 一瞬イリアが目を丸くする。一瞥だけしてワイズマンに向き直る。
「覚えておきます」
「シガン、君の名は?」
「藤堂政樹です」
「覚えておこう」
 ワイズマンは、ゆっくりと目を瞑った。
 逆魔法を発動させ、意識を奪う。糸の切れた操り人形のように崩れるワイズマン。イリアが抱きかかえて支えた。
 しばらく黙ったままその二人の様子を見続けた。
 頃合いを見て、口を開く。
「イリア……。君は、ワイズマンを家族だって言っていたよね?」
 はい、と僅かに頷く。
「なら、本当の家族になってあげて欲しい。僕は、ワイズマンの記憶の一部を消す。偽の現実を見せて騙すことになるけど、綺麗な嘘で、支えになってあげて欲しい」
 もう一度、少し高くなった声で、はい、と答え、深く頷く。
「出来るのか? そんな、都合のいい事」
 敬一が訊いてくる。
「出来るさ、きっと。正魔法で記憶が作れるなら、その逆だって出来るはずだよ」
 言って、僕はワイズマンの頭に右手で触れた。
 消す記憶は三つ。
 ワイズマンの娘が死んだという記憶と、生き返りの術についての記憶。そして、人類淘汰を決意した本当の理由について。
 娘以外のためにはこんな事はしないと言った彼なら……、ベイン・ワーグナーなら、この三つの記憶が無く、イリアが側にいれれば、自分のしてきたことを悔いてくれるだろう。娘を亡くした哀しみも忘れていられるだろう。
 神経を集中させ、消滅させるものを探す。今まで消してきたものよりずっと複雑な対象。目を瞑り、さらに、この行為に精神を傾ける。
 いくつも、僕の記憶にない映像や音声が、僕の感覚を刺激する。ワイズマンの記憶だろう。その中には、シガンの姿やイリア、涼子もいた。幼い、イリアと呼ばれる少女も。
 人の家に無断で踏み込むような罪悪感が湧いてくる。そんな行為を続けて、徐々に自分への嫌悪感も増加してくる。
 娘を亡くしてから彼がした行為も、たくさん見えた。イリアの両親が、なぜ彼女を捨てたのか。その理由も分かってしまった。
 けど、これ以上の事は見ない。こんな事は、これ以上しない。
 見ることだけを拒絶し、消すべき記憶の検索だけに努めた。
 ようやく見つけ出し、そのすべてを消した。
 目を開け、自分の世界に帰ってくる。
 やけに体力が消耗されていて、足に力が入らず、二、三歩後ずさり、地に片膝をついた。
 大きく深呼吸し、もう一度、小さく深呼吸する。
「大丈夫か? 政樹」
 心配げに手を伸ばしてくれる敬一に、大丈夫、と答え手を取った。敬一の力を借りて立ち上がる。
「なんの記憶を消したんだ?」
「娘さんが死んだという記憶と、生き返りの術についての記憶。そして、人類淘汰を決意した本当の理由について。三つ消した」
「そうか。それで、いいな……」
「うん。僕には、これ以外の方法は思い浮かばなかった」
 イリアは、感情の読みとれない表情でワイズマンの身体を支えている。彼女の顔を見て、僕は、彼女の両親のことについて思い出す。
 ワイズマンの記憶の中にあった真実。
 イリアの両親は、自殺したのだ。イリアが魔法使いに覚醒してしまってから、町の知り合いから受ける迫害などに耐えかねて自ら生命を絶ったのだ。
 ワイズマンはイリアを拾い、新しい記憶を植え付けた。悲しむより憎む方がいいと、ワイズマンは判断した。それがいい結果になったのか悪い結果となったのか分からないけど、あの時ワイズマンはイリアの心を救おうとした。
「……イリア。僕の逆魔法も、そんなに長い間は効果はないと思う。でも、君が彼の娘として支えてあげてくれれば、ワイズマンの心が癒えるには充分な時間だと思う」
 はい、と頷いてワイズマンに顔を向け、そして再び僕を見つめる。
「君の知らない話にも、上手く話を合わせてあげて」
「はい。組織には、適当に誤魔化しておきます」
 よろしく、と言って僕は背を向けた。本当のことは言わないでおいた方がいいのだろう。そう心に決める。
 涼子の身体を寝かせてある場所に向かって歩く。涼子の身体を見下ろす。振り向くと、敬一はイリアを手伝いながらこちらに向かってきていた。やがて追いつく。
 また涼子を見下ろして目を細める。
「……見てるだけでは全然実感湧かないね。彼女が、もう、僕の知っている涼子じゃないなんて」
 いや、その言葉は嘘だ。僕は確かに感じた。気配の臨界を。目で見て解らなくても、すでに心が分かってしまっている。この現実が、夢であって欲しいという僕の願いが、この台詞を吐いたのだ。
「涼子さんが目覚めたら、思い知らされることになってしまうと思います……」
 イリアの言葉を背中で受けて、僕は涼子の身体を両腕で抱き上げた。僅かな呼吸音と腕に伝わってくる体温で、彼女が生きていることは理解できるけど、それに嬉しさを感じられない僕がいて、それが当たり前だとすら思ってしまえていた。
 僕という奴は、酷い奴だ、本当に。でも、それが悪いとは思えない。自然と視線が下がる。目を瞑った。
「政樹」
 敬一が肩を叩いてくれる。声にはどこか、哀しみがこもっている。
「……行くぜ。もう、お前がやらなくちゃならないことは、終わったんだ。そろそろ戻らなくちゃ、な」
「そうだね」
 顔を上げ、僕は、僕たちはイリアと向かい合った。
「シガン、敬一さん。これでお別れですね」
「君は、これからどうするの?」
「まずは本部に帰ります。その後はワイズマン、いえ――お父さん次第です。組織に戻るにしても、そうじゃないにしても、何とか誤魔化してみせます」
「頑張ってね」
 はい。と、イリアは悲しげに、少しだけ笑った。
「みなさんは、これからは?」
「普通さ。旅館に戻って寝て、明日の夕方には発つ」
 言って、敬一は右手を差し出した。
「イリア。お前とは色々あったが、助かったよ。また会えるといいな」
 イリアは差し出された手を取り、その手を振った。
「はい。また、落ち着いたら会いに来ます」
「じゃあイリア、元気でね」
「はい。シガンも、お元気で」
 背を向けようとした身体を戻して、無理矢理に笑顔を作る。
「イリア。ずっと言おうと思ってたけどさ――」
 はい? と首を傾げるイリア。
「――シガンって呼ぶのは、よして欲しいんだ。その……僕にはまだ、重いんだ。シガンって呼び名は」
「あ……。分かりました、政樹さん」
「ありがとう」
 そして僕たちは、互いに背を向け、それぞれが帰るべき場所へ向かって歩き出した。
 そろそろ夜が明けるかと思って空を見上げてみる。でも、予想に反して空はまだ暗い。月明かりを頼りに進んでいく。暗闇に目が慣れてしまった。
 十分前後歩いて、隣の敬一に訊ねてみる。
「ところで、旅館ってどっち、かな?」
 敬一は答えなかった。しばらくしてようやく口を開く。
「そんな顔で冗談を言っても和まないぞ……」
「ああ……、ごめん」
 気持ちを落ち着けようと目を瞑る。完全な闇に包まれた視界に、涼子の姿が浮かんだ。その映像は、初めて会った日の夕焼けの中で僕の前を歩いていく姿であったり、ハチミツをたっぷりかけたホットケーキを美味しそうに頬張る姿だったり、僕とキスをしたその時の姿だったりして、そんな懐古の念に押し潰されそうだった。
 涙腺が緩んでいくのが分かる。溢れてしまう前に、頭を振って脳裏に浮かぶ映像を払おうとした。
 涙が零れるのだけはなんとか堪えきり、僕は目を開けた。
「じゃあ、再挑戦――」
「しなくていいよ。冗談なら、俺が言ってやるから」
 言って、敬一はまだ星のきらめく空に目を向けた。
「ごめん。ごめん……。ごめん――」
 口を開くとその単語しか出てこず、僕はしばらくの後には口を噤み、旅館に辿り着くまで終始無言で過ごした。
 
 




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SUMMER OF MAGICIANS

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